プロローグ
親として、あるいは取材者として、教育の現場に関わってきて、足元から砂がこぼれていくような不安や心もとなさ
を感じてきた。
1970年代後半から1980年代に授業参観に行くと、割られた窓ガラスがガムテープで補修され、冷たい風が
教室に吹き込んでいた。校内暴力は、主に校舎や器物に向かっていた。ガムテープの補修は、入れ替えても
どうせまた割られるという大人の諦めにも逃げ腰にも見えた。
1980年代後半になると、生活指導の徹底で校舎や教室はきれいになり、何とか見た目は荒廃からは立ち直った
かに見えたが、修学旅行の靴下や下着まで細かく指定され、制服の裾やスカート丈まで計るという息苦しさが
充満していた。
遅刻寸前に学校に滑り込もうとした学生が、無情にも校門に挟まれて圧死する痛ましい事件が起きたのは、
1990年の7月だった。生徒の命よりも規則が優先し、罰則を恐れて駆け込む子供の姿よりも、時計を見ていた
という寒さが感じられた。規則強化や罰則で抑え込んで保った表面の落ち着きは、内にこもって発酵し、やがて
いじめや自殺、少年犯罪、学級崩壊などに姿を変えて噴出しているように見える。
一方、教育行政はといえば、詰め込み教育の弊害が叫ばれて、ゆとり教育を目指したものの、今度はゆとり教育
こそが諸悪の根源と方向転換し、相変わらず教育再生、教育改革がさかんに叫ばれ続けている。
日本の教育は、場当たり的にぶれまくっているという印象を持たざるを得ない。なんでぶれるのかといえば、教育
とは何のために必要なのかという足場がはっきりしていないからなのだろう。子供に生きる力を! という中教審の
答申が出たこともあった。でも、子供の生きる力とは何なのかは示されないまま、学力低下防止へと世論は流れた。
教育現場が混乱し、子供が荒れるのは、日教組のせいだ、いや親のせいだ、教師の能力が低下しているせい
だ……と、責任転嫁しあう姿は、それが子供の目にどう映っているのかを想像するデリカシーをも失ってしまった
かのように見える。
中学に入ったばかりの子供の口から「オレの人生なんて、もう知れちゃってるんだよ」という言葉を聞いた時、
愕然とした。大人たちが「そんなことないよ」と励ましても、子供たちは大人の言葉を気休めだとしか受け
取らない。励ますほうも、一度流れから取り残された子が、再び流れの中に戻ることのむずかしさを感じていた。
それに追い討ちをかけるような、能力優先主義、公教育と私教育の格差、地域も家庭も家族も崩壊していく流れ、
虐待や育児放棄などの社会の変化が重なる。
未来に希望を感じられない子は、未来を大事にしない。自分に価値を見出せない子は、人の価値も尊重
できない。その状態で、これから先の長い人生を生きなけれぱならない子供のストレスは、たまりにたまって
爆発する。
暴れる。いじめる。人を傷つける。凶暴な子、どうしようもない子、排斥されて当然の子と糾弾される子供たちは、
生まれた時から凶暴でも、手に負えないわけでもなかったはずだ。人を傷つけた子は、自分もまた深く傷ついて
いるのだろうと思う。
そんな中で、戦後、ぶれることなく、ひたすら人として生きる力を身につけるための教育を目指して粛々と歩み
続け、その質を着実に高めようと努力している教育現場がある。矯正教育に励む少年院である。
なぜぶれないかといえば、ひとりひとりの少年少女と真正面から向き合おうという基本の姿勢を懸命に守ろうと
しているからだろうと思う。
少年院を訪ねるたびに、教育に携わる者たちがいつか手放してしまった原点が確かにあることを感じるのだ。子供
が社会でしっかり生きていくのに必要なことは何か。学力だけではない人間として生きていくための力を、どうしたら
身につけさせることができるのか。
矯正教育に真剣に取り組む教官たちの視点は、いつもしっかり固まって揺るがない。
向かい合う子供たちは、人を傷つけたり、薬で心身ともにボロボロになっていたり、窃盗、恐喝を繰り返したり、罪を
背負い、社会に背を向け、生きることに積極的になれず、自分を大事に思う気持ちすら持てずに、目をあわせる
ことを拒否している子供たちだ。すでに後ろを向いてしまった子供たちの目線を追い、もう一度しっかり前を向き、
大人や社会と向き合えるまで気持ちを立て直させるのは、気が遠くなるような根気のいる仕事だ。手に負えない子、
凶暴な子、危ない子、迷惑な子というレッテルを貼られ続け、目をそむけられ続けて、ついにここに辿り着いてしまった
子供たちを、もう一度生き直させるのは並大抵のことではない。
何とか社会で強く生きてほしい。そのために効果的な教育、指導はどんなことでもやるという真剣さを
感じる。もちろん、最初は後ろ向きの子供にも、気配でその真剣さは伝わる。もしかしたら、彼らにとって、こんなに
必死に自分に向かってくれる大人と出会うのは初めてなのかもしれない。ひとりひとりの子供を理解する努力を
まずすることが基本だとある教官は語っていた。これこそ、教育に携わる人が最も大事にしなければならないことで、
親も教師も忘れてしまっていることではないかと思う。
入所時の荒んだ顔に素直な笑顔が浮かび、一生懸命勉強や作業に取り組み、もう一度がんばろうという意気込み
を取り戻していく過程からは、混乱する教育が取り落としてきたものが浮かび上がってくるような気がする。
何が本当に子供の力を育てるのか。少年院での懸命な取り組みは、目からたくさんのウロコをはぎとってくれる
のである。
第一章 広島少年院
広島少年院の生活
広島空港から車でおよそ45分。幹線道路から外れると、のどかな田園風景が広がる。人家がまばらになり、
いつのまにか広島少年院の敷地内に入っていた。畑で紺色のジャージ姿の少年たちが野菜の収穫をしている
のが見える。
広島少年院の設立は昭和16年。全国で5番目の少年院として、広島市内に設置され、昭和20年5月に現在の
東広島市に移転したものの、戦時下でもあり新施設への引っ越しが完全に終了しない8月6日に広島への原爆
投下。職員と少年13人が犠牲になった悲しい歴史があり、8月には原爆犠牲者追悼集会が欠かさず行なわれて
いる。
広島少年院を訪ねたのは、向井義首席専門官に会うためである。向井首席の名前を聞いたのは、もう4、5年前
のことになる。
「宇治少年院が変わった。宇治方式と呼ばれる教育のプログラムの効果が注目されている」と法務省の矯正局の
人から聞いたのが最初。そのうち、教育者や親たちの視察が殺到していると知った。
出院後、社会でしっかりと生きている少年の「ボクは宇治少年院に入れてよかった」と語る言葉や、「どうしたら
宇治少年院に入れてもらえるんですか?」と息子の非行に悩む母親が希望したという話も耳にした。(…この続きは本書にてどうぞ)
|