集英社BOOK NAVI 書籍 試し読み 立ち読み


ダーク・グリモワール
ダーク グリモワール

著者:丘野 ゆうじ
イラスト:むらた たいち
■ISBNコード: 978-4-08-630378-1
■判型/総ページ数: 文庫判/240ページ+口絵4ページ
■発売年月日: 2007年9月25日
   プロローグ

 一九四五年四月末日、ベルリン。
 断続的な重い響きが、灰色の壁を不気味に揺らす。
 窓もない、狭く無機質な部屋。その片隅におかれたソファに、初老の男の姿があった。
 身につけた軍用礼服は、本来彼だけに許された最高級の生地と仕立てによるものだ。しかしいまそれは天井から落ちる微細な埃に汚れ、さらに男の全身からにじむどす黒い疲労と惟悴が鷲をかたどった徽章の輝きをも消してしまっている。
 小さなライティングテーブルの上に積もる石粉をのろのろと指先で払い、男は充血した目を壁の小さな絵に向けた。
 古びたカンバスに描かれているのは男が築こうとした永遠の帝国、その象徴ともいえる「黒い森」。陽光は濃く生い茂る枝葉によってさえぎられ、時に忘れ去られた絶対の静寂と、闇のやすらぎに充ちた空間が見事なまでの写実的タッチで再現されている。
 だが。
「…………!?」
 そのとき男は、小さく咳き込みながら目を見開いた。
 ていねいに整えられた口髭が、左手の指先とともにおののき、震える。
 ――まさか。
 この地下壕に籠もるようになってから、いや、そもそも画家を志していた若き日々、極貧生活の中で偶然手に入れて以来ずっと見慣れていたはずのその絵に、ありえないはずの異変が生じていたからだ。
 ひとがいる。
 無人の森の静謐を描いた絵、そのただ中に、それまではなかったはずのひとの姿が浮かび上がっていたのだ。
 連なる大樹の幹に半ば隠れ、濃密な闇からにじみ出るかのごとく立つ長身。
 中世修道僧を思わせる漆黒の衣を痩せた体にまとい、フードを目深にかぶったその姿はまるで――そう――闇の化身、古代より死神と称された、あの――
「!」
 一瞬後、男は再び息を呑んだ。
 消えている?
 では、いま見たものは錯覚だったのか。もはや避けられない敗北、すべての崩壊を前にしての疲労と壊れかけた精神が見せた、一瞬の幻――
 ではなかった。
 ある気配を感じ、男は座していたソファの反対側をふりむいた。
 そこにいた。
 たったいま絵の中に出現し、そしてすぐさま消え去ったかに見えたフードの人物が。

「そう、なのか」
 しばし絶句したのち、男はささやくような声で言った。
 男にはわかっていたのだ。
 なぜ、いま、その不可思議な闇の化身がおのれの前に姿を見せたのか。
 おそらくは――そう、すべてが始まったあのときから。
「そういうこと……なのか?」
「そうだ」
 不気味なフードがかすかに揺れ、その奥から低い声が答えた。
「おまえの物語は、終わった」
 同時に、男の両手の中に一冊の分厚い書物が忽然とあらわれる。
 まるで忘れ去られた遺跡に埋もれていたような、古色蒼然とした書物だ。装丁に使われている革のあちこちが汚れ、裂け、いまにもバラバラにそのかたちを崩してしまいそうだった。
 男は静かに書物を開き、頁を繰った。
 ひどく不快なものを思わせる独特の臭いが室内にあふれ出る。
 鉄錆のような、濃密な血の臭い。
 そしてまた、正常な人間なら耐えられないはどの――ひとの肉が焼け崩れてゆく臭い。
「もう……続きを書くことは、できないのか」
「できない」
 男のすがるような問いに、闇の化身は首をふった。
「おまえにも、すでにわかっているはずだ。冗長さは、ただ物語の価値をけがすのみ」
「…………」
「おまえを囲む者たちは、みな去った。あるいは、じきに去る」
 化身は続けた。
「おまえがおのれのペンを置いたあと、おまえの肉は最後の忠実な部下の手でひそかに焼かれるだろう。しかしその骨は、やがてここにやってくる赤い兵どもに奪われる。――そのとき、この書はついに閉じられる。
 だが、案ずるな。悔やむな。長きにわたりおのれの綴った物語に、誇りを持つがよい」
「誇り、を……?」
「そうだ。おまえの物語はこれからも時を超え、たぐいまれなる恐怖と嫌悪をもってひとの心に刻まれ続けることになる。――その気高きしるしとともに」
 闇の化身が指し示したのは、黒い森の絵の横にかけられていた一枚の布。
 真紅の中、白円に染め抜かれた異様な紋章――鉤十字の旗であった。
「そうか」
 やがて男は視線を旗からはずし、つぶやいた。
「では、無駄ではなかったのだな。私は……たしかに歴史にそのしるしを刻んだのだな?」
「ああ」
「ならば、よし。もはや思い残すことはない」
 男は奇妙な熱をたたえた目で、闇の化身を見つめた。
「ただ……読み継ぐ者よ。最後に、ひとつだけ願いがある」
「何だ」
「ぜひとも、わが物語の感想を聞かせてくれないか」
「ほう?」
 闇の化身は小さく嗤い、衣を揺らした。
 そしてうなずいた。
「おもしろかったぞ」
「…………!」
「おまえの綴りし物語、充分に我を、いや、我らを楽しませてくれた。礼を言う」
 それが幻の残した最後の言葉だった。

 再びの重い地鳴り、地下壕に迫り来る赤軍の砲撃による爆音とともに、刹那、男の目の前の空間がぐにゃりとゆがみ――闇の化身はその姿を消した。
 あとには何の痕跡も残らない。

 男は書物をかたわらに置き、ゆっくりと立ち上がった
 片足をひきずるように歩き、部屋の扉を開ける
 そこには大柄な金髪の若者、親衛隊将校が立ち控えていた。
 男の姿を見て即座に踵を合わせ、直立不動となる。
「ご苦労」
 男は将校にうなずいた。
「だが、もうよい」
「!?」
 将校はハッと息を呑んだ。 (…この続きは本書にてどうぞ)

booknavi




Copyright(C) 2007 SHUEISHA Inc. All Rights Reserved.