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ベン・トー
サバの味噌煮290円
ベン トー

著者:アサウラ
イラスト:柴乃 櫂人
■ISBNコード: 978-4-08-630405-4
■判型/総ページ数: 文庫判/272ページ+口絵6ページ
■発売年月日: 2008年2月22日
 需要と供給、これら二つは商売における絶対の要素である。
 これら二つの要素が寄り添う流通バランスのクロスポイント……その前後に於いて必ず発生するかすかな、ずれ。
 その僅かな領域に生きる者たちがいる。
 己の資金、生活、そして誇りを懸けてカオスと化す極狭領域を狩り場とする者たち。

 ――人は彼らを《狼》と呼んだ。



 1章 氷結の魔女

     0

 一九時四八分、『彼女』は一軒のスーパーの前に立っていた。
『彼女』は春の夜風に制服のスカートを揺らしつつ、ライトアップされた看板を見上げる。
 今年はどれだけの若者が涙を浮かべて、この看板を見上げるのだろう。そんなことを思うと自然とかつての自分と照らし合わされ、不思議な懐かしさが込み上げてくる。悲しみと憤りと絶望と、そして空腹で涙しながらそれを見上げた一年前のか弱き自分は、今はいない。
 そして、胸をときめかせた一年前の自分もまた、いない。
『彼女』は少し自虐的に緩んだ口元をひきしめ、足を踏み出した。分厚いガラスの自動ドアを抜け、荘厳さを漂わせたカゴの山に手を伸ばす。その頂上から、まるで自分を待っていたかのように持ち手を天井へと伸ばしていた一つを流麗に、物音一つ発することなく手に取る。
 生鮮食品及び冷凍食品コーナーから放たれた冷気に肌をピリリと強ばらせながら『彼女』はレジの前を横切り、まず野菜コーナーヘと向かった。青々とした千葉産レタスを眺めながらゆっくりと、店内内壁を舐めるようにして総菜・弁当コーナーヘと近づいていく。それは雪解けの水が土に染みいるように、あまりに自然に、静かに。
 果たして目的の場所に辿り着いた『彼女』は思わず顔をしかめた。一〇〇円引きのシールが貼られた弁当を前にして四名の若者があれこれと喋りながら腕時計を気にしていた。時折弁当を手に取ってみたりしている様など、もはや救いようがない。
「……醜い《豚》どもめ」
 小さく、口内でかき消えてしまうような声で言いつつ、『彼女』の視線は瞬刻、並んでいる弁当の上を流れた。この一秒にも満たない一瞬でもって『彼女』は乱雑に並ぶ約一〇の弁当のおおよその位置、及び内容、価格を把握する。
 そのまま『彼女』は総菜・弁当コーナーを変わらぬ足取りで通り抜け、精肉コーナーに辿り着く。そして一〇〇グラム一九九円と赤の極太油性ペンで書かれた手作りの値札にさも興味を引かれたかのように足を止めた。
 瞼を閉じる。空気の流れ、人の匂い、気配、足音……かすかなそれら全ての情報を総合して、店内の来客数はおよそ三〇と読む。内、偶然この時間に訪れた一般人八、如何なる場所かも知らずにエサの匂いに誘われた《犬》が一二。そしてまともに戦える者は一〇程度と『彼女』は判断を下す。店内を回る際に感じた微細な視線の数が一〇程度でもあったことからもこの皮膚感覚は確実だと思われた。
 ガタンと音がした。
『彼女』は瞼を開くも、音のほうは見ない。見る必要はない。
 総菜コーナーの横にあるスタッフオンリーの扉を開け、純白の帽子とエプロンという『戦闘服』に身を包んだ五十そこそこの男が総菜調理用油の匂いを漂わせて一礼、そしてその身をまず総菜コーナーヘ。彼は売れ果てたことによりできた総菜パックの隙間を素早く埋め、乱雑に並んでいたそれらを最前列へと綺麗に並べ直している。
 かすかに感じる足音、衣擦れ、パックを包んでいるラップ同士が擦れるキュッという音、それらによって何一つ見ることなくとも今起こっている事象が手に取るように『彼女』にはわかるのだ。
 続いて弁当のコーナーに移った店員はそこでも薄い透明プラスチックの蓋を時折ペコッと鳴らしながら混沌としていた並びを正していく。
 そして、あの音が鳴る。店員が懐から取り出した何やら分厚い束が発するバサリという音。
 それまで保たれていた平穏な空気は突如として緊迫するそれへと取って代わり、大衆向け大規模小売店は狩り場へと昇華する。
『彼女』が感じていた『まともに戦える者たち』計一〇名は戦闘態勢に入ったらしく、気配を霧散させるも、肌に感じるピリピリ、ザワザワとする切迫感はより一層強まっていく。
 皮膚が強ばる緊張感、髪の毛一本一本にすら感じる殺気、奮い立つ戦闘欲求、唸る腹の虫。
 ――たまらない。
『彼女』はいつものように口元に浅い笑みを浮かべたのち、表情を打ち消して歩み出す。
 己が技と誇りを試すその場へと。一毫に満たない『彼』との繋がりを残すその場へと。
 それから数分の後、『彼女』を含めた一一名が弁当をカゴに納めてレジに並んでいた。
 そして弁当コーナーには手ぶらのまま打ち据えられた八名と、コーナー前の床で意識なく倒れている、先ほど『彼女』が《豚》と称した者四名、そしてちょうど狩りが始まったタイミングで現れた新参者一名がやや離れた精肉コーナーにまで飛ばされていた。
 立っている者の中には震え、目尻に涙を浮かべている者さえいる。
 果たしてこのうちの何名が、再びこの時刻にこの狩り場へと現れるのか。『彼女』は期待と不安を込めて負け犬たちの顔を一時記憶に止めるのだった。

『彼女』は一匹の狼にしてこの狩り場の主。私立烏田高等学校二年、槍水仙。
 またの名を――《氷結の魔女》といった。


     1

 何が起こったのか、僕にはわからなかった。
 たまたま寮の近くの大きめのスーパーに入り、偶然にも目の前で弁当が半額になっていくさまを見たのも束の間、意識が飛んだのだ。そして気がつけば精肉コーナーの前で倒れていた。
 確か僕は半額シールを貼られた弁当に手を伸ばそうとした。そこまでは覚えている……そこまでしか覚えていない。
 よろめく足で立ち上がれば、自分と同様に呆然とする者たちが八名ほどいた。何が起こったのかわからぬ者、今の一瞬で起こった『何か』を目撃したらしき、震えて目尻に滴を溜めた者……状況は違えどみな瞳には同じ色を宿らせていた。
 恐怖という名の、色。
 そして彼らの視線の先には床に伏した四名の意識なき者たちの体である。
 何が起こったのか。長く付けられていた目隠しを外された時のように、僕は首を回して、残された状況から考えてみる。棚からなくなった半額弁当、レジに並ぶ半額弁当を手にした者たち、弁当コーナー前で呆然としている手ぶら、または空のカゴを手にした者たち……。
 何かが起こった。確かに、何かあったのだ。
 ここで、この場所で、ほんの数分に満たない束の間に。
 グゥ、と腹が鳴る。必死の頭と同様に腹も必死だった。昼食に菓子パン二個と紙パックの豆乳を飲んでからすでに八時間近くが経とうとしていた。
 とにかく何か食べ物が欲しい。今起こった事象について考えるにせよ、脳に栄養を与えてからだ。昼にパンだったからできればご飯物が欲しいところだが……弁当は消えてしまったので、かろうじて残っていた半額のおにぎりで我慢するしか……。 (…この続きは本書にてどうぞ)

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