闇の中、郵便ポストがふたつ並んでいる。どうやら少々飲み過ぎたようだ。
「どいたどいた。新しい部長様のお通りですよ」
中肉中背のサラリーマンが、しゃっくりを繰り返しながら、人気のないシャッター街を歩いていた。昇進祝いとはいえ、中ジョッキ四杯も飲んでしまったのは失敗だったか。気分が高揚して、あまり酒に強い方ではないのを忘れていた。
「まあ、たまにはこういう日があっても……おおっと」
足がもつれて尻餅をついてしまった。立ち上がるのがおっくうになって、そのまま電柱にもたれかかる。
通りを自動車が行き交う音だけが、ビルの谷間に響いている。コンビニにすっかり地位を奪われて、全ての店が開店休業状態の商店街が、仏頂面で沈んでいる。
このまま駄菓子屋とかもなくなってしまうのかなあ、俺が子供の頃は……、と少年時代を懐かしむこと数分。いかん、眠くなってきた。
「でも、この新部長様は、こんなところでオチたりしないのであります。愛する妻子のもとに、ヒック、ちゃんと帰宅するのであります」
背筋を伸ばして立ち上がる。というか、急ぎ立ち上がらねばならない理由があった。たらふくビールを飲んだ後としては当然の生理現象が、下腹に襲いかかってきたのである。
ベルトを外しながら、人ひとり通るのがやっとの路地裏に駆け込む。闇深い都会の獣道。即席トイレとして使うには適任だった。
「……あれえ、こんなところに虎がいる。先見の明があると評判の、この新部長様の目に、ヒック、虎のお面が見えますぞ」
しかし、先客がいた。黄色と黒の斑模様。虎のお面、というよりは、虎の頭部に良く似た物体が、道の奥に転がっていた。
なんで虎の幻影なんて見るんだ。男は目をごしごしと擦ってみた。それでも肉食獣の生首は消えない。
好きなプロ野球球団と照らし合わせてみても、少々おかしな話だった。たしかに猛虎打線は嫌いではない。でも彼は神戸市民なので、乱調続く青波軍団を粘り強く応援しているのだった。
「……ああ、完璧に飲み過ぎだなあ。タクシー、呼んじゃおうかな」
さっきは中ジョッキ四杯と言ったが、実は六杯飲んだような気がしてきた。尿意もいつしか消え失せていたので、男はフラフラと表通りへと帰っていく。
――――こうして彼は、死の運命をまぬがれた。
三十代の若さで経理部部長に抜擢されただけあって、強運の持ち主だったのかもしれない。知的好奇心のままに、虎の生首らしき物体に近づくことをしなかった。
それが本物であることを知らずにすんだ。
真実を知れば、恐怖のあまりに前後不覚に陥ってしまったことだろう。迷路のような路地を滅茶苦茶に走り抜け、ついには、生ける断頭台に出くわして命運尽きていたかもしれない。
志なかばで倒れた、若き虎の血族。虚ろな瞳が、濁流渦巻く空を見上げている。
彼はレジスタンスのアジトを守る番人であった。有事の際には、自らの体を盾にして仲間を守ることが要求される、過酷な仕事である。
だが、いま、亡骸は無念を叫んでいた。
ただの一秒たりとも、防波堤としての役割を果たせなかった。
突如として現れた白い悪魔は、あくび混じりに自分の命を摘み取り、アジトを壊滅させてしまったのだ。
そして、悪魔はいままさに、残された少年少女の命をも奪おうとしている……。
もはや魂だけの存在になってしまった虎は、天を仰いで祈りを捧げた。
ああ神よ、どうか彼らに祝福を。どうか勝利をもたらしたまえ。
艱難辛苦を乗り越えてここまでやってきた彼らに、どうか、輝ける未来を与えたまえ!
悲痛な叫びが銀河に響き渡った。だが、神からの返事はない。
どうやら若者たちは、自らの実力をもって、戦いの女神を微笑ませなくてはいけないようである。
古くから伝わる神封戸の街で、いま、獣たちの舞踏会が始まろうとしている。
第一章
孤 独
床一面に広がる血だまりが、第一ラウンドの惨敗を告げていた。
三匹の若き獣に宿る闘志は、はたして反撃の旗印となるだろうか。第二ラウンドの行方は、どんな優秀なアナリストでも解析できないほど混迷している。
「風子をいますぐ解放するんだ。おれだって、人を殴るのはあまり好きじゃない。風子を返せば……そうだな、二・三発で許してやってもいい」
妹を救うべく廃ビルに突入したのは、精悍なる黒髪。日高虎ノ介。
最愛の妹が連れ去られたことを知り、猛虎を宿す少年の心には、激しい怒りが渦巻いていた。
「三対一でも、おれは躊躇せえへんで。ぜんぜん卑怯とも思わんし。何百人ものおたくの部下に、ついさっき襲われたばかりやからな」
日高風子に強い愛情を抱くもうひとりの少年も、激情を抑えるのに必死だった。アレクセイ・ニコライヴィッチ・カザノフ。美しく金髪の流れる、ロシア生まれの少年だった。
すでに彼は、血に宿る神秘を解放し、小山が如き羆(ひぐま)となって敵を威嚇していた。金褐色の毛並みに力が漲る。鋼の筋肉には高圧電流のような闘志が封じ込められていた。
「リンフオード伯爵の名も地に落ちたものね。か弱い女の子を、武力行使で連れ去ったのはこれで何度目かしら。英国紳士が聞いて呆れるわ」
月の女神の祝福を受けた銀狼が、眼差しを鋭利な刃物と変えた。フランス生まれの、ルネ・ド・マリヴェール。彼女もまた、獣たちの血族――――ハムランムルとしての本性を、すでに解放している。
従兄が創りあげたレジスタンス組織の、事実上の壊滅・大量の屍を、疑いようのない程につきつけられて、銀狼の声は慟哭に震えた。
「そうかな。ヒダカフウコがなにかと注目されるのは仕方がないことだと思うけど。彼女は最後の純血種。嘘か実か、ハムランムル王家の血を引くとされる人物なのだから」
虎ノ介、アリョーシャ、ルネの三人を迎え撃つは、純白の高級スーツで身を固めた男。リンフオード伯爵の懐刀、ハンセン・ムンク。自らを悪竜殺しの剣と称する白き狩人である。
もうすぐ三十になるとは思えないばど無邪気な表情。しかしその瞳はどこまでも冷たく無表情。笑顔は亀裂にしか見えず、声は金管楽器が奏でるメロディのよう。
「わが主と同じだよ。王は、生まれた瞬間からキングとしての責任感を持たねばならないんだ。支配者としての宿命を背負わねばならない。年端のいかない少女であろうと、その鎖からは逃れられない」
彼は人間という有機物でありながら、どこまでも無機物的な存在だった。例えるならば西洋に伝わる両手持ちの大剣。敵を打ちのめし、貫き、屠り去ることのみに特化した、殺人専用道具である。
今夜の彼は、その刃をふるい、すでに五十余りのハムランムルの命を奪っていた。リンフォード伯爵の野望を阻むべく集った義勇兵たちを、見るも無惨な肉塊に変えている。
しかし、屍の山をいくら築いても、彼に罪悪感や後悔はない。だって、彼は武器なのだから。殺戮のために存在する、人間兵器なのだから。
金属製の剣にあるのは、外敵を除去するその機能美だけで良いのだ。その芯に宿るのは、持ち主に対する絶対敬虔の忠誠心だけで良いのである。
だが、勝手なことばかり話す殺人機械に、虎ノ介が吠えかかった。
「風子が! おれの妹が、いつ望んで純血種なんかになった! 王族としての宿命なんて、あいつに押しつけるな。あいつが望むことは、いつだって――――」
いつだって、とても小さな、人並みの幸せだった。みんなと一緒に遊園地で遊び回ることができれば満たされてしまうくらいの、とても等身大の、だからこそ貴い……。
妹を想う兄の激昂が合図となった。黒髪の少年が着こなす無地のワイシャツが、白色の槍となって襲いかかる。黄金の仲間と、銀の仲間が、後に続いた。
「僕が欲しいのは、熊と狼の命だけ。トラノスケくんと戦うつもりはないんだけどな」
スーツだけではなく、肌の色も髪の毛も真っ白な男は、面倒くさげに体をのけぞらせた。
紙一重の距離を、羆の豪腕が通過していく。ロケット噴射装置つきの虎ノ介の右ストレートも、無人の闇へと案内された。
(…この続きは本書にてどうぞ)
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