序章
「はあ」
その娘は、大きく深くため息をついた。
夕闇の中、店があらかた閉まった商店街を、ふらふらと頼りなく進む。人形のような白い肌に、薄い白地のドレスを身にまとった、どこか奇妙な人間だった。
いや、彼女を人間と称していいものか。何しろその大きさは三十センチ程度しかなく、背中からは薄い羽根が生え、その身体は物理法則を無視してふよふよと宙に浮かんでいるのだ。
背中まで届く絹糸のような髪は、街灯を浴びて翡翠色に輝く。大きな瞳にはアメジストの光が宿っていて、今は眠そうに半分閉じられていた。
その神秘的な風貌を持つ娘は、童話に出てくる『妖精』に酷似していた。
ぐきゅるるぅ。
「…………………」
ふと。妖精は、エネルギーの消耗にともなう胃の収縮を実感した。
簡単にいえば、腹が減ったのである。
「お腹……」
つぶやき、そこで押し黙る。「すいた」と認めてしまうと、余計にめまいがする気がしたからだ。この数日間、何も食べていない。
妖精がさらに頼りなくよろめき、飛翔の高度も心なしか下がった、その時。
「……ん?」
彼女の鼻孔を何かしらの食べ物の匂いがくすぐった。
商店街の中に建てられている、コンビニエンスストアからただよってくる。
「食べ物……」
妖精は、六月の湿気をともなう空気の中、ふらふらとそちらへ流れていった。
コンビニは比較的新しく建てられたもので、白い壁と透明なガラスで構成されている。壁のペンキもガラスもまだ綺麗な状態で、掃除が滞っている様子もない。
その裏手、宙飛ぶ妖精は知るよしもないが従業員用の勝手口から、くだんの匂いと、そして何者かの声が流れてきた。
「いつも悪いですね、先輩」
この世界の住人だ、と妖精は思った。見れば、開襟シャツにスラックス姿の少年が、勝手口で誰かに向かって頭を下げている。それは青と白のストライプ柄の衣装に身を包んだ青年で、つまりはこのコンビニの店員らしかった。
「まったく、特別だぞ。本当はこういう廃棄物は誰かに渡したらいけないことになっているんだからな。感謝しろよ、中島」
「やー、ありがとうございます先輩。一人暮らしの身には超ありがたいですよ」
「ありがたく思うなら、たまにはうちの売り上げにも貢献しろ。おすすめ商品の『サバの味噌煮弁当』なんか、今なら半額二百九十円でお買い得だからな」
「ははは、今度仕送り来たらぜひ買います」
そんなやりとりをしつつ、中島と呼ばれた少年は、先輩と呼ばれた店員からビニール袋を受け取る。中には、プラスチックの容器に詰められた白飯とおかず、つまりはコンビニ弁当と呼ばれるものが三点ほど入っていた。
ごくり。妖精の喉が鳴る。口の中に唾がわいてきたのだ。
中島はゆっくりと弁当を近くの段ボール箱の上に置くと、脇にはさんでいた通学用の鞄を取り出した。中をごそごそと漁ると、
「それじゃ、約束の秘蔵DVDを渡します。早く返してくださいよ」
「わかってる、わかってる」
先輩の口がにんまりと笑った。察するにDVDの内容はあっはんうっふん(死語)なものらしいが、この世界の常識にうとい妖精には分からない。
ただ一つ理解できたのは、今が千載一遇のチャンスだということだけだ。
妖精は、風のように動いた。
「じゃあ、俺は仕事が残ってるからな。気をつけて帰れよ」
「うーっす」
そして先輩の手によって勝手口が閉じられた時には、妖精はその場を離脱していた。
ほくほく顔の中島が、段ボール箱の上を見て血相を変える。
「ん? ああああああっ? ない、ない、弁当がないぞっ?」
その絶叫を後にしながら、妖精は月光がかすかに届く夜の闇の中を飛翔していった。
弁当を奪取した妖精は、懸命に羽根を動かし、近所の公園にたどりついた。小さな児童遊園で、ブランコと滑り台、砂場のあるオーソドックスなものである。
自分の身体の倍近くあるコンビニの袋を、砂場近くにあるベンチに「よいしょ」と置いた。額の汗をぬぐってから、がさごそと開き始める。
目が輝いた。
「ふぁ、美味しそうですね」
感嘆の息を漏らして、透明なプラスチックで構成されたフタから中味を見る。白飯、唐揚げ、卵焼き、エビフライ、天ぷら、コロッケなどが少しずつ。揚げ物に偏った、典型的なコンビニ弁当だが、今の身上を考えればごちそうに思えた。
「では、いただきます……」
両手を合わせた瞬間。
闇の中から、うなり声がした。どう猛で、原始の恐怖を呼び覚ますような声が。
「グルルルルル」
「ひぃっ?」
悲鳴を上げる妖精の前で、街灯が及ばない闇の中から、一匹の獣が進み出てきた。
それは野良犬、しかも誰が捨てたか知らないがドーベルマンだった。
「……って、こんな危険種捨てたの誰ですかぁ!」
この世界に来る前に得た知識を思い出し、絶叫する妖精だったが、当然誰も聞いてはくれない。その間にもドーベルマンはこちらに近づいてきて、今にも襲いかからん態勢を取った。
血に飢えた野獣(と妖精は思った)の狙いはたった一つ。目の前のコンビニ袋だ。
「わ、渡しませんよ! これは、私の大切な晩ご飯……」
「がるるるぅっ!」
「きゃわぁっ!」
そして、死闘が始まった。
数分後、ドーベルマンは容器ごとコンビニ弁当を三つともたいらげ、満足な様子でどこかへと去っていった。
残った妖精は、身体中ボロボロになりながら、ベンチで力尽きて倒れていた。
身につけたドレスが、切り裂かれてあちこち破けている。体表からは血がにじみ、身体の小ささもあいまってとても無惨な姿になっていた。
それでも妖精はよろよろと立ち上がると、身体の下から何かをごそごそと取り出した。
死闘中に、これだけはと確保しておいたエビフライである。それをもそもそとかじると、幸せそうに目を閉じた。
「おいちい」
じーん、と涙を流す。
エビフライをたいらげた後で、彼女はふと頭上に輝く蒼い月を仰ぎ見た。
そこに何かを見いだしたわけではない。それでも何となく見とれてしまったのは、月の魔力のなせる業か。
「はううぅう……」
妖精は大きく息を吐いた。
砂粒よりも小さな涙が、潤んだ瞳からはらはらとこぼれ落ちていく。
「帰りたい、帰りたいです……元の次元に」
そうつぶやく姿は、間違いなく人間の女性に似ていて、それもまだあどけない少女の外見をしていた。
「帰りたいですよ……Bショックに……うぅ」
彼女は……Bショックのマスコット妖精エミリは、ため息と言葉を同時に吐くと、またさめざめと小粒の涙を流した。
(…この続きは本書にてどうぞ)
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