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おいしいコーヒーのいれ方 second season U
明日の約束
アシタノヤクソク

著者:村山 由佳
イラスト:志田 光郷
■ISBNコード: 978-4-08-703192-8
■判型/総ページ数: B6判変型ソフト/224ページ+口絵4ページ
■発売年月日: 2008年5月26日
   Time After Time


       1

 南房総へと向かう電車は、ゆっくり走る。
 東京と千葉は隣同士なのに、終点の安房鴨川まで二時間。特急とは名ばかりだ。
 常々つくづく感じることだけれど、時間に対する感覚というものは状況ひとつで極端に変化する。前に、かれんが過労で倒れたと聞いた時は、途中の勝浦から各駅停車になってしまう電車を引きずってでも早く駆けつけたいと思ったものだけれど、今日なんかは逆に、そののんびり具合がかえって心地よく感じられる。
 僕が、この道のりをたどることに慣れたからなのだろうか。あるいは、かれんとの関係がここ最近いい感じに落ち着いていて、むやみに焦る必要がないからなのかもしれない。
 直線ばかりで構成されている都会の景色が、途中から曲線の集合体へと変わる。それでなくても寒々しかったグレーの空は徐々に青さを増し、遠くの山の緑を背景にして冬枯れの畑がのんのんと広がり、やがては進行方向左側の車窓いっぱいに紺碧の海がひらけて、打ち寄せる波のはね散らかす陽光がまぶしく目を射る。
 ここまで来れば、かれんの暮らす海辺の町はもうすぐそこだった。

 迎えになんて来なくていいよと言ってあったのに、かれんは改札口を出たところでちゃんと待っていてくれた。
 ホームに降りたつ僕の姿を見つけたとたん、いっぺんに笑顔になり、伸びあがるように大きく手を振る。
 気持ちはもちろん同じだったけれど、だからといって同じくらいおおっぴらに手を振るのはさすがに照れくさくて、僕はちょっと笑い返してみせただけでそそくさと改札を通った。こういう男の見栄みたいなものが、ときどき自分でも邪魔になる。
「いらっしゃい」
 笑みと羞じらいを合んだ声で、かれんは言った。
 ああ、この声だ。この歌うようなゆったりとしたアルトを聞くたびに、僕は、心の深いところがふっとゆるんでほどけるような思いがする。
「疲れたでしょ」
 気遣うように僕を覗きこむ。
「いや、全然。ずっと座ってこられたしさ。おまえのほうが疲れてるだろうに、わざわざ来てくれてありがとな」
「ううん、私こそ全然」
「けど、二日続けて休めるのなんて久しぶりだろ? いいかげん寝不足とか溜まってきてんじゃないの? 俺なんか一人でバスで行けるんだからさ、久々の休みぐらい、家でゆっくり寝て待ってればよかったのに」
「やだ、そんなの」
 と、かれんは口を尖らせた。
「なんで」
「なんでって……」
「うん?」
「せっかくショーリが来てくれるんだもの。ちょっとでも早く逢いたいじゃない」
 赤い顔でうつむいてもごもごとつぶやく彼女を、この際、人前だろうと何だろうとかまわない、思いっきり抱きすくめたくてたまらなくなる。
 たまたま駅前交番のおまわりさんと目があったおかげで、なんとか平常心を保つことに成功し、
「ええと、バス、何時かな」僕は咳払いして言った。「すぐ来るといいけど」
 とたんに、かれんが肩からかけている布製のバッグをかきまわしはじめた。小さい二つ折りの財布を取りだした彼女に、
「あ、いいよ。バス代くらい、」
 二人ぶん出させてよ、と言うより早く、彼女は財布から四角いものを出して、
「ジャジャン!」
 僕の目の真ん前に突きだしてよこした。寄り目になるくらいの近さにだ。
 首を引いて、ようやく焦点を合わせる。
「えっ、マジ?」思わず素っ頓狂な声が出た。「取れたの?」
「えっヘヘー」
「嘘だろ?」
「あ。何よう、その言いかたー」
 かれんがむくれてみせる。
 それは、小型バイクの免許証だった。水色の四角な壁を背景に、くそまじめな顔をした花村かれんさんが写っている。
 彼女が教習所に通い始めたのは、たしか三か月ばかり前だった。今は一月だから、そう.去年の秋の終わり頃のことだ。
 いま彼女が住んでいる古い民家は、鴨川市の中でもだいぶ山奥へと入ったところにあって、そこから海辺の老人ホームまではバスで二十分くらいかかる。
 こう言っちゃなんだが、田舎だけあってバスの本数はやたらと少ないし、通勤以外にも、ちょっとそこまで買いものに出かけようと思ってもスーパーどころかコンビニでさええらく遠い。
 そんなわけで、かれんはとうとう一念発起して、ホームのシフトの合間を縫うように時間を作って、一ニ五ccまで限定の小型バイク免許を取りに通うことにしたのだった。原付なら教習所に通わなくても筆記試験だけで取れるのだが、指導も受けずにいきなり路上に出るのは怖い、というところが彼女らしい。
 正直なところ僕としても、自分より先に車の免許を取られるのはちょっと癩だったのでありがたかった。もちろん、そんなこと本人には言わなかったけれど。
「うふふん、どう? ちょっとは見直した?」
 思いっきり得意げに、かれんが胸を張る。
「……免許証偽造は、犯罪だぞ」 (…この続きは本書にてどうぞ)

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