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消せない告白
おいしいコーヒーのいれ方 Second Season 3
ケセナイコクハク

著者:村山 由佳
イラスト:結布
■ISBNコード: 978-4-08-703203-1
■判型/総ページ数: 新書判ソフト/780ページ
■発売年月日: 2008年5月29日
 More Than A Feeling

  1

 災難というものは突然ふりかかるからこそ災難なのであって、たいていの場合、僕らにはその事態に対応しうるだけの準備なんか出来ていない。

 その日。
 僕は朝練で久々に――ほんとうに久々にまともな距離を跳び、ものすごく昂揚していた。後輩たちの手前、いちおう平然とした態度を保っていたものの、ほんとうは着地したとたん叫びだしてしまいそうなくらい嬉しかった。いちいち測ってみるまでもなく、相当の距離を跳んだことは滞空時間と耳もとを切る風の感じでわかっていた。
 長いトンネルだった。それを、耐えて、堪えて、やっとのことで一条の光が見えるところまでたどりついたのだ。
 まるでヘリウムガスを詰めた風船みたいな気分だった。世界に手に入れられないものなど何もない! とでもいうような無闇やたらな万能感が体じゅうを満たしていた。
 そのせいで、よけいに無防備というか、要するに脇がガラ空きになってしまっていたのは否めない。

 アパートの大家の森下裕恵さんから携帯に連絡があったのは、その日の午後、ゼミの真っ最中だった。さすがに出られなかったので、何ごとだろうと終わってから急いでかけ直すと、
『ごっめぇん。たいした用事でもないのに煩わせちやって』
 裕恵さんは、あの独特の色っぽい喋り方で言った。
『じつはね、晩御飯のお誘いなの。今晩うち、もうぜったい焼肉ってきめたんだけど、よかったら和泉くんも食べに来ない? 手みやげは缶ビール三本でいいから』
 たいした用事じゃないどころか、おそろしく魅力的な誘いだった。
 にもかかわらず僕が即答するのをためらっていると、
『あら。何か用事?』と裕恵さんは言った。『たしか今日はバイトの日じゃなかったはずよねえ?』
「や、それはそうなんですけど……」
『もしかして、焼肉きらい?』
「ンなわけないじゃないですか」
『あ、わかった』裕恵さんの声に笑みが混しった。『うちの人と差し向かいでお肉つつくのが気詰まり?』
 う、と返答に困った僕に、裕恵さんは笑いだしながら言った。
『だったら安心して。うちの人、今夜は留守なの。でもほら、おじいちゃんと義弟と私の三人でお肉囲んでもイマイチ楽しくないじゃない? それであなたを誘ってみようかって、これは秀人くんが言いだしたことなんだけど』
「秀人さんが?」
『そう。ほら、今月末には彼もあっちへ帰っちゃうから。その前に和泉くんと、もっといろいろ話してみたいんだって』
「そこまで言われたら遠慮する気もなくなりますね」
 僕が言うと裕恵さんは、
『なーに言ってんの、最初からそんな気ないくせに』
 からかうように言って電話を切った。
 裕恵さんの言う「あっちへ帰っちゃう」の(あっち)とは、すなわちオーストラリアのことをさしている。彼女の旦那さんの実弟である秀人さんは、考古学と文化人類学の研究者で、数年前から現地でチームに加わり、先住民アボリジニの研究をしているのだ。
 僕がいま借りているアパートの一室は、もとはといえば秀人さんが住むために用意された部屋だった。彼がさっぱり日本へ戻ってくる様子がないおかげで、僕がいまだに安く長く借りられているというわけなのだ。
 裕恵さんの運転するジムニーに半ば無理やり乗せられ、空港まで秀人さんを迎えにいくのにつき合わされたあの日。
 いざ目の前に現れた彼は、まったくもって冗談みたいにインディ・ジョーンズそのまんまの姿だった。ムチこそ振りまわしてはいなかったけれど、それ以外はカウボーイハットといい、革のジャケットといい、叩けば埃の立ちそうなジーンズといい、ほとんどコスプレかと思うくらいだった。
 でも、何より印象的だったのはその目だ。まるきり人見知りをしない赤ん坊みたいな、どこまでも無垢で透きとおった好奇心まるだしの目をしていて、僕としては初対面だというのに彼を丸ごと受け容れる気になっている自分自身にびっくりしたほどで……。つまり、森下秀人というのはそんなふうな男なのだった。多くを語らなくても、そこにいるだけで周りに自分を認めさせてしまう。存在そのものが雄弁、というタイプだ。
 裕恵さんの愛車ジムニーの助手席は、秀人さんのサイズにはまったく合っていなかった。縦にも横にも規格外の体を申し訳なさそうに縮こまらせながら、久しぶりの日本に興味津々で窓の外を眺めている様子がユーモラスだった。
 帰りの道々、ほんの一時間かそこら言葉をかわしただけで、僕は彼のことをなおいっそう好きになっていた。いざ話せばものすごく博識かつ知的でありながら、しょっちゅう冗談なんだか本気なんだかよくわからないことばかり言ってこちらを煙に巻く。何もかもをどこ吹く風と受け流すようでいて、裕恵さんを見る目は真摯な思いやりに満ちている。
 海外暮らしの長い秀人さんだから、そういう態度は裕恵さんに対してだけじゃなく女性全般に対しても同じと考えることだってできるのだろうけれど、僕にはどうしてもそれだけとは思えなかった。小柄な裕恵さんをうんと上のほうから見おろす彼のまなざしには、隠しきれない(というより隠す気もない)情愛があふれていて、言葉や態度の端々に、彼女をとても大切に思っていることが滲み出るのだ。無責任を承知で言うが、すぐそばで見ている第三者からするとそれは、兄の妻に対してまずいんじゃないのかとかいう常識すらも超えてしまって、いっそ感動的ですらあった。
(…この続きは本書にてどうぞ)
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