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嗤う名医
久坂部 羊

  寝たきりの殺意

 ああ、昨夜はよく寝た。ぐっすり眠って、何も覚えていない。
 いや、何か、気がかりな言葉が頭に引っかかっている。
 ──知らぬがホトケ。
 なぜ、そんなことを思い浮かべるのか、理由はわからない……。
 おっと、よけいなことを考えているひまはない。朝の日課をはじめなければ。
 まず、両手を開いたり閉じたりを二十回。次に重さ一キロの鉄アレイを持って、肘の曲げ伸ばしを左右十回ずつ。続いて腕を伸ばしたまま鉄アレイを頭の上まで持ち上げる運動を、これも十回ずつやる。下半身が不自由なわたしは、せめて腕の筋肉を鍛えなければ、完全に寝たきりになってしまう。
 まだ六十八歳の若さで、わたしがベッドから出られないのは、脊柱管狭窄症というやっかいな病気のせいだ。脊髄の通っている管が狭くなって、へそから下がまったく動かない。情けないが、小便も自分でできない。だから、尿道に管を入れている。二週間ごとに訪問診療に来る鵜川医師が取り替えてくれるが、この管のせいでわたしはベッドに縛りつけられているも同然なのだ。
 しかし、わたしはへこたれない。リハビリをして、いつかは歩けるようになってやる。
動かない脚を見ながら、わたしは胸の内で繰り返す。
 動かぬなら、動くまで待とうこの両脚。
 動かぬなら、動かしてみせようこの両脚。
 動かぬなら、切ってしまうぞこの両脚。
 そして、上半身をさらに鍛える。伝い歩きをするにも、腕の力が必要だからだ。
 鉄アレイの次は、コイルを二本にしたエキスパンダーを広げる。最初は半分ほどだったが、今では完全に広げられる。大胸筋がぴくぴく震える。腹筋にも力が入る。この年になっても、筋力はつくのだ。しかし、脚だけは動かない。
 となり町の何とかいう整形外科医院は、リハビリがうまいと評判らしい。そこの医師にリハビリをしてもらえば、きっと歩けるようになるだろう。なのに、嫁が連れて行ってくれない。あの嫁は、わたしが歩けるようになったら困ると思っているのだ。
 理由は忌々しい浣腸のせいだ。
 わたしは下半身に力が入らない。だから、大便を出すには浣腸をしてもらうしかない。なのに、嫁は浣腸を面倒がって渋る。わたしは肛門に力が入らないから、浣腸の液を入れたあと、しばらく尻を押さえてもらわなければならないからだ。
 浣腸を頼むと、嫁は大仰に眉を寄せて甲高い声で言う。
「またですか!」
 またとは何だ。浣腸を頼むのは、せいぜい三日か四日にいっぺんではないか。ほんとうは毎日でもしてほしいくらいだが、嫁の手間を考えて、できるだけ我慢しているのだ。それを頭ごなしに、「またですか!」と言われたら立つ瀬がない。
「前に頼んだのは三日前だろう」
 努めて穏やかに言うと、「昨日しました」と声を尖らせる。嫁は平気でこういう嘘をつく。その魂胆は見え透いている。日にちをごまかして、手間をはぶこうとしているのだ。まったく、ずるい女だ。
 言い争っても仕方がないので、わたしは怒りをこらえて繰り返す。
「浣腸を、頼む」
 わたしの介護がたいへんなのはわかる。だが、わたしだって遠慮して、嫁の手を煩わせるのを減らそうと努力しているのだ。それをあんなにヒステリックな言い方をされたら、こっちだって頭にくる。
 この前も嫁は浣腸の回数を減らそうとして、診察に来た鵜川医師にこんなことを言った。
「先生、浣腸はやりすぎると、身体によくないのでしょう」
「まあ、くせになるとよくないかもしれませんね」
「ほら、聞きましたか」
 そのときの、勝ち誇ったような顔といったら。
「わたしもよくないと思うのに、毎日、浣腸してくれと言うんですよ。ときには一日に二回も三回も。ほんとに困ります」
 悪意に満ちた誇張には、さすがのわたしも堪忍袋の緒が切れかかった。だが、鵜川医師は公平だ。
「守山さん、そうなんですか」
 穏やかにわたしの言い分を聞いてくれる。
「いいえ。浣腸は三日か四日に一度です」
 わたしが答えると、嫁がこれ見よがしにあきれて見せた。
「よく言うわ。きっちり毎日ですよ」
「いや、そんなことはない。いくら浣腸が面倒だからといって、大げさなことを言うな」
「大げさじゃありません。事実です」
 言い争いになりかけると、鵜川医師が困った顔で割って入った。
「じゃあ、カレンダーに印をつけたらどうです。守山さん、浣腸をしたらご自分で丸をつけてください。そうすれば何回したかわかるでしょう」
 望むところだ。そう思って、ベッドのサイドテーブルに卓上カレンダーを置いてもらった。ところが、これが失敗だった。嫁がわたしの隙を見て、勝手に丸をつけるのだ。
 最初はつけた覚えのない丸を見て、わたしも焦った。だが、どう考えてもおかしい。ぜったいに浣腸はしていないし、直腸に便が溜まっているのも感じでわかる。嫁は毎朝部屋の掃除に来るが、そのときサイドテーブルのまわりで何やら怪しげな動きをしていた。わたしの目を盗んで、素早く丸をつけたにちがいない。
 そこでわたしは一計を案じた。丸の下にごく短い尻尾を書き加えるようにしたのだ。こうすれば、自分がつけた丸かどうかの目印になる。
 ようすを見ていたら、まんまと引っかかりおった。わたしがつけた覚えのない丸に、尻尾がなかったのだ。
「これはどういうことかね」
 わたしは憤然として、嫁を糾した。嫁はぽかんと口を開け、ふいに餌を取り上げられた犬みたいな顔になった。恥じ入ることも、詫びることもしない。なんと図太い女か。
「こういうことをされるようじゃ、丸をつける意味がないから、もうやめる。さあ、三日ぶりの浣腸をしてもらおう」
「あの、さっき……」
「問答無用!」
 このときばかりは、わたしもふだんめったに出さない怒鳴り声をあげた。

 わたしの部屋は、息子の孝太郎がリフォームしてくれてから、見ちがえるようにきれいになった。畳にベッドは置けないので、床はフローリングだ。扉はスライド式、あちこちに手すりがあり、もちろん玄関はバリアフリーだ。
 ベッドの横には仏壇があり、妻の澄代の位牌が入っている。わたしは浮気もせず、ずっと家庭を大事にしてきたのに、澄代はくも膜下出血であっけなく逝ってしまった。わたしの看病で無理をしたのかもしれん。
 澄代が亡くなって間もなく、息子夫婦が同居したいと言ってきた。わたしも一人では不自由だったので、ある意味、渡りに船だった。仏間をわたしの病室に改築し、ほかの部屋は若い者たちの好みに合うよう造り替えた。どんなふうになっているのか詳しくは知らん。どうせ、家の中をうろつけるわけでもなし、自分の部屋さえ快適ならそれでいい。
 そろそろ朝飯の時間だと思っていると、ノックが聞こえた。
「おはようございます」
 嫁が食事を運んでくる。朝はたいてい白粥だ。それに梅干しと干物か佃煮が一皿。嫁はベッドの台に盆を置き、そそくさと足元の窓のカーテンを開ける。部屋を見まわし、異変のないことを確かめてから、おざなりな調子で訊ねる。
「昨夜はよく眠れましたか」
「ああ」
 わたしは無愛想に答える。嫁はうわべはていねいだが、他人行儀で心がこもっていない。いくら義理でも、少しは親を敬う気持がないのか。
「ベッド、起こしますよ」
 リモコンでベッドの背を上げる。嫁の身体が近づくと、甘酸っぱいにおいがする。若くて健康だが、無神経な女のにおいだ。寝たきりなので、わたしは鼻が敏感になっている。
「食べ終わったらブザーを鳴らしてくださいね。下げに来ますから」
 もう出て行こうとするのか。少しぐらいつき合ってくれればいいのに。一人きりで食べる食事がどれほど味気ないか、考えたことはないのか。
「また身体がかゆいんだ。薬を塗ってもらえんかね」
 わたしは嫁に呼びかけた。
「はい?」
「かゆみ止めの軟膏だよ。鵜川先生が出してくれただろう」
 察しの悪い女だ。嫁はのろのろとサイドテーブルの引き出しを探す。目薬やチューブに入ったのや、見当ちがいの薬ばかり取り出す。
「それじゃない。青いふたのケースだ。レスタミンと書いてあるだろう」
「ああ、これですか。よく覚えてますね」
 当たり前だ。わたしの記憶力は嫁などよりよほどよいのだ。軟膏を塗ってもらうために、パジャマとシャツの前をはだけると、嫁が頓狂な声を出した。
「あらー、またこんなに掻いて」
 みぞおちのあたりに、引っ掻き傷がいくつもついていた。昨夜、あまりにかゆくて、つい掻いてしまったのだ。
「掻いたらだめって、鵜川先生が言ってたでしょう。よけいにかゆくなるから」
「わかってる。だがどうしても辛抱できないんだ」
「だめねー」
 さも見下げた言い方に、わたしはカッと耳が火照った。嫁はかゆみのつらさをまったく理解していない。いくら我慢しても、どうしてもかゆいときがあるのだ。そんなときは、いったん掻きだすと、傷がつこうが出血しようが掻きまくらずにはいられない。
「早く薬を塗ってくれ。背中がかゆくてたまらん」
 シャツをまくって背中を向けると、嫁は使い捨てのビニール手袋を出してはめた。そんなにわたしの身体は汚いのか。年寄りの身体には、そんなに触りたくないのか。
 軟膏を指に取り、おざなりに塗っていく。嫁の手は小さいので、指先で手袋がよじれて皺になっている。そのためうまく擦り込めない。軟膏ぐらい素手で塗ってくれればいいのに。
「少しは我慢してくださいよ。薬にばかり頼らないで」
 くっ。わたしがいつ薬に頼ったと言うのか。怒りで目の前が暗くなる。手元にガラスの灰皿でもあれば、嫁の顔に投げつけてやりたいくらいだ。ああ、しかしわたしには耐えるしか方法がないのだ。
「……ありがとう」
 辛うじて礼を言い、食事に取りかかった。嫁は余計な仕事をさせられたと言わんばかりに、不機嫌そうに出て行った。
 くやしい。なぜこんなに馬鹿にされなければならないのか。嫁はわたしが寝たきりだから、侮っておるのだ。たしかに下半身は麻痺しているが、両手は動く。わたしは若いころ柔道をしていたから、腕っ節は強いのだ。その気になれば、腕の力だけで身体を支えることもできる。あんまりわたしを蔑ろにするなら、いつか思い知らせてやる。
 今、わたしが必死に屈辱に耐えているのは、息子の孝太郎のことを思うからだ。父親と嫁の板挟みになったら、息子がかわいそうだからこらえてやっているのだ。
 父親のわたしが言うのも何だが、孝太郎は実によくできた息子だ。まじめで努力家で、気立ても優しい。小さいころから他人に親切で、電車で老人に席を譲ったり、横断歩道で目の不自由な人の手を引いてやったりしていた。あの子が高校生くらいのとき、二人で歩いていると、目の前で自転車に乗った老婆がよろけて倒れた。孝太郎はとっさに駆け寄り、助け起こした。あの動きは、ふだんから困った人を助ける心構えがないとできないものだ。
 そんな優しい息子だから、よけいに心配をかけるわけにはいかない。仕事が忙しくて、嫁にわたしの世話をすべて任せている負い目もあるだろう。息子は一家の大黒柱なのだから、何のうしろめたいことがあろうかと思うが、もはや時代がちがうと言われればそれまでだ。
 それに、これは勘ぐりかもしれんが、もしかしたら、息子はアチラのほうで嫁に頭が上がらんのかもしれない。嫁はたしかに美人で、肉感的だ。息子はわたしに似て、まじめ一本槍だから、不倫などできんだろう。となれば、嫁を相手にするほかはなく、拒まれれば下手に出る以外にない。
 聞くところによると、最近はそんなふうに男の面目を失う亭主が多いらしい。情けない。ああ、息子に愛人がいたらなあ! そうすれば、嫁の尻に敷かれることもないのに。むかしは赤線があったから、いくらでも外で発散できた。何とかもう一度、赤線が復活しないものか。

 今日は午後から訪問看護婦の来る日だ。
 小便の管が詰まるのを防ぐために、週に一度、管を洗いに来る。ふつう、小便の管は二週間ごとの交換だけでいいらしいが、わたしの尿は濁りが強いため、間で一度洗わなければ詰まるのだそうだ。
 看護婦を待っていると、また下腹が熱くなってきた。八月なのに、嫁がクーラーを強くしてくれない。部屋がむっとして、へその下あたりがときどき猛烈に熱くなる。わたしはブザーで嫁を呼んだ。
「何かご用ですか」
「すまんが、アイスノンを持ってきてもらえんかな」
「どこを冷やすんですか」
「下腹だよ」
 嫁は怪訝そうにわたしの額に手を当てる。なぜ、黙って素直に取りに行けんのか。
「熱はないみたいですよ」
「わかっておる。腹の中が熱いんだ」
「でも、お腹は温めたほうがいいんじゃないですか」
「それは素人の考えだ。腹が熱いのは炎症を起こしているせいで、温めるとよけいに悪くなるんだ。むかし、盲腸になったとき、母親がこんにゃくで冷やしてくれて、その処置が正しかったとお医者がほめてくれた。温めていたら、腹膜炎になっていたところだと」
「またその話ですか。今日は冷えるし、アイスノンはよくないんじゃないですか」
「頼む。このままじゃ腹の中が沸騰しそうだ。この熱さは、経験した者にしかわからん。早く持ってきてくれ」
 そこまで言って、やっと嫁はアイスノンを取りに行った。まったく手間のかかる女だ。
 訪問看護婦が来たのは、午後三時ちょうどだった。嫁もいっしょに入ってくる。
「守山さん。お加減いかがですか」
 でっぷりした身体をピンクのジャージに包み、いつも満面の笑みを張りつかせている。わたしはこの看護婦が苦手だ。仕事はできそうだが、どうも生意気な感じがする。
「今日はバルーンの調子、どうかな」
 看護婦はベッドの横にかがみ込み、小便の管を上げたり下げたりする。
「今週はオシッコもきれいみたい」
 嫁が看護婦にため口で答える。まったく礼儀を知らんやつだ。いくら相手が看護婦でも、世話になっているのだから、少しはていねいに扱うべきだろう。
「あらー。バルーンのチューブがベッドの柵にはさまってる。守山さん、これ注意してくださいよ」
 看護婦が管の接続部をベッド柵からはずし、子どもに言うように説明する。
「前にも言ったでしょ。尿の管は膀胱から抜けないように、先に小さな風船がついてるの。でも無理に引っ張ったら、抜けちゃうこともあるのよ、尿道が裂けて」
 尿道が裂けるだと? 物騒なことを言わんでくれ。
 看護婦がバッグから道具を取り出し、洗浄をはじめる。注射器で小便の管から膀胱に水を入れ、その水を吸い出してバケツに捨てる。はじめは白いモロモロがたくさん出るが、六、七回も洗うときれいになる。
 洗い終わって、看護婦が嫁に言った。
「もしまた尿が濁るようだったら、前に渡した抗生物質をのませてあげてね」
「わかりました」
 嫁の物言いがていねいになっている。少しは反省したのか。
「ときどき尿に血が混じるんですけど、そのときも抗生物質でいいんですよね」
「ちがうわよ。抗生物質は感染のときだけ。血尿のときは止血剤よ」
「あら、そうなんですか」
 おいおい、何を言い出すんだ。薬は嫁が管理すると言うから任せているのに、今までまちがった薬をのまされていたのか。わたしは心配になって、看護婦に訊ねた。
「血尿のときに抗生物質をのんで、別に害はないんだろうか」
「大丈夫ですよ」
「しかし、最近の抗生物質はきついんじゃないか」
「大丈夫ですってば。守山さん、心配性だなあ」
 看護婦は鼻で嗤い、嫁と顔を見合わせた。面倒な年寄りだといわんばかりに肩をすくめる。薬をまちがえたのは嫁のほうじゃないか。
 それにしても、これからは薬は自分で管理したほうがいいかもしれない。嫁に任せていたら、何をのまされるかわからない。知らないうちに毒でも盛られたら、一巻の終わりだ。
 そう考えていると、嫁はわたしの食欲のことを看護婦に話しはじめた。
「このごろあんまり食欲がないみたいなの」
 またため口にもどっている。
「歳だからでしょ」
 看護婦がぞんざいに答える。
「じゃあ、量を減らそうか」
「いいんじゃない」
 何を勝手に決めているのか。わたしはふつうに食欲もあるし、食べる量だって減ってはいない。もしかして、嫁は看護婦と共謀して、わたしを徐々に弱らせるために、食事を減らそうとしているのか。
「おい、食欲は十分あるぞ」
 わたしが訴えると、看護婦は作り笑いを浮かべ、「はいはい、そうですか」と軽くあしらった。横で嫁が小さく手を振り、「言ってるだけよ。ぜんぜん」と顔をしかめる。
「ほんとうだ。食事を減らす必要はないぞ」
「はい、わかりました。減らしませんよ」
 嫁がまた看護婦と目配せを交わす。わたしの言うことをまるで信用していないようすだ。
 腹が立ったが、わたしは黙っていた。こういう手合いは無視するにかぎる。反論しても意地になって、よけい逆らってくるだけだ。知性も教養もないくせに、高慢で、しかるべき敬意も払わない。まったく道理をわきまえない女どもだ。

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