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無敵犯
刑事課・亜坂誠 事件ファイル101
浅暮三文

     一

 M教会は関東の地方都市にあった。古い板塀に囲まれた敷地には、漆喰造りの小さなチャペルと田舎の集会所を思わす木造家屋が一棟だけ併設されている。
 秋口のある夕方、教会の責任者であるシスターは門から中に入った。ともに暮らす二人の聖職者や付属施設にいる二人の子供たちのための買い出しから帰ったところだ。
 両手に提げた買い物袋には、地元の商店が融通してくれた売れ残りの肉類と賞味期限が近い缶詰が入っていた。その日、シスターが手に入れた戦利品だが、自身も含めて総勢五人が口にすれば、二、三日で消えてしまう程度だった。
 従って今日からの一週間、この食料を近隣の農家が無償で提供してくれた野菜、信者からの厚意の品で、かさましして、もたせなければならない。だがそれが底をつけば、またやりくりに頭を悩ますことになる。
 ボランティアの人々による喜捨はありがたい限りだ。しかし必要なときに必ずあるわけではない。一方、空腹はタイマーと同様で、一定の時間がくれば腹を鳴らす。いっそ、廃棄処分される食品が入手できるルートを開拓するべきだろうか。
 だが違法ではないかたちでとなると、いつも業者が定めたマニュアルという厚い壁に阻まれてしまう。廃棄される食品を活用するネットワークがあることはシスターも聞き及んでいたが、限られた範囲での活動だけにシスターの教会まで手が回ることはなかった。
 なにかがおかしい。この国では大量の食品が生産され、大量に破棄される。処分量は年間にして三百万トン近く。安心安全をうたい文句に、まだ食べられるのに、一定の時間を過ぎると食べ物はゴミになってしまう。
 それをスーパーでは「三分の一ルール」というそうだ。食品の販売期間を区切る悪魔の目安だ。例えば、小売店へ納品される加工食品の場合は賞味期限の三分の一まで。店頭で販売されるのは三分の二までの品。その期間を過ぎると商品は販売期限切れとなる。仮に賞味期限が一年とすれば四ヶ月を残して返品・廃棄されるのだ。
 処分されるのは加工食品に限らない。規格サイズに合致しない生鮮食品もそうだ。そうやって食品はゴミとなり、さらに廃棄費用を払ってまで処理業者にひきとってもらうことになる。まだ食べられるというのに時計の針がカチリと進むと、食べ物にはゴミという呪いがかけられるのだ。
 どこか遠くから物悲しい音楽が届いていた。数ヶ月前からヒットを始めた「ルビーの指環」だ。シスターは溜息を吐いた。買い物など、少しも楽しくない。辺りは夕日で赤く染まっている。チャペルの手前でシスターは、擦り傷を思わせる空の赤さに目をしばたたかせた。買い物に出かけるたびに湧く思いが憎らしかった。
 それでも教会に帰った安堵感から気を取り直したシスターは、チャペルヘと足を進めた。すると入り口に奇妙な物が置いてあることに気付いた。近眼だが眼鏡をかけていないシスターには茶色い物体が横たわっているように思えた。
 ──野良犬が寝ているのかしら。
 しばらく視線を注いでいたが、動き始める気配はない。シスターは買い物袋を提げたまま、恐る恐る近づいた。
 犬ではなかった。茶色いタオルの塊だった。幾重にもひだとなった使い古しのコットンの生地の中にピンク色の肌が見えた。
 シスターは買い物袋を地面に置くと、かがみ込んでタオルの塊に顔を近づけた。そこにあったのは赤ん坊の顔だった。タオルからのぞく、柔らかそうな頬は桃を思わす肌理をしていた。眠ってはいなかった。泣きじゃくるわけでもなかった。ただ目を見開き、のぞき込むシスターに視線を据えている。まだ生まれて数ヶ月らしいと判断できた。
 改めて視線を四方に巡らしたが、人がいる気配はなかった。シスターは両手を伸ばすと赤ん坊のタオルを開いた。
 赤ん坊は短い手と足を広げている。誰かに抱きとめられるのを待つように。顔と同様に桃を思わす肌が赤い夕日に染められた。シスターはタオルのあちこちを改めた。しかし求めるものは見当たらない。
 置き手紙はなかった。戸籍や住民票を手配するために必要な出生証明書もない。社会的な裏付けはもとより、名前やこの子がここに置かれることになった経緯はいっさい分からないことになる。
 ──つまり、この子は法的にはまだ生まれていないのね。
 だがシスターは動揺しなかった。経験上、このようなケースの赤ん坊の場合は、行政上の手続きとしては簡易ですむ。要は親権のない「棄児」、つまり捨て子として申請し、引き取ればいいのだ。就籍という手続きに当たる。
 終戦後、旧樺太や千島列島から引き揚げてきた日本人は、本籍地を失い、無戸籍の状態となった。就籍はそれを救済するために作られた仕組みだったが、今では棄児のケースに応用されている。
 赤ん坊を眺めていたシスターの頬が緩んだ。先ほどまで頭を悩ませていた食料のやりくりについての悩みは霧散していた。また一人、施設に子供を引き取る面倒についても、思いが至ることはなかった。それよりも脳裏に浮かんだことがあった。
 ──なんて名前にしてあげようか。
 シスターの胸に喜びが走った。改めてヒントを求めて辺りに視線をやった。教会も秋の空も、にじむように赤い。敷地の隅のカエデは色づいている。またヒット曲が風に乗って耳に届いた。しかしシスターにはもはや悲しげに感じられなかった。
 脳裏で思案をあれこれ巡らせ、口元を緩めながらシスターはタオルの中を再び改めた。そしてその両足の付け根に目を凝らした。
「あらあら」
 わずかな言葉がシスターから漏れた。赤ん坊の性別を見定めたシスターは、男女どちらであるにせよ、とにかくこの子は神からの授かりものなのだと考えた。だからそのように育てようとも。

          *

 十月四日、午前十時過ぎ、西口昌子は甥である亜坂誠のマンションに着いていた。その日は火曜日だったが、誠の娘である理沙が通う保育園は設備工事で休みだった。
 妹の息子である誠は近隣を管轄するK署に刑事として勤めている。明日からは休暇届を出しているそうだが、今日はまだ勤務のために署で待機する必要があり、一日だけ面倒を見てくれと昌子は頼まれていた。
 理沙は誠と二人暮らしだ。事情があって離婚した母親は海外にいることが多く、会えるのは年に数度となる。一方、昌子は誠のマンションから数駅先、東京都下の国立市に暮らしていた。開業医で時間に都合が付くため、ときどき、今日のように駆り出されることになるのだ。
 預かっている合い鍵でマンションのドアを開け、リビングヘ入ると、ソファにいた理沙がさっと身を起こして座り直した。寝転がって絵本を読んでいたらしい。昌子は理沙の行儀作法については口うるさい。今の反応も厳しくたしなめられるのを予測してのことだろう。
「昌子伯母さん、お忙しいところ、ありがとうございます。お世話になります」
 昨年、国分寺市で少女誘拐事件が起きた。そのときも昌子は理沙の面倒を見たが、あれから一年が経過しており、当時四歳だった理沙は現在、五歳。来春には小学校に入学する。
 読書好きで年齢以上に語彙が豊富な理沙だが、それでもおよそ似つかわしくない言葉遣いだった。自身以外に対しては、もっとくだけた調子で理沙がしゃべることを昌子はしっていた。
 おそらく誠から礼儀正しく挨拶するように言い含められたのに違いない。昌子は内心、微笑ましく思いながら一言、苦言を口にした。
「ご本を読むときは、ちゃんと背筋を伸ばさんとあかんで」
 たしなめられて理沙が顔を伏せる。しかし視線は盗み見るように昌子の手元をうかがっていた。昌子は及第点をやることにした。女の子は上品かつ、たくましくなければならない。ましてや理沙のような家庭環境なら。
 自身も独身で、まだ女性の権利が今ほど確立されていない頃から社会と格闘してきた昌子の持論だった。昌子は提げていたショッピングバッグをテーブルに置いた。
「まあ、ご挨拶はちゃんとできるようになったみたいやから、これはごほうびのおやつ。朝ご飯はすませてるんやな?」
 昌子の言葉に顔を上げた理沙は、うなずきながら視線をバッグに注いでいる。いつものことだが、今日はなにを食べさせてくれるのだろうと興味津々の様子だ。思わず言葉を口から漏らした。
「甘いのですか、辛いのですか」
 昌子は再び心中に笑みを浮かべた。理沙の世話に駆り出されるとき、昌子はいつも珍しいおやつを用意する。ごほうびと表現したが、五歳の理沙にとって珍しいおやつとは、今までしらない外の世界を体験することだと昌子は考えていた。
 理沙は引きこもりがちな性格だった。警察官である父親と忙しい母親との間を行き来するからか、落ち着いた家庭環境をしらずに育った。そのためか、遊び相手はいつも本。社交性はほとんどない。それを少しでも解きほぐしたいと昌子は感じていたのだ。
「理沙、あんたコンデンスミルクってしってるか」
 神戸出身の昌子は甥の誠や理沙と会話するときには関西弁となる。それはある意味で理沙に対する愛情の表れでもあった。二人が同胞だというシグナルなのだ。また強い言葉を遣うことで、いつまでも理沙を子供扱いせず、相手との会話の機微を理解させるレッスンにする意味合いもあった。
「昨日な、スーパーで見つけたんや。なんとまあ懐かしい、鷲のマークのコンデンスミルクやがな。ちょっとラベルは変わったけど」
 昌子が買い物袋から缶詰を取り出した。
「缶詰のコンデンスミルク? チューブじゃなくて?」
 理沙は怪訝な顔で見ている。コンデンスミルクが甘く白い練乳なのはしっているようだが、見慣れたタイプではないからだ。

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