書籍試し読み
詳しくはBOOK NAVIへ
 
岳飛伝 四 日暈の章
北方謙三

   徐女の宙

   一
 北の穀物が集められている。いまは収穫期ではないので、税とは別に徴発されたものなのだろう。途中でそれを抜き、どこかへ流すという真似をする将兵は、いないようだった。兵站路は、しっかりした規律の中にある。
 侯真は、当てがはずれた商人のような顔を作って、宿に戻ってきた。市場でも、闇の商人の間でも、麦は見つからなかった。通常の作柄だったので、大抵はどこかに余っているものだ。それだけ、兵站は強力で、つまり金軍がこれからはじまる戦に、腰を入れていることの証左だった。
 燕京(北京)の宿にも、商人の姿は少ない。穀物がこれだけ燕京に集まりながら、商人があまりいないというのも異様ではあった。
 致死軍は、以前のように、闇の中の戦をする軍ではなくなりつつある。梁山泊と金国の講和で、戦そのものがなくなりつつあるのだ。情報収集や、細かい調略などを、これからの任務にしていくしかないのだろう、と侯真は考えていた。
 中華には、梁山泊のほかに、金国と南宋という大国家が南北に位置し、睨み合っている。強力な軍と交易の利を擁した梁山泊は、その二国に対するために、まず情報が必要なのだ。情報さえ掴み切っていれば、その両国もこわくはない。
 梁山泊より北は侯真が、南は羅辰が担当することにした。いま、人員の補充を、聚義庁に求めてはいない。かつては、梁山泊軍の中で最も兵の損耗が激しいと言われたが、いまは、大して減ることはないのだ。
 旧宋の青蓮寺が、ほぼ実体がないに等しい存在になっている。南宗は、青蓮寺のような闇の軍の力より、政庁でしっかりと指示を出せる情報網を大事にしているようだ。青蓮寺の動きを微妙に感じることもあるが、決定的なところに出てくることはなかった。
 金国の政庁は、いま燕京にあると思える。宮殿は北の会寧府にあるが、帝をはじめ丞相や重立った文官は、燕京にいる。会寧府の宮殿より、燕京の離宮の方が、ずっと壮大なものでもあった。
 かつて、燕京を中心とする、燕雲十六州に、新しい国が建てられようとした。耶律淳が帝であったから、ほとんど国はできていた、と考えてもいい。
 旧遼禁軍(近衛軍)の中枢の軍は、旧宋禁軍と五分の闘いを展開した。地の利ということを考えれば、旧遼禁軍の方が有利だった、という見方もある。
 新国家の建国や、強力な軍同士のぶつかり合いが、一瞬にして幕を降ろしたのは、耶律淳の暗殺によってだった。青蓮寺の手によるものだ。公孫勝とともに、羅辰がそれを確認してきている。
 動き出す前に潰れた国家だが、一度動きはじめていたら、かなりのものになっただろう。蕭珪材を中心とする軍がいて、開明的と言われた帝がいる。それだけで、旧宋とも旧遼とも、金国とも違う国家ができたであろうことは、想像に難くない。
 そうなれば、中華の歴史は変っただろうし、梁山泊のありようもまた、変ったはずだ。
 侯真は、運ばせた酒を、ちびちびと飲みはじめた。
 もう、四十歳になった。武松や燕青と、楊令を捜す北への旅をしたのは、どれほど前のことだったか。
 あの旅で、さまざまなものを、骨の髄まで叩きこまれた。それ以後の、致死軍の一員としての闘いは、あの旅と較べると、まだ穏やかなものだった。あの旅は、死にそうで死なない、という日々がずっと続いたのだ。
 こんなふうにして、酒を飲み続けていた男のことを、侯真は思い出した。戴宗である。いつも酒の臭いがし、ことごとく若い者を馬鹿にし、そして中華を統一して新国家を築くことを夢としていた。
 その戴宗にとって、物流を力とする国家の構想は、わけのわからないものだったのだろう。帝がいて、宰相がいて、強力な軍がいる。それ以外に、どんな国の姿があるのだ、と考えていた。梁山泊でも、かなりの人間たちがそう考えていたが、口に出して言っていたのは戴宗だけだった。
 楊令が考えた新しいものについて、侯真はかなり理解しているつもりだった。誰も考えたことがない国の姿を、作りあげたと言っていいだろう。
 あれを、戴宗に、言葉として説明することはできなかったのか。説明する気など、あのころの自分には、なかったのか。
 戴宗が口にする虚実の見きわめがつかず、最後には、李媛を死なせる結果になった。青蓮寺の軍の羌肆を、眼の前で殺し、戴宗は死んでいった。
 なんなのだ、といまも思う。いいところだけ持っていって、死ぬ。最後まで、騙し討ちを食らわせていたようなものではないか。
 戴宗に対しては、嫌悪感を、いや憎悪に近いものを、抱いていた。それが消えてしまったのは、負けたという思いがあるからだろう。負けて、二度とそれを取り戻すことはできない。死んでいくというのは、時には実に強烈な印象を叩きつけてくる。戴宗が生きていたころのすべてを、受け入れざるを得ない、という気持になるのだ。
 若い者が、最後まで手間をかけさせた。そんな意味のことを、戴宗は言った。あの酔いどれの戴宗にそう言われ、返す言葉もなかった自分が、まだ生きている。
 戴宗には、徐絢についての恨みもあった。青蓮寺の本寨のようなものだった、妓館に潜りこませて働かせた。旧宋が南宋となるべく南へ行った時は、自ら志願した。そこに行き、そして死んだ。徐絢が命を落としながら手に入れたのは、なにほどでもないものだ、と断定した。
 上から決めてくるもの言いに、ただ反撥したのとは違う思いが、徐絢についてはある。
 徐絢のことを考えると、いつも酒を飲みすぎる。
 あたしのような女を、好きになってくれてありがとう。
 その最後の言葉が、どうしても浮かんできてしまうのだ。志ということを、本気で考えていた。そして自分になにができるかと悩み、遊妓になる道も拒まなかった。
 徐絢が死んだのは、自分が救い出せなかったからだ、と侯真は思っていた。徐絢も、ちょっとだけ無理をしたかもしれない。
 それで戴宗を恨んではいない。しかし戴宗は、徐絢が持ち出した系図で、旧宋、太祖七代の孫の足跡を追わせ、結局、梁山泊は短剣と印璽を手に入れた。それがいま、どこにあるのか、侯真は知らない。
 それでも、なにほどの役にも立たない、ということはないはずだ。なぜあんな言い方をしたのか、戴宗に訊いてみたいが、生きていれば、多分、訊かなかっただろう。
 夜になり、会寧府へ行っていた部下が戻ってきた。
「その麦は、個人のものだと言うのだな?」
 部下とむかい合い、侯真はまた酒を飲みはじめた。
「会寧府に集められ、いまここへむかって運ばれております。街道を三百台の荷車で」
「それは、規模がでかいな」
「そういう動きは、いままでありませんでした」
 穀物の動きは、軍以外でははじめて見つけられたものだ。それも、かなり大量である。そういう荷は、大抵は市へ流れるものだが、麦の入荷という情報を、侯真は掴んでいなかった。
「いつ、燕京に到着する?」
「三日後になると思います」
「行くか。明日の朝でいい。馬を用意しておいてくれ」
 金国内に、情報らしい情報はなかった。穀物の動きで、軍の動きが推測できるというところがあるが、いま聚義庁は金軍の情報を必要としていない。
 深夜まで酒を飲み、夜明けとともに、侯真は部下二名を連れて、北へ駈けた。
 半日駈けただけで、荷車隊に行き合った。
「この荷車隊の、指揮者に会いたい」
「俺がそうだが」
 金国内の移動だからか、荷車隊に護衛らしい護衛はついていなかった。馬車一台に、三人の人間がつき、あとは御者がいるだけだ。
 若い男だった。眼は落ち着いている。
「俺は、燕京で穀物を買い集めようとしている、侯真という者だが、市でひと粒の麦も手に入らん。これは、燕京の市に運ばれるものだろうか?」
「市に流すかどうかは、燕京へ行って考える。いまは、北で集めたものを運ぶだけだ」
「俺に、売ってくれ。市に流すより、いい値をつけよう」
「俺の一存では、決められない。この持ち主のところへ、運ぶのが俺の仕事だ」
「持ち主は、燕京にいるのだな。その人間と、話をすればいいのか?」
「そういうことだが、手に入れることはできないと思う。いくら値をつけてもだ」
「その人間のものなのだろう?」
「必要があって、燕京に運ばれているのだ。つまり、燕京から先の遣い道も決まっているのだと思う」
「どうして、そう思うのだ」
「かなり無理をして、備荒の穀物まで運び出されているのだ。目的があるものだ、と考えるしかないだろう」
「持ち主の名を、教えてくれ」
「なぜ?」
「いまの時期に、それだけの穀物を集められる。つまり、備荒の余裕まである人物ということになる。ほかの商いの話もできるかもしれん」
「蕭R材殿だよ。燕京の離宮の近くに、家がある」
「あんたは?」
「斡屠(オト)という名だ」
 侯真は頷いた。
「それで、蕭R材という人は、燕京の商人なのかね?」
「そうだよ」
「ほかに、どんなものを扱ってる?」
「なんでもさ。大抵のものは、扱うよ」
「斡屠殿は?」
「俺は、商人じゃないよ。蕭R材殿の子分みたいなものだが、輸送の仕事をしている」
「そうか。俺は開封府の商人だが、特に店などは構えていない。物を買い、それを売る。あんたとも、仕事ができるんじゃないかね」
「俺は、蕭R材殿の仕事だけしたいんだ。もっと手を拡げろと、いつも言われてるが」
「もし手を拡げる気になったら、侯真という名を思い出してくれ」
「ああ」
 荷車隊は、きちんと統率がとれていた。よく見ると、ひとりひとりは兵のように逞しい。
「じゃ、こちらは馬なんで、先に蕭R材殿と話をさせて貰うよ」
 斡屠は、軽く頷いた。その間も、荷車隊は進み続けている。
 その日のうちに燕京へ帰り、まだ明るかったので、侯真は蕭R材を訪ねた。
 離宮の脇だが、意外なほど質素な家だ。訪いを入れ、執事に用件を伝えると、客間らしいところに通された。
「蕭R材です」
 入ってきた男はまだ若く、侯真は名乗るのをしばし忘れた。
「いま輸送中の麦を欲しがっておられるとか、侯真殿?」
「はい、できましたら」
 侯真が立ち尽したのは、蕭R材の若さに驚いたためばかりではなかった。商人らしいにこやかな表情だが、その底に、武が放つとしか思えない気を感じたからだった。
 むき合って座っても、その気は間違いなくあった。
「申し訳ありませんが、あれは燕京から各地の市に回すものです。徴発が過ぎて、穀物が不足している地域が出てしまっているのです」
「それを、俺に扱わせていただくことは」
「できません。豊作の年に私が蓄えていたもので、それで儲けようという気が、私にはないからです」
「聞けば、備荒までしておられたとか」
「余裕がある時は、値も下がります。そういう時に、買い集めただけのことですよ」
「では、大きく儲ける、いい機会では」
「儲ける気はない、と申しあげました、侯真殿」
「穀物は、国家の基であるから、それで商人が儲ければ、やがて国の腐敗に繋がる、と考えておられるのでしょうか、蕭R材殿?」
「まさか。私は、国を動かせるような商人ではありません」
「あの輸送隊は、第一陣、いや前に来ているかもしれないな。ああいう隊を、いくつ出されました?」
「密かに、五つほど」
「では」
「来年の麦秋まで、穀物の値があがるのを、なんとか防げます」
「それはまさに、国家のためになされる商いではありませんか」
「意地ですよ、私の。それだけのことです。金国はまだ若い。商人にも、やらなければならないことが、あると思うのです」
「うむ」
 侯真が見つめても、蕭R材が動じた様子はなかった。思わず、侯真は気を放っていた。
「侯真殿は、まこと商人であられますか?」
「金国では、商人でいようと思っています」
「ふむ、この国では」
「いま、ふと思ったのですが、蕭R材殿は、蕭珪材将軍の所縁の方ですか?」
 蕭R材の眼が、一瞬、光を帯びた。見直した時は、穏やかな光に戻っていた。
「蕭珪材は、父になります」
「失礼いたしました。梁山泊の侯真と申します」
「そのような感じですな」
「偽りを申し上げたわけではなく、金国では商人でいようと思っているのです。そして、金国が利を得られる商人であろう、とも思っております」
「それは、結構なお話です。私は、さまざまな物を、扱っております。燕京には、商賈などが並んでおりますが、まだ大きな取引をする者がおらず、他国の商人に儲けられてばかりなのですよ」
「梁山泊の商人のことを、言っておられますか?」
「梁山泊は、国そのものが商いをしていると言っていいでしょう。したがって、金国に害をなす商人はおりません。国と国の関係で、私は損をしているという気がしますがね。先の講和は、金軍劣勢の中で取り決められたので、ある程度は仕方がない、と思っておりますが」
「金国は、損をしていると」
「いや、言い方を間違えたようです。商人にはそれが損だと見えるのですが、儲けられるものを儲けていない」
「金国が、儲けていない、ということですか?」
「道を遣わせているだけで、遣ってはいないのです。自国の中の道だというのに」
「金国が、西域との交易路を独占されるということですか?」
「まさか。商いに無理は禁物です。交易をなせる商人が、育てばいいだけのことです」
 蕭R材が、それをやろうとしているのかどうかは、訊けなかった。話は、微妙な方向にむきつつある。
 自らおかしな場所に飛びこんだような恰好だが、侯真は悔いてはいなかった。
 金国で会うべき人間に出会った、という気がどこかにあるのだ。それは、不思議な気分で、いまは、ただそっとしておこうと思った。
「侯真殿は、金国をよく御存じですか?」
「さて、いまの金国については、どうなのですかね。商いの情報などは、確かに持っていますが」
「以前の、金国については?」
「俺が、幻王を、つまり楊令殿を捜すために旅をしたのは、ずっと前のことです。そのころは、遼もありました。俺は会寧府のさらに北まで、梁山泊の大人たちと行ったのですよ。そこで、楊令殿に会いました。阿骨打(アクダ)殿が、金国を建てられたばかりのころです」
「私はまだ幼かったな、そのころは。臨こう府にいて、やがて黄竜府に移り住み、それから燕京ですよ。太祖には、一度、お目通りを許されたことがあります」
 蕭珪材は、旧遼の有力な将軍だった。旧遼主が国を捨てて西へ走った時、耶律淳を推戴して燕という国を建てたのだ。そして旧宋禁軍と、激戦を展開した。燕京の攻防戦では負けず、耶律淳の暗殺によって、闘う名目を失った、というかたちだった。それ以後、蕭珪材は、誘われて阿骨打の幕下に加わった。
 金軍内で、蕭珪材は特別な地位を与えられた将軍だったが、阿骨打の死後は、それも名目だけのものになったようだ。
「蕭珪材将軍は、梁山泊側にいても、仰ぎ見るような将軍でした。蕭R材殿は、軍に入ろうとは思われなかったのですか?」
 蕭珪材の息子だと知った時に、最初に感じたのが、なぜ商人なのか、ということだった。それを、自然に侯真は口から出した。
 梁山泊の名を出すことに、ためらいはなかった。いま、梁山泊と金国は、互いに矛を収めた恰好になっている。そして、梁山泊の商隊は、金国の道の何本かを通っている。
 これまでとは違う役割が、致死軍にはある、と侯真はどこかで考え続けていたのだ。
 自分を晒すこと。考えても、それはできることではない。致死軍なら、なおさらのことだ。晒すのは、直観に従ったからとしか言えなかった。悔いが滲み出してくるようなことはない。
「父は、私が軍に入ることを、必ずしも望んではいなかった、と思っています。私には、商人への道も用意されていたのですから」
「そうですか。しかし、どことなく、武の気配もお持ちですよ」
「でしょうね。剣の稽古など、習い性になってしまっていますから」
 蕭R材が、微笑みながら言った。
「俺は、これからしばしば、蕭R材殿のもとへ来たいのです。そして、商いの話をしようと思うのですが。もっとも、才覚はありません。どういうかたちの商いができるのか、などという話をしたいのですよ」
「はみ出していますね、侯真殿は。自分がはみ出すことができないので、私はそういう人が羨ましいんです」
 自分が、どこをどうはみ出しているのか、侯真は束の間考えた。大してはみ出してはいない。自分はただ、梁山泊のことを考えているからだ。なにをやろうと、志の中にある。
「俺が、梁山泊の人間であることは、お忘れにならないように、蕭R材殿」
「商いの話に、国がどうのというのはありません。私は、国の中だけで商いをしていくつもりはないのです」
「わかりました」
 金国の人間に会った、という気がしなくなった。
「酒でもいかがですか、侯真殿。陽も落ちたことだし」
 気づくと、客間には灯が入れられていた。
「大したものはお出しできませんが、太祖の話ができる方と、せっかくお会いすることができたのですから」
 蕭R材が、また包みこむような笑みを浮かべた。

トップページへ戻る