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春、戻る
瀬尾まいこ

  1

 生まれてから今日までの出来事をすべて覚えておくのは不可能だ。うっすらぼやけてしまっていることもあるし、すっかり抜け落ちていることもある。記憶が増えれば増えるほど、大事なこともどこかに追いやられてしまう。
 だけど、自分についての基本情報ぐらいは覚えている。少なくとも、自分の家族構成はきちんと把握している。つもりだ。

「望月さん、お兄様がお待ちですよ」
 料理教室の帰り、受付のお姉さんに声をかけられた。ショッピングモールの中にあるこの料理教室は、若い女の子でいっぱいだ。私より十歳ほど年下の、大学生や社会人になりたての初々しい女の子たちばかり。使っている器具も作るメニューも先生までもがおしゃれで、どれもこれも洗練されている。何か始めなくてはと思って入った教室だけど、いまだにこの雰囲気には慣れない。
「お兄様?」
「はい。お兄様にしては、ずいぶん若く見える方でしたけど、望月さくらの兄ですとおっしゃってました」
「兄、ですか……?」
「ええ。兄だと。外で待っておられると思いますよ」
 首をかしげる私に、お姉さんはにっこりと微笑んだけれど、私には兄などいない。三つ年下の妹がいるだけで、男きょうだいは一人もいない。知り合いの人なのだろうか、それとも山田さんの親戚か何かだろうか。私は腑に落ちないまま教室を出た。
「うわ、さくら。久しぶりじゃん」
 外に出ると、すぐさま二十歳くらいの男の子が手を振りながら駆け寄ってきた。
「えっと、あの、どちら様でしょうか?」
 突然目の前まで近づいてきた男の子に、私は思わず後ずさりした。
「どちら様って、うそだろう? お兄ちゃんだよ、お兄ちゃん」
 男の子は声を弾ませた。黒目の大きな目にきゅっと口角の上がった口につるんとした頬。スーツは着ているものの、子どもみたいな顔をしている。
「お兄ちゃん?」
「そう。懐かしいだろう」
 懐かしいも何も見たこともない人だ。格好からして社会人なのだろうけど、どこからどう見ても私より年下だ。
「えっと、あの、どういうことでしょう?」
 私は眉をひそめた。
「さくら、全然変わらないな。そうやって、いちいち深刻な顔をするところ。久しぶりなのに、すぐにさくらだってわかったもん」
 男の子は女の子みたいにほっそりした華奢な手で、馴れ馴れしく私の肩を叩いた。だけど、私のほうは彼が誰なのか、見当すらつかなかった。
「あの、どういうことなのかわからないんですけど」
「何が?」
「何がって何もかもです」
「またまた。やだなあ、さくら」
 男の子は不審がる私の横で、「本当に懐かしい」だの「また会えたなんて嬉しいよ」だのと言いながら、勝手に喜んでいる。きゃっきゃとはしゃいでいる姿は、嘘をついているようには見えにくい。これだけあっさりと迷いもなく私に近づいてくるのだ。もしかしたら本当に彼は兄弟か何かなのだろうか。私はどこかでうっかり兄と生き別れたり、隠された出生の秘密を持っていたりするのだろうか。しかし、あれこれ考えてみても、思い当たる節は一つもなかった。
「あの、お名前をうかがってもいいですか?」
「まさかこんな歳になってから、自分のきょうだいの名前訊く?」
 私の質問に、男の子は冗談はやめてくれと言うように肩をすくめると、よっぽどおかしかったのか声を立てて笑った。笑うと顔がくしゃくしゃになって、ますます幼い子どもみたいだ。
「どこかでお会いしましたっけ? 申し訳ないんですけど、私、あなたのことを知らないようで……」
「知らないって、本気で言ってる?」
 今度は神妙に私の顔を見つめる。男の子の表情はくるくると変わる。
「ええ、本当です」
「年月って恐ろしいねえ。ま、立ち話もなんだからさ。お茶でも飲もう。お兄ちゃんがおごってあげる」
「結構です」
「いいって。遠慮すんなって」
 男の子は強引に私の背中を押した。
「でも……」
「でもじゃなくて、こっちこっち」
 料理教室から出てきた女の子たちが何事かと見ているし、こんなところで言い合っていても目立つだけでらちがあかない。私は男の子に従い、コーヒーショップに入ることにした。
「えっと、それで、何でしょうか……? 私に何か用があるんですか?」
 がんばって考えたところで、私には兄などいない。これは新手の詐欺かもしれない。冷静に対応しなくては。私はコーヒーを一口飲んで、改まって質問した。
「何でしょうって、さくら。びっくりしたよ。結婚するんだな」
「ええ。って、どうして知ってるんですか? 結婚するって」
 あまりに驚いて私の声は高くなった。
「どうして知ってるって、どうして知らせてくれないんだよ。職場に行ったら、少し前に望月さんは辞めたって言われるし、どうしてかって訊いたら六月に結婚するとかってさ。もう、お兄ちゃん度肝を抜かれた」
 度肝を抜かれたのは私だ。この人は私の職場を知っているのだ。突然兄だと名乗り、私の近況まで知っている。男の子が愛嬌のある顔をしているせいで、警戒心を忘れてしまいそうになるけど、これは厄介な状況だ。
「私、三十六歳なんですけど、あなた、年下ですよね?」
 まずはわかりやすいことから明らかにしていこう。私は落ち着きを取り戻すと、そう問い詰めた。男の子はどうさばを読んでも三十歳には届かないはずだ。
「うん。僕、二十四歳」
 男の子が悪びれることもなく軽やかに答えるのに、私はくらくらした。
「だったら、少なくともお兄さんではないでしょう。十二歳私のほうが年上です」
「さくらって、いまだに先に生まれたほうが兄っていうシステムを導入してるの?」
「へ?」
「あ、そんなことより、今気づいたけど、さくらと僕って干支が一緒なんだ。未でしょ? うわ、今まで知らなかった。奇遇だねえ」
 知らない間に法律が変わって、各家庭できょうだいの順序を決めるようになったんだっけと困惑している私をよそに、お兄さんとやらは一人で盛り上がっていた。
「あの、何がなにやらよくわからないんですけど」
「僕もだよ。久しぶりに会った妹が、完全に僕のことを忘れてるんだもん。感動の再会をイメージしてたのにな」
 男の子は牛乳がたっぷり入ったカフェオレを飲みながら、しょんぼりと肩を落としてみせた。私の名前を知っていて、躊躇なく呼び捨てにしてしまう。いったい彼は誰で、何をしたいのだろうか。
「これは何かの詐欺でしょうか?」
 私は思い切って訊いてみた。
「まさか。僕、意外にお坊ちゃんだから、オレオレとも言わないし、つぼも印鑑も売らないよ」
「それなら、結婚に当たって、私の身元を調べてるとか?」
 山田さんがそんなことをするとは思えないけど、詐欺じゃないのなら見ず知らずの人が近づいてくる理由はそれくらいしか思いつかなかった。
「身元って、兄妹なんだから調べなくてもたいていのことは知ってるよ。さっきからそういうこと言われるたび、密かに僕、傷ついているんだけど」
 男の子はうっすらとため息をついた。このかすかに寂しさを帯びた顔。ものすごく遠いところで、ひっかかるものがある気もする。どこかで会った人なのだろうか。しかし、記憶をひもといて過去にさかのぼろうとすると、あるところでどしりと重い扉が閉まってしまう。この開かない扉の向こうに彼がいるのだろうか。いや、気のせいだ。扉に手をかけそうになって、私は軽く頭を振った。二十四歳の男の子に出会う機会など、今までなかったはずだ。やっぱり、彼は何の関係もない人なのだ。
「じゃあ、名前を教えてください」
  私はきっぱりと言った。
「名前って、僕の?」
「そうです。せめて名前だけでも言ってくれないと……」
 私の要請に、男の子はうんざりした顔をしてから、
「僕の妹の名前は望月さくら。三十六歳、誕生日は十二月二十七日だ。冬生まれなのにさくらって名前なんだよね。すごく音痴で、牛乳が飲めない。僕は妹のこと、こんなに覚えてる。お兄ちゃんの名前くらいそろそろ思い出したっていいだろう?」
 と言った。
 私の情報は合っている。三十六年前の十二月二十七日に私は生まれた。桜の花が大好きだったおじいちゃんにさくらと名付けられ、春生まれじゃないのに、といつも驚かれる。生クリームは好きだけど牛乳は嫌いだし、ピアノは弾けるけど歌になると音を外しまくる。見ず知らずの男の子の言うとおりだ。でも、私は目の前の男の子について何一つ知らない。何かを思い出そうとしても、さっきと同じ。記憶は何年かさかのぼったところで、ぴしゃりと扉を閉めてしまう。
「とにかく、用件は何ですか?」
 これ以上考えても頭はこんがらがっていくだけだ。私は男の子の正体を突き止めるのは諦めた。
「用件って、さくら、結婚のこと何も言ってくれないだろう。それの文句を言いにきたんだ。あと、僕、出し物の準備するからさ、結婚式の日取りとか教えてよ。親父にも伝えないといけないし。それと……、まずはそうだな、結婚相手を紹介して」
「まさか結婚式に来るんですか?」
「まさか身内を結婚式に呼ばないの?」
 私と男の子は同じくらい大きな声を上げた。
「身内も何も、私、あなたのこと全く覚えがなくて、すごく困ってるんです」
「大丈夫。そのうち、あ、お兄ちゃん! って呼ぶ日がやってくるから」
「一回りも年下なのに?」
「そう。一回りも年下なのに、お兄ちゃんもしくはお兄さんと呼ぶはずだよ。でも、結婚は六月なんだろう? 時間がないから、お兄ちゃんはちゃっちゃと動かせてもらうよ。さくらが記憶を呼び起こすのを待っていたら、間に合わないから」
「ちゃっちゃと動くって?」
 会って一時間も経っていないけど、彼がマイペースで強引なのはよくわかる。何をする気なのだと私は顔をしかめた。
「出し物の練習を始めるのと、相手の男を見極めるのと、まあそんなとこかな。あ、もうこんな時間じゃん。大変、僕、仕事の最中なんだ」
 男の子は時計を見ると、慌てて立ち上がった。あれこれと思いついたことを話し、次々と動き出す。まったく忙しい人だ。
「さくらの職場へ行って、そこで教えられた料理教室まで来て、知らない間に二時間もふらついてしまった。早く会社に戻らないと」
「お仕事、何されてるんですか?」
 こんな騒々しい人が働いているなんて想像できなくて、思わず私はそう訊いた。
「医療器具の会社で営業。僕も親父の思いどおりの息子にはなれなかったってことだな」
「僕も?」
 それは私もということだろうか。見ず知らずのお兄さんとやらの見ず知らずの父親は、勝手に何を私に期待していたのだろう。
「いや、さくらは違うな。さくらのことは幸せだったらいいと思ってるもんな。親父、娘には甘いから。じゃあ、僕行くよ。次はだんなになるやつ紹介してね。今日から出し物の練習するから楽しみにしてて」
「あの、普通、親族は結婚式で出し物はしないと思いますけど」
 おかしなところは山ほどあったけど、私は最後にそう言った。
「そう? 僕、手品できるんだよ。鳩出してあげるのに」
 男の子は自信満々に言うと、「でも、さくら、鳥は苦手だったね。出すのはウサギにしよう」と的確な情報を残して去っていった。

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