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英雄はそこにいる
呪術(シャーマン)探偵ナルコ
島田雅彦

 1

 首都の南西に広がるなだらかな丘陵地帯の一角にある山林が「眠りが丘」と呼ばれるようになったのは、宅地造成が始まった四十年前のことだが、その地名の由来は誰も知らない。丘陵地帯にはほかにも無数の丘や谷や野原があり、百合が丘とか梶が谷とかあざみ野などの名前で呼ばれていたが、昔はそのどれもが名無しで、あの丘、この谷、原っぱに過ぎなかった。住民の出入りが激しい場所では、地名の由来も土地の過去も人の記憶も何ほどの意味も持たない。この町に住んでいたある大学教授が、首都のビルで自爆テロを行ったのはつい四年前のことだが、そんな近い過去でさえ人々は忘れてしまう。眠りが丘で一番高いところに生えている一本の木の根元には、その大学教授の墓があることも誰も知らない。その墓にはお骨もなく、墓碑もなく、ただ、小石が積み上げられているだけだ。
 その墓をこしらえた少年は二十歳になった今も、母親とともに眠りが丘に暮らし、その墓を守っている。少年の名前はナルヒコ。母の名はエミだが、自分の店を持った今でも昔の源氏名ナミで通している。二人の生活を援助していたナミの愛人野村は巨額の負債を抱えたまま行方不明という金融ブローカーにありがちな末路を辿り、ナミは弁当屋のパートタイムで何とか親子二人食いつないできたものの、このままでは、同じ町内で、生活保護を受け損ない、一年前に餓死した老姉妹の二の舞になると、半年前に預金をはたいて、スナックを開店することにした。
 元は理容室だった店舗を居抜きで借り、外装も内装もほとんど手を加えず、リサイクルショップで買ったカウンター・テーブルを置いて、「スナックはーです」とアクリル板にマジックで手書きした看板を出して、営業を始めた。場所も不便なところだし、保健所で飲食店営業の許可は取ったが、料理がうまいわけでもなく、常識的に考えれば、わざわざ都心から足を運ぶ客などいようはずもなかった。ところが、ナルヒコが「けっこうお客さんが来るよ」といったので、ナミは息子の予言を信じ、勝負に出ることにした。ちなみに「はーです」はギリシャ語で「死者が向かう場所」を意味する。
 地元の客はほとんど来なかったが、ナミが昔勤めていた「クラブベらみ」の同僚や常連客がわざわざTM川を渡って、飲みに来てくれた。都心で食事をし、女の子を誘って、オールナイトに持ち込むコースの終点として使ってくれるのはありがたかった。散髪用の椅子に座って、隣のコンビニで買ったつまみやカップ麺を食べながら、酒を飲み、カラオケを歌う。眠くなったら、椅子をリクライニングして、仮眠をとる。そして、始発電車が走り出したら、都心に戻る。そんな飲み方が一番お洒落で、風流だ、と周囲に吹聴する人もいて、毎晩、六、七人の客は来るようになった。しかし、客の目当てはこの風変わりなスナックでも、元キャバクラ店員の熟女でもなく、息子のナルヒコだった。
 男たちは「いい占い師がいるスナックがあるんだ」と女の子を誘う。女の子の多くは恋や仕事に悩んでいる。ナルヒコが近い未来を占ってやる。実際にナルヒコがいった通りになる。その噂が広まる。結果、「スナックはーです」は大繁盛……とはいかなかったが、弁当屋のパートに出ていた時よりも生活は楽になった。
 ナルヒコのナルコレプシーは変わらない。どんな騒音も、どんな悪臭も不意に襲ってくる眠気を覚ますことはできない。ナルコレプシーの発作とともに、ナルヒコはハーデスの薄暮の向こうに隠れてしまう。彼は未だ夢と現実のあいだに境界線を引くことのできない古代人のままだった。ナルヒコは定期的に森の木々や石、土からの「気」を補充しないと、弱ってしまうので、眠りが丘の丘陵地帯を離れることができなかった。

 星空の夜は客も億劫がらずに店に来るが、傘のいる日は客足が遠のく。今夜は二人来ればいい方だ、とナミが夕方から降りやまない雨を恨んでいると、一人のスーツ姿の男が何もいわずに店に入ってきて、中の様子を見ていた。ナミが「いらっしゃいませ」といい、散髪用の椅子をすすめると、男は「鳥飼稔彦さんはいますか?」と訊ねた。
──ナルヒコなら家にいます。占いをご希望でしたら、呼びましょうか?
「ええ、お願いします」といい、男は椅子に座り、ビールを注文した。電話でナルヒコを呼び出し、それまでのあいだナミがその男の相手を務めた。床屋談義の枕詞よろしく「お住まいは近くですか?」と訊ねると、「長らく都心のマンションで妻と暮らしていたが、子どもができたのをきっかけに郊外に移り住むことにした」という答え。周囲の環境や勤め先との距離、家賃などを考慮した結果、眠りが丘で二十年前に売りに出された分譲地「スリーピング・ハイツ」の中古一戸建てに決めたという。ナミは「地元のお客さんは大歓迎です」というのを忘れなかった。
 ナルヒコはその男に会うのは初めてだったが、相手はナルヒコを知っているようだった。親子を警戒させまいとしてか、物腰は柔らかだが、眼鏡の向こうの目には心の内まで見透かす鋭さが感じられた。男がナルヒコに差し出した名刺には「警視庁捜査一課 警部 穴見文彦」とあった。ナミがその名刺を息子から奪い取ると、「刑事さんなんですか」と甲高い声で大袈裟に反応した。
 穴見は「かつて、手がけた事件の捜査のために、この町を訪れたことがあります。理容室みたいでいい店だ」と苦笑した。ナミは「刑事さんに飲みに来ていただけると、安心です。何しろ女一人でやっているもんですから」と続けた。穴見は母親には用はないという態度も露骨に、ナルヒコに正対し、「未来が予知できるんだってね」といった。
──必ずしも当たるとは限りません。運命の神はたくさんいて、気紛れだから、人の思い通りに行くことなんて滅多にありません。
──結局はその人の努力次第ということかな。
──本当は努力してもしなくても、運命は変えられない。でも、努力をした結果、そうなったのなら、誰しも諦めがつくでしょう。
──なるほど。もし、他人の運命を左右できる人が実際にいるとしたら、どうだろう? 私たちはその人の顔色を見ながら、生きていくことになるかな。
──大抵の人はそうでしょう。でも、そういう大きな力に逆らって、自分で運命を決める人も中にはいます。
──サナダ先生みたいに?
 サナダの名前を四年ぶりに聞き、ナルヒコは改めて穴見の顔を見た。
──サナダ先生を知っているんですか?
──会ったことはない。彼を知ったのは彼が死んだあとだ。実に変わった人だね。先生とはどういう知り合いだったの?
──母が働いていた店のお客さんでした。
 この刑事は四年後の今になって、いったい何を調べに来たのか? ナルヒコは鼻の下をこすりこすり訊ねた。
──再捜査ですか?
──いや、そうじゃない。警察はあの事件をサナダ先生のシナリオ通りに処理したので、もう蒸し返したりはしない。ただ、捜査に関わった刑事の一人として、どうにも腑に落ちないところがあってね。
──話すことは何もありません。
──まあ、そういわないで。一度、君に会ってみたいと思っていたんだ。サナダ先生は、六年前に誘拐された少女をかくまい、眠り病の少年と付き合いがあったと聞いたものでね。おそらく、君がいなければ、先生の計画もあんな順調には進まなかっただろうね。
──警察が誘拐された少女を助けていれば、先生も自爆テロなんてしなかったでしょうね。どちらにしても、先生はこの世にいなかったでしょう。
──末期癌だったそうだね。君がいう通り、警察にも落ち度はあった。
 穴見は四年前の事件のあらましを正しく認識していた。だが、それは警察の公式発表とはかなりかけ離れたものであることも、穴見はわかっていた。誘拐されたのは、当時高校一年生だった真理子という少女だった。

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