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トモダチ作戦
気仙沼大島と米軍海兵隊の奇跡の“絆”
ロバート・D・エルドリッヂ

   まえがき

 私は、本書で取り上げる「大島」(宮城県気仙沼市)と「米軍海兵隊」、この二つに対して深い愛情を抱いています。その深い愛情から、本書にはある種のバイアスがかかってしまっているかもしれません。しかし、そのことについて私は読者の皆様に言い訳するつもりはありません。書かれている内容には、確かに個人的かつ主観的なものも入るかと思いますが、間違いなく、事実です。読者の皆様は読み終えたとき、私のバイアスを容認してくださると信じています。
 私と大島や米軍海兵隊との関係は、とりわけ長いというわけではありません。
 二七年近く日本に滞在していますが、これまで、東北地方に住んだことはありません。東日本大震災が起きるまで「大島」はおろか、宮城県気仙沼市を訪れたことすらありませんでした。二〇〇〇年六月一〇日に、戦後の日米関係に関する研究を発表するために仙台市の宮城学院女子大学を訪れたことがありますが、当時はとても多忙で、日帰りの短い旅だったと記憶しています。
 二七年間の日本での生活のうち、関西地方に一九年以上、沖縄に七年近くと、ほとんどの時間を西日本で過ごしてきました。

 私と米国が誇る「即応態勢部隊」である「米軍海兵隊」との“正式な”関係の始まりは、二〇〇四年頃でした。当時、大阪大学大学院国際公共政策研究科の助教授だった私はサバティカルイヤー(在外研究休暇)を取得し、ハワイにある米国太平洋海兵隊司令部の史上初の客員研究員として、正式に「米軍海兵隊」に勤める機会を得ました。
 一年間のサバティカルが終了し、一度は大阪大学に戻ったものの、ハワイでの経験が忘れられず、私は再び海兵隊のために働くことを熱望しました。しかし、学則により大阪大学と海兵隊の二つに、同時に勤務することは認められませんでした。
 そのため、私は大学を辞職することを決意し、沖縄に駐留する在日米国海兵隊外交政策部(G-5)の次長として、米国政府の上級官僚という新たなキャリアをスタートさせたのです。
 その後、二〇一一年一〇月一日に「外交政策部」から「政務外交部(G-7)」に名称が変更になった際も、司令部の名称が「米国海兵隊太平洋基地」に変更になった際も、私のポストは重要なものとして存続しました。
 さらに詳しく述べれば、私と海兵隊の“正式な”関係のスタートは、二〇〇四年ですが、“非公式”には関係は二〇〇〇年頃から始まっていました。
 当時の私は米軍基地問題を研究していて、米軍関係者たちと時に激しく議論を交わしていました。
 どのような組織にも言えることですが、当時の海兵隊でも対話や組織の透明性を重視する人と、それらを理解していない人がいました。前者は、「No Better Friend」(海兵隊以上の友達はいない)」、後者は「No Worse Enemy」(戦場において海兵隊より強い敵はいない)」という全く別のモットーを持っていました。私は、後者の人々とたびたび衝突しました。私にとって、対話や組織の透明性を重んじる人々は、戦略的視点から見る安全保障環境、その中における海兵隊の役割を理解する上で力強い援軍でした。一緒に仕事をしていて、彼らが持つ豊富な知識や自分たちの職務への矜持、さらに日本との関係への多大な関心と配慮を肌で感じていました。次第に、日米の関係がより良い方向へ向かう、その対話の窓口として、手助けをしたいと思うようになっていったのです。
 これが大学などの、学術の分野から、一時的あるいは永久的に退こうと決意した背景です。

 私が学術界から身を退いたのは、米軍基地問題や戦後の沖縄史、日米同盟、そして日本の政治研究の専門家として、二〇〇九年に日本に誕生した民主党政権に正しく米国政府や海兵隊を理解してもらうためでした。
 政界やメディアや学者はもちろん、日本国民全体に良いイメージを持たれていない海兵隊のためにとった私の行動は、ある人々にとっては、なぜ、日本のトップレベルの大学の終身雇用が保証された居心地の良いポストを辞職したのか、理解し難いものであったに違いありません。海兵隊幹部という、政治、メディア、官僚などからさまざまな不当な攻撃にさらされる可能性を持つ立場に、なぜ自ら身を投じたのかと。
 これについては、私がこれまでに培ってきた普天間飛行場移設問題に関する専門知識、政界、メディア、研究機関との間に築いた豊富な人脈、それらを遺憾なく発揮するようにと、海兵隊幹部のポストヘと神が導いてくれたのだと強く信じています。

> 二〇一一年三月一一日。東日本大震災が発生しました。
 翌一二日早朝、私は前方指令部隊となる先遣隊と共に、陸上自衛隊東北方面隊の仙台駐屯地へ派遣されることが決まりました。後に、陸海空自衛隊が一丸となり編成された「統合任務部隊」の司令部となった駐屯地です。
 この時、二〇〇九年に私が沖縄に導かれた、真の理由を悟りました。
私に託された本当の使命、それは“終わりの見えない”沖縄問題の解決ではなく、この未曽有の大震災に日米が協力して立ち向かっていくための架け橋となることでした。そして、一九九五年一月一七日の阪神・淡路大震災時の私自身の体験から得た教訓を生かすことなのだと気づいたのです。
 しかし大震災発生直後は、あまりに深刻な破壊と甚大な人的被害(正確な被害状況はまだ判明していなかったのですが)を前にして、私の心は打ちのめされました。第二の母国である日本のために働けることを大変光栄に思う一方で、世界一の軍隊といわれる海兵隊と共に任務をしっかり果たすことができるのかという不安、仙台に到着する最初の一三人の海兵隊員(一人は民間人である「私」)を、今後何が待ち受けているのか、恐怖に近いものを感じていました。

 本書では、日本に対する史上最大級の災害支援活動として、後に「トモダチ作戦」と名付けられた米軍、とりわけ海兵隊の救援作戦の詳細を紹介します。さらに、東北地方の小さな島「大島」と、二四〇年以上もの長い歴史を持つ戦闘の専門集団・米国海兵隊(第31海兵遠征部隊〈MEU〉)との間で生まれた、奇跡的な“絆”の物語を綴っています。
 大島は、激しい戦闘が行われるような場所ではありません。しかし、震災直後、気仙沼の大島を囲む海は津波によって辺り一面、無数の瓦礫が押し寄せ、散乱していました。そのような過酷な状況下、海兵隊は、救援物資やさまざまな機材と共にその島へ上陸したのです。
 絶望の淵に沈んでいた島民たちは、島に降り立った使命感に燃える海兵隊員たちを目にして、涙を流していました。それは、救援活動を終え、海兵隊員たちが島に別れを告げる時も同様でした。大島を去る海兵隊員たちも、被災者たちに救いの手を差しのべることができたことへの誇り、島の復興や将来への憂慮、そして島の人たちが示してくれた感謝の気持ち、それらに、みな胸に熱いものが込み上げてきていました。もちろん私もです。
 私は今でも、あの美しい島に起きた悲劇を思い出すたびに、いや、「大島」という名前が口にされるだけで、「尊敬」と「愛情」の思いが込み上げ、涙が止めどなく溢れてきます。

 大島を離れてから数週間後、私は「ある招待状」を手に、再び大島を訪れました。
 被災地には救援物資の供給や建物の再建、インフラの復旧等の物理的な支援だけでなく、精神的な支援が必要です。とりわけ、震災のショックから立ち直ることができていない子どもたちの心のケアは、極めて重要であると考えていました。そこで私たちは、大島の子どもたちに沖縄で夏休みを過ごしてもらい、精神面の回復につなげようと、「ホームステイプログラム」を作り、招待することにしたのです。
 大震災後、第31海兵遠征部隊と大島の人々が協力して行った復旧作業と、この「ホームステイプログラム」などの交流によって築かれた関係性は、今でも私たちをつなぐ非常に強い「絆」となっています。

 また本書は、復興の歴史や日米関係史の著作としてだけでなく、過疎化が進んでいる東北地方の街の詳細を示した社会史としても読んでいただけると思っています。日本の過疎地域、特に東北エリアに焦点を当てた研究や論文は決して多いとは言えない中、本書を通して多くの人々がこの問題に目を向け、他の研究と同様に盛んに議論されるようになればと願っています。気仙沼市や大島について完璧に網羅しているとは言いきれませんが、およそ十回の現地の取材に基づき、紹介する本書が、これからこの地域にスポットライトを当てるための何らかのきっかけになることを祈っています。
 登場する人物はフルネームを各章で繰り返して紹介しています。それは、ある特定の時期や出来事を探したいという読者のために、その前後を読めば見つけられるように配慮したためです。しかし、私の最大の希望は、読者に本書の最初から最後まで付き合っていただくことです。
 なお、この本では、未曽有の被害を受けた一般の人々が多く登場するため、その人たちのプライバシーを守る必要があることを意識して書きました。一方で、公的な人物やメディアの取材などで既に発言されている方々は実名で紹介しています。個人的なやり取りや作文を寄せてくれた生徒たちの名前は伏せることにしました。彼らは、「ロバートさん、書いてもいいよ」と、きっとOKしてくれたとは思いますが。

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