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桜のような僕の恋人
宇山佳佑

  第一章 春  〜文中より抜粋〜

 デート当日、東京の空は青々とした輝きを放っていた。太陽は優しく地上を温め、風は歌うように柔らかく吹き過ぎていく。長袖では汗ばんでしまいそうな春めいた陽気だ。
 そんな平和的な新宿駅南口。晴人は改札の前を行ったり来たりしながら、ざわめく心を落ち着けようと必死に努めていた。
 どうしよう……。どんな会話をすればいいんだ? 昨日の夜、頭の中で何百回とシミュレーションを重ねた。Amazonのお急ぎ便で『小粋な男の会話術』というマニュアル本も手に入れた。でも結局どうしていいか分からなかった。それに加えて、嘘を告白するという試練もある。デートですら精一杯なのにプレッシャーがすごすぎる……。
「おぇっ!」思わずえずいてしまった。すると、「大丈夫ですか?」と背後で声がした。
 こ、これはもしや、有明さんの声では?
 恐る恐る振り返ると、やっぱりそこには美咲がいた。
 見られた! おぇってしてるところを有明さんに見られてしまった! 新宿駅の真ん中でおぇってしてる男ってダサすぎるだろ!
 それにしても……晴人は生唾を飲んだ。な、なんて可愛いのでしょうか……。
 彼女の普段着を見るのは初めてだ。涼しげな白のスプリングニットにスキニーパンツ、頭にはえんじ色のニット帽。それらの服は彼女に着られるためにこの世界に生まれてきたんじゃないかと思うほど、とてもよく似合っていた。顔もなんだかいつも以上に可愛く見える。メイクのせいだろうか?
 あまりの可愛さに地蔵のように固まっていると、「どうしました?」と美咲が顔の前で小さく手を振ってきた。その声には緊張の色が混じっている。それもそのはずだ。急にお客さんとデートをすることになったんだから。しかも耳たぶを切った相手と。
「あの、今日は、来てくれて、ありがとうございます」
 人工知能のようにたどたどしく礼を言うと、彼女は恥ずかしそうに首を振った。そして二人は新宿御苑を目指して甲州街道を歩き出した。
「いい天気ですね」
「そうですね」
 会話が終わってしまった。
 老夫婦の会話か!? しっかりしろ! あ、そうだ! こういうとき、男は女性を守るように車道側を歩くべきだとマニュアル本に書いてあったぞ!
 晴人は起死回生を図るべく美咲の右隣に移ろうとした。が、上手く移動できず肩と肩がぶつかってしまう。よろめく彼女に「すみません!」とあたふた謝ると、美咲は「どうしたんですか?」と顔を引きつらせた。
「あ、いや、こういうときって男が車道側を歩くべきなのかなぁと思いまして」
「は?」
「だってほら、車にぶつかったら大変ですし!」
「さすがにここは大丈夫かと……」彼女は気まずそうにガードレールを指さした。
 うわぁ────! 僕はなんてバカなんだ! 歩道に車が突っ込んでくるなんてハリウッド映画じゃないんだからさぁ! ホームラン級のバカかよ!
「そっかぁ! なるほどですねー! じゃあ安心だ! あはは……」
 笑いながら涙がこみ上げてきた。消えたい。このまま消えてしまいたい。
 美咲はそんな晴人の心中を察したのか「もしよかったら、こちらどうぞ」と右側を譲ってくれた。彼女の心遣いに、情けなくてまた泣きそうになった。
 泣くな。泣いちゃダメだ。まだ挽回のチャンスは必ずあるはずだ……。
 しかし追い打ちをかけるように悲劇は連続する。
 新宿御苑の門が閉ざされているのだ。『本日休園』という非情な看板が目に飛び込んで、晴人の思考は完全に停止した。
 うわぁ……。引くわ。自分のバカさ加減に引きすぎて気持ち悪くなってきた。突然ここで吐いたら有明さんビックリするかなぁ。……というか、これは夢か? やけによくできた夢なんじゃないのか?
「あ、今日お休みなんだ……」と美咲が呟く。その途端、晴人はハッと我に返った。
 ヤバい! これは「じゃあ解散しましょうか」のパターンだ! デートがはじまってまだ十分しか経ってないのに解散なんて絶対に嫌だ!
「よ、四ツ谷に行きましょう! あそこにも桜はありますから!」
 二人は丸ノ内線に乗って四ツ谷に足を伸ばした。
 さすがにここなら桜を見ることが──……その考えも甘かった。
 四ツ谷から飯田橋まで伸びる外濠公園は、満開の桜に誘われて多くの花見客で賑わっていた。皆、桜の下にブルーシートを敷き、酒を飲んで大騒ぎしている。平日の昼間だというのに酔い潰れた中年男性がだらしなく土に顔を埋めたまま眠っていたり、大学生であろう若者たちが「うぇ───い!」と奇声を発しながら缶酎ハイを一気飲みしている。ロマンチックの欠片もない雰囲気に晴人の膝はガクガクと震えた。
 お、お、おめぇら、桜が見たいんじゃなくて外でドンチャンしたいだけだろうが。ていうか、なんで日本人ってこうも花見が好きなんだ? ああもう、これじゃあせっかくのお花見デートが台無しだよ……。
「おぇえ─────!」
 泥酔した中年男性が二人の前で嘔吐した。美咲は不快そうに目を背ける。
 おっさ─────ん! なに吐いてんだよぅ!
 晴人は泥酔男をぶん殴りたい気分でいっぱいになった。
「と、とりあえず歩きましょう!」
 二人は逃げるように市ケ谷方面へと歩き出した。
「すみません。僕、お花見って初めてで、どのくらい混んでるか全然分からなくて。まさかこんなに人がいるなんて思ってもいませんでした」
「初めて?」と美咲は目を丸くした。「一度もお花見したことないんですか?」
「ええ、まぁ。あ、でも子供の頃に一回くらいはあると思いますけど」
「嫌いなんですか? お花見」
「お花見っていうか、桜があんまり好きじゃなくて」
「桜が?」彼女は不思議そうに首をかしげた。
「なんていうか、桜って綺麗だけどすぐ散っちゃうじゃないですか。そう思うと、なんだかちょっと悲しくて。あ、お花見に誘っておいてこんなこと言うのもアレですけど」
「朝倉さんって、変な人って言われたりしません?」彼女は口を押さえながらくつくつと笑った。「日本人って、みんな桜が好きなんですよ」
「たしかに高校生の頃、友達にその話をしたら変人扱いされました」
「やっぱり。わたし、桜が嫌いな人に初めて会いましたよ」
 自然な笑顔に晴人も思わず笑みをこぼした。
 いいや、変な人って思われても……。どんな理由であれ、彼女が笑ってくれるなら。
 美咲は緊張がほぐれたようで口数も増えて自身の話をたくさんしてくれた。
 休みの日は映画を観に行くことが多くて、特にアクション映画が好きで、お兄さんの影響で野球観戦も好きらしい。家は小さな居酒屋を営んでいて、「兄が作るチャーハンが美味しいんです」と少し自慢げに話してくれた。甘いものとお菓子がやめられなくて、太ると分かっていながら仕事帰りについついプリンやゼリーを買ってしまうらしい。
「有明さんは、どうして美容師になろうと思ったんですか?」
 左隣を歩く彼女を見ると、美咲は恥ずかしそうに指先で髪をくるくるといじった。
「実はわたし、天パーなんです。小学生の頃、男子に“くるくる”って呼ばれるくらい。それがすごいコンプレックスで、お父さんとお母さんに相談したんです。こんな髪いやだーって。でも『気にしちゃダメ』としか言ってくれなくて。絶望でしたよホント。一生このまま生きていくのかなぁって。そしたらお兄ちゃんが泣いてるわたしに気付いて近所の美容室に連れてってくれたんです。すごいドキドキしたけど、美容師さんが『大丈夫、すぐに直るよ』ってストレートパーマをかけてくれて……。そしたら、さっきまで悩んでたのが嘘みたいに髪の毛がまっすぐになったんです! 魔法みたいに! そのとき鏡に映る姿を見て、生まれて初めて自分の髪型が可愛いって思えたんです」
 彼女は古い写真を眺めるように懐かしそうに目を細めた。そして大きな桜の木の前で足を止めると、薄く微笑みながら空を見上げた。
「それで決めたんです。わたしもいつか誰かの髪を綺麗にしてあげたいって。お客さんに『自分って可愛いな』って思ってもらえる、そんな美容師になろうって」
 桜の花びらに彼女の笑顔が鮮やかに映える。薄紅色に包まれながら柔らかく微笑む美咲を見て、素敵だなと晴人は思った。幼い頃の彼女も美容室の鏡の前でこんな風に笑っていたのかな。そう思うと心がじんわりと温かくなる。
 しゃべりすぎたことが恥ずかしくなったのか、美咲は「わたしの話ばっかりじゃなくて、朝倉さんの話も聞かせてくださいよ」と少しはにかんだ。
「朝倉さんは、どうしてカメラマンになりたいと思ったんですか?」
 本当のことを言おう。立ち止まって奥歯に力を込めた。
 強い風が二人の間を吹き過ぎてゆき、桜の花びらが遠くに飛ばされる。
 晴人は声が震えないように、ゆっくり口を開いた。
「有明さん。僕は──」
「あれ? 晴人じゃん」
 聞き覚えのある声に驚いて振り返ると、そこにはスタジオマン時代の同僚の姿があった。肩からカメラバッグを下げたその男は、晴人に向かって軽く手を挙げている。
「久しぶりだな!」
 嫌な予感がした。まだ包帯が取れていない左耳がジンジンと痛み出す。頼むから余計なことだけは言わないでくれ。でも願えば願うほど現実は真逆の結果になるものだ。
「お前もうカメラやめちゃったんだろ? 今はなにしてんだよ?」
 背筋が凍るくらい冷たくなった。恐る恐る横目で見ると、美咲は訝しげに眉をひそめている。その表情が更に体温を奪っていく。
「てか、お前がスタジオ辞めてから大変だったんだぞ? バックレやがってよ?」
 空気の読めない元同僚に居ても立ってもいられなくなり、「行きましょう」と彼女を連れて足早に歩き出した。
 それから二人は市ケ谷駅近くのベンチに腰を下ろした。晴人は美咲のことを見ることができず、遠くの景色に目を向けている。中央線が新宿方面へ走り去っていくと車輪とレールが擦れ合う鉄の音が不気味に響き、その後に花見客の楽しげな笑い声が続いた。
 彼女はなにも言おうとしない。無表情で黙っている。その沈黙が余計に怖かった。
「僕は、あなたに嘘をついていました」
 恐怖で喉の奥が震えた。
「本当はカメラマンでもなんでもないんです。賞を獲ったこともないし、独立もしていません。全部嘘なんです。でもカメラをやっていたのは本当です。ただのアシスタントでしたけど。それもすぐに辞めてしまって──」
 膝の上で組んだ指がじんわりと汗で滲む。
「最初は本気でプロのカメラマンになるつもりでした。才能だってあるって信じていました。でも毎日怒られてばかりで、仕事もロクにできなくて、コンクールに応募しても全然ダメで。だんだん自分には才能がないって思うようになって、結局カメラ自体やめてしまいました。それで今はレンタルビデオ屋でアルバイトをしています」
 美咲はこちらを見ようともせず、お堀の向こうに立ち並ぶビルを眺めている。
「今まで嘘をついていて、すみませんでした」晴人は深々と頭を下げた。
 彼女の呆れたようなため息が胸に突き刺さる。
「どうして嘘ついたんですか?」
 なにも答えられなかった。針のような視線に顔を上げることすらできずにいると、「そろそろ帰りましょっか」と美咲は立ち上がって駅の方へ歩き出した。晴人は動けずに去って行くその後ろ姿を見つめている。きっともう二度と会うことはできない。言い知れぬ焦りが背中を強く押した。そして気付けば美咲に向かって大声で叫んでいた。
「あなたに嫌われたくなかったんです!」
 その言葉に彼女の足が止まる。
「僕がカメラマンだと言ったとき、あなたは目を輝かせて話を聞いてくれた! それが嬉しくて、少しでも気に入られたくて、それで嘘をついてしまったんです! ずっと申し訳ないって思っていました。謝らなきゃって。でもその勇気がなくて。ただのフリーターなんて言ったらガッカリされそうで……だから嘘をつき続けてしまったんです!」
 思いの丈は伝えた。この想い、きっと彼女に届いたはず──、
「はぁ───!?」凄まじい大声と共に美咲が眉を吊り上げて振り返った。「それって、わたしが職業で人を判断するような女だって言いたいわけ!? カメラマンだから目を輝かせて話を聞いてたって、そう言いたいんですか!?」
 普段の彼女からは想像もできない恐ろしい剣幕に、思わず「ち、違います!」と腰が引けてしまった。美咲は怒りの眼差しでこちらに詰め寄ってくる。
「違わない! そりゃたしかにカメラマンって言われたとき、ちょっと格好いいなって思ったし、すごいなって思いましたもん! あーそうですよ! わたしはあなたのこと職業で判断しましたよ! でもだからって、そういうこと面と向かって言われるとすんごいムカつくんですけど!」
「す、すみません」
「こっちこそすみませんでした! でも、なにもしてないのに夢諦めるとかあり得ないんですけど! 自分には才能があるって思ったんでしょ? なのになんでやめちゃうの? あんたバカなの!?」
「すみま──」
「せん、じゃなくて! どうしてとことん頑張らないのよ!? もしかしたら本当にプロのカメラマンになれたかもしれないのに!」
「え?」
「それなのにやめるなんてもったいないって! うじうじしてないで、夢なら辛くてもなにがあってもカメラ続けなさいよ! 簡単に投げ出したりせずにさぁ!」
「そ、それは、僕にカメラの才能があると仰ってくれているんですか?」
「は?」
「だから頑張れと?」
「違いますけど?」
「嬉しいです!」思わず彼女の手を握ると、美咲は猫のように跳ね上がった。
「す、すみません!」自分の思いがけない行動に慌てて手を離す。
「僕、頑張ります! その言葉を信じて、もう一度カメラ頑張ります!」
「いや、ちょっと待って。そういう意味で言ったんじゃ──」
「美咲さん!」
 突然名前で呼ばれて美咲は固まった。
「僕はあなたに相応しい男になってみせます!」
 変わりたい。嘘つきで何事からも逃げ続けていた情けない自分から。ちゃんと自分を誇れるように。変わりたいんだ。だから──、
「だから変わります!」
 晴人は拳を強く握った。
「あなたに好きになってもらえるように……」
 美咲の頬が桜色に染まる。南風が吹いて、桜の花びらが空へと舞い上がり二人の間に雪のように優しく降り注ぐ。その花びらを見つめて晴人は決意した。
 踏み出すんだ。止まっていた時間が動き出すように。
 いつかまた、彼女の隣を歩けるように。

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