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フェイバリット・ワン
林 真理子

     1

 本当は披露宴などしなくてもよかったのだ。
 美莉のお母さんも、親戚を招びたくないと言ったらしい。両家が集まり、食事会だけになるはずだったのに、今度は七十四歳になるお祖母ちゃんが異を唱えた。どうしても孫のウェディングドレスを見たいと言ったらしい。それならばと、ほんのわずかな友人と親戚だけが招ばれ、小さなパーティーが行われた。
 住宅街の中にあるレストランは、披露宴もすれば法事もするという、郊外によくあるタイプの店だ。しかし一応フルコースのフランス料理が出た。ワインも出され、驚いたことに美莉はグラス一杯飲み干したのだ。しかもその後、カメラを向ける人たちにVサインをした。妊娠五ヶ月だというのに。
「何だかんだ言っても、結構幸せそうだったじゃん」
 帰り道に、俊がおかしそうに言い、夏帆と愛も頷く。
「そう、そう。あんなにピイピイ泣いたりしたくせにさ」
「披露宴したいって言ったのは、お祖母さんじゃなくて本当は美莉だったんじゃないの」
 私鉄の駅が近づくにつれ、次第に口がほぐれていく。たった二十人ほどのパーティーでも緊張していたのかもしれない。三人とも披露宴というものに出るのは初めてであった。子どもの頃、親戚の誰かの宴席に出ることはあったけれども、こんなに早く友人代表として出るとは思わなかった。
 あたり前だ。まだ三人とも二十三歳なのだから。
 美莉には、一年ぐらい前からつき合っている恋人がいた。相手はフリーターだし結婚など考えていないと言っていたのに、夏が終わった頃、妊娠が発覚したのだ。ひとり娘だったので、かなりの騒ぎになったらしい。しかし父親に激しく叱られたことで、かえって美莉の決心が固まった。どんなことがあっても産むと言い張ったのだ。
 この二ヶ月、夏帆はどれだけ美莉に振りまわされただろう。
「カケオチしてやる」
 と、とんでもないことを言い出す親友をなだめるのに本当に苦労した。結局、相手のフリーターは美莉の父親が経営する工務店に勤めることになり、一件落着して今日の披露宴となったのである。
「だけどさー、美莉の彼って、そんなことしてまで結婚したい相手かな」
 愛が言う。私鉄の駅前にはスタバはなく、ドトールがあるだけであったが、テーブルは空いていて三人はゆったりと座ることができた。喫煙コーナーの方だ。愛は当然のようにそちらに座り、メビウスに火をつけた。今どき煙草を吸う女の子は珍しい。本人も努力しているのだが、どうにも禁煙できないとこぼしながら吸う。
「ね、ね、美莉の彼さ、前から思ってたけど、外見だってそんなにイケてるわけでもないしさ、職もなかったんだし。幸せになれるのかなー」
「でも、すんごく優しいんじゃない。子どもができたのがわかった時も、二人で頑張ろうとか言ったらしいよ」
「だけどさ、フリーターだったんだよ。フリーターの男がさ、二人で頑張ろうなんてよく言うよ。どうやって育てるつもりだったんだろ」
 辛らつなことばかり言うが、愛はとても可愛い。今日は特におしゃれをしているからなおさらだ。黒いシンプルなサテンのドレスに、ラビットファーのショールを巻き、コットンパールを幾重にも垂らしている。このドレスは有名なデザイナーのものなのであるが、前にタレントが汚してしまったため買い取りとなった。それをうんと安く譲ってもらったという。
 愛はスタイリストのアシスタントをしている。師匠は雑誌でよく名前を見る有名人だ。愛は彼女に憧れ、何通も手紙を出して就職に成功したのだ。
 前についていた師匠は、カタログやチラシ、あるいは素人同然の女の子を集めた水着の写真集が仕事だった。しかし今の師匠はファッション雑誌のトップページを飾る服のスタイリストをしていて、会う人も一流モデルやタレント、女優さんだ。だから毎日が楽しくて仕方ないという。
「美莉だってさ、せっかくチーフになれたんでしょ。それなのにもったいないよ」
 美莉は、いつか自分の雑貨の店を持つのが夢であった。そのために有名な生活雑貨店に勤めていたのに、今度の妊娠で退職した。とりあえずは実家に戻り、出産、育児ということになるのだ。
「まだ二十三だよ。ヤンキーじゃあるまいしさ、そんなに早く結婚して、自分の人生決めることないのにね」
 夏帆もそう思う。けれども口にしてはいけないような気がしていた。友だちの幸せにケチをつけるみたいだ。それに披露宴の帰りに、あれこれ難くせをつけるというのは、もっとトウのたった女たちがすることではないだろうか。時々、引出物を手にした女たちが、披露宴や新郎の品定めをしている光景を目にすることがある。ああいうのって、あまりいい感じではない。
「ま、できちゃった婚なら仕方ないか。ねっ」
 と、さっきから二人の話を黙って聞いている俊の方を見た。今日、花嫁のヘアメイクを担当した彼は、スーツを着ている。彼のスーツ姿を見るのも初めてかもしれない。といってもグレイのスーツは、光沢があって体にぴっちりしている。両耳にピアスをしているし、絶対に普通のサラリーマンには見えないだろう。

 三人と花嫁の美莉は、専門学校の同級生であった。といっても、美莉は工芸科、愛はスタイリスト科、俊はメイキャップ科、夏帆は服飾科とすべて専攻が違う。四人が出会ったのは、学園祭のファッションショーだ。七人でチームを組み、一人のモデルを担当する。夏帆がデザイン画を描き、皆でディスカッションし、生地探しから始めた。授業が終わってからの作業だったから、最後は徹夜となったけれども、ショーは本当に楽しかった。しかも夏帆たちのグループが手がけたコスチューム「夏への飛翔」は、準グランプリを受賞したのだ。
 あれから三年。友情などという言葉は恥ずかしくて使いたくないが、気の合った四人でしょっちゅう会って、飲んだり食べたりしていた。
「デザイナー」というのは名ばかりで、ダンボール箱の整理ばかりさせられていた夏帆に、転職を勧めてくれたのもこの三人だった。
「ナッチ、ダメだよ。ぐずぐず悩んでる時間がもったいないじゃん。ナッチはさ、デザイナーになるっていう目標がちゃんとあるんだからさ。それにちゃんと向かっていかなきゃダメだよ。諦めるとかさ、ザセツってさ、三十過ぎの人がすることじゃん」
 そう言って励ましてくれた美莉が、妊娠という突然の出来事で、自分の夢を中断したのだから皮肉な話だ。
「まあね……。赤ちゃんができるっていうのは、おめでたいことだからさ……。いいんじゃない」
 俊はとても形のよい薄い唇をしていて、ここから汚らしい言葉は出てこない。人の非難めいたことや悪口を言わず、穏やかな雰囲気であたりをつつむ俊は誰からも好かれている。彼が異性に興味を持たない類の男の子だということは、在校中から皆が知っていた。
「でもさ、私、できちゃった婚ってあんまり好きじゃないな。うちの両親がそうだったから」
 愛は思いっきりグロスをつけたベビーピンクの唇をすぼめ、ぷーっと煙を吐き出す。そうすると、とても蓮っ葉な女の子に見えた。
「私のせいで結婚したワケ。昔は珍しかったみたい。それでね、まあ勢いで結婚しちゃったからさ、別れることになるんだもの。子どもは迷惑よね。いくら流行りだからって、できちゃった婚なんかしない方がいいと思うな、私。だってさ、ちゃんと避妊すれば済むことじゃん」
 ヒニンという言葉に、隣のテーブルでスポーツ紙を読んでいたおじさんがこちらを見た。そうだ、とても刺激的な鋭い響きだ。ヒニン。否認と同じ音。これを怠ったばかりに、人生が変わってしまうこともある。とても大切なこと。
 夏帆はふと、自分が今まで何十回としてきたヒニンのことを思い出した。女の子というのは、それをきっちりこなしてこそ、夢へ向かって歩くことができると夏帆は思う。

 今の会社に移ってから、まだ八ヶ月だけれども、早くもここでヒニンをしている。
 営業の坂本さんは、三十二歳のバツイチだ。やや長めにカットした髪が彫りの深い顔立ちに合って、とても若く見える。入社してすぐの飲み会の帰り、ついそんなことになってしまった。この頃は、週末に坂本さんの部屋に泊まることがあるけれど、他に女の人がいるのはすぐにわかる。彼にはどうやら夏帆とつき合っている、という気はないらしい。それが悲しいか、と言われればそんなこともなかった。夏帆にももう一人相手がいる。専門学校時代、バイト先で知り合った譲一だ。彼もまた専門学校でデザイナーをめざしていたのだが、大学の建築科を卒業後に入学した変わりダネだ。その大学の名前を聞いて、夏帆はへえーっと驚きの声をあげた記憶がある。誰でも知っている一流校だったからだ。偏差値がものすごく高く、夏帆の卒業した埼玉の私立女子高では、めったに合格者が出ない。
「どうして、あんないい大学を出て、デザイナーになろうと思ったの。珍しいよね」
 と夏帆が尋ねたところ、
「そんなことない。外国では建築家がデザイナーになるっていうのは、そんなに珍しいことじゃないよ」
 と教えられた。
「イタリアのジャンフランコ・フェレなんか有名だよ。建築で学んだ造形の技術を、布でやったらどうなるかなあ、って考えるのは不思議じゃないだろ。そもそもファッションビジネスっていうのはさ、世界のすべての動向を踏まえて、総合的な知識を使ってやるもんじゃないかなあ。ファッションビジネスっていうのとさ、職人のデザイナーっていうのとはさ、そもそも一致しないものなんだけど、俺はどっちもできる人間になりたいワケ」
 譲一の言っていることはよくわからない。しょっちゅうむずかしい用語や英語が出てきて、そのたびに夏帆はとまどってしまうのだ。

 子どもの頃から、洋服の絵を描くのが大好きだった。自分の好きな洋服、フリルのついたワンピース、長い花柄のスカートを着せた女の子の絵を、それこそ一日中描いたものだ。
 中学生になってからは、いよいよ本格的に服を買い始めた。お年玉やお小遣いを貯めたお金を持ち、渋谷や原宿へ行く日は、嬉しくて前の晩から眠れないくらいだった。夏帆の通っていた中学には、やはり「ファッション命」という女の子たちがいて、彼女たちと連れ立って出かけるのだ。
 夏休みに髪をブリーチしたり、スカートの長さを変えたりしたから、教師たちには睨まれ内申書も悪かったらしい。だから本命の高校に落ちてしまったのだが、その時はもう親に宣言していた。
「私、デザイナーになるから。お洋服つくる人になるから」
 父親はそれがいいと賛成してくれたのであるが、見栄っぱりの母親だけはこう条件をつけたものだ。
「それならば大学に行きなさいよ。女子大かどこかの家政学部へ行けばいいじゃないの」
 そんなのはまっぴらだと思った。今から自分が入れるようなレベルの大学へ行き、やりたくもない語学や一般教養を学ぶというのは全く無意味なことだ。それよりも一流の専門学校へ行き、朝から晩まで好きな洋服の勉強をしてみたい。
 夏帆が母親に反抗したのは初めてではないだろうか。
 夏帆の通う埼玉の女子高では、学年に何人かヤンキーがかった女の子たちがいて、学校に来なくなったと思ったら、そのまま中退していく。あんな女の子たちになるつもりはまるでなかった。勉強はあまりしなかったけれども、親を泣かすようなことをしてはいけないと心に決めていたからだ。初めての子どもだったから両親には溺愛された。双方の祖父母からは、たっぷりのお菓子とお小遣いをもらい続けたものだ。そんな「いい子のナッちゃん」が、絶対に専門学校に行く、とわめいたのだ。
「私は自分の人生を行くからね。絶対に誰にも邪魔されたくないからね」
 と言ったところ、
「そんなテレビドラマみたいなセリフ、いったいどこで憶えたのかしらね」
 と母親にせせら笑われた。
「パンフレット見たけど、専門学校の学費って大学よりも高いくらいじゃないの。そういうものを親に出してもらおうっていうのによく言うわよ」
 しかしもうその頃は母親も折れていたのかもしれない。やがて夏帆は、憧れていた専門学校の服飾科に入学したのだ。

 夏帆にとって、デザイナーになる、洋服をつくる、というのは、あの女の子の洋服を描く延長だ。
 夏帆の勤める「ママレード・ガール」のアトリエで、デザイン画を描く。生地見本を見ながら、細かい指定を入れていく。すると次の日には、パタンナーさんが指示どおりのものをつくってくれる。あの時の喜びをどういったらいいのだろうか。
 幼い頃、お洋服の絵は、いくら描いてもノートから飛び出してくることはなかった。しかしどうだろう。今ではほぼそのとおりの試作品ができあがってくるのだ。
 それに細かいピンを入れ、形を直していくときめき。
「ここにビーズを入れてみたらどうだろう」
 と考えていく楽しみ。後でチーフにチェックされるというものの、自分のデザインした洋服が、実物となって目の前に現れるのだ。
 洋服をデザインするというのは、こういうことではいけないのだろうか。
「だけど、そういう前近代的なことをしているから、君のところは、あの程度の規模なんじゃないか。ここのところ売り上げも落ちてるしさ」
 確かに今年になってから、「ママレード・ガール」は三軒あった直営店のうち、名古屋店を閉めた。ジャケットの上代一万五千円という中途半端さが、かえってファストファッション店と競合してしまうのだ。
「ハイブランドが壊滅状態で、ファストファッションも飽きられ始めている。こういう時こそ戦略が必要となるんだけど、みんなそういうのがわかっていないんだよな」
 譲一は専門学校を卒業した後、世界的に有名な日本人デザイナーの会社に入った。二ヶ国語は平気で喋る人たちがまわりに多いということで、彼はさらに理屈っぽくなった。夏帆は時々ついていけないことがある。
 だけど、譲一と会ってお酒を飲み、彼の部屋に行くのは大好きだ。ベッドの上では、譲一は決して饒舌ではなく、それよりも体をフルに使う。
 昨年から「ママレード・ガール」は、インナー部門を試験的に始めていて、可愛らしいブラやショーツをつくっている。それを着てファッションショーをしてやると、彼は大喜びだ。
「飛びかかりたくなる」
「噛みつきたくなる」
 いろいろな評価を下し、事実そうしてくる。
 譲一に組みしかれながら、夏帆はこのあいだできちゃった婚をした親友のことをちらっと考える。
「これからいろんな男の人と、いろんなことができるのに、二十三歳で一人に決めるなんてもったいないなあ……」
 そうした時、自分は譲一のことをそう愛している、というわけでもないのだと思い知らされるのであるが、まるっきり悲しくはない。
 この世の中には、ひとつのものに決められないほど、たくさんの素敵なものが溢れてる。本当にそう思うから。

     2

 夏帆はこのところいい感じが続いている。
 日々生きていると、あきらかにいい空気が流れている時とそうでない時とがあって、今は前者の方だ。透明だけれどもバラ色の気配が、ゆっくりと可愛い渦で夏帆をとり囲んでいるような気がする毎日。
 夏帆がこのあいだデザインしたワンピースが、ヒットの気配を見せているのだ。流行のノルディック柄をポケットだけに使い、タートルネックを長くうんとぐしゃぐしゃにさせた。素朴さに女らしさを足したかったのだ。
 パタンナーからは、
「この生地では、ネックのたるみがうまく出せない」
 とクレームがついたが、デザインを少し変えて何とか折り合った。九月はじめから新宿店ではいい動きを見せていたのだが、雑誌の『リンダ』のグラビアを飾ったことで人気が加速した。グラビアといっても、一ページをまるごと使ったメインの写真ではなく、六分割したひとつだ。けれども夏帆にとって、それはどれほど嬉しかっただろう。実家に雑誌を一冊送ったところ、あの口うるさい母親からメールがきた。
『とっても可愛い服ね。お父さんもとっても喜んでたけど、もっと綺麗なモデルさんならよかったのにね』
 母親は何もわかっていないと、夏帆はおかしくなってしまった。モデルは古沢りらちゃん。『リンダ』では二番手の人気専属モデルだ。口と鼻が大き過ぎて、いわゆる美人じゃないけれど、それをアイメイクでカバーしている。りらちゃんがプロデュースしているつけ睫毛は、このところ通販でもものすごい人気だ。もう少したてば、カリスマモデルの肩書きがつきそうなほどの女の子なのだが、両親にはまるっきり理解できていないようだ。しかしこういう喰い違いが夏帆には好ましい。へんにものわかりがよかったり、もともと同じ価値観を持つ親よりも、こうした健全な中年の感覚が子どもとしては嬉しいものだ。
 それはともかく夏帆のワンピースが載った『リンダ』十一月号は、綺麗に切り抜かれ、会社のファイルに入れられた。雑誌に載ってからしばらくは、直営店に毎日数本の問い合わせの電話があったという。
「ナッちゃん、やったじゃん。この分だと発注はもっといけるよ」
 営業の坂本さんが、久しぶりに食事に誘ってくれた。恵比寿の小さなイタリアンは、ワインがほとんどシシリア島のものだ。料理もおいしくて値段が安い。だからなかなか予約が取れないのだが、今夜はキャンセルが出たらしく、あっさりと奥の席に座れた。まずはグラスで注文したスプマンテで乾杯する。
「おつかれー」
「ありがとうございますー」
 グラスを合わせて、いっきに半分飲む。スプマンテの絹色の細かい細かい泡が喉をくすぐっていく。そして冷たい果実の後味がきた。
「わぁー、おいしい」
 夏帆はシャンパンが大好きだ。もちろんスプマンテだっていい。勤め始めるまで、自分がこれほどお酒が好きだとは気づかなかった。学生時代も飲むには飲んだけれど、酔うのが目的のようなビールや焼酎だ。お店もたいていが居酒屋だった。だけど今は違う。高いところではないけれど、イタリアンやフレンチ、そしてしゃれた和食屋さんへ行く。そしてゆっくりと食事をしながら、好みのお酒を飲む楽しさ。お酒の次に待っているものも、夏帆はどんどん好きになっている。男の人とベッドに行くことと、お酒はセットになっているらしいのだが、それは何て素敵な組み合わせなんだろう。
 酔っていくというのは、心と体を華やかにだらしなくしていくことだ。心の中で、何かがひとつずつすとんと落ちていくのがわかるが、それは少しも嫌な感じじゃない。とても幸福な喪失感がいっきに高まったところで、店を出たとたん暗がりでキスされたりする。手を上げる。タクシーが停まる。二人で乗り込む。手順はなめらかで、くすっと笑ってしまうぐらい。ベッドまで、ベルベットの川が流れていて、そこにすうっと運ばれていけばいいのだ。
 夏帆は、これから坂本さんのベッドに流れつく自分を思いうかべ、ふうーっとため息をつく。それはスプマンテの小さなげっぷを誤魔化すためでもあったけれど、
「ああ、なんか、とっても幸せ」
 甘えた口調になったのが自分でもわかる。まだ二十三歳なのに、うまくいってる大好きな仕事があり、おいしいスプマンテとしゃれた冷菜が目の前にある。そして恋人もいる。しかも二人も。
「この幸せって、ずっと続くかな」
 坂本さんに尋ねた。すると彼は困惑したように口をもごもごと動かす。
「続くよ、って言いたいけどさ、ま、いろいろあるわけよ、人生っていうやつはさ」
「そうだよね。坂本さん、バツイチだもんね」
「ま、そういうことだけどさ、続くかなーって、うっとりグラスを見てるナッちゃん、可愛いよ。ぞくぞくするよ。いいもん見せてもらいました、っていう感じ」
「だって、本当のことじゃん」
「いやいや、今日びの若いコで、私、幸せーって、うっとり本気で言うコってあんまりいないよ」
「そうかな」
「そうだよ。僕がさ、ナッちゃん好きなの、そういうとこなんだろうな」
 こういう風に誉められると、夏帆は自分がどんどんいい子になっていくのがわかる。仕事もできて性格もいいし、それにものすごく魅力もあるらしい。坂本さんが髪ごと抱き締めてくれるからだ。
 結局、幸福って、自分がすごく価値のある人間だって人から教えられることなんだと、夏帆は思う。恋なんてその最たるものだろう。
 坂本さんは私に恋をしてるんだろうか。それはちょっと違うような気もするが、二人でベッドまでのベルベットの川を渡るのは大好きに違いない。
 今はそれでいいんじゃないだろうか。深く考えたり、理屈をあれこれつけることは、幸福を半減させることだ。若いうちは直感だけを信じればいい。
 そう言ったのは、誰だったろうか。

 水曜日の午後、愛からメールがあった。
『チケットもらったんだけど、明日7:00PMから、お笑いのライブ観に行かない?』
 さっそく返事をうった。
『木曜だと、チーフのチェックやetcあって、7:00だとむずかしいかも』
『じゃ先に入る。チケット、受付に置いとくから来てみて。9:00までやってるよ』
 しかし運のいいことに、チーフの水谷あかねはその日、パーティーがあるとかで早く帰ってしまった。なんでも業界のいろんな人たちが集まる会らしい。
「水谷のオバさん、転職を狙ってるんじゃないかな」
 以前、坂本さんから聞いたことがある。水谷さんは四十二歳で、チーフとして入社する前は、自分でブランドを持っていたのだ。そこそこ人気もあったらしい。しかしこの何年かの不況で、売り上げが下がったうえに、スポンサーの会社が倒産してしまったのだ。大阪の通販の化粧品会社だという。
 それから五年の歳月がたつのだが、まだ自分のブランドを持っていたことを忘れられないのだと坂本さんは解説する。
「金を出してくれる金持ちが見つかれば、すぐにうちなんかやめるんじゃないかな」
 確かに水谷さんはセンスがいい。夏帆のデザインにあれこれアドバイスをしてくれたり、出来上がったパターンに、さっと手を加えるさまは、それこそ惚れ惚れするほどだ。「ママレード・ガール」が、人気ブランドのひとつとしてそれなりに認知されているのも、水谷さんのおかげということはみんなわかっている。水谷さんの下に、夏帆たち三人の若いデザイナーがいるが、
「ほとんど戦力になっていない」
 というのが、社内の評価であろう。それをいいことに、水谷さんはかなりの自由が許されている。忙しくない時は、勤務中によくふらりと外に出て、映画を観たり街を歩いたりしているらしい。いろいろなパーティーに顔を出すのもそのひとつだ。スタイリストや編集者、芸能人も顔を出すパーティーというものに、夏帆は行ったことがない。自分にはまだそういう資格がないとわかっている。招待状がない場所に、ツテを頼って無理やり入り込むなどということは考えたこともなかった。
 だからいつでも、愛には感心してしまう。学生時代からそうだった。代々木体育館での海外ブランドのコレクション、それから路面店のオープニングパーティー、有名歌手のコンサートの打ち上げなど、まるで魔法を使うようにするりと入り込んでしまうのだ。
「大丈夫。マネージャーさんに話しといたから。受付、すうーって通れるようにしてもらってるから」
 よく誘われたが、夏帆はいつもおじけづいてしまう。
「でもさ、関係ない人ダメって、つまみ出されたらどうするの」
「その時はその時じゃん」
 あっけらかんと愛は言う。
「ゴメンナサイ、って帰ってくればいいの。それにそんなこと絶対にないってば。どんなパーティーだってさ、私たちみたいな若くて可愛いコが多い方がいいんだからさ」
 本当は若くて可愛いコと、もう一人、と言いたいのかもしれない。愛はすごい。いつでも自信に満ち溢れている。ふつうだったら、嫌いになってもいいのだけれどもそうはならなかった。
 アイドル並みの可愛いコと、友情を結ぶのはとてもむずかしいものだ。ヘタをすると「取り巻き」の一人となるか、屈折しながらもつき合うことがやめられない暗いコとなってしまう。
 けれどもやはり、あの学園祭での共同作業がよかったのだ。最初はどうにも意見が合わず喧嘩ばかりしていた。アイデアを出し合い、徹夜を続けるうちに、最後はお互いに「やるじゃん」という気持ちになったのだ。
 この「やるじゃん」さえあれば、女の子同士、男と女にだってちゃんと友情は生まれると夏帆は思っている。ドラマを見たりすると、女の子たちはすぐどろどろの関係に陥ってしまうが、あれは暇な時に食べたり飲んだり、お喋りしたりするだけの絆だからだ。その点、一緒に何かを創り上げた自分たちは強い。一見ちゃらんぽらんに見える愛だけれど、コスチュームの色についていっさい妥協をしなかった。いろいろな生地屋さんを必死で探し、それでも気に入ったものがなく、最後は中井の染色屋に飛び込んで行ったのだ。あの時の愛の姿を憶えている限り、ずっと彼女のことを好きでいられると、夏帆は信じている。
 だから愛の突然の誘いに振りまわされても、このくらいはどうということもなかった。

 夏帆は七時少し前に、新宿の雑居ビルに着いた。ここの地下に小さな劇場があるのを知らなかった。二百席ほどの劇場は、八割ぐらいのお客で埋まっている。指定された席に行くと、愛がもう座っていて、どこかで買ったらしいドーナツを齧っていた。
「一個食べなよ。この劇場は飲食自由だからさ」
 ドーナツと一緒に、一枚の紙に印刷されたパンフレットもくれた。今日の出演者のところを指さす。
「ほら、見て、見て。TATSUYAも出るんだから」
 TATSUYAは、最近テレビでよく見かける、売り出し中のお笑い芸人である。カミナリ小僧のような髪をして、毒舌ネタをだみ声で喋る。
「へえー、結構売れてる人も出てるんだね」
「あのさ、実はこのチケット、TATSUYAからもらったんだ」
 先日若い女の子向けの雑誌で、他のお笑い芸人と一緒にTATSUYAもグラビアに出た。その時、スタイリストのアシスタントをしている愛もスタジオにいたのだ。
「『ガーネット』のジャケットが案外似合ってさ、本人もこれ欲しいナァ、とか言うからさ、買い取れるようにプレスの人に電話してあげたの。当然番号も教え合ったらさ、一度ライブ観に来てくれって誘われたワケ」
「それってアヤしくない」
「何が?」
「お笑い芸人って、ものすごく遊んでんでしょ」
「そんなさあ、芸能人の誘いなんか、いちいちのるワケないじゃん。パクッて食べられて終わりだよ。うちの師匠からも、そういうこときつく言われてる。アシスタント時代に、そういう噂たったらアウトだって」
 だけど、TATSUYAのライブは、一度観てみたかったのだと愛は言いわけする。
「バラエティだけじゃなくて、マジにライブやってるオレを見てよー、なんて電話で言うワケ」
 とはいうものの、直接芸能人から電話がかかってくることがやはり自慢なのだ。開演前のざわめきの中、ふたりはごく低い声で喋っているのであるが、「TATSUYA」という単語に隣の席の女の子がちらっと反応する。彼はとても人気があるのだ。拍手も一番多かった。しかし夏帆はどうしても面白いとは思えなかった。ネタの大部分が、下ネタがかっているか、内輪ネタなのだ。
 政治の話をしたと思うと、デニムの自分の股間を指さし、
「オレは左寄りだけど」
 とつぶやく。すると客はどっと沸くのであるが、夏帆はこんなことに絶対笑うまいと固く唇を閉じる。別に気取っているわけではないけれど、どんなことに笑うか、ということに人間の品位はかかっているのではないだろうか。子どもの頃、バラエティ番組に笑いころげていると、まだ生きていた祖母が時々大きな声で叱ったものだ。
「女の子は、こんなことで笑ってはダメ」
 そうだとも。男が人前で股間を指さし、それを見て笑いころげる女の子はいけない。大きな笑い声をたてる愛の横で、夏帆はパンフレットに集中する。次の芸人は「パセリ&クレソン」とある。初めて聞く名前だ。
 大きな拍手でTATSUYAが去り、やがて両脇のスクリーンに、アニメが映し出される。背の高い男と四角い顔の男がふたり、マイクの前でしばらく踊り、やがて英語のナレーションが、独特の抑揚で、「パセリ&クレソン」と叫んだ。
「やあ、どうもどうも」
「みなさん、こんばんは」
 ふたりの若者が上手から走るように登場した。背の高い若者はデニムにボーダーシャツ、四角い顔の方はチノパンツにパーカーといういでたちである。今まで新宿の雑踏を歩いていました、という格好が親近感を持たせるのだろう。いや、それよりも衣装など買う金がないに違いない。
「だけど寒くなりましたね」
「本当」
「お前さ、気づいたこと言ってもいい」
「あ、全然構わないよ。俺とお前の仲じゃないか」
「じゃ、言わせてもらいます」
 四角い顔の若者が、背の高い青年のシャツの襟をひっぱった。
「このシャツ、夏の舞台からずっと着てたんじゃね?」
「そんなことはない。色違い、色違い」
「いや、間違いない。紺に赤に黒」
「紺に赤に黒ね」
「そうだ、同じだろ」
「いや、もう一枚は紺に赤に黒」
「同じじゃないか!」
「同じじゃない。二枚でイチキュッパの双子なんじゃい!」
 夏帆は吹き出した。「双子なんじゃい」と言った時の青年の顔が、まるで悪戯をしていないと言い張る子どものようだったからだ。
「面白いー」
 彼らが去った後、大きな拍手をする夏帆に愛がアクビをわざとらしく出しながら言う。
「どこがァ。ナッチ変わってるう。このコたちなんかまるっきり売れてないよ」
 だから何なのよ、と夏帆は、久しぶりに親友にからみたくなった。

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