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それは経費で落とそう
吉村達也

   ま、いいじゃないですか一杯くらい

       1
(轢いた!)
 そう思ったとたん、岸部則雄の全身から力が抜けた。
 BMWのハンドルを握っていた手が膝の上にズルリと滑り落ち、支えるものがなくなった体が横に傾いてドアにぶつかった。
 それでも岸部は、呆けたように前方の一点を見つめたままだった。
 夢であってほしいと祈りたい気持ちだったが、ヘッドライトが冷酷な現実を照らし出していた。
 道路にあおむけに投げ出された背広姿の男は、薄目を開けて岸部を見ていた。
 まるで、いますぐにでも生き返って、怨みごとを言い出しそうな雰囲気である。
 しかし、男はぴくとも動かなかった。
 後頭部から路面に広がる黒っぽい染みは、たぶん血なのだろう。黒い後光のように男の周囲を取り巻き、ゆっくりとこちらへ流れてきた。
 車の時計は午前二時十二分を指している。
(おれは人を轢き殺してしまった)
 その事実が、なかなか自分で信じられなかった。
 頭が信じようとしないのかもしれない。
 もしもいま、正直に警察を呼んだら、彼の呼気から相当量のアルコールが検出されることは間違いない。
 酒酔い運転で人を轢き殺したとなると、もはや免許停止や罰金で済む問題ではない。
 法律的なことはよくわからないが、少なくとも昨日までとはまったく違う人生が待ち構えていることだけは確かだ。
 会社にはもう出られない。
 あさっての日曜日、妻と息子を連れてディズニーランドヘ行く約束も永遠に叶わないかもしれない。
 左ハンドルの運転席でボーッとその光景に目をやったまま何分が過ぎたかわからない。
 ふと岸部は、もうひとつの現実に気がついた。
 右側の助手席に、同僚の加瀬均が泥酔状態で眠りこけているのだ。

 岸部が三十一歳、加瀬は三十四歳。
 二人は神田にある中堅家電メーカーに勤めていた。
 加瀬のほうが三年先輩だが、肩書は二人とも主任だった。
 ところが、今夜をかぎりにその立場に変化が生じることになっていた。
 週初めに、岸部則雄に対し係長昇格の内示が出たからだ。前任者の病気退職にともなう措置だった。
 主任の地位にとどまる加瀬にとっては、後輩の岸部に出世の先を越され、しかもその彼の直属の部下になってしまうことを意味していた。
 そうした事情はともかく、週末の金曜日、会社が退けてから有志四人が集まって、岸部の係長昇格祝いをやってくれた。
 その帰りの事故だった。
 そもそもこのBMWは加瀬の車だった。
 彼は、ときどき会社に無届けで自慢の車で出勤した。
 たまたま家が成田市郊外の同じ町だったので、岸部も何度か便乗させてもらったことがあるが、自分でハンドルを握ったのは今夜が初めてだった。
 そういうときに限って……。

(昇格直前になんてことだ!)
 岸部は自分の不運を呪った。
(こんなことになったのも、こいつが酔い潰れるまで飲むからいけないんだ)
 最後の店を出て五分も走らないうちに、加瀬は酔っ払ってとても運転できないと、交替を申し出てきたのだ。
 岸部は、年上の同僚をじっと見つめた。
 水銀灯の明かりが、彼の寝顔を青白く染めている。
 ネクタイをゆるめ、口をだらしなく開けて寝息を立てている加瀬を見ていると、いいようのない怒りと悔しさがこみあげてきた。
(馬鹿野郎……なにもかも、おまえのせいだぞ)
 その時、彼はさらに重大なことに気がついた。
(この車が加瀬のものということは……)
 岸部は急いでダッシュボードを開けて、車検証のファイルを取り出した。
 そこには自賠責と任意の自動車保険証書がいっしょに挟まれていた。
(頼むから、運転者非限定の条件であってくれ)
 祈るようにして、二つ折りになった保険証書を開いて見た。
「ああ……」
 岸部の口からうめき声がもれた。
 証書には非情な文字が記されていた。
《運転者家族限定》
《加瀬均(本人) 加瀬邦子(妻)》
 つまり、岸部が運転して引き起こした事故に対しては、保険金は一銭も出ないということだ。
 もう一度、路上に横たわっている見たくないものに目をやった。
 若い男だ。
 背広を着こなしているところからみてサラリーマンだろう。
 たしかホフマン方式といったか、交通事故に遭って死亡した被害者が、もし生きていたとしたら生涯であとどれだけ収入を得られるかを推定し、そこから賠償金額を算出する方法があったはずだ。
 被害者が若ければ若いほど、その額は膨大なものになる。
 一介のサラリーマンにとっては、おそらく一生かけて償わなければならない金額になるだろう。
(おしまいだ)

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