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夢のなかの魚屋の地図
井上荒野

   読んでみて

 父は私を小説家にしたがっていた。小説(らしきもの)を書きはじめてからはともかく、まだ何をしたらいいか、自分には何ができるのか私自身がさっぱりわかっていなかった頃から、父はその願望(野望?)を抱いていたはずだ。それは私の天分とか資質とはまったく無関係に、たぶん私のためというより父自身のために彼がまったく身勝手に望んでいたことだった。私は運動神経がにぶく、理数系と文系で分ければ疑いなく文系だった──たぶん、娘のそれだけのプロフィールをよすがとして。
 記憶は、五、六歳の頃にさかのぼる。ときどきどこからか、私宛てに段ボール箱が送られてきた。あーちゃん(私のこと)、ご本が来たわよと母が呼ぶ。段ボール箱の中身は、子供向きの本だった。何冊くらいあったのか今となってはわからないのだが、「大きな」箱に「たくさん」入っていたという記憶がある。どうしてそういうことが起きるのか、当時は疑問にも思わなかったが、ようするに父が知り合いの編集者に「適当に見繕ってくれ」と頼んで送ってもらっていたのだった。子供に本は読ませたいが児童書のことは不案内で勉強する気もないので、選択は他人に任せてしまうというのはまったく父らしいところだった。
 それらの本を、私はどんどん読んだ。とくに気に入りの本(動物が活躍したり、おいしそうな食べものが出てきたり、架空の国を舞台にした本)は繰り返し読んで、感心し、真似して似たようなお話を書き、「大きくなったら本を書く人になる」と宣言もしたのだから、父を喜ばせたはずである。けれどもあるとき、ある女性編集者が、私への手土産として「少女漫画」をわが家へ持ち込んだ日をきっかけとして、私は読書家とはとうてい言えない少女として成長することになってしまった。
 いわゆる「大学デビュー」したあとは、本どころかろくすっぽ勉強もせずに遊びまわっていたから、父の心中はいかばかりであったろうか。彼にできたのは、母を通じて小言を言うこと、それが効果がないと発作的に怒鳴り散らすこと(その結果、私の遅咲きの反抗心を煽ること)、そうして「これ面白いからちょっと読んでみろ」と、私に一冊の本を差し出すことだった。
 たとえばトルーマン・カポーティの短編集『夜の樹』が、そういう本の一冊だった。父の死後、私のものとなったその本の奥付を今見てみると、一九七〇年の刊行となっているから、父から手渡されたのは大学時代よりももう少し前のことだったのかもしれない。「ミリアム」っていう一編だけでもいいから読んでみろ。父がそう言ったことを覚えている。それで、私は読んだ。その当時は、正直言って、どこが面白いのかあまりわからなかった。
「ミリアム」は、『夜の樹』の中程に収録されているごく短い物語である。夫に先立たれてひとり暮らしをしている六十一歳のミラー夫人が、ある夜、ひとりの少女と出会う。ミリアムはその少女の名前であり、偶然にも(と、夫人は思う)ミラー夫人のファーストネームでもある。
 年の頃十歳かそこらのミリアムは、上品な物腰ながら、有無を言わせぬ押しの強さで夫人の家に入り込み、傍若無人にふるまう。夫人はミリアムに怯えながら、一方で魅了されてもいる。
 街をうっとうしく覆いつくす雪空の描写や、通りすがりに会釈する謎の男の存在などを今読み解けば、これは老いや孤独を描いた物語なのだ。でも、十代の頃はわからなかった。あるいはおぼろにわかっても、老いや孤独のことが、今のようにはわかっていなかった。
 当時の父は、今の私と同じ年頃だ。面白い! と思ったのだろう。あるいは小説家として、うまい! と唸っただろうことも、今の私ならわかる。父は自分の口からは気恥ずかしくて伝えられない(また私も聞く耳を持たない)小説作法を、この本を通じて教えようと試みたのかもしれない。カポーティみたいな小説家を目指せ、と言いたかったのかもしれない(恐れ多いことだが)。そうして、私は父からの刷り込み(家族の前で、「俺の小説は世界中でドストエフスキーの次にうまい」と公言して憚らない)によって、小説を書きはじめる前でさえ、小説家としての父を信頼していたから、「ミリアム」にぴんと来なかったにしても、面白い小説とはこのようなものなのだ、と考えていた。小説というものへの最初のこのアプローチは、小説家としての私の土壌になっているから、父の目論見は成功した、と言えるのかもしれない。
 それにしても、もしも私に子供がいたら──と、私は考えてみる。父のようなやり方はいかがなものか、と。面白い本にもつまらない本にもまったく同じ条件でさらされ、そこから自分にとって面白いものを選んでいく、選ぶ物差しを自分の中に作り上げていく過程こそが、子供には必要なのではないか、と。どうも私には、その辺がスポイルされている自覚がある。それを「恵まれている」と考えることもできるのだろうけれど。
 その一方で、「読んでみろ」と言いたい気持ちには共感もする。子供を教育するためでなくても、面白い本を読むと、誰かに伝えずにはいられなくなるものだ。読書は旅に似ていて、それが面白い本であればあるほど、読んでいる最中は気持ちが日常から遊離している。食事や睡眠で読書を中断している間は、何かとても大切な約束があってどこかに人を待たせているような心地がするし、読み終えたときには、遠いところから帰ってきたように感じる。その興奮、いまだそわそわと落ち着かない気分を、誰かに話したくてたまらなくなる。
 そういう機会が訪れるたび、ああ父ともっと本のことを話せばよかったなあ、とつくづく思う。父の本のこと、自分が書いている小説のことも。父が生きていて、それが可能だった頃は、そんなことまっぴらだ、と思っていた。それは自分の、小説を書くことというよりは人生への自信のなさ、生きていくことへの覚束なさ故だったのだと今思う。
 ところで、誰かに本について話すことには難しさもあって、それはつまり、自分が面白いと思った本を、他人も面白がるとはかぎらない、という事実があるからだ。もちろんその本とともに読み手のレベルの問題はあるが、レベルが同等ならば、本の面白さは好みである。あるいは先の「ミリアム」のように、読者の年齢がかかわってくることもあるだろう。
 これすっごく面白かったから、読んでみて。ある友人が、酒席で熱く語った本があり、それならと読んでみたら、リチャーズという男が睾丸を片方撃ち抜かれて、以後リチャードと呼ばれるようになった、という件がその本の中で唯一、私が面白いと思った部分だった。それは笑い話になったが、編集者でもある彼への信頼が、それで揺らぐことはなかった。私が何よりも信頼するのは「これ読んでみて」というときの情熱のこもった表情なのだ。

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