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江戸前 通の歳時記
池波正太郎

   一章 江戸前とは

   深川の二店

 物の本に、
「江戸時代の深川は、イタリアのベニスに比較してもよいほどの水郷であった」
 などと、書かれている。
「ほんとうかね?」
 と、いう人もいるだろう。
 そういう人は、たとえば、広重の〔名所・江戸百景〕の中の、深川を描いた浮世絵をごらんになるといい。ちかごろは、さまざまなかたちで、こうした浮世絵が紹介され、たやすく手に入れることができる。
 広重の、すばらしい絵筆が表現した江戸の町、江戸の川、江戸の空は、
「嘘ではなかった……」
 のである。
 すくなくとも、太平洋戦争以前の深川を知っている人なら、たちどころに、
「うむ、そのとおり」
 と、うなずいてくれるにちがいない。
 江戸湾(東京湾)の汐の香り、新鮮な魚介、すっきりとした住民の気風、深川の町々を縦横にめぐる堀川と運河の水の匂い……そうしたものが、まだまだ残っていて、それを躰で感じ取ってきた者には、広重の絵が、
「たちどころにわかる……」
 はずなのである。
 深川の地は、往古、大川(隅田川)の河口に近い三角洲(デルタ)だった。
 はじめて、徳川家康が江戸へ入国したところ、江戸湾の水は赤坂や上野のあたりまで流れ入っており、いまの日比谷公園のあたりは海岸だったのである。
 徳川氏の江戸入国によって、城下町としての江戸は、未曽有の発展をとげることになる。
 深川の地を開拓したのは、摂津の国から江戸へ移住して来た深川八郎右衛門と、紀州出身の熊井理左衛門という人だったそうな。
 三角洲だった深川は何度も埋め立てられ、そのひろがりを増して行き、大小の船の運行を便利にするため、四通八達の堀川が設けられた。
〔木場〕とよばれて、江戸市中の材木商の大半が深川に集まったのも、船の輸送の便利があったからだ。
 いわゆる〔江戸前]の魚介は、深川のものである。
 隅田川の川水と、江戸湾の海水とがまじり合った特種の水質に育まれた魚や貝の味わいは、特別のものだったらしい。
 たとえば、同じ鮃にしても、千葉県の銚子の沖合で漁れたものと、江戸湾で漁れたものとは、まったく味わいがちがっていたらしい。
 私が書いた〔市松小僧の女〕という芝居の大詰は、深川の黒江町の小間物屋の場面だが、そこへ出て来る魚屋に、
「こいつは銚子比目魚だが、ばかにできやせん。ここの旦那が好きだから持って来ました」
 といわせているのも、このためなのだ。
 むかしは芝居の脚本と演出で暮していた私は、小説に転じたのちも、たまさかに芝居の仕事をする。そうしたときには、深川でも何処でも、自分の好きな場所をえらんで舞台の上に再現することができる。
 いま尚、私が芝居の世界からはなれられないのも、こうした、たのしみがあるからなのかも知れぬ。
 私が子供のころ、深川には親類が二軒あった。
 一は、深川の門前仲町に住む母の従妹で、このひとは木場の材木店の番頭に嫁いでいた。
 一は、深川の外れの、東京湾をのぞむ砂町(江戸時代の砂村)に住む母の伯父の家だった。
 この母の伯父は、砂町の葦の群れの中の一軒に住んでいて、たくさんの伝書鳩を飼っていたので、子供の私は、この家へ泊りがけで遊びに行くのがたのしみだった。
 夏の日射しに光る運河の水や、濃い草の匂いや、運河を行く蒸気船や漁師の舟を、いまも脳裡におもい浮かべることができる。
 そのころの、子供の私でさえも、
(ここが、東京なのか……?)
 と、浅草の我家から一時間半ほどで到着する砂町の景観を、夢でも見ているように感じ取っていたのである。

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