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へるん先生の汽車旅行
小泉八雲と不思議の国・日本
芦原 伸

序章 津波

   安政の南海大地震

 TSUNAMI(津波)──という今では世界共通語となった言葉を、最初に日本から発信したのはラフカディオ・ハーン(一八五〇─一九〇四)だった。明治三〇(一八九七)年のことである。
 ハーンの掌編「生神様」は幕末に起きた安政南海地震の大津波を題材にしている。
 安政南海地震は安政元(一八五四)年、旧暦一一月五日午後四時に起こった。その三二時間前には安政東海地震が発生している。震源地は異なるが、ほとんど同時だったといっていい。翌二年一〇月には安政江戸地震があり、日本列島はわずか二年の間に三度の巨大地震に襲われたことになる。
 安政南海地震はマグニチュード八・四、震源地は紀伊半島から四国沖の海溝、いわゆる南海トラフ沿いで起こった。震度六〜七で、被害は中部地方から九州に及び、死者は数千人と伝えられている。当時日本の人口は三〇〇〇万人ほどしかなく、行方不明者や倒壊建物の数など正式な記録はないが、被害の大きさは想像に難くない。
 ハーンが「生神様」の題材を得たのは和歌山県有田郡広川町の津波であった。当時は紀州藩広村だったが、震度六強、高さ八メートルの大津波で、村の三九九戸のうち一二五戸が流失し、三六人が犠牲になった。
 稲むらを焼き払い、危機を伝え、村人を救済した濱口梧陵にハーンは感動を受けた。
「生神様」のストーリーを踏まえれば、津波が来たのは地震の三〇分後のことで、すでに日は暮れかかっていた。濱口五兵衛(梧陵の仮名)は村の長者で、海を見下ろす高台に屋敷があり、村全体が見渡せた。そこにはいつもと変わらぬのどかな里の夕景が広がっていた。村人は宵祭りの準備に忙しく、誰もが地震に気がつかなかった。
 濱口は沖に異常な変化があることに気づいた。波が奇妙な動きをしていた。津波を予感した濱口は孫に松明をもってこさせ、自分の田に束になって置いてあった稲むらに火をつけた。稲むらは刈り取った稲を束ねたもので、貴重な年貢米だった。火などつけたら犯罪行為となり、その場で打ち首となるはずである。孫は祖父が突然気がふれたか、と思い、泣き出してしまう。村人は燃えさかる炎を見て、長者の家が燃えたのかと、驚いて次々に丘へ上がってきた。
 稲むらの火が津波の警鐘とは気づかず、火事だと思って駆けつけた村人たちは難を逃れた。濱口のわが身を顧みないとっさの判断が村人の命を救ったのだ。彼らは濱口の前へ進み出て、地面に手をつき、深々と頭をたれた。村人たちはその恩義を忘れず、村の再建がなったとき、「濱口大明神」として奉り、その高徳を崇めた。
 日本の神社に祭られる神は、古代の英雄や過去の歴史上の人物が多いが、現世に生きながら祭られる「生神様」の存在があるということを、ハーンは濱口を例にして物語った。
「生神様」の存在は、西洋にはない日本独特の神の概念であること。神道の中心となる宮や社は shrine とか temple と訳すよりも、死霊、生霊が集う ghost-house(霊のすむ家)といったほうが理解しやすい、とハーンは述べている。
 そこには西洋の教会寺院で見られるような、きらびやかな装飾や神々しい聖像などなく、ただ自然木で作られた素朴な建物(社)があり、なかには鏡や紙垂が置いてあるだけだ。その中を祖先や偉人たち、また生きた人間の霊たちが自由に行き来している。

   穏やかな有田みかんの里

 平成二三(二〇一一)年一一月二三日、私は和歌山県広川町へ向かっていた。
 最寄りの駅は紀勢本線(きのくに線)の湯浅駅で、大阪・天王寺から特急「くろしお」に乗り、一時間くらいのところであった。
 夕方近く高台にある宿に旅装を解き、窓から眺めると、みかん畑の向こうに海が夕日を浴びて銀色に輝いていた。紀伊水道である。湯浅湾は大海を前に「く」の字を描き、砂浜に松林が続き、その隅に小さな漁港を抱いている。銭湯絵のような白砂青松の海浜の風景である。
 眼下に紀勢本線の水色の通勤電車が、鉄道模型のように小さく見え、時折ガタゴトと空気を震わせて走ってゆく。屋根の低い平屋の家々は黒瓦を波打たせ、静かな夕暮れを待っている。遠浅の穏やかな海とセピア色の町並み、どこからか夕餉の家族団欒の声が聞こえてくるようだ。時代を一五〇年戻しても、二、三の雑居ビルをのぞけば、濱口梧
陵の見た風景とさほど変わりがないように思う。この夕まずめの静寂を津波は突然破った。
 翌朝、広川町へ向かう。宿で手配してくれたタクシーの運転手に濱口ゆかりの地を尋ねた。ややあって運転手は「銅像を見ますか」とポツリと言い、車を走らせた。駅方面に戻り、古い町並みを抜け、一級河川の広川を渡ると隣町の広川町、昔の広村だ。海岸通りに下ると、中学校があり、広々とした校庭の片隅に濱口梧陵の像が立っていた。
 運転手は広村堤防、耐久舎、濱口家代々の屋敷、墓など濱口ゆかりのポイントを私の手にもつ地図に落とし、「みんな歩いてゆけるところだから」と、私を校庭にひとり置き、車を返した。
 手袋を片手にもち、立襟シャツ、フロックコートに身を包んだ濱口梧陵の像は、ハーンの描いた“村の長”とはいささかイメージが違った。
 碑文を読むと、梧陵は現在、千葉県銚子に本社があるヤマサ醤油の七代目の当主だったのだ。広村は隣の湯浅とともに、熊野古道往来の要所として栄えたところで、醤油生産、漁業、みかん栽培が盛んな土地柄だった。
 鎌倉時代に紀伊由良の僧が中国の径山寺味噌の製造法をこの地に伝えた。その製造過程から偶然醤油が生まれた。その後紀州藩の保護を受け、江戸末期には醤油製造元が湯浅に三三軒、広村に七軒あったという。ヤマサ醤油の創業は正保二(一六四五)年で、そのなかでも老舗であった。
 たまたま梧陵が広村に帰郷していたとき、地震があり、大津波が発生した。ハーンの語る梧陵の功績は、稲むらを焼き、人々を安全な高台に誘導したことにある。だが、実際の梧陵の功績はそれだけではなかった。
 学校の裏手に木造、白壁の小さな建物がある。耐久舎と呼ばれる道場で、梧陵はそこで私塾を開設し、村の青年たちに武術や国学、漢学を教えた。ちなみに校庭に梧陵の像の立つ耐久中学校という一風変わった名は梧陵の精神を校名に残したものである。
 梧陵の築いた広村堤防は中学校の裏手から港へ六〇〇メートルほど続いている。松、櫨が植えられ、海岸沿いの遊歩道という雰囲気である。芝生の植えられた堤の道は、夏
の海水浴の頃には恰好のビーチサイドプロムナードとなるだろう。
 堤防の中ほどに感恩碑が立っていた。昭和南海地震の折、この堤防のおかげで、被害を免れた町民が梧陵に感謝して建てたものであった。
「百世の安堵を図れ」──。梧陵は一〇〇年後の村の将来を案じ、同じ災害が来ることを予想して、自ら堤防を築くことを決意した。築堤事業は同時に、田畑や漁船をなくした村人の失業対策でもあった。梧陵は故郷の美しい村が、津波で消滅することを恐れた。
 築堤工事は震災の翌年、安政二(一八五五)年二月に着手され、三年一〇カ月を要し、完成は安政五年一二月だった。職をなくした村人は老若男女、子供まで雇用され、完成までのべ五万七〇〇〇人が参加した。参加者には日当がその日に支給され、生活の糧となった。工費だけで金三五九〇両(現在の価値でおよそ五億円になる)、すべて梧陵が私費を投じて行った。これが歴史に残る広村堤防である。
 梧陵の予言通り、およそ一〇〇年後の昭和二一(一九四六)年、昭和南海地震が起こり、村は五メートルの津波に襲われたが、堤防が津波を防いだ。堤防周辺の集落は民家の一部が浸水した程度で事なきを得た。
 梧陵は醤油製造事業を受け継ぎながら、新時代の日本に夢を託し、勝海舟や福沢諭吉とも交流があった。明治四(一八七一)年に初代駅逓頭(郵政大臣。現在は国務大臣)に任命され、故郷に戻ってからは和歌山県議会初代議長の役目を果たした。しかし、待望の訪米旅行のさなか、ニューヨークで客死した。六四歳だった。

   濱口梧陵は老人ではなかった

 ハーンがこの「生神様」を書いたきっかけは、明治二九(一八九六)年六月に起こった明治三陸地震だった。
 明治三陸地震は釜石の東方沖二〇〇キロメートルが震源地で、マグニチュード八・二〜八・五、最大三八・二メートルの津波が三陸海岸に押し寄せ、死者約二万人と伝えられる。田老村(現・宮古市田老地区)では、村中の三四五軒が一軒残らず流失し、村の人口二二四八人のうちの約八割の一八六七人が犠牲になった。
 このとき、ハーンは神戸の英字新聞社に勤めており、各地から送られてくるニュースを見聞きし、かねて伝え聞いていた安政南海地震の濱口梧陵の逸話を思い出した。

「津波だ!」
 と人々は叫んだ。しかし人々の叫びも、音も、またその音を聴く力も、すべて百雷よりも重い、なんとも名状しがたい衝撃でもって打消された。盛りあがった巨大な波が、轟然たる力をふるって海岸にぶち当ったが、そのために岡という岡を震えが走ったように感ぜられた。そして稲妻が一瞬、雲全体を白く照し出すように、白いしぶきが幕状に立ちのぼった。その次の一瞬は、斜面を雲が湧くように昇ってくる荒れ狂った水沫以外は何ものも見えなかった。
(「生神様」『日本の心』平川祐弘訳)

 ハーンが描いてみせた津波の情景は、平成二三(二〇一一)年の東日本大震災でテレビやグラフ誌の報道で繰り返し見た風景とまるで変わらない。
 最初は潮が引くように海水が陸地から沖へと走ること。海藻のついた海底の岩が露出する。水平線に一条の影ができ、それが断崖のように聳え、凧が宙を飛ぶよりも速く岸へと押し寄せてくる。一度襲った波が去ると、ふたたび海は唸りながら引き返す。二度、三度、四度、襲来したかと思うと、また引き返す。村の住まいや神社のあたりが崩れ、深海から運ばれた海藻や砂礫が散らばる。村は跡形もなく、沖の海上では、藁ぶきの屋根が狂ったように揺れ続いている。
 津波の押し寄せる速さ、津波が頭上から叩きつぶすように落下し、人家を破壊するところなど迫真の描写だ。
 しかし、主人公の濱口梧陵に関しては、濱口五兵衛の仮名を使い、年老いた村の長者にしている。実際の濱口はこのとき、三四歳の逞しい青年だった。家は海辺に近い町なかにあり、梧陵自身も津波に流されたが、幸運にも陸地に漂着し、人々を高台に誘導する。道端の稲むらに火をつけたのは事実だが、自分の財産を燃やしたわけではない。夕闇のなかを漂流する村人たちに安全な場所を指し示すためだった。
 ハーンは和歌山まで取材に行かなかったから、おそらく新聞記事で知ったのだろう。あるいは聞き伝えの話をまとめたのかもしれない。しかし、それにしても、どうして濱口の実像を語らなかったのか。梧陵の功績は、村の再建のために築堤したこと、教育者であったことのほうが評価されるべきである。なぜ「全財産を焼き尽くして村人を守った」という美談だけに終始したのだろうか──。
 私は疑問を残したまま和歌山を後にした。

   ハーンは“ヘンな外人”だった

 私は今、ラフカディオ・ハーンの物語を書こうとしている。
 ハーンは明治二三(一八九〇)年、アメリカから来日後、島根県の尋常中学校の英語教師として松江に暮らし、出雲地方や日本全国に残る民話や伝説を収集して『怪談』という名作を世に残した。小泉セツと結婚し、日本に帰化し、小泉八雲と名乗った。
 ハーンとの出会いは私が高校生のときだった。もはや半世紀も前のことになるが、名古屋で過ごした高校時代、修学旅行で山陰地方を訪れ、松江城下のハーンの旧居(根岸邸)を見学した。根岸家の末裔というお婆さんが案内役で、“へるん先生”(ハーンは松江ではこう呼ばれた)の紹介をしてくれた。
 羽織袴を着て、神社にお参りに行き、そばや刺身を食べて「おいしい、おいしい!」と舌鼓を打ったこと。風呂に入るハーンの裸姿を一目見ようと、軒先に隠れて固唾をのむ少年たちのこと。当時、松江では外国人の尻にはしっぽがついている、という噂が流れていたらしい。
 ちょうど帰化した仏国のコメディアンが「ヘンな外人!」という言葉を流行させ、ブラウン管で人気のあった頃のことで、お婆さんの説明のオチ「ヘンな外人!」に皆が爆笑した。
「そうか、この男も考えてみれば、ヘンな外人だったのだ」──そう思うと、急にハーンに親しみが湧いた。
 アメリカからやってきた、というのも意外だった。それまでてっきり、ハーンはイギリス人だとばかり思っていた。高校時代、ハリウッド西部劇に夢中だった私は、ハーンがやってきたというシンシナティという町に興味をもった。スティーヴ・マックイーン主演の映画『シンシナティ・キッド』が公開されたばかりの頃だったのだ。あの中西部の埃っぽい、無法の街から粋がってやってきたのかと思うと、小泉八雲という古めかしい、明治時代の文豪としてのイメージがまったく変わってくるのだった。
 それ以後、松江を訪れるたびにハーンは気になる存在として私の心のなかで増幅していった。というのは、私の本籍地は京都府中郡峰山町(現・京都府京丹後市)で、日本海の片隅にあり、松江にも近かったのである。
 峰山には祖先の墓があり、子供の頃、父母に連れられ、盆や正月にたびたび訪れた。当時名古屋から急行「大社」があり、東海道本線、北陸本線、小浜線、宮津線経由で出雲市へと直通で走っていた。途中スイッチバックが三度あったり、風光明媚な日本海沿岸をひた走るユニークなディーゼル急行で、この列車のおかげで私は鉄道旅行が好きになったのかもしれない。墓参りをした後、翌日の同じ列車で松江まで足を延ばし、出雲大社に詣で、玉造温泉で精進を落とす、というのがわが家の恒例の行事となっていた。
 松江はこぢんまりとした美しい山陰の城下町で、古い民家や古刹が点在し、たびたび訪ねると、なじみの本屋や駄菓子屋ができ、懐かしい第二の故郷のように思えるのだった。出雲は神話時代の太古の歴史が息づくところで、日本という国が造られるなかで、歴史の闇に葬られた猛々しい古代の神々への興味は尽きない。
 小泉八雲旧宅を訪れるたびに、外国人であるはずのハーンが、なぜ日本の文化にそれほど固執したのか、なぜ日本に帰化したのか、という疑問が心の隅にずっと居座り続けた。
 ハーンとは一体いかなる男だったのか? ハーンが過ごした日本の明治時代とは? その激動の時代から私たちが、今学ぶこととはなにか──。
 明治という時代と明治人の気風を、ハーンの足跡を辿りながら、タイムトリップできないものだろうか?
 ──それがこの物語を書く動機だった。
 ハーンはアメリカで新聞記者として働き、シンシナティ、ニューオーリンズ、西インド諸島と旅を続けてきた。まるで人生が旅のような男である。
 私もハーンと同じように長らく旅を続け、これまで駄文を積み上げてきた。この際、初心に帰り、ハーンの残した紀行文から学ぶべきものを検証したくもあった。もはやハーンの生涯よりも私は長生きしているが、好きな鉄道(この時代、移動手段は鉄道しかなかった)に乗り、ハーンを追いかけることができたら、これ以上の冥途への“土産”はないだろう。
 ハーンを追う私の旅は、平成二二(二〇一〇)年春、折しもハーン生誕一六〇年、来日一二○年の節目の年からはじまった。

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