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『青鞜』の冒険
女が集まって雑誌をつくるということ
森 まゆみ

  第一章 五人の若い女が集まって雑誌をつくること

 雑誌の創刊号を見るのが好きだ。
 いま、手元に『青鞜』創刊号の復刻版がある。
 表紙は黄色地、右から黒字に白ぬき文字で「青鞜」。その間に昂然と横顔をうえに向けたギリシアかエジプトふうの女性の立像が描かれている。髪は長く、左手を肩に、右手には何か布のようなものを持っている。ちょっと黒絵の壷の模様のようだ。これを描いたのは長沼智恵という二十五歳の女性であった。のちの高村光太郎夫人、精神を病んで五十二歳で亡くなったひと。夫によって『智恵子抄』にうたわれたひと。
 A5判、本文は百三十四ページで終わっていて、そのあとに奥付があり、広告が十五ページついている。
 明治四十四年(一九一一)九月一日発行。毎月一回一日発行というから月刊誌だ。
 雑誌の裏を見ると、直前の八月二十八日に第三種郵便物認可。隷書体のような優雅な字で裏表紙(出版界の用語でいえば表四)に記されている。裏表紙は白地で広告が載っていない。
 けっこう厚いので背が立っている。しかしそこに雑誌名も発行所名も何もないのはその当時の慣習か、いやはじめて雑誌をつくって、入れるのを忘れたのかも。
 表紙をめくると、シンプルな本扉があって、それをまためくると、右一ページに目次、ではなく「青鞜第一巻第一号内容」とある。この生硬さがたまらない。
『青鞜』というと、ふつう平塚らいてうが主宰して編集・発行したことになっている。彼女の名前は高校の日本史検定教科書のほとんどに載っている。明治以降、これほどまでに教科書で知られている女性は、『たけくらべ』や『にごりえ』を書いた小説家樋口一葉と、日露戦争時に反戦詩「君死にたまふことなかれ」を書いた歌人与謝野晶子くらいのものだ。平塚は文学者ではなく評論家、思想家として扱われている。
 しかし奥付を見ると、編集発行人として中野初という名がある。編集発行人は当時、筆禍事件があって発禁になった場合、事情によっては下獄すべき人である。なぜ主宰者とされる平塚は編集発行人を引き受けなかったのだろうか。
 発行所青鞜社は「東京本郷区駒込林町九番地」。ここは社員の一人物集和の父、物集高見の邸。東京帝国大学教授ののち、広文庫というのを主宰していた。平塚の家はここからほど近い小石川区曙町にあったが、編集所を自宅には置いていない。
 電話は下谷三七七六。明治四十四年の時点で、個人宅ではあるが物集邸にはすでに電話があった。
 林町、現住所では文京区千駄木五丁目三番地十一。団子坂上の数百坪の土地、旧物集邸はのちに日本電電公社駒込電話局になったが、民営化でNTTとなり、NTT都市開発が分譲マンションを建てて売り飛ばしてしまった。国民の財産だった公社の土地を利益に変えたのである。
 私は以前からここに“「青鞜社」発祥の地”の史跡板があることを知っていたが、昭和五十九年(一九八四)に文京区千駄木三丁目一番地一号団子坂マンションで地域雑誌『谷中・根津・千駄木』(以下、『谷根千』)を始めてから、とくに意識するようになった。私たちもささやかな自主メディアを、『青鞜』に遅れること七十三年、三人の女の仲間で創刊したからである。
 そして平成二年(一九九〇)『谷根千』第二十五号で『青鞜』を特集したとき、その同時代人であったアナキストの望月百合子さんらと旧物集邸の現場に立った。望月さんは明治三十三年(一九〇〇)生まれで、十一歳のとき『青鞜』を読んだという。「『青鞜』は日本初の女性による女性のための女性の雑誌なのですから、ここには『青鞜』記念館を建てたいものですね」といわれた。
 そのとき、女性解放運動家として数々の役職についた平塚らいてうでなく、二十五歳の若い女性平塚明の姿が路上にふっと現れたような気がした。『青鞜』発刊は、『谷根千』と同じく無謀な話であり、それは冒険といってよかった。
 印刷所は神田区美土代町二丁目一番地三秀舎、印刷人は嶋連太郎。明治三十三年、福井の造り酒屋の三男嶋連太郎が起こしたこの印刷会社は、いまも健在である。美土代町というのは神田の、現在YMCAのあるあたりで、当時、印刷は神田の地場産業だった。出版社、書店も神田に蝟集していた。いまなお三省堂、東京堂そのほかの書店、岩波書店、小学館、集英社をはじめとする大手から中小零細の出版社が存在する。しかし印刷会社のほうは地価の上昇、工場の機械音その他の理由で都心から駆逐されている。紙くずの多く出る印刷会社では、火事が多かったのも理由のひとつだと聞いた。三秀舎も工場は埼玉県越谷に移っている。
 発売所は神田区表神保町三番地東京堂。いまも現地でご盛業である。電話は本局の一二四と三二八の二本が引いてある。
 奥付の上に、*毎月一回一日発行、*定価一冊金二十五銭。郵税一銭五厘とある。
 明治四十四年の物価をいまと比べるのは、物によって違うのでなんともいえないが、お米は約四千倍、すると一冊千円くらいということになる。読者の財布にとってそう安いともいえない。
 前金で購読料をもらう、いわゆる予約購読は雑誌発行の安定のために大切なことだ。四カ月分、六カ月分、八カ月分、十カ月分、一年分、という払い方があり、一年で三円。つまり値引きはない。郵送読者はこれに加えて郵送料を払わねばならない。
 広告料は一ページ十五円、半ページ八円。これは四千倍とすれば一ページ六万円ということになるが、創刊号が千部とすると部数に比しては高いような気がする。現在、商業雑誌の部数はそのまま広告料にはねかえる。これを「媒体価値」と称し、それゆえ公称部数はかなり水増しされるのが常である。
 振替口座は東京一一六〇。切手で購読料を送るときは一銭切手に限る。ただし一割増。つまり三円の年間購読料を払う際は、三円三十銭、一銭切手三百三十枚を送らなくてはならないことになる。

   平塚らいてうはわが同郷人

 ここで言い出しっぺの平塚らいてうという人の来し方を見ておこう。『元始、女性は太陽であった』という自伝(じっさいは小林登美枝氏の聞き書きなど二人三脚で成立。以下、自伝)を残し、井手文子『平塚らいてう──近代と神秘』などの評伝も書かれている。
 私が『青鞜』のことを知ったのはわすれもしない、小学校五年生のころ。NHKで『風雪』という番組があった。当時、家では夜八時には寝かされていたし、テレビは一日一時間しか見てはいけない決まりだったが、この番組だけは勉強になるから、と木曜日の夜九時四十分からの『風雪』は見ていいことになった。ドラマ仕立てで明治維新以降の歴史を検証するという内容で、「新しい女」の回は資料によると昭和四十年(一九六五)六月十日に放映された。森田草平と心中未遂事件を起こし、スキャンダルになって社会から葬られそうになるも屈せず、二十五歳で雑誌『青鞜』を創刊した女性の勇気ある行動にすっかり心を動かされてしまった。
 そして本郷の誠之小学校郷土史クラブにはいっていた私は、この平塚らいてうという人の名を、一人地下倉庫で見ていた卒業生資料の中に見つけたのである。胸が高鳴った。中学生になって瀬戸内晴美『美は乱調にあり』を読んで、さらに興味を持った。高校のとき自伝『元始、女性は太陽であった』が出て、それもむさぼるように読んだ。らいてうはまさに、私と同じ町の空気を吸った人なのであった。明治の東京の空気の方が澄んではるかにさわやかではあったろうけれど。以下、きわめて精細なこの自伝を引用しながら「明治のインテリお嬢様」の暮らしを知り、本郷、小石川あたりの地誌を読み解いてみよう。

 平塚らいてうは明治十九年(一八八六)二月十日、旧紀州藩士の家柄で会計検査院に勤める平塚定二郎と、御三卿のひとつ田安家御典医飯島芳庵の娘光沢のあいだに三女(長女は夭折)として生まれた。本名明、あるいは明子(以下、『青鞜』創刊以前は明を用いる)という。父方の平塚家は関ヶ原の合戦に遡る名家だそうだが、明治四年、祖父為忠の代で廃藩置県後に紀州から一家を挙げて上京している。定二郎は苦学して外国語学校(現東京外国語大学、当時一ツ橋にあった)にまなび、学校は中退するもドイツ語の力が買われて農商務省、外務省勤務をへて会計検査院に移った。
 母方の飯島家はそもそも本郷丸山新町(自伝の「丸山町」は誤り)にあったらしい。「白山上から一高前に出る道路の右側」というのは、まさに私のいま住んでいる旧中山道沿いの白山一丁目辺である。飯島芳庵はその黒い門の大きな家で、おそらく典医をやめて自宅で漢方医となっていただろう。二十二歳の定二郎の将来性に惚れ込み、十七歳の光沢を嫁がせた。江戸の町娘、光沢は踊りや常磐津や三味線を仕込まれていたが、結婚後そのような遊芸は地方出身の官吏の家にあって許されず、紀州なまりの抜けない姑の八重に仕えることになった。
 定二郎は会計検査院法制定の調査のため、明が生まれてまもなく一年半洋行し、ミシンや人形、オルゴール、洋服を持ち帰るようなハイカラな人であった。商法制定にかかわったお雇い外国人ロエスレルの通訳、翻訳をつとめ、憲法草案起草のさいも金子堅太郎や伊藤博文を助けてよく働いた。明の最初の記憶は明治二十二年(一八八九)二月十一日、父が精魂傾けた憲法発布の日のお祭り騒ぎである。一方、父はよき家庭人でもあり、みずから編み物もした。結婚後、妻光沢を中六番町にあった桜井女塾(のちの女子学院)に通わせたりした。明は祖母に連れられて、母に牛乳つきのお弁当を届けるのが日課だった。ここでは嫁姑の関係はよかったようである。庶民的で陽気な祖母八重は、明が「幼児もっとも親しんだ人」「かなり影響を受けた人」で、祖母にせがんで千鳥ヶ淵の鴨の群れを見にいったという。かつて民俗学者の宮田登先生に「おばあさん子は霊
感がつよい」と聞いたことがあるが、どうだろうか。
 生まれたころの平塚家は麹町区三番町十番地にあり、明は富士見幼稚園、富士見小学校に上がった。欧化主義全盛の時代で、山の手風の家には洋間にランプが下がり、ストーブが燃え、母は洋服を着て居間で刺繍をしていた。姉孝は「陽気で健康、気短かで、感情的で、声が良い」ひとだった。明はそれと逆に「引っ込み思案でおとなしく、だんまり屋」だったという。人力車をつらね、家族四人でよく遊びにいったのは「上野の動物園、浅草の花屋敷、小石川の植物園、団子坂の菊人形」、三つ目までは、みごとに七十年後、文京区駒込動坂町に生まれた私と重なっている。団子坂の菊人形は明治の末に廃れてしまった。とにかく当時としてはハイカラな、おだやかで幸せな家族であったろう。
 麹町の家の周辺に寄席や下宿屋、芸者屋などができ、周囲の環境が悪くなったため、明治二十七年、明が八つのとき、郊外の「辺鄙な」本郷区駒込曙町十三番地に越した。小石川区との境である。父定二郎が駒込追分町にある第一高等学校でドイツ語を教えることになったためもあるが、母方の飯島家にも近かったからではないだろうか。曙町にはほかに、森鴎外の妹の小金井喜美子・良精(人類学者)夫妻、箕作元八(歴史学者)、桜井錠二(化学者)、大町桂月、谷崎潤一郎、寺田寅彦などが住んだ。

   富士見小学校から誠之小学校ヘ

「そのころの駒込曙町あたりは、見渡すかぎりの茶畑でした。その茶の木を抜いて六百坪の土地の一隅に、三番町の家を解体して持ってきて建てました」
 その家は旧大名屋敷の土井邸あとに建てられ、洋室もついていた。しかし表庭は純日本式の築山や流れのある庭で、裏庭には柿、桃、梅など食べられる実のなる木を植え、父のための矢場(楊弓場)があり、野菜畑と茶畑があって自家用のお茶を採った。
 これは明治二年(一八六九)に東京府知事大木喬任が出した桑茶政策という、いま思えばふしぎな政策による。明治維新によって、「勝てば官軍」の侍たちがたくさん江戸に入ってきて、藩閥政府の官僚として成り上がっていった。平塚家の出た紀州徳川家は御三家であるにもかかわらず、幕末には存在感がない。藩主徳川茂承は将軍職を固辞して一橋慶喜を推し、鳥羽伏見の戦いにも行かず、幕府側の負けと決まってから幕軍の敗残兵を城下から閉め出して新政府に恭順を誓う、といったみっともない動きをした。
 江戸は東京となり、幕府が給付した大名屋敷、旗本屋敷は荒れ果てていた。江戸では土地の七割が武家地であったから、その有効活用のため、大木喬任は、放置せず、そこに茶や桑を植えて授産せよと命令を出したのである。
「まだこんな田舎でしたから、裏の畑には雉が来て餌をあさったり、山鳩その他、野鳥がたくさん飛んで来ますし、夏の夜は不思議な思いを誘う鳴声の木の葉ずくが、姿は見えないがすぐ近くで鳴きますし、大きながま蛙が、あっちからもこっちからも、のそりのそりと出てきます」
 明治二十年代の東京はこんなにも自然が豊かであった。それは樋口一葉の日記や小説にも登場する。明治五年生まれの一葉はこの同じ明治二十七年の五月、下谷竜泉寺での小間物屋の商売にほとほと疲れて本郷丸山福山町四番地に転居、『やみ夜』『大つごもり』『たけくらべ』『にごりえ』と書き継いでゆく。いわゆる奇跡の十四カ月が始まり、二十九年十一月二十三日にこの家で満二十四歳の生を閉じることになる。らいてうのいた曙町の高台の山の手住宅から一葉の亡くなった小石川の谷底の鰻屋の離れまでは、歩いて二十分ほどである。
「我は女なり」と女であることを嘆きつつ忍耐強く生きた一葉のあとに、およそ女性であることのしがらみを断ち切って奔放に生きたらいてうが、この町で生き継ぐ。らいてうはのちに『青鞜』に載せた文では一葉を「古い日本の女」と切り捨ててはいるが、雪の塩原心中事件の相手、森田草平が一葉と同じ丸山福山町四番地の家に住んだ奇縁もあってか、昭和二十七年(一九五二)、一葉旧居あとに碑を建てる際にはすすんで揮毫をつとめている。この碑は白山通り沿いのコナカビルの入口に今も建っている。

 平塚家から見渡すかぎりの茶畑のなかに見える古めかしい黒い門の隣家には、誰が住んでいたのだろうか。
「この門の家が安井哲子先生の生家であり、安井先生がわたくしとおなじ誠之小学校卒業の先輩であることを知ったのは、何年も後のことでした」(自伝)
 安井てつは明治三年に、駒込曙町に広い邸を持つ下総古河藩主土井邸内で生まれている。父親は安井津守といって土井家の槍術指南役であった。誠之小学校はもと福山藩(阿部家)江戸藩邸にあった藩校誠之館を前身とする。明治八年開校で、東京でも長い歴史を持つ小学校だ。安井てつはおそらく二回生であろう。
 その後、安井は東京女子師範(後の女子高等師範、現お茶の水女子大学)を出て、母校の訓導をしていた頃、二つ年下の樋口一葉に和歌や『源氏物語』を習いに行った。私立青海学校高等科四級までしか修めていない一葉の実力を認めて、当時としては最高の教育を受けていた安井がこだわりもなく古典を習っていたというのが興味深い。一葉は安井を「常に口重に世辞など数々なき人」とその誠実で不言実行の姿を日記に写している。安井が岩手から送られて来たりんごをおすそ分けに持って来たこともあった。
 安井は一葉の死の翌年、明治三十年にイギリスに留学、オックスフォード、ケンブリッジで教育学を学び、帰国後、海老名弾正によって受洗。女子高等師範の教授、またタイ王室の女教師、バンコクのラーチニー女学院校長をへて、大正七年(一九一八)には東京女子大学の創立に関わり、新渡戸稲造のあとをついで二代目学長となった。戦時中、学生の赤化が目立ち、投獄される学生があっても安井は彼女たちを排除せず、監獄まで差し入れにいったという。
 平塚らいてうの自伝は歯に衣着せず言いたい放題で、ときに他人のプライバシーをここまで暴露してよいものか、と首を傾げるところもある。八十五歳まで長生きした晩年の彼女によって語られる人々はすでに物故者が多く、「死人に口無し」のたとえ通り、反論はできなかった。ほとんどの人物評において上から目線で辛口な評が目立つなかで、安井に対しては尊敬がにじみ出ている感じである。
 この曙町の家から、父定二郎は休日になると鉄砲を持って出かけ、王子、赤羽あたりで雉や山鳩を捕って来た。都心で官庁に勤めながら、休日には東京郊外で日帰り猟を楽しむことができたのが明治の東京であった。母は庭の畑で穫れすぎたいちごをジャムにした。
 明は引越しで富士見小学校から誠之小学校に転校している。富士見が「中産階級の進歩的な雰囲気」であったのに対し、誠之は「庶民的な感じで、質素で、旧式で、どこか乱暴なところ」があった。運動会は飛鳥山で行われ、遠足は滝野川か道灌山、尾久の渡しぐらい。これはまだバスや電車が通う前の、文字通り「遠足」なのであった。
 さて曙町と道を隔てて反対側の小石川原町には大名華族の酒井家があって、令息が誠之に通っていた関係か、誠之の児童は酒井家の庭で定期的に開かれる幻灯会に招かれた。金玉均(李朝末期の政治家)の独立運動、東学党の乱(一八九四年に朝鮮南部で起こった農民反乱)、馬車で乗り込む駐韓大使大鳥圭介(幕臣で箱館まで行った)の画面などを覚えているという。明は活動写真というものをここで初めて見た。酒井家が学習院に通わせず、公立小学校に通わせたところは進歩的といえるが、若様は絹物ずくめのやわらかい着物で、遠くない学校まで人力で通っていた。
 誠之小学校でも明はたいてい総代(最優秀)を通したが、声は大きくなく、唱歌は不得意だった。
 この町にはお祭りがいくつもあった。
「すぐ近くの駒込の富士前町の『おふじさん』と呼んだ富士神社、小石川の白山坂(正しくは薬師坂──筆者注)の中ほどにある白山神社、根津西須賀町(須賀町が正しい──筆者注)の根津神社のお祭りが夏から秋にかけて、つぎつぎにあり、またその間にも、団子坂上の『大観音さま』の四万六千日がありますから、子どもたちの楽しみに事は欠きませんでした」
 これも七十年後の私の子ども時代とまったく同じである。
 富士神社のお祭りは富士山の山開き、浅草の富士(浅間)神社の草市(植木市)と同じ六月の終わりで、厄よけの麦わら蛇と麦こがしが有名だ。
「麦こがしは、木版刷りで藍色に大きく富士山を刷り出した、丈夫な和紙の袋に入っていて、こよりを通して袋をぶら下げて持てるようになっていました。今思っても、新麦の香りとともに懐かしいものです」
 七月には入谷の朝顔市と浅草のほおずき市、八月の終わりには日暮里諏方神社のお祭り、九月になって風がすこし涼しくなると、根津と白山の二つのお祭りが同日に行われる。駒込大観音こと光源寺は私の檀那寺であるが、戦前は人々が蝟集したというほおずき市は大観音が戦災で焼けるにおよび、長らく途絶えていた。先代、島田俊匡住職のとき、発願して観音像を再建、いまでは七月九、十の二日間、ほおずき千成市が地域の人々の協力で再開されるようになった。
「曙町へんは根津神社の氏子ですから、土井邸の門前にも花をつけた提灯がともされていましたけれど、なにぶんにも神社のあるところが遠いので、わたくしたちは、近くのおふじさんや、大観音さまのような親しみは感じていませんでした」
 根津七カ町はもちろん、駒込と頭につく町はたいてい根津神社の氏子でその域は広大である。駒込曙町、駒込千駄木町、駒込千駄木林町、駒込千駄木坂下町、駒込蓬莱町……子どもの頃、私には「駒込」の発音が難しく、「こまもげ」などと発音していたのを思い出す。

   お茶の水の女学校

 平成二年(一九九〇)、『谷根千』での『青鞜』特集のとき、平塚らいてうの旧居、駒込曙町十三番地を探しに自転車を走らせてみたが、見渡すかぎり茶畑の明治時代とは異なり、すでに住宅が建て込んでいた。十人に聞いてみたが、誰も平塚らいてうという人のことも、この辺に住んでいたことも知らなかった。ようやく旧住所で尋ねあてた現在の本駒込二─十五─十八は東鉄工業という会社の駐車場となっていた。総務部次長の中村通孝さんは言った。
「ちょっと前までうちの会社の寮で、一部増築して二十人くらい寮生が住んでいました。もともとは和風の平屋で天井や柱も実にいい造りでした。庭に面した座敷には雪見障子なんかはまっててね。庭も広くて、築山に池が二つ、灯籠なんかもあったが、もう荒れて草ぼうぼうになっていました。塀はレンガの上にモルタルを塗った高いもので、そこに門かぶりの松がうわっていて、門柱も立派で、門には潜り戸もついていました。なにぶん古すぎて瓦屋根も傷んでましたから、防災上も危ないということで壊したんですよ」
 それが旧平塚家であったかもしれない(孫の奥村直史氏は、曙町の家は空襲で全焼したと書いている)。

 誠之小学校を卒業した平塚明は、父の考えで東京女子高等師範附属高等女学校に進学。誠之では小学校だけでやめる子どもが大半で、お茶の水(女高師附属)に行ったのは明一人、あと一人が小石川竹早町にあった府立高女(現竹早高校)に入った。
 はるか昔、哲学者の古在由重先生(一九〇一年生まれ)に「中学へ入ったのは僕一人ですよ」と聞いて驚いたことがあるが、明治の進学率はその程度であったらしい。女子でいうと、この二つの他には華族女学校、虎ノ門女学校、跡見女学校、明治女学校、横浜のフェリス女学校くらいだった。女学校より上は、女高師(現お茶の水女子大学)と、唯一共学の上野の音楽学校しかなかった。
 明は銘仙やガス双子の着物にカシミヤの紫色の袴をはいて通う。袴は海老茶色が多く、そこから女学生のことを海老茶式部と呼んだ。髪型は、下級生はお下げ、上級生は桃割れや唐人髷、束髪などである。明はふくらませない束髪で頭の上にリボンをつけた。明治三十六年になると、小杉天外がこの女学生風俗を『魔風恋風』に描き、挿絵の魅力もあって一世を風靡することになる。
 いまのお茶の水女子大学と附属の学校は大塚台にあるが、当時はまさにお茶の水橋のたもと、現在の東京医科歯科大学のあたりにあった。明治三十一年ではまだ市電は通る前で、明は曙町の家から学校まで歩くよりなかった。華族や金持ちの娘たちは人力車で通ったというが。
「一つは本郷の通りをゆくコースで、吉祥寺、目赤不動の前を通って、ヤッチャ場を通りぬけ、蓬莱町、追分、そして、一高の前をすぎて、帝大の正門、それから赤門を見ながら本郷三丁目へ出る道順と、もう一つは、小石川原町から白山へ出て一高の前に出る道筋、この道をゆくと、白山付近に住んでいる、目賀田さんによく出逢いました」
 つまり本郷通り(旧岩槻街道)か、白山通りの旧道(旧中山道)を行くかである。
 目賀田さんとは目賀田種太郎(自伝では種次郎となっているが誤り)の娘であろうか。種太郎は旧幕臣だが、維新後、ハーバード大学を出て官僚、政治家、法学者、弁護士、裁判官、国際連盟大使をつとめた。専修大学や東京音楽学校の創立に関わったことでも知られる。妻逸子は勝海舟の娘。
「原町の通りに、哲学館──現在の東洋大学──の校門と並んで、小さな、書籍文房具店があって、そこでよく文房具類を買ったものでしたが、この店は高嶋米峰(仏教学者、東洋大学学長──筆者注)が姉のために出してやった店とかで、鶏声堂といいました」
 まさにこのあたりを里俗鶏声ヶ窪とよんだ。明は、麹町三番町時代は竹橋の近衛連隊のラッパで目が覚め、曙町の家では岩崎別邸(今の六義園)の鳥の声で目が覚めたとも言っている。
 袴を低くはき、日和下駄の明は、とちゅうで帝大生を追い抜くことに得意になった。「早く歩くこと、それ自体を楽しんでいたのでした」。

 しかしお茶の水の雰囲気は、明にはとうてい馴染めないものであった。
「お茶の水の生徒は、上、中流の家庭の子女がほとんどで、わたくしの組にも何人かの大名華族のほかに、明治新政府に勲功のあった新華族──いわゆる軍閥、官僚、政商というような人たちの娘が大勢いました。学者や教育家として有名ではあるが、地味な家庭の娘も何人かはおり、そしてわたくしは、そのなかの官僚の下っぱで、質素な役人の娘でした」
 このことについて付記する。らいてうの父平塚定二郎を「高級官僚」とする本も多い。しかし彼は海外派遣も経験し、会計検査院次長まで務めた官僚ではあるが、判任官(ノンキャリア)で高級官僚とはいえない。八等出仕以上の下級官吏であって、そのために会計検査院長にはなれずに終わった。彼の卒業した東京外国語学校は語学のプロを育てる専門学校で、高級官僚(奏任官)になるには東京大学卒業の学歴が必要であった。「官僚の下っぱで、質素な役人の娘」というのは明の正確な認識だと思う。
 私も区立の名門校、進学校とは言われながら、地域の普通の家庭の子どもが多かった誠之小学校から、「お茶の水」の附属中学に試験を受けて入ったとき、同じ戸惑いを感じた。大学教授、大企業のオーナー、重役などの子女がいて、下町の長屋育ちの私にはまるで馴染めぬ雰囲気だった。
「学校全体の雰囲気には、貴族的な、また官僚主義的な匂いがあり、友達同士の言葉づかいも、『あそばせ』言葉がふつうで、『わたし』や『あたし』ではなく、『わたくし』といわなければいけないのでした」
 七十年後だとかなり薄められてはいたが、「あたし」「あたしら」といって笑われたのは同じ、「わたくしたち、でしょう」とたしなめられた。「ぶっちぎれる」「ひっつかむ」「けっとばす」などと下町風な言動をするたびに、みながあきれるのがわかった。英語の先生は校門のところで膝を曲げ、顔をかしげて「ごきげんよう」と挨拶をなさった。その意味が最初はわからなかった。私はいま正確な敬語を使うことができるが、なるべく使いたくないのは、この時代の「かったるくてやってらんない」というトラウマのせいである。
 明が、この女高師的な国粋主義、良妻賢母主義、官僚臭、偽善、事大主義、スノッブ、家柄門地主義をきらったのには共感できる。「わたくし」という表現は生涯のものとなったにしても。
 担任の矢作哲について「この先生からうけた授業は、世にもあじけない、心と心のふれ合いのないものでした」「生命の迸りというもののない、型どおりの授業を、五年間もうけたことは、つくづく不幸なことでした」と断言している。
 また同級の徳川、南部、池田といった大名華族の娘たちについて「この華族のおひいさまたちは、お供がついて俥で通学する以外には、ほかの生徒と、べつに変わったところはなく、身なりも言葉づかいもまったくおなじでしたが、そろって運動嫌いらしく、休み時間なども、運動場の樹かげに立って、みんなの遊ぶのを眺めていることが多かったように思います。成績もとくに優秀とはみえませんでした」と手厳しい。
「わたくしたち外から入ったグループには、中産階級の学者、教育家、下級官吏など、質素な家庭の娘が少なくないのでした。それに対して、前からいる上流の家庭の娘たちは、なんとなく排他的な態度でお高くとまり、自分たちだけで仲よくつき合っているように見えました」
 これも高校のときに読んで共感したくだりである。幼稚園、小学校と恵まれた教育を受けてきたいわゆる“お茶漬け”の彼らは、小学生のころから英語を習ったり、YWCAで泳いだりしていた。彼らのグループに入らない方が身のためで、中学から入った子はそれ同士で別のグループを形成した。私は小学校からのグループに乱入しようとして相当のいじめにあった。たとえば修学旅行に行く際、あなたは夏みかんを人数分持って来てね、といわれたりしたのである。

   結婚はおんなの不幸の始まり

 明治のころ、家柄がよく、気だてと容貌がよければ女学校の卒業を待たず、縁談が決まった。女学校には嫁探しに適齢期の男の母や仲人が授業参観に来たという。そのため折からの国粋主義ブームもあって、日本髪を結い、帯を締めて妙にお洒落をしはじめた同級生たちがいた。決まらないのを「卒業顔」といった。容貌に恵まれず一生、教師でもしていこうという人のことを「師範顔」といったそうだ。これは前出の望月百合子さんから聞いた話である。らいてうはいう。
「少女時代は因習的な結婚に反発し、つくられた女らしさに反抗して、わざと身なりを構わず、いつも真黒な顔をしていました」
 明は華奢な体を持ち、色黒で額が黒光りすることから「羅漢さん」というニックネームがあった。広東語の「臘乾」がハムを指すことから、名前の明ちゃんとかけて「ハムちゃん」とも呼ばれた。
 私たちのころ、昭和四十年代は大学進学率は三〇パーセント未満だったが、この学校ではすでに大学進学があたりまえのこととされていた。それでも鳩山邦夫氏がエミリーさんと婚約した時の同級生の悔しそうな顔を覚えている。「なんでタレントと結婚するのかしら」と彼女は言った。そうして大学を出ると早々に名家の令息と結婚した。
「そのころ、ダンスの会やカルタの会などが、一部の上、中流社会で行なわれていました。このお洒落組の娘たちのなかには、そういうところへ出入りし、それを話題にする人もいましたが、わたくしたちは、そんな場所へは行こうとも思わず、心で軽蔑していました」
 昭和三十年代、皇太子が軽井沢のテニスコートで正田美智子嬢を見初め、民間から皇太子妃が出た。その影響か、私たちの世代までその余韻が残って、テニスと軽井沢はセレブの記号だった。皇太子一家は夏に軽井沢に出かけ、冬にはスキーを楽しんだ。信州に「山小屋」(決して別荘とは言わなかった)を持ってテニスやスキーに興ずる級友もいたが、私は決して軽井沢には行きたくなかったし、テニスとスキーはブルジョワ的だと思って敬遠した。

「お茶の水の形式的な押しつけ教育のなかで、息が詰りそうになっていた」明たちは、歴史の時間に聞いた倭寇の奔放、雄大な精神に感激して友人の小林郁、市原次恵、上原喜勢、永田そのと五人で「海賊組」をつくる。「結婚などしないで、なにかをやっていこう」というのが五人の考え方であった。東京市議会議長で、強引な政治手法から「おしとおる」とさえいわれた星亨が暗殺されると「強い自信と行動力への、子どもらしい賛美」から、修身の時間をボイコットして星の墓へお詣りにいったという。
「平気な顔で黙って教室の外へ出て行ったり、ときにはそのまま家へ帰ってしまったりしました」
 私たちもつまらない授業、いい大学に何人入れるかに燃えている教師に反発して、音羽の講談社の真向かいにあった喫茶店ライオンを根城とし、そこで柴田翔『されどわれらが日々──』を読んだり、椿山荘で黙阿弥まがいの歌舞伎の台本をつくったり、オスカー・ワイルドやビアズレーの耽美趣味にはまったりした。これを「ライオンズクラブ」とよんだ。これとて都市のプチブルジョワの「コップの中の嵐」にはすぎなかったけれど。

 もう一人、おなじく誠之小学校からお茶の水へすすんだ人がいる。
 中条百合子、のちの宮本百合子である。彼女は明治三十二年(一八九九)生まれ、平塚らいてうよりは十三年後輩だ。生まれたのはらいてうの育った駒込曙町と道を隔てた小石川原町で、父は明治最大の規模を誇る建築事務所の経営者、中条精一郎。母は体制的な思想家西村茂樹の娘で華族女学校を首席で出たという葭江である。中条家は元米沢藩士で、祖父政恒は福島の行政官として安積疎水の開墾をおこなった。福島時代に須賀川医学校を卒業した後藤新平の面倒を見ている。そのためのちに百合子が湯浅芳子とともに革命十周年のソビエトに行くとき、外務大臣だった後藤は旅券発行の融通をはかっている。なんという人間のつながりの面白さか。
 百合子は女学校時代、さらに確信的不登校であったようだ。授業がつまらないとさっさと帰ってしまう百合子の姿を級友たちは覚えている。そして丸善、図書館、帝劇などへ積極的に行くのだが、大正時代には完成していたそのような都市文化装置は、明治のらいてうのころはまだなかった。

 らいてう、百合子、そして私も通った誠之小学校の校歌は「之を誠におおし立つ、教えの庭の若草は」にはじまる悠長な文語体だった。これは前身である福山藩江戸藩校に「誠、これ人の道なり」という『中庸』の言葉を引いて校名にしたことに由来する。校名の名付け親は水戸徳川斉昭。
 お茶の水の校歌はこれにもまして悠長で「みがかずば玉も鏡も何かせむ 学びの道もかくこそありけれ」というのを二度繰り返すのであった。よく勉強して国家の役に立つ人間になってください、という意だろうか。これは明治八年、皇后が開校にさいして下賜した日本初の校歌なのだという。明治三十五年十月にも皇后は「行啓」しており、このときまさに平塚明は在校生だった。「薄藤色のドレスの裾を長く床にひいて、わたくしたちの前に、微動だにせず立っていられるお姿が、永久に動かないもののような感じで、異様な印象でもありました」と書きとめている。
 この歌に由来して、校章は八角の古い鏡の形をしていた。クラス名はその名も蘭、菊、梅。「もうひとつ増えたら竹組でしょうな。四君子ですから」と漢文の男性教師が言ったのを思い出す。
 明治二十年代に入ると鹿鳴館の欧化主義の反動で社会が復古主義に染まり、国粋化がすすんだ。明の家でも洋間が畳敷きになり、母は洋装から着物で丸髷を結うようになった。父は明治国家のイデオロギーに時代時代に忠実であった。
 明は駒込曙町からお茶の水高女までの道をすたすた歩きつづけた。女高師は、女性が自立して教師となること、国家のために働く人材となることを目的としていたから、その校風は知らず知らず附属に学んだものにインプットされているかもしれない。羽目をはずしたくとも逸脱しきれず、潔癖な倫理観を内在させていたことは、のちの塩原事件や性に関しておくてであったところにもみられる。
「雪の日などは、この湯島の裏門から入らず、わざわざ正門のほうへまわりました」
「そのころのお茶の水は谷が深く、こんもりと茂った両岸の森が雪をかぶり、その底を静かに流れる清流は、町中にあるものとは思えません。まるで深山幽谷の感じでした。始業時間を気にしながらも、橋の上に立って、一応気がすむまで眺めたところで、橋の向かいの学校の正門へと急いだものです」
 雪の日の通学路の楽しさ。私も中学・高校のころ、長靴を履いて動坂下から神明町車庫へ、富士見坂を上がって富士前町から東洋文庫、理化学研究所、駕籠町、猫又坂、大塚三丁目と歩きつづけた雪の日を忘れることはない。昭和四十年代の東京にも深山幽谷のようなところはあった。たとえば学校の近くでいえば護国寺、とくに豊島ヶ丘御陵、江戸川橋から神田川沿いに芭蕉庵や水神社、東京カテドラル聖マリア大聖堂、六義園や古河庭園、小石川植物園、湯立坂、椿山荘、その辺を徘徊した。恵まれていたと思う。
 明は家に頼まれて買物をするときもあった。本郷六丁目の青木堂では、「洋酒、葉巻煙草をはじめ、来客用や子どものおやつとして、ビスケット、デセール、ワップル(ワッフル)、ウエファース、コンビネーション、テーブルチョコレートなどを注文するのですが、ここは注文だけすれば配達してくれました」。
 赤門前の瓜生薬局、三丁目の小間物屋兼安。糸の越後屋、菓子屋の岡埜、藤村、龍岡町の猿飴。そのいくつかはいまもある。しかし買物が嫌いな明は、たいていは姉の後ろにただ黙って立っているだけだった。
 女学校の四年か五年の夏、明は富士山に憧れ(一九五五年の最初の自伝『わたくしの歩いた道』では「帰依者」と表現している。以下『道』と略す)、富士山に関するあらゆる地図や作品をあつめ、富士登山を企てた。が、父に「女こどもの行くところじゃない」とはねつけられている。このあたりから父への反抗と距離ができてきた。
 お茶の水女学校を卒業した同級生のうち、女高師へ三人、女高師附属保母養成所ヘ一人、女子英学塾(いまの津田塾大学)へ一人、上野の音楽学校へ二人、それしか上の学校へはすすまなかった。

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