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別れの挨拶
丸谷才一

     英国人はなぜ皇太子を小説に書かないか

 渡辺淳一さんの『失楽園』はすごい売行だが、それでも結局は瀬戸内寂聴さん訳の『源氏物語』にかなはないだらうといふ噂を聞いた。何しろこちらは上下二巻なのに対し向うは全十巻で、合計すればずつと上をゆきさうだといふのである。さすがに大古典は大したものだと感心してもいいが、別の視点から見ることもできる。それは、やはり帝の皇子の色事となると窓際族的編集者の姦通なんかとは段違ひに人気を呼ぶものだなあと考へることである。たしかE・M・フォースターの台詞だけれど、「小説の読者は自分より下の階級の登場人物には関心を持たない」といふのがあつて、これはなかなかいいところを衝いてますね。読者が自分の代りである作中人物にいい思ひをさせるため小説を読むといふ局面は、たしかに存在する。それを否定するのはよほど偽善的な人でせう。それゆゑ帝の皇子が臣籍に降下して太政大臣となり、准太上天皇となり、数多くの恋をするとなれば、これは読者を満足させるのに充分なのだ。
 ところで『源氏物語』についてはかういふ思ひ出がある。何年か前、イギリスの詩人スウェイトさんと閑談数刻に及んだとき、わたしはこんなことを述べた。
 あの長篇小説は言ふまでもなく、帝の皇子の恋の連続だけれど、何しろ現今の日本ではあやにしきかしこき筋は謹直のほまれ高く、あるいはすくなくともさう聞えてゐるため、そのあふりで、あの大小説の切実な趣が普通の読者には身にしみて感じられない傾きがある。何となく絵空事みたいな話になる。書かれたすぐのころは、いや、もつとずつと後年まで、写実的な風俗小説であつたものが、今はむしろお伽話みたいに読まれてゐる気配さへなしとしない。その点イギリスの読者があれを読めば、いちいち現実性があつて、よくわかるにちがひない。古くはアーサー・ウェイリー訳、近くはサイデンステッカー訳の『源氏物語』があんなに好評なのも、一つにはかういふ事情のせいではないでせうか、と。詩人は大笑ひしただけで何も言はなかつたけれど、わたしはこの説にかなり自信があるのですね。世襲的君主制下にあつて、貴族支配の階級社会で、しかも王室のゴシップないしスキャンダルがしきりに噂される国といふのは、あの長篇小説が読まれる最適の条件を備へてゐるのである。
 サイデンステッカー訳の『源氏物語』は、日本文学にしては珍しく上質の書評がいろいろ出た本で、たとへばV・S・プリチェット(イギリスの小説家で短篇小説と書評の名手)は「ニュー・ヨーカー」で、光源氏は「父親ごつこ」が好きな男だといふところに力点をかけて、彼の女性関係をいささか強引に、しかしなかなか鋭く論じてゐた。たしかに紫の上に対しても、女三の宮に対しても、さういふことは言へるかもしれませんね。何しろ相手の多い皇子だから、そんなに簡単に割切れない場合もいろいろあるのだけれど。そしてC・P・スノー(小説家で科学者。『二つの文化と科学革命』といふ評論で有名)は、「ガーディアン」でウェイリー訳とサイデンステッカー訳の異同を呆れるくらゐ精細に論じながらこの「世界文学最初の偉大な散文作品」の魅惑について説き、それから最後に挿絵(江戸初期の『絵入源氏』)の女たちが肥りすぎなのが感心しないと嘆いてゐた。彼らはイギリスの王室のことなど一言も口に出してゐないが、しかし主人公の「父親ごつこ」とか貴女たちの肥満とかを言ふ背後には、光源氏と代々のプリンス・オヴ・ウェイルズたちを並べる読み方をしてゐることが透けて見えるやうな気がする。そんな柄の悪い読み方をするなと言つたつて、とても無理だつたらう。そのへんの事情は、小説読みの名人だつて、ごく普通の読者だつて、あまり変りはないのですね。
 ところで、こんなふうに前置きめいた説明をした上で思ひ切つて言ふのですが、わたしは現代イギリス小説について何としてもわからないことが一つある。戦後のイギリス小説はかなり読んで来たつもりですが、この一点がどうも納得がゆかない。不可解である。それは、あれだけ評判になる王室を持つてゐるのに、どうしてイギリスの作家たちは王室のことを小説に仕組まうとしないのかしらといふことです。
 わたしはいろんな人に問合せてみたのですが、書いた小説家はゐないらしい。ピーター・ラヴゼイの『殿下と騎手』といふ、後にエドワード七世になる方が探偵役として活躍するミステリはあるけれど、普通の小説にはない。だから例外はともかく原則としてはどうもないらしいと言つて置きませう。をかしいなあ。本当になぜだらう。
 もちろんこれが実際的な面でいろいろ差障りがあるといふのなら理解できますよ。それなら仕方がない。しかし彼らがまつたく自由であることは、イギリスの大衆新聞、およびノン・フィクションの書きぶりによって立證されてゐる。ましてフィクションといふ条件が加はれば鬼に金棒で、ずいぶんおもしろいところまで書けるはずだ。しかもわが『源氏』といふ優秀な先輩があつて参考になる。これこそ現代の作家にとつての好個の題材ではないか。それなのにどうして筆を慎んでゐられるのか。わたしは不思議でたまらないのですね。
 もちろんこんなことを書く以上、一応の答案めいたものがないわけぢやない。それはあとで申上げますが、その前にすこしイギリス王室についての噂を紹介したい。あの人たちも大変だなあ、といふ気持で紹介するのです。まあ閑談にすぎないけれど、しかしわたしの論旨にとつての伏線といふ狙ひが多少はある。

 これはみな毎日新聞の黒岩徹さんから教はつた話。
 スコットランド名物のキルトといふ男のはく格子縞のスカートがある。あれはパンツなしではくのが正式だ。スコットランドの連隊ではキルトが制服だが、ときどき反抗心から、パンツをつけてキルトをはく不心得な兵隊がゐる(日本の高校生でも制服への反抗といふのはよくありますね。あれと同じである)。そこで将校は、隊員を整列させたとき、四センチ四方の金属の鏡がさきについてゐるステッキを用ゐ、その鏡を隊員の足もとに置いて、反映させて調べ、パンツをはいてゐないことを確めるくらゐである。先年チャールズ皇太子がキルトをはいてスコットランドの山に登つたとき、突風が吹いてキルトがめくれ、パンツが見えた。そこで新聞は、
「彼は真のスコットランド人とは言ひがたい」
 と非難した。
 もう一つ。
 十九世紀の末、スコットランドのブラック連隊がヴィクトリア女王の前でスコットランド・ダンスを踊つた。もちろん下着はつけてゐない。兵隊たちは常にも増して景気よく足をあげ、ふんだんにお目にかけた。女王もはじめのうちはおもしろがつて見てゐたらしいが、やがてうんざりして、
「もういい。今後はパンツをはくやうに」
 とおつしやつた。それゆゑブラック連隊はキルトの下にパンツをはく決りになつたのである、と。
 どうです、おもしろいでせう。しかし同時に馬鹿ばかしいでせう。わたしも書いてゐてさう思ふ。
 だが、ここで大事なのは、イギリスの王族といふのはもともとこの種の馬鹿ばかしさに堪へなければならないやうに出来てゐる職業だといふことである。それは一方では民主化だの近代化だのの真只中で、他方では各地の土俗の猥雑さとぢかに触れながら、君臨しなければならない。彼らは侍従たちによつて防衛されたり保護されたりすることのないスターである。何しろごく大筋では台本があるけれど、細部ではまつたく演出がない状況で、古代的なものを演じて見せなければならない。これは厄介ですよ。王族のさういふ辛い生き方が、このキルトにまつはる挿話にはじつによく示されてゐるやうな気がします。

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