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辻番奮闘記 危急
上田秀人

 第一章 江戸の夜

     一

 ようやく訪れた泰平を謳歌していた江戸の庶民たちに衝撃が走った。
「老中松平伊豆守信綱に賊徒討伐を命じる」
 寛永十四年(一六三七)十一月十五日、三代将軍家光が寵臣に軍配を手渡した。
「ただの一揆ではなかったのか」
「すでに板倉内膳正さまが出向かれたはず。それほど日時は経っていないのに、ご老中さまが……戦況が思わしくないのか」
 江戸に不安が拡がった。
 戦国最後の合戦大坂夏の陣から二十二年、徳川に逆らう大名はなく、江戸は天下人の城下町として発展を続けていた。
 戦がなくなれば、人は未来を見つめる。戦いで奪われた財産、命が保障されるからだ。
 金を蓄えても大丈夫だ、子を産んでも育てられる。
 安心は人々を動かし、日々豊かに世のなかを変えていく。
 そこに九州島原松倉長門守勝家の領地でキリシタンによる一揆が起こったとの報が届いた。
「九州ってどのあたりだ。箱根より向こうだろう」
「大名の謀叛じゃなくて、一揆ならばどうということもなかろう。鍬や鎌では勝負にもなるまい」
 当初、誰もが一揆を軽く考えていた。
「書院番頭の板倉内膳正さまが総大将として進発された。もう、一揆は鎮圧されたも同然だ」
 九州という遠方での一揆は、あっという間に江戸の庶民たちの頭から消えた。それだけ生活の立て直しに皆忙しかった。
 そこに青天の霹靂であった。
「ご老中さまが出るなど……」
「九州はもう切支丹(キリシタン)の手に落ちたのか」
 それだけ老中の出撃という事象は大きかった。
「また、奪い奪われる日々が帰ってくる」
 乱世の再来を怖れた庶民たちによって江戸は不穏な状況へと落ちた。
 日が落ちてからも人通りのあった通りも、日暮れ前から人気がなくなり、商家は明るい内に店じまいをし、固く表戸を閉ざした。
 江戸の夜は暗い。油は高く、一夜明かりを灯し続けられるのは、かなり裕福な大名、豪商くらいで、普通の町屋では日が暮れるとさっさと寝てしまい、灯油を使うことなどない。
 灯燈などという贅沢なものは少なく、月明かり、星明かりだけが江戸を照らす。
 そこへ九州の一揆である。
 天下人徳川の城下町として膨張を続ける江戸には、毎日仕事を求めて人が流入してきている。そのなかには西国の者もいる。
 故郷で一揆が始まった。江戸にいてはなにもできない。どころか、様子を知ることさえできない。だけに不安は募る。
 九州から遠く離れた江戸も一揆の影響を強く受けていた。
「遅くなっちまった」
 提灯を片手に持った町人が、小舟町を小走りで急いでいた。
「話しこみ過ぎたか。まあ、おかげで商いにはなった」
 町人は満足そうに呟いた。
「待て、そこな町人」
 五間(約九メートル)ほど先の辻の闇から制止の声がした。
「…………」
 町人が提灯を突きだして、闇を照らそうとした。
「懐が厚そうじゃな。置いていけ」
 闇からぬっと白刃が突き出た。
「ひっ、強盗」
 月明かりを反射した白刃のきらめきに町人が怖じ気づいた。
「命までは取らぬ。金だけでいい」
「ご、ご勘弁を。この金は明日の仕入れの……」
「……かああ」
 いきなり闇から飛び出した牢人が町人に斬りかかった。
「ひくっ」
 牢人の殺気に腰が抜けた町人は、避けることさえできず斬り伏せられた。
「金か命かと訊いたであろうが。両方は持ち帰れぬ。さっさと金を差し出せば、殺しはせぬものを。生きていれば金は稼げるというに……愚かな」
 死んだ町人を牢人は冷たく見下ろした。
「思ったより重いな。これでしばらくは生きられる。ここ最近、江戸が静かで出歩く者も減ったおかげで、獲物にありつけなかったからな」
 牢人が町人の懐から財布を取りあげた。

「嫌な夜だぜ」
 吉原で遊んだ帰り、男が首をすくめた。
「人が少なすぎらあ。妓も泣いてたぜ。九州で一揆が始まってから客足が落ちたってな。そのお陰でもてたがな」
 身体に残った脂粉の香りを嗅ぎながら男が頬を緩めた。
「明日も行ってやるかあ。いや、ちいと日にちを空けねえと腎虚になるな。あの歓待振りじゃ……」
 独りごちた男が崩れ落ちた。
「手応えのない。町人相手ではこのていどか。九州で戦が起こったという。戦に加わるために試し斬りをしてみたが……人とはあっけないものよ。一振りで死ぬ。これならば、仕官できるほどの手柄が立てられよう」

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