書籍試し読み
詳しくはBOOK NAVIへ
君と1回目の恋
大島里美

     フール・トゥ・クライ

 ナツと初めて会ったのは、俊太郎が二十九歳の時だった。
 一九九五年。スピッツが『ロビンソン』を歌い、ミスチルが『シーソーゲーム』を歌い、ドリカムが『LOVE LOVE LOVE』『サンキュ.』を歌い、東京の街には安室奈美恵のファッションを真似した“アムラー”なる、命に関わる事故につながりそうな厚底のブーツを履いた女の子たちが現れ始め、携帯電話を持っている人はまだ少数で、連絡ツールはポケットベルの方が主流だった。
 最初は数字しか送れず「0840」(おはよう)「8181」(バイバイ)「49106」(至急TEL)なんて暗号めいたやりとりしかできなかったポケベルも、この頃には、カタカナのメッセージが送れるように進化していた。
 電話からポケベルの番号にかけ、「ア」と送りたければ「11」、「イ」は「12」とボタンを押す。「1112411285」で、ポケベルの小さな液晶画面には「アイタイヨ」。駅の公衆電話にはいつも人差し指を動かして数字のボタンを押す女子高生の姿があった。
 そんな時代だ。

 その年の六月。下北沢のレコードショップ『イズミレコード』で、俊太郎が中古レコードの買取り査定をしていると、ポケベルが鳴った。「ちょっとすみません」とお客に頭を下げ、メッセージを見ると、
『ホンジツ ロッポンギ ジュウクジイリ チコクコロス』
 俊太郎の師匠、ギタリストの成田からだ。最近、ポケベルに文字を送ることを覚え、たいした用事もないくせに頻繁に鳴らしてくる。
『ナンカメシカッテキテ コロス』
『タバコカッテキテ コロス』
 師匠がこの新しい遊びに飽きてくれるまでの我慢、と耐えてきたが、ライブ終わりに成田を車で自宅に送り届け、高円寺のアパートでようやく眠りについた午前二時過ぎにポケベルが鳴り、何事かと飛び起きると、
『オヤスミ コロス』
 その時ばかりはさすがに、もうこの人の弟子は辞めてやろうか、と思った。
「あの」と客に言われ、「すみません」と、慌てて仕事に戻る。
 中古レコードの買取りが終わると、接客をしつつ新譜・旧譜の発注、ポップ書きに通販の梱包、発送……小さい店ながら、一人でまわすとなるとけっこう忙しい。
 俊太郎がこの店でアルバイトを始めて、もう十年近くになる。
 岡山県の七窓という瀬戸内海の田舎町で育ち、高校卒業後、一年間地元でアルバイトをしてお金を貯め、十九歳で上京した。家賃三万二千円、築四十七年の高円寺のオンボロアパートに荷物を運び終えると、こらえきれずにすぐに街に繰り出した。
 東京の中古レコード屋は、田舎で育ったロック少年にとっては、どの店も宝箱そのもので、高円寺から新宿、原宿、渋谷、下北沢……次の日も、その次の日も飽きずに朝から晩まで夢中ではしごして、気づいた時には上京資金はほとんどレコードに変わっていた。
 やばい。さすがに仕事を探さないと、と焦り始めた頃、イズミレコードでアルバイト募集の掲示を見つけ、その場で問い合わせると社長は笑って、「君どうせ毎日来るんだから、ついでに働いていきなよ」と、採用してくれたのだ。
 それから十年近く。社長の泉には、「俊ちゃん、いい加減、社員になって店長やってくれない?」と、ことあるごとに言われ、「お気持ちはありがたいんですけど……」と感謝しつつも断ってきた。「海外に買い付け行く時、一緒に連れてくからさ」という言葉には心が揺れたが、それでも断った。
 アルバイトではなく社員になってしまったら、本当にそのまま「レコード屋の店長」になってしまう気がして。

 ギタリストになりたい。
 小さい頃から引っ込み思案で人前に立つのが苦手だった俊太郎が、そんな夢を抱いたのは、一枚のレコードがきっかけだった。
 小学四年生の時、生まれてはじめて、恋をした。相手は隣のクラスの岡田志織ちゃん。サラサラの長い髪が綺麗で、家は裕福で、いつも花柄のワンピースを着ている子だった。放課後の校庭、野球部の練習で外野を守っていると、吹奏楽部でマーチングバンドの練習をしている志織ちゃんと目が合った。慌てて目をそらし、もう一度見ると、銀色のフルートを吹きながら、彼女も俊太郎の方を見てくる。……これはもしかして。もう一度見ると、やっぱり目が合った。
 それからというもの、ご飯を食べていても、お風呂でも、トイレでも、寝る前のベッドでも、フルートを吹く彼女の姿が浮かんでしまう。下駄箱で、廊下で、昼休みの音楽室で友達にピアノを聴かせる志織ちゃんの姿を見かけるたびに胸がどっどっどっと脈打って、このままだと心臓が爆発して死んじゃうかもしれない、なんてことを本気で心配した。
 そんな時に、クラスの吹奏楽部の女子から志織ちゃんの家の噂を聞いた。彼女の家の応接間には立派なオーディオセットがあって、クラシックのレコードを聴かせてくれた、とっても素敵な音色だった、と。
 それからしばらく経ったある日曜日、俊太郎は、家族に「野球の練習に行ってくる」と告げて、朝早くに家を出た。
 穏やかな瀬戸内の海を朝日が徐々に照らしていくなか、ひたすら自転車のペダルを漕いだ。まだ夏の手前だったけれど、アカシアやレンゲの花が咲く山道の登り坂を立ち漕ぎで上っていくと、Tシャツにびっしょりと汗をかいた。
 途中で道に迷い、二時間近くかかって岡山駅に着いた。駅の案内所で尋ねて、紙に書いてもらった地図を頼りに行ったり来たりしてようやく、一軒のレコード屋を見つけることができた。
 何度か店の前をうろうろした後、勇気をふるい起こして店に入ると、店主のヒゲ面のおじさんがチラッと俊太郎を見た。とたんに帰りたくなったけれど、こんなところまで来て、引き返すわけにはいかない、と足を踏ん張った。だって、音楽が好きなあの子の誕生日に、レコードをプレゼントしてあげるって決めたんだ。
 おじさんの方を見ないようにして、棚に並んだレコードを注意深く、一枚ずつ見ていく。と、可愛らしいケーキの絵柄に手が止まった。そのジャケットには、レコードの絵の上に、同じサイズの丸いケーキの絵が描かれている。ケーキはピンクや緑のクリームや赤いチェリーで飾られ、見るからに女の子が喜びそうだ。音楽のことはさっぱりわからないけれど、こんな可愛いジャケットに入ったレコードには、きっと彼女にぴったりの可愛い音楽が入っているはず。それに、誕生日のプレゼントにもぴったりだ。
 レジに持って行き「これくださいっ」とうわずった声を出すと、ヒゲ面のおじさんは、「いいの選んだな」と言って、ニヤッと笑った。貯金箱を壊したお金を支払って店の外に出ると、空がぱあっと明るく感じた。
 初めて、好きな子にプレゼントを買った。喜んでくれるかな。笑ってくれるかな。レコードを胸に抱えスキップするような足取りで駅前まで戻ると、また自転車を漕いで家路についた。ペダルは軽かった。
「こんな音楽、全然好きじゃない」
 プレゼントを渡した翌日、そのレコードは俊太郎に突き返された。
「それに、マーチングの練習の時、じろじろ見るのやめてくれる?」
 志織ちゃんが目の前から去った後も、俊太郎は、自分に何が起こったのかわからず下駄箱の前にただ呆然と立っていた。
 野球部の練習を上の空でこなし、その帰り道、まっすぐ家に帰る気になれず、海沿いの石垣の上にしゃがみ込んだ。
 突き返されたレコードを袋から取り出してみて、「え?」と驚いた。可愛らしいケーキの絵はぐちゃぐちゃに崩れ、その下に描かれていたレコードの絵は無残に割れてしまっている。なんで? と混乱したが、ジャケットをひっくり返してみると、なんてことはない、俊太郎が見ていたのは表面だけで、裏面にはそんな不吉な絵が描かれていたのだ。
 なんで、こんな変なレコード買っちゃったんだろう。
 そう思った途端、悲しさと悔しさと情けなさが一気に押し寄せてきて、レコードを砂浜に投げつけた。そのまま家に帰ろうとすると、
『こんな音楽、全然好きじゃない』
 彼女の言葉がよみがえった。こんな音楽……どんな音楽だよ。
 家に帰ると、四つ上の姉と母が夕食を食べていた。「ご飯よ」という母親の声を無視して姉の部屋に行き、レコードプレーヤーのターンテーブルにレコードを置いた。レコードを回すと、ボリュームを最大にして、針を下ろした。
 少しの間をおいて、静かに何かの楽器の音がした。
 それは、初めて聞くエレキギターの音だった。規則正しいそのリズムに徐々に音が重なって熱を帯びていく。明け方の海を太陽が照らしていくように、静かに、でも、確かに、何かが近づいてくる。どっどっどっど。生まれてはじめての恋とも、生まれてはじめての失恋とも、違う。胸の奥が沸騰する、力強くて、重たい、何か。
 何なんだ、この音楽は?
 大音量に驚いた母と姉が飛んできて口々に何か叫んだが、まるで耳に入らなかった。その時は、何も知らなかった。ローリング・ストーンズというバンドのことも、『ギミー・シェルター』という曲名も、キース・リチャーズというギタリストも、それが、ロックという音楽だということも。
 けれど、一枚のレコードとの出会いは、俊太郎の人生を、完全に変えてしまった。

トップページへ戻る