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岳飛伝 六 転遠の章
北方謙三

    披燕の火

   一

 気分のいい日は、寝台から降りて、庭などを歩いた。そういうことを重ねると、胸の痛みが襲ってきた時も、軽くて済むような気がする、と顧大嫂が言った。耶律大石も、実のところそう感じていた。ただ、歩きすぎても、胸の痛みは襲ってくるのだ。
 前兆はある。息が苦しくなってくる。何歩ほど歩くと息が苦しくなり、さらに何歩で胸が痛くなるのか。顧大嫂は一緒に歩きながら、くり返しくり返し、勘定していた。そして、耶律大石を止めるのだ。息遣いを、窺っている気配もある。
 雨の少ない土地で、空気はいつも乾いていた。暑くじっとりしているより、しのぎやすいことは確かだ。
 特に宮殿は石造りなので、中はひんやりとしている。
「今日は、きのうより長く歩いたのではないかな」
 寝台に戻ると、耶律大石は言った。横をむいたまま、顧大嫂は頷いただけである。
 横たわった耶律大石の躰に、顧大嫂の手がのびてきて、足の爪先からはじめ、全身をほぐしていく。気持がよくなり、途中で眠ってしまうことも多かった。
「道の途中に、泊れる宿舎を建てる。前から言っているが、それをはじめさせようと思う」
「蕭廉乙を、また試そうってのかい、大石?」
「それもあるが、必要なものだ。戦時の輸送に近いからな、いまは」
 東西二本の交易路に、点々と宿舎を設ければ、輸送に携わる者たちは、ずいぶんと楽になる。いままでは、とても旅は無理だと言っていた荷主の商人たちも、自ら動こうとするかもしれない。
「顧大嫂、おまえの食堂に、料理人は何人いる?」
 顧大嫂は、はじめ虎思斡耳朶で、食堂をやっていた。人気が出て、すぐに規模が大きくなり、次々に新しいものを作り、いまでは七軒が西遼の各地にある。虎思斡耳朶には、四軒である。
 そこで顧大嫂は耶律大石の女房になったので、八軒目は作られていない。女房といっても、皇后なのである。そして自分は、帝なのだ。
 そんなことはどうでもいいが、帝や皇后がやるべきことというのはあり、七軒の食堂も部下にした者たちに任せている。
「百二十人というところかね」
「そんなにか」
「一軒の宿泊所の賄いを任せられるのは、四十二人」
「その中の、二十人ぐらい、回せないか?」
 料理人は、食堂を次々に回るようになっていた。ひとつのところに、長くても一年しかいない。
「四十人を回してやろう。それぐらいの宿泊所を、同時に建てるんだよ、大石。最低でも、四十軒は必要だね。そして同時に開く。なにしろ、東西二本の道はあるんだから」
「おまえはいつも、大胆なことを考えるのだな。俺より、ずっと肚が据わっている」
「大石は、いまのままがいい。あたしには、細かいところは見えない」
「見る気になれば、見えているさ。細かいやつが二人もいると、下が面倒になる。それで片眼をつぶっておる」
 顧大嫂の表情は、まったく動いていない。威厳がある、と言ってもよかった。それが幼女のような顔になるのは、媾合っている時だけだ。その媾合いも、以前ほど頻繁にはできなくなった。顧大嫂が許さないのである。
 西遼では、塔不煙と呼ばれていた。耶律大石が、ふざけてつけた名だとみんな言っているようだが、母の名だった。
 遼では、ほとんどの女が、まともな名を持っていなかった。とふえ、というのが、母の名だ。言葉でそう呼ばれていたことしか、耶律大石は知らない。漢語の書物は、いくらでも宋から入ってきていたが、字を読める女の数も少なかった。
 なぜ顧大嫂に、塔不煙という名をつけたのか。母は、耶律大石が九歳の時に、病で死んだ。それから、母のことを思い出すことも、ほとんどなかった。
「四十人か」
「四十軒の宿泊所を作れば、そこで出す料理で、この国はいくらか儲かる。まずいものは、あたしが出させない」
「焼き饅頭は?」
「あれは、あたしが作らなければ駄目さ」
「そうだな。俺だけが食う料理だ」
「自惚れるな。あたしはあれを、郤妁や韓順にも食わせてやっている。おまえのためだけに、あたしが作るか」
「そんなこと、言うな。俺にだけは、特別の焼き饅頭を作ってくれよ」
「甘えるんじゃない」
 顧大嫂が、耶律大石のためだけの焼き饅頭を作っていることを、知っていた。それでも、なにか言って甘えてみる。
 山脈の西が、どういうふうに治まるのかが、いま大きな問題だった。交易路の周辺の部族は、ほぼ西遼に従っている。ただ、北の草原に大きな部族がいて、戦にも出てこなければ、交渉の使者も受けつけないという。若い者を集めれば、二万の兵力はあるはずで、沈黙はどこか不気味だった。
 いままでのところ、韓成は血を見ることもなく、うまく交易路を保持した。
 耶律大石がこんなふうに遣いたいと思った通りの働きをしている。
 最初に韓成に会った時に感じたのは、ただ腰の引けた態度だけだった。それが、ほんとうにすべてから腰を引いているのかどうか、試してみる必要はあった。西遼や西夏の交易路を整える時、韓成はこれはと感じるほどの力量を示したのだ。
 いまのところ、韓成を見誤ってはいない。
「あの跳ねっ返りは、まだ軍か?」
「性に合ってるみたいだねえ」
「息子を放り出していることについちゃ、父親と同じではないか」
「悩んではいる。それは、あたしにはわかる。あたしが韓順の面倒を看ていることで、安心させちまったところがあるよ」
 虎思斡耳朶へ来たころの郤妁は、ほんとうに跳ね返りだった。武術では誰にも負けない、と耶律大石の前で豪語したのだ。
 郤妁と立合ったのは、顧大嫂だった。一瞬で打ち倒し、静かに戻ってきた。全身全霊の一撃だったのだということは、顧大嫂がしばらく寝台に横たわっていたことでもわかる。六十を超えても、それだけの力は出せたのだ。耶律大石には、到底できないことだった。
「大石、韓成はあのまんまかい?」
「必要な男になっている。自分ではどう思っているか、わからんが」
「家族で暮らさせる気は、やはりないか」
「それは、郤妁次第だ」
 顧大嫂は、家族を会わせようとした。いま会っても同じだと、会うのを禁じたのは耶律大石だった。
 韓順が不憫だと思ったが、二人が父と母になろうと気持を一致させないかぎり、会わせるつもりはなかった。
 西遼は、いまのところ平穏である。国としての姿も整ってきたが、部族の独立性も、かなりの部分まで認めている。
 四十の宿泊所の開設は、さらに交易路を安定させるはずだが、実務にあたる蕭廉乙は、かなり苦労することになるだろう。
 建物はただ作ればいいが、そこで扱う食糧の仕入れなどで、部族による不公平が生じると、紛争のもとになる。そういうことも、いまからしっかり整えておきたかった。
 部族が多くあるということを、耶律大石は悪いことだと思ってはいなかった。自分もかつては、遼国の北辺の軍閥で、それは部族と呼んでもいいものだった。
 同じ部族の中の、掟は大事にする。それに加えて、西遼の律も守らせる。律は複雑なものではなく、族長の責任だけは明確にしてあった。族長の会議は、半年に一度、虎思斡耳朶で三日間、開かれることになっている。三日目の会議には、耶律大石も帝として出席し、会議で決まったことに、ひとつずつ承認を与える。時には、議決を取り消すこともあった。
 帝は、いれば便利なもの、という程度に過ぎない。それ以上の権限を、耶律大石はできるかぎり抑えていた。
 交易路からあがる利が、いつまでも続くと信じるしかなかった。梁山泊の商隊が、相当の部分を占めるが、商人が個人で組む隊商もあった。
 物は、動くのだ。動くことによって、はじめて物として生きる。
 交易路の利がなくなれば、西遼という目は消える。それは、族長たちも理解しはじめたことだ。
「俺はまだ、戦をしているか、顧大嫂?」
「してるね。耶律披機を、いつも励ましている。蕭珪材には、なにか相談を持ちかけて、頼りにしている感じだよ」
「やはりな」
「疲れるんじゃないかと、あたしは心配だけど、夢の中まで変えられるわけじゃないし。あの燕京(北京)の戦は、あんたにとって人生の一大事だったんだろう」
「むなしく、潰えた」
「そうかねえ」
「俺は、陛下を守り切ることができなかった。耶律披機は、陛下が亡くなられたことで、心の支えを失った。崩れはじめれば、軍というのは脆いものだ」
「それは、わかる。旗がなくなったようなものだからね」
「旗か」
「西遼にも、旗が要るのかねえ」
「要らぬ」
 耶律大石が言うと、顧大嫂はかすかに頷いた。
 燕国は、確かに帝が旗だった。それ以外に、耶律披機や蕭珪材と、ひとつにまとまれるものはなかった。帝は、すなわち国だった。国という考えが先にあったがゆえに、帝が死ぬと国はなくなったのだ。
 帝となった耶律淳が生き延びていたら、どう情況は変っていったかと、いま考えるのは無意味だった。
 あの時のことで、本物だったものとして、耶律大石の中に残っているのは、戦だけだった。旧宋禁軍(近衛軍)との激戦だった。地方軍閥であった耶律大石にとって、旧遼禁軍の最精鋭であった、蕭珪材と耶律披機という二名の将軍は、眩しいばかりの存在だった。
 どちらも、戦という点においては、抜きん出たものがあった。蕭珪材はどこまでも誇り高く、旧遼の民を守るという戦の目的を、微塵も変えようとしなかった。耶律大石は、その姿にただ圧倒された。
 耶律披機は、自分が踏み留まっているにもかかわらず、西へ逃亡した旧遼の帝に対する憤激の中にいた。放棄された帝位を継いだのが、耶律淳だという、その一点にかけて闘うしかなかったのだ。戦ぶりは果敢で、時に勇猛だったが、どこか脆いものも孕んでいた。
 耶律大石は、田舎者の軍閥として、二名に劣らずに闘うことだけを考えていた。必死だっただろう。
 あの戦には、政事のさまざまなことも絡んでいたが、闘う者にとっては、それはどうでもいいことだった。旧宋禁軍を打ち払えば、燕国という、遼に続く国はできあがったのだ。
 暗殺などということがあり得るとは、三名が三名とも、予想さえしていなかった。
 耶律淳が暗殺された時、最初に崩れはじめたのが、耶律披機だった。自分が潰えるのを見るように、耶律大石はそれを見続けた。見るだけでなく、支えようともした。
 一歩間違えれば、潰えたのは自分の方だったという思いは、いまもある。
 あの戦は、しばしば夢に見た。西遼を建国してからは、夢の中で戦をするなどということはなくなってきたが、それがこのところまたぶり返していた。
 不快な夢ではなかった。自分が、闘って闘い抜いた時が、夢の中であろうと蘇ってくるのだ。
 北から出てきて、旧宋禁軍との戦に臨んだあの時が、自分は一番生きていたのだと、単純に思う。自分の人生の中で、そう思える日々があることは、男として幸福なのだという気もする。
 夢で声をあげたり叫んだりすることを、顧大嫂が心配している気配はなかった。
 不思議に、男がなにかということを、よくわかった女だった。
 晩年になって、いい妻にめぐり合えたのだと思う。帝として妻にしたのではなく、ひとりの男として、妻にしたのだ。
「大石、今日は結構歩いた。しばらく眠るといい」
「そうだな。おまえの中に放つ精を、しっかりと溜めなければならぬし」
「あたしは、やめたいんだよ、ほんとは」
「それでもおまえ、菊座に指を入れると、寝台を鳴らして身悶えするぞ」
「恥ずかしい女の躰だと思うよ。やって貰いたいという気もある。しかし精を放つ時、あんたがそのまま死ぬんじゃないか、という思いが抑えられなくて、ほんとに恐ろしくなるんだよ」
「それで死ねたらよ、俺は幸せ者ではないか。おまえの身悶えを見ると、俺は精を放てるのだ。しかもそれで死ねたとなると、いい思いだけをして死ぬ、ということになる」
「あたしはね、これからもいつまでも、あたしを狂わせて貰いたいんだよ。あんただけがいい思いをして死ぬというのは、やっぱり我慢できないね」
「死んだ方が勝ちだ、顧大嫂」
 耶律大石が言うと、顧大嫂が笑いはじめた。
 ほんとうは、まだ死ぬことはできない、と思っていた。やらなければならないことが、残っているのだ。
 山脈の西の統治を、見きわめたかった。強力な部族がいるので、厳しい話し合いも必要になってくるだろう。いまはまだ、話し合いさえ拒絶しているのだ。
 叛徒などがいれば、交易路の安全は保証できなくなる。叛徒を生まないために、部族をできるかぎり公平に扱ってきたが、勤勉な部族と、そうでない部族の差は、すでに出はじめていた。
 叛徒が出れば、徹底的に叩く力はある。西遼の軍は、交易路沿いに駐留していて、虎思斡耳朶には、数千がいるだけだ。
 ほかにも、川沿いでの農耕を、もっと盛んにしたかった。川の水は、山岳地帯に降った雪が解けて流れてくるもので、秋には涸れてしまう。しかし、麦はもっと大がかりに栽培できるはずだった。
 人は少ないが、水も少ないので、水争いはしばしば起きている。それをどう解決していくかも、直面している課題だった。
 駈ける足音が、近づいてきた。
「入っていいですか?」
 幼い声だった。おう、と耶律大石は答えた。
「爺さま、婆さま、今日の稽古は終りました。先生には、二度、叱られました」
 午後の三刻(一時間半)ほど、韓順は剣の稽古をしている。真剣を遣うのではなく、棒でやるが、教える者たちには、打ち伏せてもいい、と言ってあった。それでも、郤妁がやるほど激しい稽古は、誰もつけない。母親との稽古と較べると、韓順にとっては楽なもののようだ。
「なぜ、叱られた?」
「気が散ってしまったのです」
「それはいかんな、韓順」
 特別扱いはせず、起居するのも、衛兵たちがいる宿舎である。顧大嫂はそばに置きたがったが、許さなかった。
 ただ、稽古が終った後、報告に来ることは許してあった。
 韓順は、五歳になる。父親といた期間は短く、母親と寄り添って生きてきた。その母親は、武術好きで、二歳の時から棒を持たせたのだという。父親は、それにも反対だったようだ。
 爺さま、婆さまと呼ばせることに決めたのは、耶律大石だった。そこのところに、ちょっとだけ家族という感じがあり、顧大嫂が喜んでいるのはわかった。
「書見もやったのであろうな?」
「はい。三刻やりましたが、面白くありません」
 書は、漢のものしかない。西遼に、書物などありはしないのである。
 国内の八カ所に小屋を建て、子供に字を教えることをはじめたのは、三年ほど前からだった。役所の機構を整えるのに追われて、そこまで手が回らなかったのだ。八カ所ではあまりに少ないが、教える者を育てなければならなかった。
「面白くなくても、やらなければならぬぞ。そのうち、婆さまが、試しをやる。それに通らなかったら、四刻に増やされる」
「通ります、爺さま」
 言った韓順を、顧大嫂が抱きしめている。韓順はうつむいて、いささか迷惑そうな表情だが、気を遣うつもりが、顧大嫂にはないようだ。
 日によって、韓順を寝室に留めておく時には長短があった。大抵は、顧大嫂がいろいろ話しかけ、会話が長くなったりするのだ。
「母者は、なかなか戻らないね、韓順」
「母上は、軍の仕事をされています。父上もです」
 将校として、卓抜なものを持っている、というのは、蕭茅からの報告でわかっていた。武術に長じているのが、そのまま指揮の能力にもなっているようだ。
 蕭茅は、西遼を建国した時に、耶律大石の幕下に加わってきた。そのころは、副官の陀汗が、見どころのありそうな若者を、数名、従者として使っていた。その中のひとりが蕭茅で、耶律大石の眼にもとまったのだ。
 陀汗は病で死んだが、蕭茅はその時すでに一軍を率いていた。
 郤妁は、蕭茅の麾下で、上級将校の扱いだった。宮殿のそばの営舎には、自分の部屋も持っている。
「おまえは軍に入りたいのかい、韓順?」
「はい。蕭茅将軍のようになりたい、と思っています」
「そうかい。でもいまは、学問もしなければならないよ。それも、軍学だけでは駄目だ。ほかの学問もきちんとやり、武術にも長じなければならない」
「はい、婆さま」
 郤灼が、父親のことをどう韓順に伝えているのか、耶律大石は訊いたことがなかった。顧大嫂もそうなのだろう、となんとなく思っている。
「行っていいよ、韓順。爺さまには、ちゃんと拝礼するんだ」
「はい」
 韓順は直立し、軍人ふうの拝礼をした。

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