書籍試し読み
詳しくはBOOK NAVIへ
凍土の狩人
森村誠一

   第一章 性玩動物

     1

「あなた、警察からお電話よ」
 妻の登紀子が電話を取り次いだ。ちょうど夕食を終わり、テレビの前で寛いでいる時間帯である。息子の宏之は、予備校へ行ってまだ帰宅していない。
 登紀子の面に不安の色が塗られている。
「警察? 警察からなんの用事だね」
 漆原英之はテレビから登紀子の方へ顔を向けた。
「わからないわ。あなたに出てもらいたいんですって」
 登紀子から受話器を受け取ると、
「先生ですか。こちら新宿署の防犯課です」
 と先方が名乗った。「先生」というところをみると、漆原の素姓を知っているらしい。
「漆原です」
「夜分お邪魔して申しわけありません。実はお宅のご子息がちょっとした事件を起こしまして、我が署で保護しております」
「なに、宏之が! いったいなにをしたのですか」
 漆原はおもわず声の抑制をはずした。登紀子が不安の色を濃くしてかたわらに佇んでいる。
「大したことではありません。夜分恐縮ですが、本署の方までお越し願えませんか」
 相手の声は低姿勢であったが、じわりとまとわりつくような粘着力がある。
「あなた、宏之がどうかしたの」
 漆原が電話を切ると、登紀子が早速問うた。
「わからない。いま新宿署にいるそうだ」
「宏之がなぜ警察にいるのよ」
「わからないって言ってるだろう。とにかくこれから行ってみる」
「私も行くわ」
「おまえは家で待ってなさい」
「私、母親よ。宏之も、あなたより私が行ってやったほうが、ホッとするわよ」
 ともかく取るものもとりあえず、夫婦で警察へ駆けつけた。警察署の取調室で心細そうにしていた宏之は、両親の姿に救われたようにホッとした表情を見せたが、すぐに虚勢を張って肩をそびやかした。まだ成人式前だが、身体は一人前に発達し、身長、体重などは漆原をしのいでいる。だが身体の発達に精神がついて行けない。恵まれた環境に甘やかされ放題に育ったので、自立心がなく、心はまったくの子供である。
 係官から説明されて、漆原と登紀子はただ平身低頭するばかりであった。
「本人も若い衝動を抑えられなかったのだとおもいます。勉強ばかりでなく、スポーツや趣味で発散させるようにしてあげてください。幸い、相手にも実害はなく、内聞にすましたいと言っておりますので」
 係官は柔らかな口調であった。彼の紳士的な言動には、漆原の社会的地位に対する配慮がある。
 宏之は新宿の映画館の中で、若い女の子に抱きついてしまったというのである。女の子に悲鳴をあげられ、逃げるところを従業員に取り押えられて、警察に突き出されたのである。以前にも夜道を通行中の女の子に同じような振舞いをしかけたことがある。若い看護婦の下着を盗んで自室に隠しておいたのを、登紀子が発見したこともある。
「あなた、宏之の抽出を覗いたことある? いやらしいポルノ雑誌ばかりなのよ」
 以前妻が報告したとき、
「宏之もそろそろ色気づいてきたんだ。成長の過程だから仕方がないよ」
 と漆原は妻の心配をなだめていた。だが、警察沙汰を引き起こすようになると「成長の過程」とも言っていられなくなる。
「あなた、どうしましょう。これが初めてじゃないのよ」
 警察からやんわりと説諭されて引き取って来ると、登紀子が不安に耐えられないような口調で言った。
「宏之に恋人はいないのか」
「そんな女がいれば、あんなことしないわよ。あの子は女の子に近づく方法を知らないのよ」
「いまどき女の子の一人ぐらい、どうしてできないのだ。そんなに容姿が悪いわけじゃないし、どうみても宏之以下の男が、様子の美いギャルを連れて歩いている。中には二人も三人も連れているのもいるぞ」
「宏之は無器用なのよ。女の子の扱い方をまったく知らないのよ」
「おまえがおしえてやれよ」
「おしえているわよ。でも体だけおとなで、心は子供なのよ。とてもいまの女の子に太刀打ちできないわ。このままでは頭が女の妄想でいっぱいになって、また入試落ちちゃうわよ。それは絶対に防がなければ。あなた、なんとかしてあげてよ」
「なんとかしろってなんともできないよ」
「今年も落ちたら、漆原病院の継ぎ手がなくなっちゃうわよ。私たちの代で漆原病院を絶やしたら、ご先祖様に申しわけないわ」
 漆原病院は、この地に江戸時代からつづいている医家であり、先代院長のとき、その政治的手腕によって一挙に規模を拡大して、総合病院化した。
 先代に男子がなく、家つき娘の登紀子が、先代の目にとまった内科長の英之を入婿にし、病院とホテルを一体化したホスピテルの方針をとったのが、現代のニーズにぴたりと合って、ますます繁盛している。
 漆原病院では患者と呼ばない。すべて「病客」である。医は仁術から算術に切り換え、金持ち病人だけを対象にした徹底的な豪華特別濃厚治療サービス方式が、金力で寿命を買いたいという金持ち病人や老人を集めて、病院は上昇気流に乗りっぱなしである。
 金があれば優秀な医師やスタッフや最新式医療機材を集められ、それがより豊かな病客を惹きつけるという“良循環”を招く。
 だが漆原夫婦にも悩みの種があった。彼らの一人息子のデキが悪いのである。両親や祖先の悪い所ばかりが遺伝した。要するに暗愚である。とうてい漆原病院を継ぐ器ではなかった。

トップページへ戻る