書籍試し読み
詳しくはBOOK NAVIへ
パリ行ったことないの
山内マリコ

   第一部

   猫いるし

 あゆこは大学院を卒業した年からもう十年の間、『フィガロジャポン』を定期購読しているというのに、パリに行ったことがない。パリどころかそもそも、一度も海外旅行をしたことがなかった。
 そのことを人に話すと、大抵ぎょっとされる。だから相手がそういったお決まりの反応を見せる前に、あゆこはいつもこう言って先手を打つのだった。
「猫飼ってるから」
 そうすると彼らは簡単に納得して、別の話題へ移ってくれる。彼らの多くは都心のアパートに一人暮らししている身だから、あゆこと同じように猫を飼っている人は稀だった。どの人も、「いいな。あたしも猫飼いたいな」と羨ましげに返すけれど、「でもうちは猫飼えないんだ」とつづける。そのロジックは、あゆこにとっての海外旅行とまるっきり同じだ。
「行ってみたいとは思ってるけど行けないの、猫いるし」
 その言い訳めいた言葉が、あゆこの中にある種の後ろめたさとなって、静かに積もっていく。
 人はいつどのような流れで、海外へ行くものなんだろう。学校を出た年からいまに至るまで、金銭的な余裕なんてなかったし、誰にも誘われなかった。高校と大学のときはグループで卒業旅行に行ったものの、どちらもディズニーと名のつくところで、あゆこは便乗する形で付いて行ったに過ぎない。本音を言うとあゆこは、どうしてもディズニー的なものに夢中になれないでいたが、そのことは誰にも言わなかった。みんながアトラクションもそこそこにグッズを買い漁る中、あゆこは缶入りのクッキーを一つ家族へのお土産として買っただけで、まんまるい耳の付いたカチューシャやぬいぐるみの類は一切買わなかった。そのときも、両手いっぱいに袋を提げる友人たちに不思議がられたが、嗜好のズレを主張できないまま、「いまお金なくて」と適当なことを言ってごまかした。ディズニーがそれほど好きじゃないと言うと、なんだか孤立してしまいそうな気がしたのだ。
 思えばあゆこはこういった、圧倒的にメジャーなものにあまり縁がない。八〇〇万枚以上売れた宇多田ヒカルのファースト・アルバムも持っていない。村上春樹の小説も読んだことがない。スピルバーグの映画すら一本も観たことがない。いい加減見分けがついてもよさそうなのに、AKBの顔が一向に憶えられない。
十憶人が登録しているというフェイスブックもやってない。あゆこは世界の中心から随分と離れたところに一人立っている気がする。気がつけば、もう三十五歳。
 あゆこはこの年齢の意味が、最近ようやくわかってきた。結婚しておらず子供もいないと、ともすれば役立たずのような目を向けられることもある。「いままでなにしてたの?」という言葉に思いがけず傷つき、こちらから積極的に自嘲してみせないと、憐れまれてしまう。当のあゆこは、なんだかまだ二十五歳くらいの気がしているのに。年齢と自分とを見比べると、気が急くばかりだ。
 大学院まで出たものの、思うような職にも就けていない。いまは予備校の講師として高校生に英語を教えているが、それだけでは食べていけないので翻訳の仕事も知人に回してもらっている。もちろん文学作品なんて立派なものじゃなくて、もっとずっと退屈な、事務的なやつだ。細切れの仕事で余暇時間は奪われ、楽しみといえば眠る前のわずかなひとときだけ。
 パジャマに着替えてシングルサイズのベッドに入り、パリのガイドブックをめくるのが、すっかり習慣になっている。行く当てもないのに購入したガイドブックは数年で情報が古くなるので、改訂版を見つけてはしょっちゅう本屋で買い直している。そして『フィガロ』でパリ最新情報を仕入れ、あゆこの中にどんどん、まるっきり役に立たないパリの知識が蓄積されていく。本を閉じて眠りに落ちる
と、当然のようにかなりの頻度で、あゆこはパリの夢を見た。行ったこともないのに、夢の中では細部まではっきりと、そこはパリなのだった。目が覚めたとき足の裏に、バレエシューズで石畳を歩いた感触が、たしかに残っている。
 それだけ好きなのに行ったことがないというのも解せない話だが、あゆこの中でパリはどこか、架空の都市なのだ。パリヘのぼんやりした憧れはいつしか純化して、それはほとんどファンタジーの域に入っていた。あゆこが夢見ているパリと現実のパリとは、同じなようで、なんだか違う。あゆこはもう何度も夢の中で、セレクトショップのコレットを訪れているし、シェイクスピア・アンド・カンパニー書店ですっかり馴染みの客である。そうして夢から醒めると枕元には飼い猫が丸くなって、あゆこはふわふわと幸せな心地がする。とてもとても満ち足りた気分。だからパリ、別に行かなくてもいいの。

 休みの日、あゆこは積み上げられた古雑誌をまとめて処分しようと、名残惜しむようにページを繰っていた。そのとき、映画を紹介する小さな記事が目に飛び込んできたのだった。
〈主人公のディディーヌは、人生に消極的な女性。夢も意志もあるけれど、それを隠し、流されて生きている〉
 それは二〇〇八年の『フィガロ』に載っていた、フランス映画祭に出品された映画の紹介記事だった。
 人生に消極的──。
 夢も意志も隠して、流されて生きている──。
 吸い込まれるようにその文章を読んだあゆこは、これはまさに自分だと思った。ディディーヌはわたしそのものだ!
 映画でも本でも、主人公のキャラクターにこれほどまでに強烈なシンパシーを抱いたことは一度もなかった。あゆこは床に座り込んで呆然とページを見つめ、どうしようもなく胸が高鳴るのを感じた。観たい。この映画観たい。
 映画『ディディーヌ』は、二〇〇八年のフランス映画祭で上映されたきり、日本では劇場公開もDVD化もされていないまぼろしの作品だった。そのことがわかると、あゆこはよりいっそう『ディディーヌ』に恋い焦がれた。ネットで調べたところ、フランスではDVDが発売されていることがわかった。けれど英語字幕が付いているかも、リージョンのこともわからず、取り寄せたところでちゃんと再生できるかは微妙なところだ。でも、せめてフランス語がわかれば仏版アマゾンで、買うだけ買ってみるのだけど。

 〈ディディーヌは、するりと水の中を泳いでいく魚のよう。傷つくことを恐れ、自分を守るために、夢にも他人にも積極的に出られない〉

 そこであゆこは長い長い眠りから醒めたように、はたと気がついたのだった。なぜいまのいままで、フランス語を勉強してみようと思わなかったんだろう。ああ、わたしはずっと小さな女の子みたいに、いつもただ漠然と憧れるばかりで、自分の足で一歩を踏み出し、近づこうとしたことがなかったんだな。あゆこはそんな自分の性格を改めて見つめた。そしてそんな自分が、突然、猛烈に、嫌で嫌でたまらなくなった。
 三十五歳にもなって、まだ十代みたいなことを言っている自分。五年後は四十歳なのに。そのうち死ぬのに。
 わたし、パリにすら行かずに、死んでもいいと思ってたの?

 飯田橋駅で電車を降り、外堀通りの信号を右に折れ、坂を少し登ったところにその学校はあった。アンスティチュ・フランセ東京。日仏学院という昔の名の方が、あゆこには親しみがある。
 大きな看板もなく、気づかずに通り過ぎてしまいそうなほど静かな場所だった。急な坂を登り切ると、芝生の広がったこぢんまりした庭があり、目の前にはブラッスリーや、ちょっとしたステージがあった。アイビーグリーンに塗られた書店、外国の雰囲気が漂うオープンな校舎。あちこちにさり気なく置かれたベンチに腰を下ろし、あゆこは目を閉じた。
 ぽかぽかの日差しと緑の匂い、どこからか聞こえてくるフランス語の会話。なつかしい学生気分。東京にいるといつもほのかに感じる、殺気立った緊張がゆるゆるとほどけ、あゆこはこれがパリの空気なのかと思った。
 隣に人の座る気配がして目を開けると、フランス映画から抜け出したような女の子が座っていた。背筋が快活にピンと伸び、フランソワーズ・サガンのような、ふわふわした栗色のショートカット。デイパックを傍らに置き、脚を組んで分厚いペーパーバック版をめくる彼女は、あゆこの視線に気がつくと、にこりと口角を上げて“Bonjour.”と言った。
 あゆこも「ボンジュール」と、たどたどしくその発音をなぞる。彼女は本を閉じ、向き直ってこうつづけた。
 “Etes‐vous une étudiante de cette école?”
 あゆこはちんぷんかんぷんで、“ I am sorry, I don't understand French.”と返すのが精一杯だ。それを受けて彼女は、もう一度英語でこう言い直した。
 “Are you a student of this school?”
 あゆこはその問いにノォとこたえると、照れながら英語で打ち明けた。
「わたしには、どうしても観たいフランス映画があります。わたしはそれを観るために、フランス語の勉強をしようと思っています。フランスに行き、DVDを買って、その映画を観たいのです」
「それはなんという映画ですか?」
「『ディディーヌ』」
「その映画なら、フランスでとても話題になりました。ここの図書館にもあるかもしれません。案内しますよ?」
 いつもなら、あゆこは言われるがまま好意に甘え、DVDを手にすれば観もせずに満足していただろう。けれどあゆこの望みはそれじゃない。それがあゆこの夢ではないのだ。あゆこは唇をまっすぐに結ぶと、ちょっと困ったような笑顔で、けれどきっぱり宣言した。
「大丈夫です。ありがとう。わたしはフランスに行って、自分の足で、その映画を探したいのです」

トップページへ戻る