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密命売薬商
鳴海 章

   絶叫海峡

 真っ向から叩きつけてくる烈風が咽を塞ぐ。
 呼吸ができない。
 雨と波飛沫にぐっしょり濡れた単衣木綿が藤次の肌にぴたりと張りつき、容赦なく体温を奪っていく。歯が鳴りやまなかった。
 舳先に突き出した一本水押の右と左で、見る見る盛りあがっていく鉛色のうねりに目を奪われ、あごが上がった。
 すっかり肝を奪われ、躰の震えさえ止まる。直後、頸の骨がいやな音をたてて軋んだ。頭上はるかまで育った怒濤は、迫り来る二つの巨大な山となる。
 右の方がわずかに速い。
 舳先に立つ表仕の巳三郎がふり返った。洋上で暮らす水手ながら役者のように色白の顔は、今、凄絶なまでに蒼ざめている。
 大口を開け、怒鳴った。
「結んだがけ」
「もう少し」
 怒鳴りかえしたのは、顔にも躰つきにも子供っぽさが残る炊の利久平である。巳三郎が結んだかと訊ねたのは、利久平が手にしている荒縄を指していた。
 帆柱は一本の丸太ではなく、細い杉材を何十本と束ね、ところどころ鉄の環を嵌めた一辺が一尺余の太い四角柱だ。それが今にも折れそうに撓り、音をたてていた。まだ、三分ばかり帆があがっている。帆柱の根元に座りこんだ藤次の躰を、利久平は荒縄でぐるぐる巻きにしていた。
 船がいきなり横倒しになる。藤次は、あっという間に投げだされ、胸に巻いた縄が張りつめる。利久平は、とっさに帆柱をつかんだ。
 乗り組んでいる者のうち、藤次だけが本職の船乗りではなく、波にさらわれる恐れがある。それで巳三郎は、利久平に藤次と船とをしっかり結ぶよう命じていた。
 腹に響く怒濤とともに、船はふたたび起きあがった。
 改めて利久平が縄を結びだした。両腕を突きあげた藤次の胸を、荒縄がぎりぎり締めつける。肋骨が鳴った。
「少し痛いか知らんが、辛抱してくれろ」
 耳元で怒鳴る利久平に、藤次は何度もうなずいた。
 海へ投げだされないためなら痛みなど何ほどのことがあろうか。船はぐらぐら揺れていて、ひざをつくことさえままならない。藤次は、自分の左胸あたりにある利久平の手元に目をやった。
 波に濡れ、吹きつけてくる風に利久平の指は真っ白になり、動きはぎこちなかった。それでも唇をとがらせ、眉間にしわを刻んで懸命に結んでいる。
 もっとも利久平が縄を結んでいるのをじっくり見る余裕などなく、迫り来るうねりにまたしても目を奪われた。
「まだか」巳三郎は前を睨んだまま怒鳴った。「急げ」
「あい」
 咽を裂かんばかりに返事をしたが、利久平の声は狂風にはじき飛ばされ、船首まで届かない。
「よし」
 結び終えた縄に手をかけ、強く揺さぶって利久平がいった。次いで縄の一端を鼻先へ突きだす。
「しっかり握ってて。強く引っぱれば、ほどける」
 航海の間、水手たちが綱や縄の結び方に多彩な仕掛けを施しているのを目にしている。利久平のいう意味は、すぐにわかった。
 船が転覆したとき、躰を縛りつけたままでは船もろとも海中に引きずりこまれてしまうのだ。口中が塩辛く、からからに渇いていて返事ができなかった。唾を嚥みこもうとしたが、それさえうまくいかない。
 縄の端を受けとり、掌に二、三度巻きつけた藤次を見て、利久平が頬笑む。こぼれる白い歯を見て、ああ、いつもと同じだ、と思った。
 まるで愛想のない海の男たちの中にあって、利久平だけがつねに明るい笑顔を見せ、藤次の世話を焼いてくれた。船中のしきたりや簡単な航海術、船の仕組みまでも、修業中の身で生意気だけどと断りながら一つひとつていねいに教えてくれた。
 もし、利久平が相手をしてくれなければ、これといってすることもなく、言葉すら発せず、日がな一日座りつづけていなければならなかった。
 歳はまだ十六で、藤次の半分だが、利久平は親切で頼りになり、兄貴分とさえいえた。逆に利久平にしてみれば、藤次だけが理不尽に殴りつけたりしない唯一の相手なのだろう。
 冷雨のために唇の色まで奪われていたが、いつもと変わりない少年らしい笑顔に胸の底が温かくなる。
 立ちあがった利久平は右に左に大きく傾ぐ踏立板の上を船尾に向かった。
 ときに弘化三年(一八四六年)正月、北西の季節風が吹きつのる日本海は荒れ、波が沸きたっていた。五百石積みの弁財船『豊勝丸』は激浪に抗い、間切り走りをしている。
 右方から寄せてきたうねりの裾が、豊勝丸の右舷へ滑りこんでくる。
 これから何が起こるのか、まるで予想のつかない藤次はいたずらに躰を強張らせているしかない。本当のところを何一つ知りもしないくせに冬の海は荒れるなどと一丁前の口を利いていた己が今さらながら恨めしかった。
 船が左に傾き、船首がじょじょに持ちあげられる。胃の腑を持ちあげられた藤次は、生唾を嚥み、爪先からはいあがってくる恐怖に思わず足を縮めた。
「あかん」巳三郎が絶叫する。「取り楫や、取り楫」
 うねりは右が速いと見えたが、いつの間にか左が速度を増し、豊勝丸の傾きは水平になっていた。だが、つかの間のことだ。見る間もなく右へと傾きはじめる。
 強風に帆があおられ、帆柱の軋みが藤次の背骨を打った。
 楫子の六郎平と利久平が楫柄にとりつき、必死の形相で左舷側へ引きよせようとしていた。巳三郎の指示が間髪を入れずに飛んだため、利久平は自分の腰と船とをつなぐ命綱を結ぶ余裕すらなかった。
 真っ向から吹きつけてくる暴風を、帆桁を船体と平行にして受け、真横に流れそうになるところを大きな楫板で打ち消すことで、わずかばかり前へ進む力に変える。それが間切り走りと、利久平が教えてくれた。
 だが、前進といっても遅々としたもので、風に吹き戻されるは再三、たまたまうねりからすべり落ちた方向が針路と同じならばかろうじて一歩を踏みだすといった塩梅である。
 帆を横向きにしているのではらむ風はわずかだが、荒れ狂う力は凄まじく、船は簡単に横倒しになる。打ちこむ波をくぐり抜け、水手たちが必死に楫や帆を操ることで船は起きあがり、危ういところで転覆をまぬがれていた。
 どんと突きあげられ、全員の躰が宙に浮く。次の瞬間、藤次はいやというほど尻を打ちつけた。
 さらに舷側をがりがり擦りながらせりあがっていく怒濤は、一瞬にして帆柱より高くなった。
 船は大波の横腹に張りついている。
 水手たち、そして藤次は頭上の海面を見あげる恰好になった。
 帆柱にしがみついた藤次は、今にも海が墜ちてきそうな光景に肝を縮めた。宙に抛り投げられた胃袋は咽もとに殺到し、へそから下が遠ざかっていく。
 今にも転覆という刹那、巳三郎が号令をくだして船首を転じ、船体がぐっと起きあがった。だが、まっすぐに立っていたのも瞬時、今度は反対側へ蹴倒され、またしても舷側を越えて成長していく波を眺めることになる。
 張りつめた縄が容赦なく藤次を締めつけていた。
 口にあふれた黄水を飛沫が洗いながし、苦いやらしょっぱいやら……。いや、味などとうにわからない。咽が焼けただれたようにひりひり痛むばかりだ。
 天を覆う風の叫びが腹の底を重くふるわせる。
 手が痺れ、帆柱をつかんでいる指が外れても利久平が持たせてくれた縄の端だけは離さなかった。またしても胸に巻いた縄が食いこみ、息が詰まる。
 海水が目に口に耳に鼻に入ってくる。わずかに飛沫が途切れ、噎せつつも顔を拭って目を開いた。
 後悔した。
 左右からうねりに押しよせられ、豊勝丸がぐんぐん船首を持ちあげていくのを目の当たりにしたからだ。
 二つのうねりは一つに溶けあい、巨大な壁となって豊勝丸の行く手に立ちふさがろうとしている。
「あわ、あわ、あわわわ」
 楫柄をとっていた六郎平が言葉にならない悲鳴を上げた。船尾に目をやった巳三郎は口許を歪めた。
 後方からも巨大なうねりが押しよせ、楫を翻弄、柄を押さえきれなくなった六郎平がだらしない悲鳴を漏らしている。両腕で楫柄をかいこんだ利久平は歯を剥きだしにしていた。顔からは血の気が失せている。
 ただ一人、船頭である狐原屋源右衛門だけが帆柱と舷側を結ぶ縄の一本を片手でつかみ、まるで表情を変えず仁王立ちしていた。源右衛門は豊勝丸の所有者ではあったが、操船一切は表仕の巳三郎に任せて、口を出さなかった。
 後方から襲いかかったうねりは、豊勝丸をあっさり追いこし、前方から迫ってくる巨大なうねりと衝突する。ぶつかり合ううねり同士は先を争うように天に向かい、それがために海面は立ちあがろうとしていた。
 海面だけを見ていると、豊勝丸はまるで後退しているようにさえ見える。しかし、実際には凄まじい速度で前へ押しやられていることは、素人の藤次にもわかった。胃の腑が重く押さえつけられているからだ。
 前進しながら豊勝丸はさらに船首を持ちあげた。
 成長する波は、さながら天を衝こうと上昇していく灰色の龍と映った。無数の波が鱗で、そそり立つ波の側面がくねる胴。豊勝丸は龍に取りつき、よじ登っていくシラミほどもない。
 さすがに立っていられなくなったらしく舳先にひざをついた巳三郎は、命綱をたぐり、波を見あげて叫んだ。
「来るぞ」
 藤次は悲鳴をほとばしらせていたが、風と怒濤の轟きにかき消され、自分の耳にさえ聞こえない。血を噴くかというほど咽が痛む。
 ふいに龍は上昇をやめ、鉤爪のついた前肢を広げるとあごを引き、腹をよじ登ってくる豊勝丸を睨めつける。
 次の瞬間、頂点で波頭が砕け、飛沫が四散、龍が巨大な目を開いた。
 龍が豊勝丸を呑みこもうとした刹那、曇天に閃光が走り、その姿がはっきり浮かびあがる。
 稲光。
 藤次は閃光に目を射ぬかれた。
 つづく雷鳴は、聞く者の臓腑をえぐる咆哮に他ならず、鉤爪の先端と化した波頭が男たちの頭上へ崩れおちてくる。
 巳三郎は踏立板にひたいをつけ、源右衛門は帆柱を片腕で抱えこんだ。楫柄に取りついた六郎平と利久平だが、取り楫も面楫もあったものではない。
 叩きつける波に突き飛ばされまいと、男たちは船にしがみついた。
 叫びつづける藤次に荒海が襲いかかる。
 声は嗄れ、目はつぶされる。
 真っ暗闇の水底に引きずりこまれる。藤次の意識は呆気なく断ち切られ、水の重みもすぐに感じなくなった。

 さかのぼること三月、雪がちらほら舞いはじめた弘化二年初冬、藤次は、源右衛門を訪ねた。
 越中富山湾にそそぐ常願寺川河口の水橋浦に狐原屋はある。
 一航海の運賃として藤次が切りだした額に、源右衛門のしわだらけの目蓋がぴくりと動いた。
「六十貫目、と……」
「へい。運び賃として」
 藤次はうなずいた。
 しばらくの間、源右衛門は黙りこみ、思案している様子に見えた。銀で六十貫目となれば、金貨二両が銀七十五匁に値する加賀藩領においては、八百両に相当する。
 ようやく源右衛門が口を開いた。
「大坂から蝦夷地へ行って、そこで積んだ荷を長崎へ運ぶんだったな」
「へい」
 大坂を出て、日本海で何カ所か寄港、荷を積み、蝦夷地に達するまでほぼふた月かかる。戻りは、どこにも寄港せず長崎だけを目指すので沖走りができ、航海日数は大幅に短くできる。航海の期間が短いほど源右衛門が得られる利益は大きくなる。
 探るような目で藤次を見た源右衛門がつぶやいた。
「儂にとっては、悪くない話だが」
 提示した代銀は、五百石積みの『豊勝丸』を春先から初冬まで航海させて、源右衛門が手にする稼ぎの五割増しになる、と藤次は踏んでいた。しかも今回の仕事は初夏には終わるので、うまくすれば冬までにもう一航海できるだろう。
 破格の条件には、理由があった。
 冬の日本海は荒天続きのため、毎年十月から翌年の一月まで、一応すべての運航が停止される。水密甲板を持たない弁財船は、波に打ちこまれると沈没する危険があった。また天下の台所と呼ばれた大坂と、人口百万を数える大消費都市江戸を結ぶ航路と違って、秋に収穫された年貢米を運びおえてしまえば、日本海航路の重要性はさほどでもなくなる。
 そのため水橋浦に住み、商売の基地ともしている源右衛門は、雪深い冬期間だけは持ち船を大坂に陸揚げし、冬囲いをしていた。船に始末をつけ、自宅にもどってきて二日と経っていないはずだ。
「しかし、儂は……」
 口を開きかけた源右衛門をさえぎるように藤次はいった。
「もちろんお頭が買積船の商売をされているのは聞いております。そこをおして、お願いを申しあげます」
 両手をつくと藤次は頭を下げた。
 弁財船の運航には、大別して運賃積船方式と買積船方式の二つがあった。
 船頭というのは、船主を意味し、必ずしも船乗りである必要はない。それゆえ船頭と呼ばれながらも一度も海に出ることのない者もある。船に乗りこみ、運航の全責任を負うのは表仕である。
 もちろん、水手として金を稼ぎ、船を買って船頭になる者もある。その場合、船頭自ら表仕を兼ねることも多かった。このため船に乗らない船主を居船頭、自ら船に乗る船主を直乗ないし沖船頭と呼んで区別する。
 源右衛門はもともと商人で、船乗りではなかったが、自ら船に乗った。豊勝丸が買積船であることと関係している。
 買積船では、積み物を船頭自身が買いつけ、運んでいった先々で売ることで利益を得る。船が遭難すれば、積み荷、船ともども損失のすべてを船頭が負わなければならないが、土地によって生じる価格差を機敏に読み、売りさばくことによって利ざやを稼げるため、運賃積みに較べて何倍もの利益を手にできる。それだけに商人源右衛門の性にあった。
「儂が運び賃をもらうということは、荷はあんたが手配するんだな」
「へい」
 今回の航海は、大坂を出港して日本海側へ出たのち、酒田で米と酒、秋田で塩、煙草そのほかを積みこむが、いずれの荷もあらかじめ藤次が用意すると説明した。積み荷は蝦夷地で商品を買いつける際の交換手段として使われる。
 すんなりと源右衛門がうなずかないのは、ひょっとしたら積み荷が二倍、三倍、あるいはそれ以上の価格で売れるかも知れない買積船のうまみと、一度の航海によって得られる銀の重みを秤にかけているためであろう。
「しかし、船は儂一人で動かせるものではない」
「重々承知しております。そこで帆待、切出の分として銀七貫目をおつけします」
 買積船の場合、乗組員たちは積み荷の一部を自分のものとして売りさばき、自らの収入とすることが習慣的に許されていた。このうち、航海全体を取り仕切り、責任を持つ船幹部たちの取り分を帆待、ほかの乗組員で分ける分を切出という。
 買積船では、船主に内緒で荷物を積み、行った先で売ってしまうのも不可能ではない。だが、あまり欲をかけば、過積載に結びつき、海難の一因となった。最悪の事態を防止するため、積み荷の一部を船乗りたちが自由に売りさばける帆待、切出の制度が誕生したのである。
 帆待は積み荷の一割、切出は五分が相場だ。銀七貫目であれば、豊勝丸の一航海で得られる利益の一割七分となり、乗組員にとって十二分といえる。帆待、切出を積み荷の代わりに銀で支払おうと藤次はいうのである。
 だが、源右衛門はにこりともしないで訊いてきた。
「もう一声、色をつけてはもらえまいけ」
 藤次には、源右衛門のひたいに映る秤がまだ均衡しているように見えた。
 もう一押しだ。
「では、あと五百匁、七貫五百でいかがでしょう。これで手前どももいっぱいでございます。逆さにされても鼻血も出ません」
 七貫五百匁は百両に相当する。
 乗組員の食費と運航にかかる諸経費は荷主持ちがならいであり、しかも、積み荷は荷主が用意するのであれば万が一海難に遭い、荷を捨てても源右衛門の損とはならない。それでも源右衛門は首肯しようとしなかった。
「たしかにうまい話だが……、ちょっとうますぎて薄気味悪いな」
 運賃積船方式と買積船方式、双方のいいところだけを取ったような条件に、源右衛門はなおも猜疑の目を向けていた。
「抜け荷か」
 半ば独り言のように問いかけてきた源右衛門に、藤次は笑みを浮かべ、何とも答えなかった。
 抜け荷とは、密貿易のことだ。外国との交易に関しては、幕府が厳しく制限を加えているのだが、莫大な利益という魅力には逆らえず薩摩をはじめ諸藩で横行しているのが実情である。
 源右衛門が訊いた。
「して、蝦夷地で買いつける品とは」
「昆布でございます」
「昆布だけかえ」
 いささか拍子抜けした体で源右衛門はつぶやいた。
「昆布だけにございます」
 藤次はもう一度くり返した。
 源右衛門が腕組みする。
「大坂、蝦夷、長崎、大航海だ」
「無理でございますか」
「無理なものか」
「ただし、蝦夷地の交易所には明年一月のうちに着到してもらわねばなりません」
 期限を聞いた源右衛門は低く唸った。
 春とはいえ、一月といえば、まだ大西風の影響で海が荒れている可能性が高い。しかし、一月の航海は非常に数が少なくはあっても皆無というわけではなかった。
「やってやれなくもないが、そうすると今すぐ発つ仕度にかからねばならない」
 藤次がたたみかける。
「昆布を仕入れるのは松前ではなく、利尻になります。ご存じですか、利尻という島なのですが」
「ああ、聞いたことはある」
 蝦夷地の玄関口松前と違って利尻はさらに百里あまりも北上しなければならない。そこヘ一月中に着こうというなら荒れる日本海の突破は必至だ。
「ところで、あんたは於菟屋さんの」
「へい、売薬にございます」
「於菟屋といえば、薩摩組の元締めだが」
 源右衛門はあごを撫で、探るような目で藤次を見つめていた。
 越中の売薬商売は、薬草に興味を持ち、自ら製薬も手がけた富山藩二代目藩主前田正甫に源を発し、かれこれ百五十年あまりの歴史を持つ。
 元禄三年(一六九〇年)、江戸城内において突然腹痛に襲われた大名に正甫が薬を与えたところ、たちまちに快癒し、以来各国大名から薬を求められるようになったという。諸国への出入りが厳しく制限されている時代にもかかわらず富山の売薬商たちが各地を行き来できたのには、そうした事情があるとされた。売薬商売は順調に発展し、宝暦年間(一七五一─六四年)には富山藩の中心産業となった。
 売薬商たちは、商売に出かけていくそれぞれの国ごとに仲間組を作り、助け合うだけでなく、厳しい掟をたがいに課していた。今では二十二組となり、売薬商も二千人余を数える。薩摩組は、その名の通り薩摩国で商売をする売薬商たちの組織であり、源右衛門がいった通り大手薬種問屋於菟屋が元締めとなっていた。
「薩摩じゃ、あんたら売薬の出入りが御法度になったんじゃないのかえ」
「よくご存じで」
「儂も見くびられたもんだ。ここは水橋浦だ」
 売薬といえば、越中富山の専売特許と見られがちだが、同じ越中でも加賀藩領の水橋浦、東岩瀬、滑川などでもさかんに行われていた。
 売薬商たちは、全国津々浦々を巡り、諸国の事情に通じている。まして船頭として大坂、長崎、そのほかを渡り歩いている源右衛門であれば、裏の裏まで知り尽くしていても不思議ではない。
 たしかに薩摩藩は、売薬商の出入りを禁じている。薩摩藩は、領民に対し、厳しい施策で臨んでいることが知られており、年貢の取り立てに支障を来すとして頷民が勝手に物品を購入することを禁止しているのだ。
「利尻の昆布を持っていけば、また薩摩で商いができるようになるのかい」
「さあ」
 藤次は首をひねって見せた。
「手前ごときは、主にいわれました通りに動くばかりしか能がございませんで」
 売薬商たちは、商いに出かけた際、必ず手土産を持参した。商いの額が大きくなれば、手土産も豪華なもの、貴重なものになる道理である。
 源右衛門は、藤次の様子にかまわずつづけた。
「薩摩の連中と付き合いがあるのかい、藤次さん」
「いえ」
「彼らは腹が黒いというか、深いというか、何を企んでるか、わからんところがある。おそらく利尻の昆布にしたところで、自家で使うつもりはなかろう」
 薩摩藩は、逼迫した財政を建て直すため、なりふり構わず金集めに奔走していた。利尻昆布も唐国との密貿易の材料にする腹づもりがあることは、藤次も察していたが、口が裂けてもいえなかった。
 さらに力を養いつつある薩摩藩の次なる狙いは、天下取りだとまことしやかに噂する者もあった。戦乱の世がやって来るというのである。だが、於菟屋に使われているにすぎない藤次にしてみれば、固く閉ざされた薩摩の門扉をこじ開けることの方がより重大事であった。そのため、利尻の昆布が要る。
 床に手をつき、ひたいをこすりつけ、藤次は懇願した。
「どうか、お頭、お願いいたしまする」
 結局、源右衛門は承けてくれた。

 冬の海が牙を剥いた。
 前後から襲いかかった巨大なうねりは、豊勝丸をひと呑みにし、次いで吐きだした。
 息を吹き返したものの、藤次は自分がどこにいるのか、すぐにはわからなかった。
 顔を上げ、後ろを見やる。楫柄に取りついている男の丸い背が見えた。
 何かがおかしかった。
 はっとして周囲に視線を飛ばす。楫柄を抱えているのは一人だけで、利久平の姿がどこにも見えない。
 身を乗りだしかけた藤次は、躰を拘束している縄に引きもどされ、尻餅をついた。
 利久平は波にさらわれたのか。
 だが、水手たちは一向にあわてた様子もなく、各々の仕事に懸命に取り組んでいた。呆然としているのは、藤次ばかりだ。
 一方、豊勝丸は、腕の立つ表仕巳三郎の手からもついに離れつつあるかに見えた。だが、誰一人諦めようとはしない。
 巳三郎が声を張りあげた。
「七郎平、帆を下ろすぞ。政八、亥吉、轆轤だ。六郎平、取り楫」
 船内作業を取り仕切る親仁の政八と追廻の亥吉は、船尾の木戸をはねあげ、船倉に潜りこむと轆轤に取りついた。
 巳三郎の補佐役を務める片表の七郎平は、揺れる船の上で足を踏んばりながら帆柱の根元まで行き、帆桁を固定してあった綱をほどきにかかった。
 船倉では、政八と亥吉が歯を食いしばり、轆轤から張りだした横棒を懸命に押している。歯の浮くような軋みとともに轆轤がじわりと回り、帆がわずかに下がる。
 楫柄を両腕で抱えこんだ六郎平は、おのれの全体重をかけて引いていたが、横波を受けつづける楫は中立のままびくともしない。見かねた知工の金蔵が楫柄に飛びつく。
 躰も小さく、ふだんは操船に手を出さない金蔵だが、船が翻弄されるのに居ても立ってもいられなくなったのだろう。
 舳先から帆柱の天辺に伸びている筈緒が風を切り、びゅうびゅう鳴っている。風をはらんだ帆は暴れまくったが、男たちの懸命な作業によって何とか下ろすことができた。
 座りこんだまま藤次は、源右衛門を見あげた。すでに乗組員を一人失い、さらに船そのものが海の怪力に圧しつぶされようとしている。いくら積み荷を失っても損はないとはいえ、船が沈めば源右衛門の丸損となった。
 否。
 藤次は唇を噛んだ。
 源右衛門にしてみれば、水手の命を失うことに較べたら、船などどうでもいいのかも知れない。
 蝦夷地行きの話を持ちこんだのは藤次だ。この話さえなければ、危難に遭うこともなかった。さぞや恨めしく思っているだろうと恐る恐る目をやっていたが、源右衛門はそこかしこに視線を飛ばしてはいたものの、おだやかな表情を浮かべつづけている。
 恐怖と後悔が綯い交ぜとなり、さらに源右衛門や水手たち、取りわけ利久平への申し訳なさが募る。
 藤次は堪えきれなくなって声をかけた。
「お頭」
 気づいた源右衛門は、藤次に目を向けたが、笑みを浮かべて力強くうなずいた。まるで海のことは巳三郎にすべて任せておけば安心とでもいうように……。
 帆が完全に下ろされると、帆柱の軋みもだいぶおさまった。船体は今にも毀れそうに思えたが、じょじょに船首の向きは変わりつつある。筈緒の風切り音がいくぶん低くなってきた。
「つかせるぞ」
 ふたたび巳三郎が大声で命じ、六郎平と金蔵が太い声で応ずる。
 楫が切りかえされ、船首が波を蹴立てて風上に向けられた。
「楫、揚げろ」
 巳三郎の命令に従い、六郎平と金蔵が楫の身木上端に綱をかけ、後部船倉の轆轤と結んだ。政八、亥吉がふたたび轆轤を回しはじめる。
 豊勝丸の楫はゆっくりと海中から姿を現し、やがて船尾にはねあげられた。
「七郎平」巳三郎は怒鳴った。「たらしだ」
 船首部にもどっていた七郎平は舳先に飛びうつり、舷側に引っかけてある四本鉤の鉄錨を持ちあげて訊いた。
「いくつ」
「全部だ、全部放りこめ」
 豊勝丸は重量の違う錨を六個備えていた。船首両舷にそれぞれ三つずつ引っかけてある。七郎平は休む間もなく六個とも海に放りこんだ。
 錨に結ばれた綱はたちまちに伸び、ぴんと張る。
 帆を下ろし、荒波を頑丈な船首で受ける。楫は揚げて、吹きつけてくる風に流されまいと錨を投じる。船乗りたちが打つべき手は、すべて打たれていた。
 あとは祈るくらいしかない。
 唐突に藤次は悟った。
 運命なのだ、と。
 冬の荒海を渡るのも、蝦夷地に向かわざるをえなくなったのも、嵐に翻弄され、あるいは波にさらわれるのも、生きるも、死ぬも、すべて運命なのだ。
 嵐の中、船が後戻りできないように誰もが抗いがたい運命に押し流されている。
 しかも、藤次の大航海は始まったばかりなのだ。
 知らず知らずのうち、藤次は念仏を誦していた。
 南無阿弥陀仏
 南無阿弥陀仏
 南無阿弥陀仏……


   第一章 胡蝶剣

     一

 七つの頭がそわそわと動き、右を盗み見、左をのぞき、上目遣いに恐る恐る自分の方を窺っているのを、馬渕洋之進は眺めていた。
 七、八歳の男児ばかり七人である。ふだんでもじっとしているのが苦手な上、陽も暮れてそろそろ腹も空こうという頃合いともなれば、細長い机を前にかしこまって、筆を手にしているのは難しい。
 加賀藩の藩都、金沢の郊外にある留源寺庫裡の一室、読み書きと算盤を教える私塾で、子供たちは塾生、洋之進が塾頭を務めていた。
 洋之進は体格こそよかったが、青白く下膨れの顔をしていて、どうにもしまりがない。それゆえ、子供にもなめられると、よく人にいわれた。
 剣術指南をつとめる家柄の長男で、自宅には小さいながらも道場を構えていたが、太平の世が長くつづき、また一風変わった流派であることが災いして、ここ数年は一人も門弟がいない状態がつづいている。
 落ちつかないのは子供たちばかりではない。洋之進も腕組みをほどいてはまた組み直し、あごのわきを掻いたり、宙に目を据え、ため息をついたりしていた。
 やがて堪えきれなくなった一人の子供が声をかけてきた。生糸商の三男坊で、末っ子として甘やかされて育ったせいか物怖じしないところがある。
「先生、そろそろ」
「そうだな」洋之進はようやくうなずき、意を決した。「よし、本日はこれまで」
 塾頭のひと言に子供たちは習字の道具を片づけ、一人また一人と威勢よく挨拶をして帰っていった。さきほど声をかけてきた生糸商の倅を含む三人が最後に片づけを終え、立ちあがると、洋之進も尻を持ちあげ、大刀を腰に差し、最後に部屋を出た。
 玄関に一人の女性が立っている。年齢の頃なら二十四、五、生糸商の倅の姉で、お亮といった。
「あら、先生」
 ぱっと顔を輝かせたお亮がていねいに辞儀をする。
「いつもお世話になっております」
「あ、いや、どうも、これはごていねいに……」
 口の中でもぐもぐと挨拶を返したが、決して勿体をつけているつもりはなく、お亮の前に出ると舌が引き攣れてうまく言葉が出てこないだけのことだ。お亮が出ていき、子供たちもいなくなったあと、洋之進は懐手をしたままひとりごちた。
「情けない男だね、お前は」
 馬渕塾に通っているのは、近所の商家の子供たち、それも次男、三男、それ以下が多かった。塾の費用は微々たるものだが、それでも小商人には負担であろう。
 本来であれば無償で教えたいところだが、洋之進としても塾から上がる収入を手放すわけにいかなかった。
 馬渕家が背負う借財は、洋之進と父豊之進が得ている年収の三倍を超える。本来、藩士は町人から金を借りてはならない決まりになっていたが、背に腹は代えられず知り合いの商家に莫大な借金をしていた。また武家同士が金を出しあい、結成されている頼母子講にもたびたび救われている。こちらは無担保だが、高い利子がついた。
 生活が苦しいのは、指南役といっても扶持は知れている上、藩財政の悪化を理由として、しばしば『半知借り上げ』が強行され、ほとんど収入が半減しているためだ。さらに、道場はあっても一人の門弟もいないことが追い打ちをかけている。
 だが、借金のもっとも大きな要因は洋之進の母が大病をしたことにあった。父は治療に手を尽くし、そのためありったけの金を注ぎこんだが、手当ての甲斐なく母は数年前に他界してしまった。
 藩庫からもらい受けた給米もすべて商人に売り渡し、手にした銀は即刻借金返済にまわしている。息をしているだけで借金がかさむ状態にあったが、父も洋之進もいたって能天気に暮らしていた。元々金銭に淡泊なところがあり、亡くなりはしたもののできるだけの手だてをして母を見送ったことにも満足していた。
 歩きだしながら洋之進はお亮の面差しを思いうかべていた。
 ぼんやりと歩いているときばかりでなく、塾で子供たちに教えているとき、厠でしゃがんでいるとき、ときには剣術の稽古をしている最中にさえ、屈託を感じさせないお亮の明るい笑顔が眼前にちらついた。
 お亮は十六歳の時、金沢市中の呉服商へ嫁いだのだが、出戻りをしていた。どのような事情があったのか、洋之進は知らない。わかっているのは、勝ち気でぽんぽん物をいうお亮を、自分が憎からず思っていることだけだ。
 憎からずどころか、ぞっこん惚れこんでいる。
 しかし、曲がりなりにも武士である自分と、商家の出戻り娘では、身分が違いすぎ、添い遂げられる望みはまったくない。決してほのかとはいえない恋情は、洋之進の胸にしまいこみ、誰にも知られてはならなかった。
 三十をいくつか超えた洋之進だが、未だ独り身である。
 留源寺から自宅までさほど遠い距離ではなかったが、お亮についてあれこれ思いえがきながら歩いていると、とくに短かった。
 玄関に入った洋之進が声をかける。
「ただ今帰りました」
 父親と二人暮らしの家なので声をかけたところで誰も迎えに出てくることもない。しかし、今日は違った。家の奥からどたばたと足音が近づいてくる。
「すえ、季丸……」
 三十過ぎの息子を、父は時々幼名で呼んだ。
「お客だ。座敷にお通ししている。お前も早く参れ」
「はい」
 でっぷり太った丸顔の父、豊之進はかなりせっかちな性分である。洋之進が返事をしたときには、とっくに背を向け、足音高く廊下を遠ざかっていた。

 黒羅紗布の上に並べられた二振りの刀を前にして、洋之進は、ぐっと奥歯を噛みしめた。借財も、塾も、お亮の面差しさえも脳裏からきれいに消えている。
 眼前の二刀はともにまったく同じ拵えで、どちらも全長が一尺もなかった。
 刀をはさんで向かいあっている男は、小柄で痩せていた。上品な髷は半白、顔には深いしわが刻まれている。口許におだやかな笑みをただよわせ、ちょこなんと座っているのは廻船問屋『柏屋』の主で与左衛門といった。
「いかがでございますか、若先生。よろしければ、是非ともお手にとってじっくりご覧くださいませ」
「何をしておる」豊之進が口をはさんだ。「せっかく与左衛門殿がわざわざ我ら父子に見せようと珍しい刀をお持ちくだされたのじゃ」
「は」
 うなずきはしたものの洋之進は手を伸ばそうとしない。
 短刀から名状しがたい違和感が立ちのぼってくるような気がして、その正体を見極めようとしていた。
「私どもが商いをしている中で見つけたものでございまして、さっそく渡部様のお屋敷にお持ちしたのでございますが、この種の刀剣に関しては馬渕様が御家中随一とおっしゃられ、すぐにお持ちするように仰せつけられまして」
 与左衛門はさりげなく口にしたが、渡部家の当主左近は、今は亡き母の兄にあたる。単に姻戚関係にあるばかりでなく、馬渕家も一員となっている頼母子講最大の出資者であり、さらに柏屋を紹介してくれたのも渡部左近である。そして馬渕家借財の半分以上は粕屋にあった。
 渡部左近は郡奉行を経て、今は藩政の中核機関寄合所で目付職に就いていた。目付職は渡部家代々において最高の地位であり、親戚中でも出世頭といえた。つまり左近は馬渕家にとって公私両面で頭の上がらない存在なのだ。
「おお、さよう申されたか。勿体ないお言葉じゃ」
 満面に笑みを浮かべた豊之進は洋之進に目を向ける。
「ささ、手にとってみろ」
「は」
 もはやぐずぐず詮索している余裕はない。一礼した洋之進は一振りを手にし、鞘を払うと切っ先を天井に向けた。
 行灯のぼんやりとした光を受け、反りのない刀身が不気味に輝く。
「これは見事」
 感に堪えないように豊之進がつぶやいたが、いささかわざとらしくもあり、与左衛門、ひいては渡部家に聞かせようとしている響きがあった。
 洋之進は、無表情な刀身に見入っていた。
 短い刀身は中央付近から先細りになり、切っ先は鋭く尖っている。身幅は厚く、元で一寸近く、先端付近でも半寸はあった。
 手にしてみると、ますます違和感が強まる。
 どこが違うのか。何が違うのか。洋之進は胸のうちで問いかけていた。
「どうした。何をそのように難しい顔をしておる」
「は」洋之進は片目をすぼめ、刀身を嘗めあげるように観ていた。「今まで手にして参りました刀の、どれにも当てはまらない、何やら異なものを感じます」
「異なもの……」
「さすが若先生」
 つぶやきかけた豊之進を遮るようにして、与左衛門はひざを乗りだし、大きな声をあげた。次の瞬間、与左衛門の顔からさっと血の気が引く。
「これは大先生の前でとんだ粗相をいたしました」
「いやいや、気にしないでくだされ。しかし、異なものとはどういうことじゃ」
「それが……」
 口許を歪め、首をかしげた洋之進だが、答えが出てこない。刀身をじっと見つめた。
「実は、唐刀にございます」ふたたび元の位置に戻った与左衛門がいった。「秘法を用いて鍛えられた一刀とか。何でも甲冑を貫くばかりでなく、一閃、敵の太刀を両断にすると聞きおよんでございます」
「ほう」
 いぶかしげな顔つきになったのは豊之進の方だ。太刀を両断すると聞いてもにわかには信じられないのが道理である。
 刀身同士を打ちあわせれば、刃こぼれが凄まじく、ほんの一合、二合で使い物にならなくなるのが宿命で、研ぎすまされてあるがゆえ、鋭さと脆さを併せもつのが宿命といえた。
 しかし、硬軟複数の鋳鉄を組みあわせ、刀鍛冶が鍛えに鍛えて一刀とするために刀身自体に粘りがあり、容易に折れたり、ましてや斬りおとしたりできるものではない。
 斬鉄剣の伝説は数々あったが、豊之進、洋之進ともに一度として実物を目にしたことはなかった。
「もし、秘法が本物であるならば、この刀をもって太刀を両断にできるのは馬渕様をおいてほかにないと、かように渡部様が仰せられまして」
 父子は、ほんの一瞬、互いの目と目を見交わした。

 道場に面した庭は、雑草がほしいままに伸びていた。父子ともども雅趣に乏しいだけでなく、生来の不精者、くわえて掃除をする門弟もないと来ては庭が荒れるのも無理はない。
 庭の一角に洋之進は古びた縁台を持ちだすと、それを伏せて置いた。天を指す四本の脚の一つに大刀の柄をしっかりと縛りつける。試し斬りにと与左衛門が持参したのは、数打ち物と呼ばれる安い一刀というが、正直なところ洋之進には惜しかった。どれほど安価であろうと貧乏な町道場にとっては徒やおろそかにできない一振りなのだ。
 裸足で庭に降りたった洋之進は、唐刀のみを左腰に差していた。縁側には豊之進と与左衛門が並んで腰を下ろしている。
 二人の見物人に向かって一礼した洋之進は、空に突きたつ大刀に対峙すると、右手を唐刀の柄にかける。もとより短刀ゆえ、柄も握り拳一つ分くらいしかない。
 はっとひと声発し、洋之進は唐刀を抜きはなった。
 まずはゆっくりと刃先を旋回させる。腕の動きが速くなるにつれ、洋之進の躰にはきらめく白銀の環がまとわりついていった。庭に射しこむ残照を唐刀がはじいているのだ。
 やがて光が連なり、閉じた環となって見えてくる。洋之進の動きが速く、宙に残像となるためだ。環は洋之進の頭、肩、胴、そして半歩踏みだした右足に沿って変形する光輪となる。見物している者の目には、暗くなりかけた庭に人間の形がぼうっと浮かびあがっているはずだ。
 馬渕月心流は、中条流中興の祖といわれる富田勢源の流れをくむ。
 勢源は、越前国宇坂の庄、浄教寺村出身で小太刀の名手として名高かった。中条流を学び、勃興させたのみならず、自らも富田流小太刀を編みだしている。
 つねに一尺二寸の小太刀で戦ったとされ、美濃国へ赴いたとき、斎藤義龍に請われて神道流の達人梅津某と勝負した話が有名で、真剣勝負を望む巨漢を相手に薪一本で立ち向かい、倒したという伝説が残っている。
 馬渕月心流は、小太刀の中でも鎧通しと呼ばれる特殊な短刀を選び、工夫に工夫を重ねてきた剣法で、屋内、それも人で混み合う場を戦場とする。
 あまりに特殊、あまりに実戦的であるため、門弟が皆無になるほど人気がない。
 次いで唐刀を左手に持ちかえた洋之進は、左足を前に出した。右腕同様、左でも躰の周囲に光の環を描く。
「おお、左手でも同じにお使いになれますか」
「右腕を斬りとばされることもありますのでな」豊之進が解説する。「左手一つでも戦いぬけるところに馬渕月心流の神髄がござる」
「さすがは」
「ところで、唐刀にとくに銘はござらぬのか」
「唐では『流星』の名が伝えられていたとも聞きましたが、本当のところはわかりません。なにゆえ流星などと……」
 与左衛門の声が途切れた。
 銀の環が消え、洋之進は唐刀を鞘に収めた。豊之進が声をかけた。
「よいか」
「は」
 一つうなずき、垂直に立てられた大刀に正対した洋之進は、腰に差した刀を鞘ごと反転させ、刃が下向きになるようにした。柄を真上から握るように左手を置き、親指を伸ばす。
「奥義、新月剣」
 つぶやいたのは、豊之進である。
 与左衛門は息を詰め、ひたすら見守っていた。
 試し斬りに供される大刀を前に、洋之進は目蓋を半分閉じた。先はどのように躰を沈めることもせず、ぼんやり立ちつくしているように見える。躰の力を抜き、何の構えも見せないところに新月剣の真骨頂があった。
 新月剣とは、鎧通しによる逆手の抜き撃ちで、相手の刀身を避けつつ一瞬にして逆袈裟に斬りあげる。
 大刀を試し斬りに、という与左衛門の言葉を聞いた刹那、見交わした父子の間には無言の了解が成立していた。
 新月剣しかない、と。
 忍びよる夕闇の中、白い光を宿した大刀を見つめつつ、洋之進は身の裡にある音、心臓の鼓動に耳をかたむけていた。
 とく、とく、とく……。
 心拍と心拍の狭間、その一瞬に心、技、体が融合し、心消え、技消え、体消えと新月剣奥義書にある。
 とく……、とく……。
 ときが間延びし、眼前に白い刀身のみが浮かびあがる。
 左手が自然と出た。洋之進の脳裏にあったのは、斬ることではなく、大刀をすり抜けた先に達する唐刀の姿のみである。
 見えた、といってもよい。
 光が一閃する。左下から右上へ。先ほどの銀の環とは較べものにならないほど目映い。
 金属同士が打ちつけられたのだから当然派手に火花が散る。
 また、音はあまりに鋭く、聞くものの耳に音として感得するを許さなかった。ただ脳髄を通りぬけていったのみで、まるで輝く針のようにしか感じられない。
 唐刀が鞘に収まり、あたりに静寂が戻った直後、刎ねあげられた大刀の刀身が落ちて来て地面に突き刺さる湿った音がした。
「銘を……」洋之進はいつもと変わりない、平板な声で訊ねた。「今一度、銘を」
「流星」
 与左衛門の声はひどくかすれ、震えを帯びていた。

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