書籍試し読み
詳しくはBOOK NAVIへ
短編少女
集英社文庫編集部 編

 てっぺん信号     三浦しをん

 くじで窓際の席が当たったのをいいことに、江美利は授業中、もっぱら外の景色ばかり眺めている。
 私立S学院高等部一年B組は、グラウンドに面した校舎の三階にあり、見晴らしも日当たりもすこぶるいい。九月に席替えをした当初は、カーテンを閉めても防ぎきれぬほど日差しが降りそそぎ、江美利はあやうく焦げたパンと化すところだった。夏の最中ですら用心して海に行かずにいたというのに、室内でおとなしく座っているだけでじりじり日焼けするはめになるなんて、理不尽もいいところだ。
 十二月も迫ったいまになってみると、この席は上々の居心地である。ぬるい陽光にあたためられ、炬燵のなかの猫みたいに背中は丸まりまぶたはくっつく。これではいけないと窓の外に視線をやれば、冬の空は薄曇り。グラウンドで持久走をする三年生は明らかに身の入らぬ様子。閉ざされた校門の向こう、埃っぽい県道をたまにトラックが行き過ぎる。県道と並行して流れる川は、細かい鱗を敷き詰めたみたいに白く輝く。
 窓を開ければ潮の香りがするだろう。河口は近い。
 窓から見える景色のなかで、江美利の一番のお気に入りは対岸にある緑の丘だ。このあたりはほとんど平坦な土地なのに、そこだけお椀を伏せたみたいにきれいに盛りあがっている。丘の西側(江美利から見て左側)には太平洋が広がり、丘の前面にはゆったりと川が流れているものだから、まるで島みたいだ。
 戦国時代には丘のてっぺんに小さな城があったらしいが、ちょっと眉唾だと江美利は思っている。名所も名物も特にない町のこと、史跡とするにふさわしい場所があるなら、とっくに公園にでもなっていそうなものだ。しかし、丘に城址公園があるなど聞いたことがない。江美利は生まれたときからこの町に住んでいるけれど、丘に登った記憶はとんとない。たぶん、見るべきものはなにもないからだろう。
 でも、丘の頂上、本々の葉陰に、建物の外壁がかすかに覗く。のっぺりと硬質な感じの白い壁だ。城の物見櫓のようでもあるし、なにかの研究施設のようでもある。江美利の視力は両目とも2.0なので、手がかりになる看板でもないかと目をこらすのだが、樹木に阻まれて建物の全容はうかがえない。一度、丘へ行ってたしかめてみようかとも思うけれど、一日の授業が終わって校門を出るころには、そんな思いつきはいつも忘れてしまう。
 あまりよそ見をしていては、先生に怒られる。江美利はようやく黒板のほうへ顔を向けた。
「ピラミッドがなぜ建設されたのか──ファラオの墓だとか、農閑期の農民を雇用するための公共事業だとか、なんらかの祭祀に使われたとか──諸説あります……」
 フクちゃん(世界史担当)は、江美利の眠気をますます誘う一本調子で、古代エジプト文明について解説中だ。「いずれにせよ当時の人々が、死後の世界、つまり来世を信じていたのはまちがいなさそうです。幸せな来世の到来を願う宗教は、生きるのに苦難を伴う時代に勃興します」
 ノートを取る気にもならず、江美利は教壇に立つフクちゃんを見る。フクちゃんは自身の授業中、生徒の三分の二が魂を浮遊させ、残り三分の一が机につっぷしていることを、もはや諦めとともに受け入れているようだ。痩身で見るからにおとなしそうな中年男フクちゃんは、体内にレコーダーでも仕込まれているみたいに、教科書に書かれたことを淡々と説明していく。
 師走も近い時点で世界史の授業が古代エジプト文明までしか進んでいないのは、致命的遅延と江美利には思えるが、フクちゃんもクラスメイトも気にしていないもようだ。
 S学院は小学校から大学まであり、生徒の顔ぶれはほとんど変わらない。江美利のように中学受験でS学院に入ったものと、小学校からエスカレーター式に中学に上がったものとでは、一対三の割合だ。高校受験でS学院に入学した生徒の教はといえば、三十人もいないだろう。
 S学院生のたいがいは、近郊の小金持ちの家の子で、自分でこつこつ勉強して難関大学合格を目指しているか、エスカレーター式に付属の大学に入れればいいやと思っているか、寄付金を出すからなんとか高校だけは卒業してほしいという親の意向でしぶしぶ通っているかだ。いずれにせよ、フクちゃんの世界史にはだれもなにも期待していない。授業の進捗が致命的遅延を見せようとも、だれからも文句は出ない。
 自由放任といえば聞こえはいいが、生まれてこのかた満腹以外知らない自堕落な獣の群れを、無理やり集めて学校の体をなしているだけともいえる。
 幸せな来世の到来を願う宗教は、生きるのに苦難を伴う時代に勃興する。
 本当だろうか。
 どう考えても、幸せな来世の到来を願うにふさわしい苦難を味わったのは、ファラオよりもピラミッドを作った人々のほうだという気がする。にもかかわらず、豪華な壁画と副葬品に囲まれ、黄金の棺で眠るのはファラオだ。王さまだけに約束された幸せな来世。
 もし、来世が本当にあるとしたら。江美利は資料集を眺めるふりで頬杖をつく。きれいな女の子に生まれ変わりたい。
 高校生になるまでは、生まれ変わるなら男がいいと漠然と思っていた。男子のほうが気楽そうだし楽しそうだから。でも、いまはちがう。奥井先輩を好きになってからは。
 奥井先輩はたぶん、恋愛という意味では男を好きにならないだろう。性別が女だというだけの地味でブスな人類のことも好きにならないだろう。万が一、奥井先輩が地味でブスな女とつきあったりしたら、江美利はきっと許せない。奥井先輩の地味でブスな彼女のことも、そんな女と交際する奥井先輩のことも。つまり、江美利は自分が奥井先輩とつきあうなどという事態を、空想することすら自身に許していない。
 だから、来世があるなら、一刻も早く生まれ変わりたいものだと思う。奥井先輩とつきあってもおかしくないような、きれいな女の子に。
 そう、竹田しづくみたいな子になりたい。
 江美利は頬杖をはずさぬまま、教室の中央付近に視線だけ移動させる。しづくの薄くて小さな背中を、左斜め後方から見る形になる。細い肩さきに、うつくしい黒髪がかかっている。しづくはたまに髪の毛を左手で肩へ流しながら、鉛筆を持った右手を動かしている。黒板の文字を写し取っているわけではないようだ。鉛筆はノートのほぼ同じ箇所で、円を描くように動いている。
 視線の圧に気づいたのか、しづくが江美利のほうをちょっと振り向いた。盗み見していたのがばれて、江美利は気まずくうしろめたく、どぎまぎした。けれど、ここでわざとらしく視線をそらしては、なおさらしづくに気味悪がられるおそれもあり、目を合わせたまま無理やり微笑してみた。ぎこちなくひきつったような笑顔になったのが自分でもわかり、ああキモいの確定だどうしよう、と掌と腋にじんわり汗がにじんだが、しづくは江美利に向かって微笑みかえしてくれた。そのうえ、フクちゃんの目を盗んで手もとのノートを立て、江美利に見えやすいように少しかざしてみせる。
 しづくはやはり板書など写さず、ノート一面に落書きをしていた。花のように曼荼羅図のように、白い紙に幾何学模様がびっしり描きこまれている。
 江美利は今度こそリラックスして、声は出さずに笑った。しづくって、変な子。しづくもいたずらっぽく笑い、黒板のほうに向き直って、幾何学模様の密度を上げる作業を再開する。
 しづくは高等部から入学してきた。江美利は武村江美利なので、四月から三カ月間はしづくと席が前後だった。それで話すようになった。
 あまり目立たなくておとなしいしづく。だけど、実は顔が小さく、近くで見ても肌が白くなめらかで、長いまつげをしている。お人形みたいに整ってうつくしい顔。整いすぎているせいで、かえってだれもしづくのうつくしさに気づかないのかもしれない、と江美利は思う。
 しづくの美は、マスカラを塗りたくったうえにつけまつげを装着し、アイラインで目を強調した大多数の女子とはまるでちがう部類だ。
 S学院高等部は、男子しか制服がない。「華美な服装でなければ」女子は私服で登校してもいい。といっても、ほとんどの女子が、準制服という名の学校が作った制服を着ている。そのほうが「女子高生」だと周囲に知らしめることができるからだろう。細身で紺色のブレザーと、灰色のプリーツスカート。もちろん腿がほぼ丸出しになるぐらいまで短くして穿く。くすんだ紺色のナイロン製学校鞄に、小さなぬいぐるみやらビーズのストラップやらをじゃらじゃらつけて歩く。それを見るたび、江美利は若き日の織田信長が腰にひょうたんをたくさんぶらさげていたという逸話を思い出す。尾張のうつけ者。「うつけ」という言葉が彼女らにはふさわしい。
 しづくは、そんな恰好は絶対にしない。スカートは膝がちょっと見える程度の丈で、ほっそりとしなやかな脚がよりいっそう際立つ。鞄には飾り気がなく、化粧もしない。たまに、「唇が荒れちゃった」と透明のリップクリームを塗るぐらいだ。
 それでも江美利の視界のなかで、しづくほど輝いて見える女の子はいない。男子なら奥井先輩。女子ならしづく。江美利はこの両名に、ベクトルはちがえど激しく好意を燃やしているのだった。
 江美利はしづくよりも三年早く、中学からS学院に在籍しているわけだが、友だちと呼べるひとはしづくが現れるまで存在しなかった。江美利は地味だ。どれだけ細心の注意を払って鏡を眺めても、しづくのような秘めた、しかし確固たる美はどこにも見当たらない。悪いことに社交性も欠落しており、端的に言って暗い。特筆に値する趣味も特技もなく、家と学校を黙然と往復する毎日を送っている。
 友だちなんかできっこない。そんな状態に拍車をかけるのが、携帯電話を持っていないという事実だ。両親に何度も交渉したのだが、所持を許してもらえなかった。高校生にもなって携帯不携帯なのは、S学院ではたぶん江美利だけだろう。
 江美利も、なにも好きこのんで薄暮めいた陰鬱なる日常を過ごしていたのではない。できることなら友だちがほしかった。携帯だってほしい。「あの子、暗いよね」と遠巻きにされる学校生活はもういやだ。
 そこで、高校の入学式の日に一念発起した。絶対に友だちをつくる。中学まで一緒だった子たちには、江美利が地味で暗くておもしろみがない人間なのを知られている。狙い目は、高校から新しく入ってくる子だ。江美利の暗さを知らず、友だちゼロ人の実績を知らず、新しい環境に戸惑いと心細さを覚えているであろう子。そんな子に親しげに話しかけ、親切に学校を案内でもしてあげれば、きっと友だちになれる。
 こうして江美利は、思惑どおりしづくと友誼を結んだのだった。しづくが思いがけずうつくしいひとだったのは、うれしい計算ちがいだ。
 しづくはもちろん携帯電話を持っている。入学して日が経つにつれ、江美利以外に親しく話す友だちもできたようだ。派手な一団とは距離を置いているけれど、気立てがよくてきれいなしづくを、「暗い」と言ったりバカにしたりする子はいない。
 江美利はちょっとさびしかったが、我慢した。しづくがクラスの輪に溶けこんでいくのを、少しの誇らしさをもって見守った。
 この学校でしづくと一番最初に友だちになったのは江美利だ。しづくの友だちがどんなに増えても、しづくは江美利をないがしろにせず、微笑みかけてくれる。いまみたいに。
 江美利は曼荼羅(?)をこっそり見せてくれたしづくに満足し、窓の外をまた眺めはじめる。フクちゃんはミイラのつくりかたを懇切丁寧に解説している。
 緑の丘のてっぺん、白い建物のあたりで、なにかが小さく光を反射した。おや、と思って江美利はしばらく丘を凝視していたが、気のせいだったのか、さしたる変化は起こらないままチャイムが鳴った。

 お昼休みや体育の準備体操のとき、しづくと一緒に行動できるか否か、江美利はいつも緊張する。しづくとペアになれなければ、話したこともない地味なあぶれもの同士で準備体操(柔軟や背筋のばし)をしたり、教室の隅っこで一人で弁当を食べたりすることになる。
 しづくは毎日学食で食べるのだが、その日は江美利に声をかけてくれた。江美利は母親が作った弁当を持って、しづくとともにいそいそと学食へ行く。
 生徒数が一学年あたり三百人なので、高等部専用の学食は常に混みあっている。しづくがカウンターヘサンドイッチを買いにいった隙に、江美利はぬかりなく席取りをした。自分の席には弁当箱を置き、しづくのために確保した向かいの席には脱いで畳んだカーディガンを置く。
 一安心した江美利は、無料のお茶を二人ぶん取りにいった。ヤカンからプラスチックの湯飲みにお茶をつぎ、両手にひとつずつ持って席に戻る。
 椅子に座ろうとして、動きが止まった。迂闊だった。並びのテーブルにサッカー部員が塊になって座っていた。奥井先輩もいる。一年の男子の頭を羽交い締めするように抱え、笑っている。一年男子も笑いながらわざとらしく悲鳴を上げている。
 奥井先輩は今日も恰好いい。しかし問題は、このまま江美利が弁当箱のある席に座ると、奥井先輩に背を向ける形になってしまうということだ。自分の顔が奥井先輩の視界に入ることで、先輩の網膜を汚したくはない。だが、並びのテーブルから奥井先輩をチラ見するぐらいは許されるのではないかという気もしなくはない。
 ふたつの湯飲みをテーブルに置きながら、どうするべきか江美利は光速で考えた。やっぱりしづくと席位置を交代しようと結論づけ、弁当箱とカーディガンとを入れ替えかけたそのとき、サンドイッチを買ったしづくが来てしまった。
「どうかした?」
 中腰だった江美利は、あわてて背筋をのばし、なんでもないと首を振った。弁当箱とカーディガンはもとの位置のまま、江美利は先輩に背を向ける形で、しづくはテーブルと江美利越しに先輩のほうを向く形で、椅子に尻を落ち着けた。
 しづくは「ありがとう」とカーディガンを江美利に返した。カーディガンに体温が残っていたのではないか、しづくはそれを気色悪いと感じたのではないか、と江美利は懸念したが、カーディガンはあたたかくも冷たくもなく、強いていえば室温程度だった。江美利はカーディガンを羽織り、背中にも目があったらいいのにと心の底から思った。
 先輩の清潔そうな指さき。球ばっかり蹴ってるわりには賢そうな面立ち。冬になっても日に焼けたままの健康そうな肌。ほがらかな、でもどこか繊細さもあるやさしい笑顔。
 見たい。振り返ることはできない。
 弁当をひたすら食うロボットみたいに箸を動かす。しづくの様子をうかがうと、無心に食べている。せっかく奥井先輩を見ることができる位置にいるのに、サンドイッチにしか興味がないようだ。
 とうとう辛抱できなくなって、
「うしろの席に奥井先輩がいる」
 と、江美利はしづくに囁いた。しづくはそこではじめて顔を上げ、江美利の背後を見た。
「ほんとだ。席かわる?」
「いい。気づかれたら恥ずかしい」
「江美利ったら、奥ゆかしいんだから」
 しづくはわずかに口角を上げた。しづくこそ奥ゆかしい。
「気づかれないように、先輩の様子を実況中継してあげようか。なるべく小声かつ腹話術の要領で」
「できるの?」
「ムリカモ。ゴメンネ」
 腹話術人形っぽい声真似でしづくが言ったので、江美利は笑った。しづくも笑った。
 ぶーぶーと携帯のバイブ機能が作動する音がした。しづくはスカートのポケットに手をつっこみ、画面を一瞥する。メールが届いたらしい。
「まみちゃんから」
 と、クラスメイトの名をあげる。江美利はしゃべったことがない子だ。ほとんどの同級生と江美利はしゃべったことがない。
「『次の移動教室、第一化学室だっけ、第二だっけ』だって」
「第二」
「おっけ」
 すごい速さでボタンを押し、しづくは返信を打った。
 曼荼羅描いてたくせに、清楚な美少女って感じなのに、練達の女子高生っぽい。
 江美利は憧れと尊敬の眼差しをしづくに送る。しづくみたいになりたいとまた思った。
 メールを返信し、しづくが携帯をポケットに戻したとたん、江美利の背後でぶーぶーと携帯のバイブ機能が作動する音がした。奥井先輩が座っているあたりだ。あまりのタイミングのよさに、江美利の胸にふいに疑惑の靄が湧く。
 本当にまみちゃんからメールが来て、まみちゃんに返信したのか? しづくは実は、奥井先輩とメールをやりとりする仲なのではないか? 私が奥井先輩を好きだと知ってるくせに、それを応援するふりをしてきたくせに、実はしづくこそが奥井先輩とつきあっているのではないか?
 しづくは江美利のいれたお茶を飲んでいる。サッカー部の面々はあいかわらず騒いで
いる。奥井先輩の笑い声もする。
 なにもおかしなことはない。ぶーぶーは空耳だったのかもしれない。もしくは、奥井先輩以外のだれかに、しづく以外のだれかからメールが届いたと考えるほうがまっとうだ。学食には二百人からの生徒がひしめきあっているのだから。蠢く二百の胃袋。目に見えぬまま、だれかからだれかへと飛び交う電波。
 江美利はふいに、文化も習慣もちがう星に放りこまれた気分に陥る。内臓の配置すら自分だけ異なっているような気持ちになる。
 江美利に向けて発信される電波はひとつもないというのに、視線の圧だけは敏感に感じ取るとは、不思議なものだ。食事を終え、しづくとともに席を立った江美利は、だれかに見られている気がしてふと振り返る。
 奥井先輩が江美利を見ていた。正確に言うと、江美利の隣のしづくを見ていた。
 しづくは奥井先輩の視線に気づかない。気づかないふりをしているだけかもしれない。しづくが無反応なのをたしかめ、江美利が奥井先輩に視線を戻したときには、奥井先輩はもうサッカー部員のほうに顔を向けていた。
 さすが、しづく。きれいだから奥井先輩もしづくが気になったんだ。
 そう思って誇らしさをかきたてようとしたが、疑惑の靄が抑えようもなく体内に濃く立ちこめだし、江美利は胞子を振りまく寸前の毒キノコ。一刻も早く体じゅうの穴という穴をふさがなければ、しづくも奥井先輩も学食にいる生徒も毒素をかぶって阿鼻叫喚の地獄絵図に放りこまれてしまうだろう。
 江美利はなるべく息を止めたまま、「トイレ行ってくる」としづくのそばを離れる。期せずして、さきほどしづくが実演してみせた腹話術人形じみた口調になった。

 川沿いを走る路線バスに乗って、山のほうへ三十分ほど行くと江美利の家だ。
 あたりにぽつぽつとあるのは大半が農家、空いた敷地にちらほらとアパート。あとは段々畑に緑の畝のようにつらなる茶の木、斜面に生えたミカンの木。
 そんななか、江美利の自宅だけ異彩を放つ。広い前庭には手入れの行き届いた芝生。猫足の白いテーブルと椅子(ただし、いずれもプラスチック製)。家屋はログハウス調で、天気のいい日には玄関のまえのウッドデッキにゴールデンレトリーバーのサムエルが寝そべっている。
 今日もサムエルは、バス停から坂を登ってきた江美利を見るや、デッキから身を起こして盛大に尻尾を振った。ゴールデンレトリーバーは、触ると見た目よりも毛が厚い。もこもこした毛に手をうずめるようにして揉み撫でてやると、サムエルが目を細めた。アホ面だけどかわいい。
 玄関のドアを開け、サムエルと一緒に「ただいま」と室内に入った。吹き抜けになったリビングダイニング。床も壁も天井もすべて木でできている。天井では真鍮のファンがゆっくりまわっている。
 長い煙突のついた薪ストーブのまえで、父親が四つん這いになっていた。なかを掃除して、この冬の使用に備えているところらしい。対面式のキッチンから、「あら、おかえり」と母親が声をかけてくる。
「今日はポトフなの。まだ野菜を切ってるところだから、できあがるまでもうちょっとかかるわよ」
「うん、着替えてくる。なにか手伝う?」
「じゃあサラダを作って」
 サムエルは父親のそばへ行き、おとなしく座っている。父親はようやく江美利の帰宅に気づき、ストーブから顔を出した。煤で汚れた軍手をはずし、両腕を広げる。
「おお、江美利! おかえり。学校はどうだった?」
「楽しかったよ」
 いちいちが大仰な父親のために、しかたなく抱擁に応じる。「パパは?」
「パパは画業を中断して、ママとポトフのために薪ストーブのメンテナンス中だ」
 薪ストーブに鍋を載せ、熱々のポトフを食べるのが、武村家における寒い季節のしきたりだ。江美利としてはポトフよりおでんを食べたい。鍋をあっためるだけなら、薪ストーブじゃなく電熱器でいいじゃないかと思う。でも口には出さない。
 日本の中途半端な田舎で堂々と洋風の暮らしを営むせいで、武村家は風景からも人間関係からも浮きあがっている。しかし両親はちょっと浮世離れしており、周囲から自分たちがどう見られているか、ほとんど気にしない。父親はいちおうは名を知られた画家で、こまごまとした頼まれ仕事から美術展に出品する大作まで、離れのアトリエで日々創作活動に励んでいる。母親は家を隅々まで磨きあげ、庭の手入れをし、時間をかけて三食を作ることに人生のすべてをかけていると言っても過言ではなく、そつなく近所づきあいもこなしていると自分では信じている。
 江美利になにが言えようか。
 時代錯誤な洋風かぶれには理由があって、父親はハーフである。江美利の祖母はフランス人だったのだそうだ。ところが江美利の父親は、厚ぼったい一重まぶたに胴長短足、どこからどう見ても和風の風貌だ。おまけに江美利も父親似という悲劇。クォーターですなんて恥ずかしくてだれにも言えないし、言ったってだれも信じないだろう。
 江美利は父方の祖父母に会ったことがない。祖父は父親が美大を卒業した年に病気で亡くなったそうだし、祖母は父親が小さいころに離婚して、フランスヘ帰ってしまったらしい。いまとなっては追及しようもないが、本当に祖母はフランス人だったのかと江美利は疑問に感じている。しかし父親の弟二人(つまり、江美利にとっては叔父)も、彼らの子どもたち(つまり、江美利にとってはいとこ)も、ものすごくバタ臭い顔で長身。江美利の家族を除いては、異国の血が入っているというのもうなずける美々しい一族なのだった。
 無論、江美利は親戚が一堂に会するような冠婚葬祭の席がだいきらいだ。
 木製の階段──梯子に毛が生えたがごとき代物──を上り、とりあえず自室に引きあげる。つくりとしてはロフトだが、天井までの高さは充分ある。ただ、声も空気もリビングダイニングとまるきり共有せねばならないのがつらい。独り言もなかなか言えない。
 江美利は部屋着に着替え(母親が用意した白いモヘヤのセーターと、水色の地に紺色の小花が一面に散った厚手のスカート。すこぶる似合わない、と鏡を見て江美利は自己判断する)、準制服はハンガーにかける。
 父にはフランスの血など一滴も入っておらず、祖父がよそで作ったか橋の下から拾ってきたかした子にちがいない。江美利は幼いころから何度も考えてきたことを、また考える。そうだとすれば、父の洋風かぶれもうなずける。幻のフランスの血に敬意を表し、半分だけフランス人だと自分に言い聞かせるために、父親は油絵を描き、アルプス風(たぶん)の山小屋を建て、年ごろの娘がいやがってもハグを欠かさず、おでんではなくポトフを食べるのだ。
 父親の実母は、どこのだれなんだろう。江美利はいらだつ。フランス語もしゃべれないくせにフランス人たろうとする父親にも、そんな父親をいさめるどころか助長するような言動を取る母親にも(ポトフ作ってる場合か、黒はんぺん入りのおでん作れ)、真相を明らかにすることなく黙ってフランスヘ帰ったきり音信不通の祖母にも、浮気したかもしれない死んだ祖父にも、無責任にも父親を生み捨てにした(かもしれない)本当の祖母にも。すべてに対して江美利はいらだつ。
 奥井先輩。江美利のただひとつのきらめく星。丘のうえで一瞬輝いた光みたいに遠いひと。
 江美利は友だちを信じたい。しづくが裏切ることなんてないと信じたい。でももし、しづくのメールの相手が江美利の直感どおり奥井先輩だったとしたら?
 しづくを殺す。
 いらだちという感情からの連想で、昼に湧いた靄を再発生させた江美利は、自分にそう誓った。
 美人は性格が悪いという俗説はウソだ。しづくはきっと、こんな醜い気持ちとは無縁のはずだ。江美利だって人形のように整った外見だったら心まで醜くならずにすんだ。しづくは清楚な日本人形、江美利は華やかなフランス人形。そうだったなら、世界はどれほどうつくしく江美利の目に映ったことだろう。
 駅前まで出かけたとき、恥を忍んで母親にイオンで買ってもらった九百八十円の美顔ローラーを頬に転がし、江美利は念じる。
 生まれ変わったらきれいな女の子になりたい。
 ロマンティックな白い鏡台に向かう自分は、目が細い反面、小鼻も顔の輪郭も丸い。「休みのあいだ、ほぼ毎日海で泳いじゃった」と笑っていたしづくより、夏じゅう家に籠もっていた江美利のほうがいまや色黒。奥井先輩の試合を応援しにいくのも、断腸の思いで控えたというのに。
 江美利は片頬につき五十回ずつ美顔ローラーを転がしてから、なるべく明るい表情を作って階段を下りた。
 幸せな来世に期待するほかなかった古代エジプト人の気持ち、その生きる苦難が少しはわかる。

トップページへ戻る