書籍試し読み
詳しくはBOOK NAVIへ
逆転
小杉健治

     第一章 身代わり

    1

 四月十一日。
 弁護士の鶴見京介は東京地裁の小会議室で行なわれた第一回の公判前整理手続を終えて虎ノ門の柏田四郎法律事務所に戻った。
 公判前整理手続とは、裁判官、検察官、弁護人で話し合いをし、裁判が迅速に進められるように事前に争点や証拠の整理などを行なうことである。
 地裁から戻った京介は、執務室に閉じこもって裁判資料を調べていた。
 地裁を出たとき、雨雲が張り出していて、外はすでに夕闇に包まれたように暗かった。明かりを点けた執務室で、京介は資料を何度も読み返した。
 一月三十日、北区東十条にあるマンションの一室で、三十代半ばと思われる女性が刃物で胸と腹部を刺されて殺され、傍らに石出淳二が呆然と立っているのを、管理人が見つけた。
 管理人は、女のひとの悲鳴を聞いたという知らせを受けて、この部屋の様子を見にきたのだ。
 被告石出淳二は四十三歳。寡黙な男だ。憂いがちの目は涼しいが、寂しそうな顔だちだ。いつも口を固く結んでいるせいか、何かにじっと耐えている、そんな雰囲気が漂っている。
 京介は石出淳二の弁護人になる数カ月前から石出を知っていた。
 石出は去年の十一月初め、府中刑務所を出所した。殺人で懲役十三年の刑を終えた石出を府中まで迎えに行ったのは、石出の弁護を担当した柏田四郎だった。
 京介は東京の大学の法学部に入って四年のときに司法試験に合格し、大学を卒業後、二年間の司法研修生の生活を経て、この柏田四郎法律事務所で居候弁護士になった。

 去年の十一月十日。柏田は府中から出所した石出を虎ノ門の事務所に連れてきた。
「鶴見くん。紹介しよう。石出淳二さんだ」
 柏田はすぐに鶴見を自分の執務室に呼び、石出と引き合わせたが、これには大きな意味があることを京介はのちに知ることとなる。
「鶴見です」
 京介は挨拶をした。
 三十を過ぎても、まだ学生っぽい青臭さを残しているが、いくつもの難しい事件に向き合い、それなりの経験を重ねてきた京介には自信から来る風格のようなものが漂いはじめている。
「石出です」
 石出は聞き取りにくいほどの小さな声で名乗った。
「君も座らないか」
 柏田に勧められ、京介もテーブルをはさんで石出と向かい合った。
 事務員がコーヒーを淹れて持ってきた。
 石出は目の前に置かれたコーヒーカップにじっと目を注いでいた。事務員が去ってから、柏田がきいた。
「コーヒーはだめか」
「いえ。久し振りなので」
 石出はぽつりと言い、砂糖とミルクを入れた。
「おいしい」
 石出はコーヒーを味わうように飲んだ。石出にはこれも社会復帰のひとつなのだ。
「今後のことだが」
 柏田が切り出す。
「私が預かっていた君の預金はそのまま残っている。家を売った金も合わせればそこそこはある。部屋も幾つか見つくろった。君が気に入った場所を選ぶがいい。お祖母さんが遺してくれた財産だ。大事に使って下さい。とりあえず、今夜はビジネスホテルに部屋をとってあるから」
「すみません」
 石出は頭を下げた。
 服役中に、石出の祖母清子は亡くなっている。
「仕事だが、中では木工の作業をしていたというので、木工所に声をかけてみた。北区赤羽にある木工所で雇ってくれそうだ」
「ありがとうございます」
「明日にでも訪ねてみよう」
「その前に……」
 石出が口籠もりながら、
「ちょっと用事があるんです」
「用事?」
「はい……」
「どんな用事なんだね」
「用事というより休養です。府中の垢を温泉に浸かって落としてきたいのです」
「そうか、温泉か。それもいいかもしれないな」
 柏田は賛成し、
「どこか当てがあるのか。近場なら熱海か箱根か。鶴見くん。予約をしてやってくれないか」
 と、京介に顔を向けた。
「わかりました。どちらにしましょうか」
「箱根なら知っている宿があるが」
 柏田が言うと、
「いえ」
 と、石出は首を横に振った。
「じつは、山中温泉に行ってこようと思っています」
「山中温泉?」

トップページへ戻る