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明智小五郎事件簿 Ⅻ
悪魔の紋章 地獄の道化師
江戸川乱歩

 悪魔の紋章 1934年3月初旬〜4月27日

     劈頭の犠牲者

 法医学界の一権威宗像隆一郎博士が、丸の内のビルディングに宗像研究室を設け、犯罪事件の研究と探偵の事業をはじめてからもう数年になる。
 同研究室は、普通の民間探偵とは違い、その筋でもてこずるほどの難事件でなければ、決して手を染めようとはしなかった。いわゆる「迷宮入り」の事件こそ、同研究室のもっとも歓迎する研究題目であった。宗像博士は、研究室開設第一年にして、すでに二つの難事件を見事に解決し、一躍その名声を高め、爾来年ごとに著名の難事件を処理して、現在では、名探偵といえば、明智小五郎か宗像隆一郎かというほどに、世に知られていた。
 天才明智は、その生活ぶりが飄々としていて、なんとなくとらえどころがなく、気にいった事件があれば、シナヘでも、印度へでも、気軽に飛び出して行って、事務所を留守にすることの多いのに反して、宗像博士の方は、明智のような天才的なところはなかったけれど、あくまで堅実で、科学的で、東京を中心とする事件に限って手がけるという、実際的なやり方であったから、期せずして市民の信頼を博し、警視庁でも、難事件が起こると、一応はかならず宗像研究室の意見を徴するというほどになっていた。
 事務所なども、明智の方は住宅兼用の書生流儀であったのに反して、宗像博士は、家庭生活と仕事とをハッキリ区別して、郊外の住宅から毎日研究室へ通よい、博士夫人などは一度も研究室へ顔出しをしたことがなく、又研究室の二人の若い助手は、一度も博士の自宅をたずねたことがないという、厳格きわまるやり口であった。
 丸の内の一郭、赤煉瓦貸事務所街のとある入口に、宗像研究室の真鍮看板が光っている。赤煉瓦建ての一階三室が博士の探偵事務所なのだ。
 今、その事務所の石段を、這うようにして上がって行く、一人の若い背広服の男がある。二十七、八歳であろうか、その辺のサラリーマンと別に変わったところも見えぬが、ただ異様なのは、トントンと駈け上がるべき石段を、まるで爬虫類ででもあるように、ヨタヨタと這い上がっていることである。急病でも起こしたのであろうか、顔色は土のように青ざめ、額から鼻の頭にかけて、脂汗が玉をなして吹き出している。
 彼はハッハッと、さも苦しげな息をはきながら、やっと石段を登り、ひらいたままのドアを通って一室にたどりつくと、入口のガラス張りのドアに、からだをぶっつけるようにして、室内にころがり込んだ。
 そこは宗像博士の依頼者接見室で、三方の壁の書棚には博士の博識を物語るかのごとく、内外の書籍がギッシリと詰まっている。室の中央には畳一畳敷きほどの大きな彫刻つきのデスクが置かれ、それを囲んで、やはり古風な彫刻のある肘掛椅子が並んでいる。
「先生、先生はどこです。ああ苦しい。苦しい。早く、先生……」
 若い男は床の上に倒れたまま、あえぎあえぎ、精いっぱいの声をふりしぼって叫んだ。
 すると、唯ならぬ物音と叫び声に驚いたのであろう、隣の実験室へ通じるドアがひらいて、一人の男が顔を出した。これも三十歳ほどに見える若い事務員風の洋服男である。
「おやっ、木島君じゃないか。どうしたんだ、その顔色は?」
 彼はいきなり室内に駈け込んで、若者を抱き起こした。
「ああ、小池か。せ、先生は?……早く会いたい。重大事件だ……ひ、人が殺される……今夜だ。今夜殺人が行なわれる。ああ、恐ろしい……せ、先生に……」
「なに、殺人だって? 今夜だって? 君はどうしてそれがわかったのだ。いったい、誰が殺されるんだ」
 小池と呼ばれた若者は、顔色を変えて木島の気違いめいた眼を見つめた。
「川手の娘だ……その次はおやじの番だ。みんな、みんなやられるんだ……せ、先生は? 早く先生にこれを……この中にすっかり書いてある。それを先生に……」
 彼はもがくようにして、胸のポケットをさぐると、一通の厚ぼったい洋封筒を取り出して、やっとの思いで、大デスクの端にのせた。そして、次には同じポケットから、何かしら四角な小さい紙包みをつかみ出し、さも大切そうに握りしめている。
「先生は今不在だよ。三十分もすればお帰りになるはずだ。それよりも、君はひどく苦しそうじゃないか。どうしたというんだ」
「あいつに、やられたんだ。毒薬だ。ああ、苦しい。水を、水を……」
 小池は隣室へ飛んで行って、化学実験用のビーカーに水を入れて帰ってくると、病人をかかえるようにして、それを飲ませてやった。
「しっかりしろ。いま医者を呼んでやるから」
 彼はまた病人のそばを離れて、卓上電話にしがみつくと、付近の医院へ至急来診を頼んだ。
「すぐくるって。ちょっとのあいだ我慢しろ。だが、いったい誰にやられたんだ。誰が君に毒なんか飲ませたんだ」
 木島はなかば白くなった眼を見はって、ゾッとするような恐怖の表情を示した。
「あいつだ……三重の渦巻だ……ここに証拠がある……こいつが殺人鬼だ。ああ、恐ろしい」
 彼は歯を喰いしばって、もがき苦しみながら、右手に握った小さな紙包みを示した。
「よし、わかった。この中に犯人の手掛かりがあるんだな。しかし、そいつの名は?」
 だが、木島は答えなかった。もう両眼の虹彩が上瞼に隠れてしまっていた。
「オイ、木島君、木島君、しっかりしろ。名だ、そいつの名をいうんだ」
 いくらゆすぶっても、木島のからだはクラゲのように手応えがなかった。
 かわいそうに、宗像研究室の若き助手木島は、捜査事業の犠牲となって、ついに無残な最期をとげたのであった。
 五分ほどすると、付近の医師が来診したが、もはや脈搏も鼓動も止まった木島を、どうすることもできなかった。
 待ちかねた宗像博士が研究室に帰ってきたのは、それから四十分ほどのちであった。
 博士は見たところ四十五、六歳、黒々とした頭髪を耳の辺で房のように縮らせ、ピンとはねた小さな口ひげ、学者くさく三角に刈った濃い顎ひげ、何物をも見通す鷲のような鋭い眼には、黒ベッコウ縁のロイド目がねをかけ、大柄なガッシリしたからだを、折目正しい夏のモーニングに包んで、少し反り身になって、大股に歩を運ぶところ、いかにも帝政ドイツ時代の医学博士というおもむきであった。
 博士は小池助手からことの次第を聞き取ると、痛ましげに愛弟子のなきがらを見おろしながら、
「実に気の毒なことをした。木島君の家へ知らせたかね」
 と、小池助手に尋ねた。
「電報を打ちました。やがてかけつけてくるでしょう。それから警視庁へも電話しました。中村さん驚いてました。すぐくるということでした」
「ウン、中村君も僕も、川手の事件がこんなことになろうとは、想像もしていなかったからね。中村君なんか、被害妄想だろうって取り合わなかったくらいだ。それが、木島君がこんな目にあうほどでは、よほど大物らしいね」
「木島君は、なんだか非常にこわがっていました。恐ろしい、恐ろしいと言いつづけて死んで行きました」
「ウン、そうだろう。予告して殺人をするくらいのやつだから、よほど兇悪な犯人に違いない。小池君、ほかの事件はほっておいて、きょうからこの事件に全力を尽そう。木島君の敵討ちをしなけりゃならないからね」
 話しているところへ、あわただしい靴音がして、警視庁の中村捜査係長がはいってきた。灰色の背広姿である。
 彼は木島の死体を見ると、帽子をとって黙礼したが、驚きの表情を隠しもせず、宗像博士をかえりみて言った。
「こんなことになろうとは思いもよらなかった。油断でした。あなたの部下をこんな目に合わせて実になんとも申しわけありません」
「いや、それはお互いです。僕だって、これほどの相手と思えば、木島君一人にまかせてなんぞおかなかったでしょうからね」
「電話の話では、木島君は何か犯人の手掛かりを持って帰ったということでしたが」
 係長が小池助手を振り返った。
「ええ、これです。この封筒の中にくわしく報告を書いておいたといっていました」
 小池が大デスクの上の例の洋封筒を取ってさし出すのを、宗像博士が受け取って、裏表を調べながらつぶやいた。
「おや、この封筒は銀座のアトランチスの封筒じゃないか。すると、木島君はあのカフェで、用箋と封筒を借りて、これを書いたんだな」
 いかにも、封筒のすみに、カフェ・アトランチスの名が印刷されていた。
 博士は卓上の鋏を取って、丁寧に封筒の端を切ると、厚ぼったい書翰箋を抜き出して、ひらいて見た。
「オイ、小池君、確かにこれに違いないね? 君は何か思い違いをしてやしないかね。それとも、木島君が倒れてから、この部屋にはいったものはなかったかね」
 博士が妙な顔をして、小池助手にただした。
「いいえ、僕は一歩もこの部屋を出ませんでした。誰も来たものなぞありません。どうかしたのですか。その封筒は確かに木島君が内ポケットから出して、そこへ置いたままなんです」
「見たまえ、これだ」
 博士は用箋を中村係長と小池助手の前にさし出して、パラパラとめくって見せたが、不思議なことに、それはただの白紙の束にすぎなかった。文字なぞ一字も書いてはないのだ。
「変だなあ、まさか木島君が、白紙を封筒に入れて、大切そうに持って来るわけはないが」
 中村氏が、狐につままれたような顔をした。
 宗像博士は、唇を噛んでしばらくだまっていたが、突然、白紙の束を紙屑籠に投げいれると、決定的な口調でいった。
「小池君、すぐアトランチスヘ行って、木島君が用箋と封筒を借りたあとで、誰かと話をしなかったか、同じテーブルにうろんなやつがいなかったか調べてくれたまえ。そいつが犯人か、少なくとも犯人の相棒に違いない。木島君の油断している隙に、報告書のはいった封筒と、この白紙の封筒とすりかえたんだ。毒を飲ませたのも、同じやつかもしれない。できるだけ詳細に調べてくれたまえ」
「承知しました。しかし、もう一つ、木島君が持ってきたものがあるんです。死体の右手をごらんください。そこにつかんでいるものは、よほど大切な証拠品らしいです……では僕、失礼します」
 小池助手はテキパキと言い捨てて、帽子をつかむと、いきなりそとへ飛び出して行った。

     三重渦状紋

 小池助手を見送ると、宗像博士は死体の上にかがんで、その手を調べた。小さな紙包みを握っている。死んでもこれだけは手ばなすまいとするかのごとく、固く固く握りしめている。博士は死人の指を一本一本引きはなして、やっとそれをもぎ取ることができた。
 何か小さな板切れのようなものが、丁寧にいく重にも紙を巻いて、紐でくくってある。博士は隣の実験室から、一枚のガラス板を持ってきて、紙包みをその上にのせ、なるべくそれに手をふれないように、ナイフとピンセットを使って、紐を切り、紙を解いて行った。
 博士も無言、それをじっと見つめている捜査係長も無言、ただ時々ナイフやピンセットがガラス板にふれて、カチカチと小さな音をたてるばかり、まるで、手術室のような薄気味わるい静けさであった。
「なあんだ、靴ベラじゃありませんか」
 中村係長が頓狂な声を出した。いかにも紙包みの品物は、一枚の小型の象牙色をしたセルロイド製のありふれた靴ベラである。
 木島助手は気でも違ったのであろうか。封筒の中へ大切そうに白紙の束を入れていたかと思うと、今度は御丁寧な靴ベラの紙包みだ。いったいこんなものになんの意味があるというのだろう。
 しかし、博士は別に意外らしい様子もなく、さも大切そうに、その靴ベラの端をソッとつまむと、窓からの光線にすかして見たが、その時分にはもう、窓のそとに夕闇が迫まっていて、充分調べることができなかったので、部屋の隅のスイッチを押して電灯をつけ、その光の下で、靴ベラを入念に検査した。
「指紋ですか」
 中村係長が、やっとそこへ気がついて尋ねた。
「そうです。しかし……」
 博士は吸いつけられたように靴ベラの表面に見入って、振り向こうともしないのである。
「外側の指紋は皆かさなり合っていて、はっきりしないが、内側に一つだけ、非常に明瞭なやつがある。拇指の指紋らしい。おや、これは不思議だ。中村君、実に妙な指紋ですよ。僕はこんな不思議な指紋を見たことがない。まるでお化けだ。それとも僕の眼がどうかしているのかしら」
「どれです」
 中村氏が近づいて、博士の手元をのぞき込んだ。
「ほら、こいつですよ。すかしてごらんなさい。完全な指紋でしょう。別にかさなり合ってはいない。しかし、ほら、渦巻が三つもあるじゃありませんか」
「そういえば、なるほど、妙な指紋らしいが、このままじゃ、よく見分けられませんね」
「拡大してみましょう。こちらへきてください」
 博士は靴ベラを持って、先に立って、隣の実験室へはいって行った。中村係長もそのあとにつづく。十坪ほどの部屋である。一方の窓に面して大きな白く塗った化学実験台があり、その上に大小様々のガラス器具、顕微鏡などが置かれ、一方にはおびただしい瓶の並んだ薬品棚が立っている。化学実験室と調剤室とをいっしょにしたような眺めだ。
 また別の隅には、大型写真器、紫外線、赤外線、レントゲンの器械までそろっている。
それらのあいだに黒い幻灯器械の箱が、頑丈な三脚にのせて置いてある。実物幻灯器械なのだ。これによって指紋はもとより、あらゆる微細な品物を拡大して、スクリーン上にうつし出すことができる。指紋は紙や板に捺されたものと限らない。ガラス瓶であろうが、ドアの把手であろうが、コップであろうが、ピストルであろうが、それらの実物の指紋の部分を、ただちに拡大して映写することができる。博士自慢の装置である。
 中村捜査係長は、この部屋へはたびたびはいったことがあるのだが、はいるたびごとに、まるで警視庁の鑑識課の研究室をそのまま縮小したようだと感じないではいられなかった。いや、この部屋には鑑識課にもないような、宗像博士創案の奇妙な器械も少なくはないのだ。
 博士はまず靴ベラを実験台の上に置いて、指紋の部分に黒色粉末を塗り、隆線を黒く染めてから窓の紐を引いて厚い黒ジュスのカーテンを閉め、部屋を暗室にすると、幻灯内の電灯を点火し、靴ベラを器械に挿入して、ピントを合わせた。
 たちまち部屋の一方の壁のスクリーン上に、巨大な指紋の幻灯がうつし出された。五分にも足らぬ拇指の指紋が、三尺四方ほどに拡大され、指紋の隆線の一本一本が黒い紐のように渦巻いている。
 博士も係長も、暗闇の中でじっとそれを見つめたまま、しばらくは口をきくことさえできなかった。二人とも、指紋ではなくて、何かしらえたいの知れぬ化け物ににらみつけられているような、不思議な気味わるさを感じたからだ。
 ああ、なんという奇怪な指紋であろう。一箇の指紋に三つの渦巻があるのだ。大小二つの渦巻が上部に並び、その下に横に長い渦巻がある。じっと見ていると、異様な生きものの顔のように見えてくる。上部の二つの渦巻は怪物の目玉、その下の渦巻はニヤニヤと笑った口である。
「中村君、こんな指紋を見たことがありますか」
 闇の中から、博士の低い声が尋ねた。
「ありませんね。僕も相当いろいろな指紋を見ていますが、こんな変なやつには出くわしたことがありません。指紋の分類では変態紋に属するのでしょうね。渦巻が二つ抱き合っているのは、たまに出くわしますが、渦巻が三つもあって、こんなお化けみたいな顔をしているやつは、まったく例がありません。三重渦状紋とでもいうのでしょうか」
「いかにも、三重渦状紋に違いない。これはもう隆線を数えるまでもありませんよ。一と目でわかる。広い世間に、こんな妙な指紋を持った人間は二人とあるまいからね」
「こしらえたものじゃないでしょうね」
「いや、こしらえたものでは、こんなにうまくいきませんよ。このくらいに拡大してみれば、こしらえものなれば、どこか不自然なところがあって、じき見破ることができるのですが、これは少しも不自然な点がない」
 そして、闇の中の二人は、眼と口のある巨大な指紋に圧迫されたかのごとく、まただまり込んでしまった。
 しばらくして、中村係長の声。
「それにしても、木島君は、この妙な指紋をどうして手に入れたのでしょう。この靴ベラが犯人の持ち物とすれば、木島君は犯人に会っているわけですね。直接犯人から掠めてきたものじゃないでしょうか」
「そうとしか考えられません」
「残念なことをしたなあ。木島君さえ生きていてくれたら、やすやすと犯人をとらえることができたかもしれないのに」
「犯人はそれを恐れたから、先手を打って毒をのませ、その上、報告書まで抜き取ってしまったのです。実に抜け目のないやつだ。中村君、これはよほど大物ですよ」
「あの強情な木島君が、恐ろしい恐ろしいと言いつづけていたそうですからね」
「そうです。木島君は、そんな弱音をはくような男じゃなかった。それだけに、僕らはよほど用心しなけりゃいけない……川手の家は、あなたの方から手配がしてありますか」
 博士は心配らしく、せかせか尋ねた。
「いや、何もしておりません。きょうまで川手の訴えを本気に受け取っていなかったのです。しかしこうなれば、捨ててはおけません」
「すぐ手配してください。木島君をこんな目に合わせたからには、犯人の方でも事を急ぐに違いない。一刻を争う問題です」
「おっしゃるまでもありません。今からすぐ帰って手配をします。今夜は川手の家へ三人ばかり私服をやって、厳重に警戒させましょう」
「是非そうしてください。僕も行くといいんだけれど、死骸をほっておくわけにいきません。僕はあすの朝、川手氏を訪問してみましょう」
「じゃあ急ぎますから、これで」
 中村係長は言い捨てて、あたふたと夕闇の街路へかけ出して行った。
 あとに残った宗像博士は、幻灯の始末をすると、指紋の靴ベラをガラスの容器にいれて、鋼鉄製の書類入れの引出しにおさめ、厳重に鍵をかけた。次の間には、部下の無残な死体が、元のままの姿で横たわっている。今に家族のものがかけつけてくるであろう。また検事局から検屍の一行もくるであろう。しかし、それを待つあいだ、このままの姿ではかわいそうだ。
 博士は奥の部屋から一枚の白布を探し出してきて、黙礼しながら、それをフワリと死体の上に着せてやった。

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