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警察回りの夏
堂場瞬一

   第一部 飛 ば し

    1

 俺はこの街が大嫌いだ。
 しかも日々嫌いになっている。日本新報甲府支局の記者、南康祐は、さっさと異動させてくれと常々祈っていた。ここ何年もずっと。
 それにしても暑い……盆地の甲府では、夏の気温は尋常でないほど高くなる。体感温度は、温度計が示す数字よりもずっと高く感じられた。こういう厳しい夏も、これで六回目。体が溶け出し、何も考えられなくなるほどの暑さを六度も経験していれば、この街を嫌いになる理由としては十分だろう。
 南はくしゃくしゃのハンカチで額の汗を拭い、溜息をついた。次の一歩がどうしても踏み出せない。聞き込みは続けなければならないのだが、どうして自分が、という疑問は消えなかった。こんなことは、新報のような全国紙なら、一年生記者がやるべきだ。もう甲府で記者生活六年目になる自分は、県警の涼しい社会部記者クラブに座って指示を飛ばしていればいいはずなのに。
 しかし、人手が足りないのだから仕方がない。事件担当のサツ回りは一年生というのが昔からの決まりなのだが、何しろ夏休みで一人しかいない。紙面の埋め草になる街ネタを拾うことから、市政や県政、選挙の手伝いまで、何にでも駆り出されている。結果、この事件を一から取材しているのは、キャップの南一人だった。
 それにしてもあいつら、よく飽きないよな……事件発生から三日目。JR甲府駅の北西部にあるこの団地の近くには、報道陣がずっと詰めている。自分もマスコミの一員でありながら、迷惑極まりないと南は実感していた。何しろ、四階建ての素っ気ない建物が並ぶ県営団地と近くの民家を隔てるのは、車がすれ違えないほどの細い市道だけなのである。その一角に、テレビ、新聞、果ては雑誌まで含めてマスコミの人間が大勢陣取っているのだから、近所迷惑にならないはずがない。
 報道陣のターゲットは、目の前にあるB棟一階の一〇六号室だ。丸みを帯びたベランダの前には芝が張られているが、所々が剥げて土がむき出しになっている。ベランダには物干し竿──しかし洗濯物はない。この部屋の主は、ベランダを物置として使っているようだ。三輪車、大量の段ボール箱、空の植木鉢……間取りは1DKで家賃は月二万八千円──そんなことはどうでもいい。素人でもネットで調べ出せることだ。問題は、その部屋の主である。
 湯川和佳奈、二十四歳。五歳と三歳の子どもの母親だった。過去形にしたのは、子ども二人が殺されたからである。そして和佳奈は現在、行方不明。誰もが──マスコミだけではなく近所の人たちも、「母親がやった」と噂している。もちろん南もそうだと確信していた。母子家庭で子どもが殺され、母親がいなくなれば、誰でも同じように考える。
「お茶、飲みませんか?」
 突然声をかけられ、南は我に返った。目の前に、汗をかいた緑色のペットボトル。誰が声をかけてきたのか分かった瞬間、「いらないよ」とぞんざいに断った。
「余ってるんですよ」相手──地元テレビ局の記者、岩佐は妙にしつこい、というか人懐っこい男だった。
「喉、渇いてないから」南は乱暴に言った。「だいたい、張り込みの時に水分を摂り過ぎると、トイレが近くなって失敗するんだよ」
「そうですよねえ」岩佐がペットボトルを引っこめる。「だけど、水分を摂らないと、ばてて死にますよ」
「君なら、これぐらいの暑さは何でもないだろう。地元の人は慣れてるんじゃないか」
「いやいや」苦笑しながら岩佐が首を振る。「ここ何年かの甲府の猛暑は、明らかに異常ですよ。それより、どう思います?」それまでの話は単なる前置きのつもりだったのか、岩佐がいきなり声を低くした。
「どうって、何が」彼の言いたいことは分かっていたが、南は恍けた。
「母親ですよ。湯川和佳奈。どうしてると思います?」
「俺に聞くなよ」南は早くもうんざりしてきていた。「だいたい、知ってても答えるわけないし」
「自殺したんですかねえ」岩佐は南の言葉をまったく聞いていない様子だった。
「そんなこと、言うな」忠告してから、南は報道陣の塊に再び視線を向けた。団地と道路を隔てているのは、低い植えこみだけ。あれは本当に迷惑だよな……最初は団地の敷地内で張っていたのだが、自治会と、団地を管理する県の住宅供給公社からクレームを受け、敷地の外へ出た。そして今は、道路の一部を占拠しながら、B棟一〇六号室の監視を続けている。まったく馬鹿馬鹿しい限りだ。こんな場所へ和佳奈が帰って来るとは考えられない──だったら自分は、どうして同じように張りついている?
 ──怖いからだ。自分がいない場所で何かが起きたら、と想像すると身悶えするほど怖い。

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