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緋の天空
葉室 麟

 緑陰の章

     一

 新緑がまぶしい。
 皇太后光明子は白い衣に緋色の背子を重ねて繧繝地の紕帯を薫風になびかせて金光明寺(後の東大寺)の境内を歩いていた。高髻を双輪に高々と結った髪に飾られた螺鈿の釵子が煌めき、錦舃を履いた足を軽やかに進める。
 生い茂る松の緑濃い葉の端々に陽射しを受けて光を溜める枝に目を遣りつつ、団扇の形をした翳を手に大仏殿へと近づいていく。
 光明子は、この年、五十二歳になるが、仏像に似て丸みをおびた面差しと、しなやかな体つきは若いころとさして変わりない。
 光明子の傍らで、聖武太上天皇と娘の孝謙天皇がともに歩を進めている。三人が大仏殿に近づいた時、居並んだ百官が威儀を正し、低頭した。
 光明子は聖武太上天皇、孝謙天皇とそろって布を敷いた板殿に座した。五位以上の朝臣は礼服を着て背後に居並んだ。
 天平勝宝四年(七五二)四月──
 奈良の東大寺で大仏開眼供養が盛大に行われた。
 大仏殿の内部は新しい木の香が漂い、堂上には造花が散らされ、八方に五色の灌頂幡が二十六流立てられ、清々しい。
 大仏は、華厳経が説く〈蓮華蔵世界〉の中心的存在であり、世界そのものを象徴する廬舎那仏である。
 聖武太上天皇は黄金色に輝く、高さが五十二尺(約十六メートル)、御顔の長さは十六尺(約五メートル)の大仏を見上げて、
「ようやくできたな」
 と感慨深げに言った。
 傍らにはひじをかけるために、紫檀材に金銀の泥絵で草花模様を描き、象牙の飾りが施された挟軾が置かれている。
 光明子が聖武太上天皇の手にそっとふれながら訊ねた。
「お身はいかがでございましょうか」
「気遣いない」
 頬がこけて青白い顔をわずかにかしげた聖武太上天皇は少し笑みを浮かべて答えた。ここ数年、病を得て、
 ──不予
 が続き、時に重篤に陥った自らの命を危ぶんでいた聖武太上天皇は、生きながらえて大仏開眼の日を迎えることができた喜びに浸っているようだ。しかし光明子は衰えの甚だしい聖武太上天皇の身が案じられてならなかった。孝謙天皇が父の顔をうかがい見ながら、
「それはようございました」
 と、娘らしくほっと安堵する声音で応じた。
 三十五歳になる孝謙天皇は切れ長の目をして顎が細く、ほっそりとした体つきをしていて肌が白い。聖武太上天皇に似たからだろうか。
 光明子は、大仏に真っ直ぐに目を向けて口を開いた。
「これよりのちは、仏様の守護がございます。御心を煩わし参らすことも、よき方へと改まるでありましょう」
 光明子の言葉を聖武太上天皇はしみじみとした面持ちで聞いた。光明子は聖武太上天皇に寄り添い、
「この国は仏法に守られ、美しき国となるのです」
 と力強い口調で言った。
 聖武太上天皇の声がやや弱々しげであるのに比べ、光明子の言葉は揺るぎがなく、よく通った。
 廬舎那仏の建立は聖武天皇により天平十五年(七四三)に発願された。大仏建造のために、

 ──国の銅を尽して象を鎔、大山を削りて以て堂を構へ

 との詔が発せられた。国中の銅を集めて大仏を造り、山を削って大仏殿を建てるというのだ。
〈金光明最勝王経〉を信仰した聖武天皇は、仏法による国家の鎮護を願った。〈金光明最勝王経〉を信じる君主の下には護法善神である四天王が現れ、国を護るという。
 聖武天皇は国の行く末に不安を抱いていた。
 旱魃、飢饉が続き、天平六年に大地震が起きて人心が荒廃したところに、藤原不比等の子の武智麻呂と房前や宇合、麻呂ら絶大な権力を握っていた藤原家四兄弟が、天平九年に猛威をふるった天然痘で相次いでこの世を去った。さらに天平十二年に、九州で宇合の子である藤原広嗣の乱が発生した。
 このおり、聖武天皇は九州へ鎮圧の兵を送りながら、自らは、
「思うところあって、東国へ行く」
 と言い残して、伊勢へ赴いた。
 乱が鎮圧されたと報せが入っても平城京には戻らないまま北上し関ヶ原から琵琶湖をめぐり、山背の恭仁という地に至ると、ここを都とすると詔した。
 さらに紫香楽宮、難波宮と聖武天皇は遷都を繰り返した。まるで何者かに追われて彷徨うかのようだった。
 大仏建立は、定まらぬ心を抱いてさすらう聖武天皇が自らの心を鎮めようとして発願したのではないかとまわりの者には思えた。
 大仏は、当初、奈良ではなく紫香楽宮の近くの甲賀寺に造られる予定だった。しかし、紫香楽宮の周辺で山火事が頻発するなど不穏な出来事があった。
 膨大な費用と人手がかかる大仏建立に不満を抱く者の仕業ではないかと見られて甲賀寺での建立は中止され、都が平城京へ戻るとともに東大寺に造られることになった。
 天平二十一年二月、陸奥国小田郡より金が産出し、朝廷へ献上された。
 大仏を彩る金が不足していることに悩んでいた聖武天皇はこれを喜んだ。そして五月後の七月、皇太子阿倍内親王に譲位した。
 孝謙天皇の即位にともない、改元が行われ、天平勝宝元年とした。それから三年近くが過ぎ、ようやく大仏開眼供養が行われることになった。

 供養の開眼導師はインド人の菩提僊那が務め、一万人の僧侶が参加した。インドに生まれ、唐に渡ったが、遣唐使の要請に応えて、日本に渡ってきた菩提は大安寺の住職となり僧正に任ぜられ、
 ──婆羅門(バラモン)僧正
 とも呼ばれる。しばし待つほどに、東門から白い蓋を差しかけられて輿に乗った菩提が大仏正面の高座に導かれた。
 参列のひとびとが緊張して静まり返る中、菩提が持つ開眼の筆から延びた〈開眼縷〉という名の長い五色の紐が童子たちによって聖武太上天皇や光明子、孝謙天皇始め百官にもたらされた。
 菩提が手にした筆でおもむろに金色燦然と輝く大仏の切れ長の目に眼睛を点じると、参列者は紐を握って結縁した。華厳の講義が行われた後、南門から数百人の楽人が入ってきて舞台に上がった。
 最初に雅楽寮の大歌が歌女と舞人によって披露され、次に古来からの〈久米歌〉、続いて、甲をつけ、刀と盾を手に〈楯伏舞〉が舞われた。唐や高麗の楽舞が続いた。
 長安や洛陽で正月に少女たちが舞う春の踊りの〈女踏歌〉や唐の宮室に伝わる古楽や散楽、また朝鮮の高麗楽も舞人たちによって舞われた。
 やがてベトナムの音楽である〈林邑楽〉を、菩提とともに来日した林邑僧仏哲が舞った。供養に参列したひとびとは、はなやかな舞や楽曲の演奏に酔いしれた。

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