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にじいろガーデン
小川 糸

   プロローグ

 六歳だった。
 その人はずっと、駅のプラットホームに立っていた。電車が来るたび、セーラー服の赤いリボンが、ふわりとジャンプするように風になびく。季節は、夏。誕生日の前日だったから、よく覚えている。
「ソースケ」
 どこからか、母さんが僕を呼ぶ声がした。あの頃電車が好きだった僕は、早く見たくて、一足先にホームヘと駆け上がっていた。そのせいで人波にのまれ、母さんとはぐれてしまっていた。
「ソースケ」
 もう一度名前を呼ばれた時、僕はその人と手をつないでいたことに気づいた。ハッとして、慌てて手をほどいた。鼓動が、足を踏み鳴らすように激しくなる。急に息が苦しくなって、喉が渇いた。
 その人の手のひらから抜き取った手は、しっとりと汗ばんでいる。まるで、その人のほっぺたに流れていた涙を、ぎゅっと握りしめているようだった。電車が通る音に紛れて声は聞こえなかったけれど、その人は確かに泣いていた。
 人ごみの向こうに、母さんが疲れた表情を浮かべて立っている。僕は慌てて駆け寄った。すぐに電車がやってきて、僕は母さんと車両に乗り込む。
 座席に座ってから、あの人のことを思い出した。電車に乗っている間、僕はずっと、手のひらの温もりを優しく握りしめていた。
 まだそこに残っている柔らかな感触を、拭う気持ちになどなれなかった。
 手のひらに、秘密の小鳥を預かっている気分だった。

      §

 三本目の電車が目の前を通り過ぎるのを、ただただ空しく見送っていた時だ。指先が、ふいに何かに包まれた。最初は、気のせいかと思った。けれど、その感覚は少しずつ現実味を帯び、確かな温もりへと変化する。
 何の未練もないはずなのに……。
 わたしは、この先へと続く小さな一歩を、踏み出せずにいた。次こそは、次こそは、そう気持ちを奮い立たせるうち、あっという間に電車は通過していった。
 見上げると、雲一つない、真っ青な夏の空が広がっている。嘘みたいな、青空だった。
 自由になりたくて、とうとう、ここまでたどり着いたのだ。
 未練なんてちっともない。いや、ないはずだった。
 視線を動かすと、すぐ横に小さな男の子が立っている。野球帽をかぶっているせいで顔はほとんど見えないけれど、その子がわたしの手を握っているのだ。
 自分から手を振り払う気には、なれなかった。だって、温かかったのだ。
 目の前に、急行の電車が猛スピードで飛び込んでくると、風圧で体が押し倒されそうになる。だから今、この手を放してはいけない。
 怖いのか、男の子はぎゅっとわたしの手を握ってくる。もしも急に手をほどいたら、この子は反射的にわたしの後に続くかもしれない。
 手のひらの温もりを感じるたび、凍り付いていた心が溶かされた。誰かと手をつないだ記憶が、わたしにはなかった。こらえきれずに瞬きをすると、涙がぽとりと落下した。
 その時、男の子の手が、わたしの手のひらからすーっと離れた。どこからか、母親らしき女性の声がする。その子の名前を呼んだようだったけど、わたしには聞き取れなかった。男の子が、駆け足で去っていく。
 一瞬だけ振り返ると、後ろ姿が見えた。さっきまで手をつないでいたはずなのに、男の子は一度もわたしの方を振り向かず、そのまま見えなくなってしまった。
 ふと、空っぽになった手のひらを見つめた。さっきまでそこにあったものを、確かめたかった。けれど、手のひら以外には何もない。生命線や運命線、感情線やその他の線が、入り乱れている。それだけだ。
 あれは、小学生の時だったか。友人とお祭りに行き、手相占いをしてもらったことがあった。いかにもそれらしい身なりをした占い師は、わたしの手のひらを見るなり、もったいぶった口調で言った。
 あなた、苦労する人生ねぇ。でも、決して悪くないよ。波乱万丈だけど、いい人に巡り合える。
 そして、ほら、ここに恋愛運を表す線がはっきり見えるでしょ、と言い、占い師はわたしの手のひらに刻まれた恋愛線とやらを、虫眼鏡を使ってまじまじと観察した。その後に続いた占い師の言葉は、もう思い出せない。
 チョコ、いい人に巡り合えるってよー。
 一緒に占ってもらった友人たちが、口ぐちにわたしを囃し立てる。そんな無邪気な彼女たちを、わたしはしらけた気分で遠くからぼんやりと眺めていた。いつだってそうだ。わたしは誰とも交われない。
 空っぽの手のひらを見つめていたら、ふいにその時のことを思い出した。
 本当に、この手のひらにわたしの人生が記されているのだとしたら、わたしの生命線は、二十歳になる前で途切れているはずだ。けれど、その一本の太い線は、嫌になるくらいゆうゆうと伸びていた。
 何本目かの電車が、またしても空しく通り過ぎる。いつの間にか青空に、ひっかき傷みたいな一筋の飛行機雲が伸びていた。
 計画を断念せざるを得なくなったのは、わたしより一足先に、思いを遂げた人がいたからだ。隣の駅で起きた人身事故を知らせるアナウンスが流れ、やがて上下線とも運転は見合わせとなった。
 横に立っていたサラリーマン風の男性が、不快そうに舌打ちする。足をむき出しにした女子高生の二人連れが、小走りで階段を下りていく。
 わたしはしばらくホームのベンチに腰かけ、電車の運転が再開されるのを待った。思いを遂げた者を追悼しているのか、セミが叫ぶように鳴いている。
 わたしはそっと、胸の上に手のひらを重ねた。男の子の指の温もりが、まだかすかに残っている。

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