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東京自叙伝
奥泉 光

   第一章 柿崎幸緒

 天狗の子
 私の記憶と云うのは大変に古くまで遡るのですが、その大半は切れ切れの断片にすぎず、だから纏った人生の記憶の始まりと云う事になると、弘化二年、西暦で云えば一八四五年、この年の正月二十四日、青山権田原三筋町から火が出て、一帯を焼いた火事がありました。これが最初の記憶だ。私は五歳くらい。真っ青な冬空から吹きこぼれる北風に煽られて、黒い煙を吐いてのたうつ火焔の竜が町屋や武家屋敷を次々と呑み込んでいくのを眺めていたのを覚えています。雨と降る火の粉のなか、逃げ惑う人に混じって吃驚りするほどたくさんの犬が路地から飛び出し、鬣に火のついた黒馬が焼けた木橋を踏み抜いて、棒立ちになったまま掘割にザブンと落ちたのが物凄かった。空は立ちこめる煙のせいで夕暮れと見間違うほど真っ暗になり、突風で煙が吹き払われ青空が垣間見えれば、翼が金色に輝く群鳥が悠然と南へ飛び行くのでした。
 午過ぎに出た火は夜半に至ってなお消えず、ようやく収まったときには、モウ日が出ていた。どこをどう逃げたものか、私はいつの間にやら青山大膳亮の邸内に入り込んでいた。あそこは後に青山墓地になった所ですが、私はそれこそ子供のお化けよろしく築地の脇の柳の下に突っ立っていたそうです。
 私は一旦芝の宋蓮寺に預けられ、町役が親兄弟を捜したが、これがドウも見つからない。大方火事で焼け死んだんだろうが、親戚なり知り合いなりがどこぞにあるはずだと、こちらも手を尽くしたが駄目。肝心の私が、オマエはどこの子だと訊かれて答えない。答えられない。五歳にもなれば口が利けないと云う事はないはずで、火事の衝撃でソンナ風になったんだろうと、周りは同情してくれた。実のところ、私自身産みの親や生家の記憶が全然なくて、自分では分からなかったけれども、やはり衝撃はあったんでしょう。一切合切が火事騒ぎで奇麗サッパリ消えてしまい、火事場に忽然湧いて出た具合だ。とうとう係累は見つからず、ドコの誰だか身元も分からずじまい。これじゃあほとんど天狗の子です。

 御家人の養子となる
 私はしばらく宋蓮寺に居て、まもなく檀家の者に貰われた。私を貰ったのは柿崎幸衛門と云って、下谷三味線堀に住む御家人、宋蓮寺で講釈か何かの会があって来た際、私を見初め、頭の鉢が大きくて鼠を捕りそうだというんで、住職に談判して貰ってきた。鼠云々は冗談ですが、マア猫の子みたいなもんです。
 柿崎幸衛門は御徒組に属し、同じ三味線堀の組屋敷には、後に箱館戦争を起こした榎本武揚の家もありました。俸禄は七十俵五人扶持。家禄だけでは生活は苦しく、御徒の家ではどこでも、屋敷地の一部を人に貸したり内職をして糊口をしのいでいたが、幸衛門は金貸しをしていた。金貸しといえば賤業中でもまずは大関格、断じて武士のなすべき事業ではない。どうしたって蔑まれざるを得ず、実際幸衛門は蔑まれていた。それでも本人は蛙の面に小便、いっこう平気なもので、商才もあったんだろう、上方芝居や見世物興行に出資して小金を稼ぎ、妾も一人、本所相生町に囲っていました。
 幸衛門の伯父は行田あたりで紙商売をして財をなした人で、晩年に御徒の株を買い、甥の幸衛門に跡を継がせたので、つまり我が養父には商売人の血が脈々と流れていたわけです。株を買って商人や百姓から武士に成り上がった者は結構ありました。当時御徒の株は五百両はした。だいぶ勿体ない気がするが、それまでして武士になりたがる者は大勢いたわけで、たとえ貧乏でも武士にはそれだけ権威があったということでしょう。
 養い親の家は百三十坪の敷地に四十坪くらいの屋敷が建っていた。地借はなかったが畑はあって、茄子や南瓜を作っていた。後に羽振りがよかった時代には、母屋の隣に湯殿が建ちました。これは幸衛門自慢の風呂場で、茅葺きの書院造風はなるほど洒落ていたけれど、世間様から掠めたカネで建てた泥棒風呂だと近所は悪口をいい、湯船にはしばしば犬の死骸が投げ込まれました。
 幸衛門の女房は同じ御徒の娘で、これがまた類のない陰気な女だった。妙な信心に凝り固まって、朝から晩まで念仏とも詩吟ともつかぬものをブツブツ唱えているのが子供には気味が悪かった。幸衛門は酒に酔うと女房をよく殴っていました。子供は二男二女があったが、長男はチフスで早くに死に、十五歳になる長女は旗本屋敷に奉公に出ていたから、私が貰われたときには次男と次女が家に居ました。この次男は私より七つ歳上で、最初は随分と虐められましたが、そのうち逆転した。と申すのも、この兄というのがカラキシ意気地のない男で、芝居の声色と道端で銭を拾うのが特技だと云うのだからツマラナイ。こりゃ駄目だと幸衛門も早々見切りをつけて、その分私に期待を寄せるふうが見て取れ、そうなると兄としては面白くない。勉学でも剣術でもいよいよ怠ける。家の金子をコッソリ持ち出し悪い所へ通うようにもなる。一度こんなことがありました。

 不孝地獄より兄を救う
 寝ている明け方、雨戸がとんとんと鳴って、兄がチョイト開けておくれヨと呼ぶ。目を擦りつつ開けてやると、白粉の匂いをさせた兄が縁先からのそのそ這い上がってきた。兄は良い機嫌で、聞けば博打で大勝ちしたという。私にまで小遣いをくれたから驚いた。この日は幸衛門は出張で留守だったから、兄は気が大きくなり、台所から酒を持ち出してきて、チョット付き合えという。私は十二、三歳くらいだったが、小遣いを貰った義理がある。この頃はソンナ酒好きでもなかったがマア付き合った。後年私が大酒飲みとなったのはもっぱらこの兄の責任です。兄はずっしり重い巾着袋を懐から出して見せ、ドウダ凄いだろうと自慢しつつ盃を傾け、そのうちに酔漢特有の気分の変転に見舞われて、急に殊勝な気持ちになったと見え、いままで家から持ち出したものをこっそり返したいといい出した。それは良い心がけだ、孝行の鑑だというと、「そうか、オマエもそう思うか、オレは不孝を重ねてきたが、これからは心を入れ替え孝行に励みたい」と涙を零すので感心しました。
 そのうち兄はグウグウ寝てしまった。私は剣術の稽古と手習いに出て、午過ぎに戻ってみると、兄は起きてまた飲んでいる。夕方には幸衛門が戻るから、いまのうちにカネを返した方がよかろうと助言すると、兄はこういった。実は自分は他所にも借金がある。そちらは返さぬと命に係るカネである。だが、そっちを返してしまうと後にはあまり残らない。自分としてはこの際、幸衛門にはただ返すだけでなく利子をつけて返したい。だから今晩モウ一勝負して、持ち金を増やしてから返すのがいいといって飛び出していった。それで翌朝戻った時にはグッタリ戸板に載っていました。不忍池に蓮と一緒に浮かんでいるところを助けられたそうで、命には別状なかったものの、顔は茶饅頭みたいに膨れ、骨があちこち折れていた。唸る元気もなく戸板に長く伸びた姿はまるで干物のカマスだ。
 何があったか、なんとなく分かる気がしたが、本人が口を利かぬので本当のところは分からない。三月ほどで怪我は癒え、しかし今度は肋膜炎に罹って幽冥界を彷徨い、なんとか生還したときにはすっかり腑抜けになっていた。兄はある日ふらりと家を出たきり二度と帰りませんでした。面倒事を起こされると困るので、幸衛門が迅速に勘当したのは当然の処置だろう。その後兄は講釈師に弟子入りしたという話でしたが、それも長くは続かなかったようで、御一新の時分、石川島で褌もしない真裸で魚網を引いているのを見た人があったのを最後に消息は途絶えました。
 それでも兄は孝行をしなかったわけじゃない。と申すのも、兄が鉄火場へ飛び出して行く前に、私がこっそりカネを巾着から抜いて幸衛門に返しておいたからです。兄に気づかれては拙いので、巾着にはカネの代わりに石ころを入れておいた。兄に博才のないことを私は子供ながら深く確信していました。モウ一勝負して勝つ道理がない。ならばカネを失くす前に返しておいてやろうと、親切心を起こしたわけです。ただし利子分は手間賃として私が貰いましたが。戸板に載った兄の耳元へ、「兄上はしかと孝行をしたのですよ」と囁くと、兄は涙を流しつつ、ウン、ソウカ、ソウカと何度も頷いた。それを見た私も鼻の奥がツンとなり、兄弟相擁して泣きました。私の咄嗟の機転が兄をして不孝地獄から救い出したと云う一幕。

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