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ゼロと呼ばれた男
鳴海 章

    プロローグ

 一九八九年一月、成田新東京国際空港。
 日本を脱出して海外で正月を過ごす旅行客は、四十万人にも達するといわれる。成田空港のロビーは、人波で息苦しいほどだった。
 午後三時十五分。アナウンスが流れ、英字新聞に眼を落としていた男が顔を上げた。
「アリタリア航空二一一便、ローマ行きは機内の清掃と点検に時間を要し、あらためて出発のご案内を申し上げますまで、今しばらく当ロビー内にてお待ち下さい。アリタリア航空二一一便、ローマ行きは──」
 彼は表情を変えずに出発便を知らせる掲示板を見ていた。筋肉質のがっちりとした身体つき、短く髪をカットしている。太めの眉の下、澄んだ双眸に蛍光灯のあかりが反射していた。
 彼はローマ経由で、イスラエルに行く予定だった。ローマからはエル・アル航空がベングリオン空港までの直行便を飛ばしている。
 彼が乗るアリタリア航空二一一便は午後一時に出発する予定だったが、連絡便の到着が一時間遅延すると発表されていた。実際には午後二時半近くになって、ようやく到着したものの、今度は機内清掃と点検に時間がかかると追加発表された。掲示板には、出発予定時刻が一六:三〇と表示されている。
 彼は溜め息をつき、新聞をめくった。
 三面の小さな記事に眼を止めた。ジャパン・エア・セルフ・ディフェンス・フォース──航空自衛隊という、彼にとっては馴染み深い言葉が見出しになっていた。
 記事を読み進めた。

 昨日、午後八時、茨城県の航空自衛隊百里基地を発進したF-15Jイーグル・ジェット戦闘機が『エンジン故障』という通信を最後に鹿島灘に墜落した。操縦していたのは江畠一郎二等空尉(29歳)。捜索にあたった第一管区海上保安本部の巡視艇が房総半島の東九五キロの海域で漂流している江畠二尉を発見したが、すでに死亡していた。航空自衛隊航空幕僚監部が発表したところでは、同機は午後七時五十分頃からエンジンの不調を訴え、江畠二尉は緊急脱出したものの水死したと見られている。なお、墜落の原因については目下調査中で詳細はわかっていない。

 彼は眼を閉じた。
 暗い闇の底に沈む航空自衛隊基地に、断続的に六回にわたって鳴り響くサイレンの音が聞こえるようだった。始業と終業の時以外に鳴るサイレンは、緊急事態を告げる。四回で止まれば基地内での事故を知らせ、六回であれば場外救援。航空自衛隊の場合は大抵が作戦機の墜落を表す。
 基地内はもとより基地周辺を取り巻く隊員たちの官舎にも死の静寂が訪れるのだ。場外救援を知らせるサイレンの響きは、幾度となく彼の脳裏に刻みつけられた忌まわしい記憶となっていた。
 もう一度最初から記事を読み返した。
 二十九歳で二等空尉ということは、航空学生出身のパイロットであろうと想像がつく。防衛大学校を卒業していれば、その年齢に達する頃には一等空尉にまで昇進している。彼も、航空学生として自衛隊に入り、戦闘機を飛ばしていたのだった。
 胸の中が空っぽになり、かすかな吐き気すら覚えた。
 高校を卒業し、筆記と面接の試験に合格した後、三次試験で実際に四回の飛行を経験した上で合否判定が下って航空学生となる。それから二年間は飛行機に触ることもなく山口県防府北基地で航空学生課程を受け、その後三年間をかけて、同じ防府北で第一初級操縦課程、福岡県芦屋基地で第二初級操縦課程、静岡県浜松基地で基本操縦課程、宮城県松島基地で戦闘操縦基礎課程を経て、宮崎県新田原基地で実際に戦闘機の機種転換操縦課程を終えて、ようやく戦闘機乗りになる。
 五年間──。
 その間、同級生が脱落していくのを見ながら、歯を食いしばって戦闘機乗りの夢にしがみつくのだ。実際、戦闘機パイロットになれるのは、ほんのひと握りに過ぎない。
 航空学生の制度は、日本におけるファイターパイロットを養成する唯一の専門コースだった。この卒業生が航空自衛隊の第一線パイロットの大半を占める。
 咳払いが聞こえた。
 彼は眼を上げた。
 白いコートを羽織り、仕立ての良いチャコールグレーのスーツを着て、細身のネクタイを締めた男が立っていた。彼が手にした新聞をのぞきこんでいる。目が合うとにっこり微笑んで見せた。目尻に太い皺ができる。やや厚めの唇から白い歯がこぼれる。
「イーグルは高価な戦闘機だ、実にもったいない」白いコートの男は流暢な英語でいった。
「確かに」彼も英語で応えた。
「ローマ行き、二一一便か?」
 白いコートの男が訊き、彼はうなずいた。
「私もさ。ついてないな。だが、イタリア人の飛ばす飛行機が時間通りに運航すると思う方がどうかしている」白いコートの男は勝手にまくしたて、次いでずばりといった。
「あんた、パイロットだろう? それも戦闘機の」
 彼は怪訝そうに眉をしかめた。視線が鋭さを増す。白いコートの男に訊き返した。
「なぜ戦闘機パイロットだと思うんだ?」
「戦闘機乗りは目がきれいだからな」白いコートの男は、彼の視線を一向に気にしないで質問を続けた。相手が当然答えるものと決めてかかった口調だった。「どこへ行く?」
「イスラエルだ」彼は自分が正直に答えているのを不思議に思った。
「目的は?」
「職探し」彼はぶっきらぼうに答え、新聞に視線を落とした。
 白いコートの男はコートのポケットから名刺を一枚取り出した。漢字がびっしりと羅列してある。そこに記されているのは中国人の名前だった。
 彼はもう一度眼を上げて、男の顔をまじまじと見つめた。
「戦闘機乗りは高給だからな、就職活動は難しい。私のところには幸い仕事がある」白いコートの男は、再び開けっ広げな笑顔を見せた。「よかったら、あんたがどんな男か、教えてくれないか?」
「身の上話は趣味じゃない」彼はにべもなくいった。
「そうだな」白いコートの男は鼻白んだ。「一つ訊ねてもいいかな?」
「今さら遠慮するのか?」彼ははじめて白い歯を見せた。
 彼の笑顔がいい──白いコートの男はそう思いながら、言葉を継いだ。
「なぜ、イスラエルヘ行くのか、そのわけを知りたいと思ってね」


    1

 一九七三年八月、イスラエル、ゴラン高原北部。
 狭い渓谷、乾ききった焦げ茶色の岩肌を、三機のジェット戦闘機がたてる雷鳴のような排気音が震わせた。
 高度一〇〇フィート。
 小型のジェット戦闘機MiG(ミグ)-17、その銀色の機体が幅二〇〇メートルもない谷間を横倒しになってすり抜けていく。二七〇ノット──時速五〇〇キロ。険しい岩と機体の間は、二〇メートルもなかった。翼には赤く、シリアの国旗が描かれていた。
 ミグの後方四〇〇〇フィートほどを降下しながら二機のF-4Eファントムが追尾している。ミグに比べて二回りも大きく、くすんだ緑と黄色で迷彩塗装を施されたイスラエル軍機。ゴラン高原で友軍がシリア軍戦闘機の攻撃を受けていると通報を受け、緊急発進してきたのだった。
 ゴラン高原に到着し、いく筋もの煙が空を分けているのを見ただけで、地上で激しい戦闘が繰り広げられていることはわかった。
 高原の北部にある険しいヘルモン山、その西にある谷間にさしかかった時に彼らはミグを発見したのだった。先行するファントム編隊一番機が“敵機発見(ボギー)”をコール、続いて二番機についてくるように無線で呼びかけた。二機のファントムは、同時に増槽(ドロップタンク)を投棄し、身軽になると右旋回を切りながら、速度を上げた。
 二番機のパイロットには、最初、敵機の姿が見えなかった。ただ、一番機が増槽を切り離したのを見て、自らもそれに追随したに過ぎない。だが、ミグが陽光を反射した刹那、心臓が喉元にせり上がった。
 谷間の灌木を縫うような低高度。
 信じられない光景だった。
 飛行教則本のすべてを無視したような機動で、ミグは山肌に接するように飛行していたのだ。敵機は単独で北──シリアとレバノンの国境地帯に向かって飛んでいる。基地を目指して帰路についているのだ。二機のファントムは、アフタ・バーナに点火し、一気に速度を五〇〇ノット近くまで上げると、ミグの背後に迫った。
 二番機のパイロットは、ふいに物悲しさを覚えた。アンフェアだ、と思った。
 MiG‐17は、旧式の戦闘機である。追尾しているファントムに比べて兵装も貧弱で、エンジンの出力も小さい。しかも単機。地表近くを飛行しているとはいえ、ほぼ真っ直ぐに飛んでいる。後方にイスラエル軍機が接近していることに気づいていないのだ。谷はミグの進行方向に向かって狭まっており、やがて上昇し、峰を越えなければならないのは自明だった。
 わずかな間でも山の端に機体をさらけ出した時、ミグは一撃で撃墜される。
 ファントム一番機のパイロットは、飛行隊で副隊長を務めるヴェテランで実戦経験が豊富な上に空中戦の腕も良かった。すでに七機撃墜のスコアをもっている。
「気を抜くな」二番機の後席員がインターコムで語りかける。
「敵機は気づいていない。七面鳥撃ちだよ」前席で操縦桿を握るパイロットが沈んだ声で答えた。「目をつぶって撃っても当たるさ」
 後部座席でレーダースコープをのぞいているイスラエル空軍中佐アリエル・ラビンは酸素マスクの内側でにやりと笑い、腹の底で呟いた。
 もっと大人になれよ、日本人──。
 戦闘機のパイロットは大空を翔る騎士ではない、とラビンはいいたかった。理想的な撃墜は、息をひそめ、標的から見えにくい位置に陣取り、隙をついて一気に殺す暗殺方法に似ている。空中では、太陽を背にしたり、敵機の後方や下方にある死角から忍び寄って攻撃するのだ。
 前席で操縦桿を握っているのは、航空自衛隊の二等空尉那須野治朗。研修という名目で米軍に派遣された那須野が、軍事顧問団の一員としてイスラエルにやってきたのが二週間前だった。
 ラビンが出迎えた。

 二週間前、那須野がやってきたその日、イスラエル空軍ハイファ基地には、熱く、たっぷりと湿気を含んだ、微かな風が吹いていた。乾季であるにもかかわらず、地中海に面した港町ハイファは湿った毛布のような大気に包まれていた。
 照りつける太陽がアスファルトを焦がし、かげろう越しに滑走路がゆらめいている。二階建ての隊舎の前、米空軍の制服を着て、中佐の記章をつけた大柄な黒人フランクリン・F・バーンズが立っていた。腋の下と背中に汗の染みが広がっている。オイルのように粘着力のある汗が額から噴き出し、こめかみと頬を伝って顎に流れる。バーンズは顔をしかめ、唇に一筋の汗を受けた。
 メタルフレームの四角いサングラスの奥で、目をすぼめる。彼の視線は滑走路の南端に据えられていた。
 つい五分ほど前に、彼が立っている場所のすぐ近くでエンジンを始動した戦闘爆撃機F-4Eファントム二機が、誘導路から滑走路に進入しようとしているところだった。
 基地はどこでも同じだ、とバーンズは思った。
 港町ハイファはイスラエルのサンフランシスコともナポリともいわれるほどに美しい。だが、毎日目にしているものといえば、滑走路とコンクリートの建物、アメリカとフランスで造られた戦闘機、ミサイル、航空燃料を満載したタンクローリー。それは米空軍に入隊以来、アメリカ本土、ハワイ、フィリピン、西ドイツ、そしてオレンジ色の埃が渦巻くヴェトナムで彼が目にしてきたものと同じだった。
 くすんだ茶とサンドイエローの迷彩塗装を施されているファントムは、周囲の景色に溶け込んでいる。二機の戦闘機は、遠目には砂糖の上を飛びまわるハエのようにしか見えなかった。
 バーンズには、滑走路に真っ直ぐ向きなおった戦闘機のコクピットが想像できた。
 一メートル四方もない狭い操縦席。アルミニウム製の硬い座席。背を丸め、計器盤越しにのぞきこむように滑走路を見ているパイロット。左手でスロットルレバーについている無線機のスイッチを弾き、目は計器の上を走る。燃料流量計、エンジン回転計、ブースト計、発電機のモニター、異常を知らせるテレライトパネル。ヘルメットの内側に仕込まれたスピーカーからは、絶え間なく管制官の指示が響いている。呼吸と呼吸の合間に飛び交う、略語混じりの短い交信。そこは彼が十年もの間親しんできた空間なのだ。
 操縦桿を握る右手には、ほとんど力をこめていない。操縦桿の“遊び”はほんの数ミリでしかない。わずかな動きでも動翼に変化を与え、機体が揺れる。操縦桿は、握るというより、つまむという感覚に近い。
 二機のファントムは、同時にエンジン音を高めた。滑走路を覆うかげろうが、プラット・アンド・ホイットニーJ79エンジンの高周波ノイズに細かく震動している。
 バーンズには、左手でスロットルレバーを一気に叩き込んだパイロットの仕種まで思い浮かべることができた。
 アフタ・バーナ、点火。
 機体後部の排気口に、オレンジ色の炎が閃き、排気音は至近距離の雷鳴となり、砂漠の色に染められた二機の戦闘機は、蹴飛ばされたように加速を開始する。鼓膜を圧迫するエンジン排気音は、滑走路周辺の建物に反響してバーンズの身体を抱きすくめる。耳栓をしてこなかったことを後悔した。
 滑走路の南端を発進した戦闘機は、まばたきする間もなく、彼の目の前を通過する。機首が上がり、前輪が浮く。やがて機体全体がふわりと浮く。まるで自らが生み出した新たなかげろうに持ち上げられているかのようだった。二機のファントムは、空対空ミサイルを四発ずつ搭載していた。
 パイロットなら誰でもそうするように、バーンズは離陸しかかっている戦闘機から目を離そうとしなかった。
 ファントムは機首を低く保ったまま、離陸するとすぐに前輪と主輪を胴体下に畳み込む。一段と速度が増す。滑走路の北端を抜ける頃には、巡航速度近くにまで加速しているように見えた。次の瞬間、機首を四五度まではね上げ、急上昇に移る。
 二機が天空の小さな点になるまで身じろぎもしなかったバーンズが、ゆっくりと振り返った。浅黒い肌をした、小柄な男が立っている。鼻の下にたっぷりと髭を生やし、小さな黒いサングラスをかけていた。イスラエル空軍の制服に汗の染みはない。
「あざやかな離陸ですな、中佐」バーンズがにやりと笑っていった。
「常に実戦で鍛えられていますからな」アリエル・ラビン中佐が淡々と答えた。
「なるほど。貴国のパイロットから見れば、我々は遊んでいるようなものだ」バーンズの口許に苦笑が漂う。
 離陸して十分で国境に達する。国の三方を四つの国に囲まれ、そのいずれとも戦争状態にあるイスラエルの空軍パイロットは、戦闘機乗りの間で世界最強といわれている。
「フランキー、彼らが到着するまで、まだ三十分もありますよ」ラビンは腕時計に目をやり、それからバーンズを見上げた。「それまでここに立っているつもりですか?」
「間もなく来る。気の短い男ですからね」バーンズは再び滑走路の東端に顔を向けた。
 ラビンは肩をすくめた。が、炎天下に半時間も立ち続ける必要はなかった。バーンズが睨んでいる空が低い、波動するような音に包まれる。ファントムに違いない。ラビンは眉を上げて、ぼそりといった。
「どうやら本当に気の短い男のようですな」
 バーンズは肩越しに振り返るとちらりと笑みを浮かべて見せる。二人の将校は東の空に目を凝らしていた。
 数十キロ離れた敵機を見つける電子の眼──レーダーがいかに発達しても、空中戦で勝敗を決定するのはパイロットの視力だった。
 現代の戦闘機は、レーダーで捕捉されると同時に妨害電波を発射して相手を撹乱する。結局、敵機を肉眼で捉えてからミサイルを発射せざるをえない状況に追い込まれることが多い。訓練を受けた戦闘機パイロットは、曇り空の下なら最大二五マイルも離れた敵機を見分ける。
 バーンズは、二〇マイルほど離れていると思われる雲に目の焦点を合わせると素早く視線をずらし、東の空を監視した。
 ほんの一瞬、空中に鋭い輝きが宿る。
 戦闘機が機体を傾けた時、太陽光が風防に反射したのだ。目をすぼめ、焦点を合わせた。わずかに角度が変わると反射光が途絶え、輝点が黒点に変わる。接近してくる戦闘機のシルエットに違いなかった。
 二〇マイル先の戦闘機は、白い壁についた針の先端ほどの塵を、五メートルほど離れた場所から見るのに似ている。わずかでも視線をずらせば、二度と発見することはできない。機影を視認したパイロットは、目を凝らし、黒く小さな点を見つめ続ける。
「見つけた」バーンズは呟くようにいった。
「二〇マイルほどですね」ラビンも同じ方向に目を凝らしていう。それから笑って付け加えた。「さすが米軍、金持ちですな」
「なぜ、そんなことを?」バーンズは身じろぎもしないで訊いた。
「増槽(ドロップタンク)ですよ。両翼の下、胴体下、合計で三本の増槽を吊ってます。その他にもミサイルを搭載しているようですね。わが国では、よほどのことがない限りドロップタンクをたくさんつけることはありません」ラビンはこともなげに答えた。
 つい先程離陸していったイスラエル軍機は、いずれも増槽を吊っていなかった。国境線での戦闘が確認されている。五分で空中戦に入るのは確実なのだ。たっぷりと燃料の残っている増槽を捨てるのは、合理的ではない。
 バーンズは唸った。
 空にぽつんと浮かぶ一点を視認することはできたものの、翼や胴体の下部に吊っている装備どころか機首の向き、機体の形状ともに視認することができなかったからだ。
 イスラエル空軍は実戦の中にあった。ラビンの視力が、バーンズをはるかに上回るのは生命を賭けた戦いを生き残ってきたためである。相手より早く発見することが空中戦で勝つもっとも確実な方法だった。
 バーンズは、接近してくる戦闘機が着陸するために高度を下げはじめたのを見ると、振り向いた。
「貴方はあの機がもっと離れている時から見えていたというのですか?」バーンズは眉を寄せて訊いた。
 ラビンは、バーンズの問いに答えようともしないで言葉を継いだ。
「たった今、エアブレーキを開きましたよ」ラビンがにっこりと微笑んだ。「確かに相当気の早い男のようですな」
 ファントムは、減速する際、翼下に台形の制動板を開く。それがエアブレーキだ。バーンズは鼻を鳴らして、再び空に目を向けた。爆音。だが、機影は青い空に溶け込んで一向に見えなかった。

 十五分ほどで、グレーに塗装された米空軍のファントムが着陸、バーンズとラビンが待つ駐機場に進入してきた。
 エンジン停止。静寂が訪れ、風の音が蘇る。
 二人乗り座席の風防が開き、前、後席の乗員が操縦席でヘルメットを脱ぐ。前席の機長が先に立ち上がった。バーンズは機長を見て、目を剥いた。バーンズ自身、決して小柄な方ではない。だが、前席のパイロットはバーンズより十センチも背が高そうだった。何よりバーンズを驚かせたのは、ヘルメットを脱いだ男の金髪が風になびき、肩にかかるほど長かったことだ。後部座席の男も立ち上がった。前席の男に比べると小柄だった。黒い髪、黒い目、浅黒い顔。遠目にも東洋系であることがわかる。
 二人の乗員は、グリーンの飛行服、Gスーツを着け、サバイバルベストを着込んでいた。整備兵が小走りにファントムに駆け寄り、機首の左側にタラップをつけた。二人のファントムライダーは、操縦席を出て機体を降りると、足早にバーンズの前に来た。そろって右手を挙げ、敬礼する。バーンズとラビンが答礼した。
「第一四一飛行隊、大尉ハンス・ハインリッヒ・ラインダース。ただいま着任いたしました」金髪の巨漢が割れ鐘のようなだみ声で申告した。
「ご苦労」バーンズが手を下ろして答える。
 ラインダースから視線を外したバーンズは後席から降りてきた東洋系の男の右腕に目を止めた。日章旗のマークが貼りつけてある。いぶかしげに視線を上げ、後席員の顔を見る。深い湖水を思わせる澄んだ眼差しが真っ直ぐに見返していた。
「航空自衛隊二等空尉ジロウ・ナスノ。ただいま着任いたしました」東洋系の男が敬礼をしながら張りのある声でいった。
 バーンズは制帽のひさしにわずかに指が触れるだけの答礼をした。
 いよいよ厄介事がやってきたか、とバーンズは思わずにいられなかった。日本人のパイロットがハイファ基地に着任することを空軍参謀本部が知らせてきたのは、ほんの三日前だった。
 日本の電子機器メーカー三社が電子作戦機の開発に参加、その実地試験を行うために日本人パイロットが派遣される、と。
 実戦の経験もなく、所詮は二流国に過ぎない日本のパイロットなど厄介な荷物以外のなにものでもない。
 だが、一方で米空軍が地上の対空火器基地を制圧する電子作戦機を喉から手が出るほど欲しがっているのも事実だった。だから、やむをえず日本人を受け入れたのだ。その電子作戦機は『野生のイタチ(ワイルド・ウィーズル)』と呼ばれる。
 ワイルド・ウィーズル機は、地対空ミサイルサイトから照射されるレーダー波を捕捉すると同時にその電波の特徴を捉えて『シュライク』ミサイルを発射する。シュライクは敵の発するレーダー波に乗って飛翔するのだった。
 ヴェトナム戦争時代、米空、海軍は、地対空ミサイルによる被害があまりに大きいところから、敵のレーダー波を解析する電子戦ポッドALQシリーズを開発し、F-105サンダーチーフやF-4ファントムに搭載してワイルド・ウィーズル部隊を編制するようになった。
 ワイルド・ウィーズル機は、爆撃機隊に先行し、単機で敵のミサイルサイトを求めて低空を飛ぶことが多い。すばしこい動きから〈イタチ〉と呼ばれるようになったのだった。
 電子機器は、数年の間に急激に発達した。
 ヴェトナム戦争では、シュライクミサイルによる攻撃を受けるとレーダーを切ったり、妨害電波を照射するなどして対抗策がとられるようになった。米空、海軍が求めたのは、敵の策を上回る性能を持ったワイルド・ウィーズルなのだ。
 日本とアメリカが共同で開発している電子戦ポッドを搭載したワイルド・ウィーズル機はやがて『G』タイプのファントムと呼ばれるようになる。
 バーンズは深く溜め息をついた。
 バーンズはマサチューセッツ工科大学で電子工学を専攻、博士号を持っている。ケネディ大統領の登場、ヴェトナム戦争へと突入する中、バーンズは軍隊にこそ、自分の身につけてきたすべてを生かすフィールドがあることを確信していた。だが、黒人であり、空軍士官学校の卒業生でもない彼が出世していくためには、他人を寄せつけない力量を示す必要があった。
 バーンズは高校生時代から大きな身体と敏捷さを買われ、フットボール選手として鳴らした。が、大学に進学する時にフットボールをふっつりとやめた。彼の並外れた頭脳はフットボールがなくとも奨学金をもらうのに十分な資格を与えてくれたからだった。
実際、バーンズは大学では上位三人の中に入る成績を収めて大学院に進んでいた。
 バーンズの専門は、航空機に搭載する電子機器、とくにレーダーである。
 だが、イスラエルでワイルド・ウィーズルの研究をすることは彼の本意ではなかった。彼が夢に見ているのは、レーダーに映らない戦闘機、その後、『ステルス』と呼ばれるようになる戦闘爆撃機の実現だったのである。
 そうはいっても、戦場が武器開発にとって情報の宝庫であることも間違いなかった。バーンズは空軍参謀本部に提出するワイルド・ウィーズルに関するデータ収集の上に、シリア、エジプトに展開しているソ連製レーダーの情報を集めることも同時に進めており、文字通り忙殺される毎日をおくっていた。
 イスラエル空軍幹部は、一介の黒人中佐が夜も昼もなく、熱心で精力的に仕事をすることに感嘆していたが、バーンズの胸にある野望に気づくことはなかった。
 それだけに日本から来たパイロットの面倒を見るのは、時間の無駄であり、バーンズを苛立たせることになった。
 バーンズは那須野を見つめながら静かに訊いた。
「戦場に到着した感想は? 中尉」
「別に」那須野は肩をすくめた。
「そうか」さすがにバーンズは拍子抜けしたような顔をすると淡々と言葉を継いだ。
「では、ハンス・ハインリッヒ・ラインダース大尉とジロウ・ナスノ中尉の着任を認める。私はここで軍事顧問団の責任者をしている、フランクリン・バーンズだ」
 バーンズは後ろに立っているラビンを手で示し、続ける。
「こちらがイスラエル空軍アリエル・ラビン中佐。イスラエル空軍との仲介役をやってくれている」
 ラビンは前へ出るとまずラインダースと握手し、挨拶をした。次いで那須野の前に来ると右手を差し出す。那須野はラビンの硬い皮膚に覆われた右手を握った。ラビンは茶色の悲しそうな光を宿した瞳をしていた。
「よろしく」ラビンがにっこりと微笑んでいった。
 那須野は力強いイスラエル空軍中佐の右手を握り返しながら、わずかに会釈した。

 シリア軍のミグは、谷の上で機首を上げた。距離は三〇〇〇フィートほどになっている。ファントム一番機は、赤外線追尾式ミサイル『サイドワインダー』の射程に捉えた。
“敵機をロックした。ミサイルを試す。後方をカバーせよ”一番機の機長が無線を通じて指示を飛ばす。
「二番機、了解」那須野が酸素マスクの中で答えた。
 ミグは四五度近い仰角をとって急上昇しながら、鋭く左に旋回した。ファントム一番機が目標機に合わせて、ゆったりと旋回する。
 その時だった。
 ミグは高度二〇〇フィートもない空間で、素早く右に横転をかけた。強引な機動。左の翼端から水蒸気の帯を引く。追尾されていることに気がついたのだ。あと数秒、気づかれなければ、一番機のサイドワインダーが確実に引き裂いていた。ミグは生と死を分ける一秒の数十分の一のタイミングを捉え、離脱を図る。
 那須野の耳に一番機パイロットの呻きが聞こえた。
 ミグは再び涸れ谷に向かって急旋回を切り、機首を下げた。ずんぐりした胴体、尾翼の高い位置にある水平尾翼、後退角のついた主翼。ミグは、ファントムに比べてはるかに軽快な戦闘機で、格闘戦になれば、抜群の機動を見せる。
“そっちへ向かうぞ、カバーに入る。交戦しろ”一番機が怒鳴った。
「了解」
 那須野は答えると同時にスロットルレバーを最大出力位置まで叩き込み、操縦桿を右に倒して、ラダーペダルを蹴った。ファントムのJ79エンジンが轟然と吼え、澄んだ大気の中を雷鳴が駆け抜ける。
「相手は手ごわいぞ、ナスノ」後部座席からラビンが声をかけた。
 那須野は答えることもできなかった。照準器を短射程ミサイルモードにして、距離をはかる。那須野機が搭載しているミサイルの弾頭シーカーがミグの排気口から吐き出される大量の赤外線を捉えて、電子音を送ってきた。
 ロック・オン。
 だが、ミグは身をひるがえし、さらに高度を下げる。那須野が旋回しながら設定した完璧な射撃態勢が無駄になる。
 ミサイルは、ラックから外れると一度沈み込み、それから敵機目掛けて飛翔するような軌道を描く。攻撃側の戦闘機は、ミサイルが沈む分の高度を保っている必要があったが、二機のファントムはいずれも腹をこすりかねないほどの低高度を飛んでいた。ミサイルを発射したところで、地面に落ちるのは明白だった。
 ミグは山の稜線に沿ってわずかに降下、直後に左に急旋回し、今度は機首を北へ向けて地を這うように上昇を始めた。一山越えれば、国境地帯。追尾は不可能になる。直線的に峰を飛び越すのを諦め、山の周囲を撫でるように離脱することに決めたのだ。速度が落ち、後方から食いついてくるファントムとの距離を詰める結果になるが、ミサイル攻撃を封殺することができる。
 那須野は舌を巻いた。ミグのパイロットは、瞬時に状況を見てとり、ぎりぎりで攻撃をかわしているのだ。
 那須野が一気に距離を詰めたものの、ミグは地表すれすれで旋回を切る。那須野は一旦高度をとるために直線的に離脱した。風防ガラスの中で、ミグの排気で樹木の先端が揺らめき、山の斜面から砂塵が舞い上がるのが見える。
 すでにミグの進行方向を読んで旋回を切っていた一番機が追尾する。那須野は高度一五〇フィートで旋回、機首を下げると一番機の後方についた。
“敵機をロックした。ミサイルを試す”一番機がコールする。声がかすれている。
 ミグを駆るパイロットが、滅多にお目にかかることができないほどの腕前であることに興奮しているのだ。
“フォックス・ツー”
 一番機がコールすると同時に左の翼下からオレンジ色の炎を噴いて、サイドワインダーが発射された。だが、降下したミサイルは、山肌に激突して黒い煙を上げる。
 岩山に触れそうになりながら、ミグは旋回を切った。
 そして、二機のファントムをあざ笑うかのように機尾を振りながら、国境地帯へ向かって降下していった。
 那須野は、その時になってはじめて、自分の心臓が痛いほど激しく鼓動していることに気がついた。

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