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短編少年
集英社文庫編集部編

 逆ソクラテス
                  伊坂幸太郎

     ◇

 リビングのソファに腰を下ろし、ダイニングテーブルから持ってきたリモコンを操作する。買ったばかりの大画面テレビはまだ、他の家具とは馴染んでおらず、態度の大きな転入生、しかも都心から田舎町にやってきた生徒のような、違和感を滲ませていた。先ほど消したばかりではないか、とテレビが苦笑するのが聞こえるようでもある。
 実況するアナウンスの声が聞こえた。明瞭な声で、さほど目新しくもないコメントをすらすらと述べる。
 プロ野球のペナントレースも終盤だった。夏の終わりまで首位の在京球団が独走態勢にあったのが、二位の球団が驚くほどの追い上げを見せ、すでに二ゲーム差まで詰め寄っている。それだけに観客の注目も集まっているのだろう、テレビの画面越しとはいえ、熱気が伝わってくる。
 在京球団の投手がワインドアップポジションからボールを投げる。打者が見逃す。審判がストライクを告げた。
 映ったスコアボードには、ゼロが並んでいる。八回の表のマウンドに立つ、現役最高額の年俸を誇るエースは、ずいぶん堂々としていた。
 右打席に立つのは、三番打者だ。恵まれた体格の割に童顔で、今シーズンは打点、本塁打の二冠が確実と言われている。女性ファンも多い。打者は耳を触り、バットを構えた。
 二球目が投げられる。ほぼ同時に、打者の体が美しく回転し、音が鳴る。打ちました、と実況のアナウンサーが甲高い声を上げる。
 打球の飛距離はかなり長い。カメラがボールを追う。投手が苦しい表情で、振り返る。
 センターの一番深いスタンドに向かい、ボールは落下していく。大きな放物線を描く、その動きに、観客の誰もが見入っていた。
 その時、背中を見せ、走っているのは守備要員で入ったばかりの選手だった。体は大きくないものの、粘り強さと選球眼で打率は良く、今シーズンのチームの原動力となっていた。ただし、独断専行が過ぎる監督に反発したが故に、スタメンから外されることが多くなっており、そのことはたびたびスポーツ紙やファンから嘆かれてもいた。私怨で、監督がチームの足を引っ張って、どうするつもりなのか、と。その、中堅手は駿足で飛ばしている。日ごろの監督との対立で溜まっていた鬱憤を晴らすかのような快速だ。
 捕まってなるものか、とボールが速度を上げたようでもある。
 中堅手がセンターフェンスに向かい、跳躍する。ぐんと、飛び上がる。そして、宙で体を反り返らせ、着地した。ボールは? 注視していた観客たちが無言ながら、一斉にそう思う。ボールはどこだ?
 誰もが息を呑む、短い時間があり、その後で、中堅手が挙げた左のグローブに白いボールが見えた。観客席から場内の空気をひっくり返す、大きな声が湧き上がった。
 中堅手はその場で、右の肘を曲げると、空中に浮かぶ透明の宝を、大事に、そして、全身の力で、握り締めるかのような仕草をした。小さなガッツポーズとも見える。それから、両手で顔をこする。ばしゃばしゃと洗う仕草で、その後で、指を二つ出した。
 彼は持っていたリモコンの電源ボタンを押す。大型テレビは仄かに息を漏らすような音を立て、面面が暗くなる。

    ◇

 中学、高校での思い出は、良くも悪くも、思春期特有の恥ずかしい出来事が多いからか、実体を伴っている。が、小学生の頃のこととなると、ぼんやりとしたものだ。
 小学六年生のあの数ヶ月のことも、大事な記憶であるにもかかわらず、思い出そうとすれば、どこか他人の冒険譚を読むような気持ちになった。
 断片的に、ぽつりぽつりと蘇る場面を思い出すがままに並べていく。
 ぱっと浮かぶのは、授業中の机に向かう自分、算数のテストの時だ。
 机に座り、答案用紙を前に高まる鼓動を抑えるのに必死な、僕がいる。学力も運動もそこそこの、クラスの中で目立つ存在でもなければ、疎まれる存在でもない、そういう生徒だった。中学から高校、大学と進むにつれ、学力は威張れるものではなくなり、運動も平均的な動きしかできなくなり、だんだんとしょぼくれた生活を送るようになったから、小学校時代は一番マシだった、と言うこともできる。
 算数の問題はさほど難しくなかった。担任の久留米は最後の二問はいつも難問を用意するため、なかなか全問正答はできなかったが、それ以外のものであれば、僕の頭でも解けた。あとは、久留米が、「はい、そこまで。後ろから答案用紙を回しなさい」と言うのを待つだけだった。
 いつもなら、だ。その時は違った。
 僕の左手の中には、丸めた紙切れが握られていた。右側の席にいる、安斎が寄越してきたものだ。紙切れの中には、数字が記されている。小さな字で、安斎が書いた。一問ごとにカンマ区切りで、テストの答えが記してある。
「俺が加賀に渡すから、加賀は隣の草壁に、その紙切れを渡すんだ」安斎は、僕に指示を出していた。
 落ち着け、と心で唱えるたびに、その言葉に反発するかのように、心臓が大きく弾んだ。久留米に見つかったらどうなるのか。そもそも、小学生の頃は教師は絶対的に、正しい存在だった。僕たちを指導し、正解を教えてくれ、誤りを正してくれる役割と信じ、疑ってもいなかった。
 さらに、久留米には独特の、威厳があった。体格も良く、顔は俳優のように整い、歯並びも良かった。あの頃の久留米は、三十代後半のはずだから、自分の父親よりも若かったことになる。にもかかわらず僕にとっては、父よりもよほど年長で、よほど厳格な、恐ろしい父親の印象があった。久留米が担任となるのは、五年生から二年目であったが、彼に名前を呼ばれるたび、緊張が走るのは変わっていなかった。僕に限らず、生徒全員が、どこか萎縮していた。ように思う。
 あれほど安斎たちと予行練習をしたのに、と思う。いや、実際、あの時はそう思う余裕すらなかったのかもしれない。鼓動の音が頭を埋め尽くしていた。
 その時、佐久間が挙手した。クラスで最も背の高い女子で、目が大きく、端的に言って美人で、いわゆる学校で最も注目を浴びるタイプの同級生だった。父親は有名な通信会社の取締役で、テレビにも時折出演し、地域の経済に貢献しており、母親のほうは教育熱心で、学校のやり方によく口出しをしてくる人物だった。さまざまな理由から、学校側も佐久間には一目置いていた。
 その佐久間が手を挙げ、「先生」としっかりした声で言う。
「何だ」久留米が、佐久間を見た。
「このプリント、読みにくいんです」
 どこだ、と久留米が彼女の机に近づいていく。
 予定通りだ。覚悟を決めた。あの、佐久間が、リスクを省みず、「カンニング作戦」に協力しようというのだ。僕がやらなくてどうする。
 久留米が、佐久間の横に行き、長身を屈め、プリントを見つめたところで、僕は左手をそっと伸ばし、草壁の机の上に紙切れを置いた。姿勢を変えず、左腕だけを静かに動かす。大きな動作ではないものの、目立つ行為に思えてならない。
「本番で緊張しないためにはとにかく、何度も何度も事前に練習をやって、自動的に体が動くようにしておくことだよ」
 安斎のアドバイス通り、僕は一週間前から休み時間のたびに、練習をしていた。隣の草壁の席へ、そっと手を動かす練習だ。
 その甲斐があったのかもしれない。一度、体を動かしはじめれば、後は自動的に、紙切れを草壁の机の上に置いていた。
 使命を果たした安堵に包まれながらも、心臓の動きはさらに強くなり、それを隠すために答案用紙にぐっと顔を近づけた。
 計画当初、僕は、「どうせ、正解を書いたメモを渡すんだったら、解答を紙に書く役割も、僕がやったほうがいいんじゃないかな」と提案した。算数のテストであれば、僕もある程度の点数を取る自信があったし、安斎が答えを書き込んで僕に紙を渡し、それを僕から草壁に渡す、という二段階の手順を踏むよりも、僕が答えを書き込んで草壁に渡す、というほうがスムーズに思えた。が、安斎は、「違う」と言い張った。「作業は分担したほうがいい。それに、草壁の隣の加賀よりも、隣の隣の俺のほうが気持ち的に余裕があるから、答えを書きやすい」
 安斎の読みは鋭かった。実際、テスト中に自分が紙切れに解答を書き込むことは無理だった。緊張で、その場で倒れたかもしれない。
 メモを受け取った後、左側の草壁がどのような行動を取ったのか、僕は覚えていない。ただとにかく、カンニングを実行した罪の意識と、危険を省みず行動を起こした高揚感で、ひたすら、どきどきとしていた。

     ◇

 美術館に行った時のことも、覚えている。二回、訪れた。初回は、算数テスト作戦の前だったか、後だったか。どちらにせよその近辺のことなのは間違いがない。何しろ、それも計画の一つだったからだ。
「加賀はこの美術館に来たことがあるのか」と安斎に訊ねられ、僕は、「ここが何の建物かも分からなかった」と正直に答えた。絵画に興味があるはずもなく、学校の近くに、不思議な形の、大きな施設があることは知っていたものの、縁があるものとは思っていなかった。
 館内に入ったところで、安斎はここに来たことがあるのか、と訊き返した。するとその声が、広い館内には大きく響き、ぎょっとし、背中が冷え冷えとした。人はちらほらいたが、全員が息を潜めているかのようで、誰かの足音がしただけでも、天井が崩れ、巨大な鬼が顔を出し、「見つけたぞ」と噛みついてくるのではないか。それを誰もが恐れている。そういった想像をしたくなるほど静かだった。
「時々、暇な時は、ここを観に来るんだ」と安斎が言うので、僕は安易ではあるが、尊敬してしまう。
 僕は、ただ、どぎまぎとしながら安斎について行っただけであるから、詳細は分からなかったが、おそらくあれは常設展だったのだろう。地元在住の、抽象画家の作品のコーナーに、ランドセルを背負ったまま、歩を進めた。
「この絵、地元の画家の作品みたいだよね」と安斎が小声で言う。
「いや、知らないよ」びくびくしながら、囁いて返事をする。
 小六の四月に、東北から転校してきたばかりの安斎のほうが、地域のことに詳しいのは何とも恥ずかしかったが、安斎が物知りなだけ、とも思えた。たぶん、クラスの誰も、地元の画家のことなんて知らなかったはずだ。
「抽象画で有名なんだって。前に来た時に、学芸員のお姉さんに聞いたんだけど、海外でも評価されているらしくて」
 もはや、あの時の僕にとっては、「抽象画」はもとより、「学芸員」も「海外」も未知なる、遠い世界の言葉だった。
「へえ」知ったふりをして、答えた。「こんな、落書きみたいなものが、凄いの?」
 小学校の頃の自分を庇うわけではなかったが、その絵は実際のところ、落書きじみていた。線が引かれているかと思えば、渦巻きのようなものもあり、青色と赤色が飛び散っている。
 安斎が奥のほうに行ったので、僕も続く。以前から時折来ていた安斎のことを、美術館の係員たちは、「絵画好きの子供」と認識していたからか、学校帰りの僕たちのことも不審がらず、むしろ勉強熱心な子供たちと目を細めている向きもあった。
 素描画が並ぶ壁で立ち止まった。葉書三枚くらいの大きさの小品ばかりで、いずれも色のついていない、ラフな下書きじみていたため、僕は正直に、「これなら僕でも描けそうな気がするけれど」と感想を洩らした。
 安斎は、「本当にそう思う?」と訊ねてきた。
「描けそうだよ」
「実際にはこれって、子供には描けないよ」
「そうなの?」
「デッサン力があるから、ここまで崩せるんだ」
 安斎の言葉の意味は、もちろん僕には分からない。「でも、描けそうだと思わない?」としつこく言い返した。
 安斎はそこで満足そうにうなずいた。「それがポイントだよね」
「ポイント? 何の?」
 安斎は僕の問いかけには答えず、周囲を見渡した。会場の隅には、椅子があり、監視役のようにして係の人が座っている。
 記憶が正しければ、その日はそこで僕たちは美術館を後にした。
 そして帰る道すがら、安斎に、その作戦の内容を聞かされたのだ。

 次の記憶の場面は、また美術館だ。日を空け、二度目に訪れたところで、僕たちはやはり、常設展会場の隅に立っている。隣の安斎が、「よし、加賀の出番だよ」と言う。
「え」
「ほら、説明した通りに」
「本当にやるのかい」
「そりゃあもちろん」
 そこから先のことは実はあまりよく覚えていない。算数のテストで、カンニングを行った場面よりも、曖昧模糊とした、ふわふわとした煙に包まれたものとして、自分の中に残っている。おそらく罪の意識と緊張のあまり、現実味が薄くなっているのだろう。
 僕は、会場の隅にいる学芸員に話しかけにいった。「あの絵は何について描いているんですか」と入口近くの作品を指差し、訊ねた。すると学芸員の女性が、小学生の僕に、驚きと微笑ましさを浮かべ、立ち上がり、絵の前でいくつか親切な説明をしてくれた。できるだけ、たくさん話を聞くんだ、と安斎に命じられたため、必死に頭を働かせ、質問をいくつか学芸員にぶつけた。とはいえ、限界はある。あっという間に、話題は尽き、僕はぎこちなく礼を言い、そこから足早に去った記憶がある。安斎と合流したのは、出口付近だった。
「どうだった? 絵は?」と弾む息を抑え、彼の手元を見る。巾着袋があった。
 安斎の立てた作戦はこうだった。「加賀が学芸員の注意を逸らしている間に、俺が別の絵と美術館の絵を入れ替えて、持ち帰る」

     ◇

 安斎についての思い出には、濃淡がある。四月、転校生としてクラスにやってきた時の彼は輪郭のはっきりしない影のようにしか思い出せないのだが、放課後の校庭で、「俺は、そうは思わない」と土田に言い返した安斎の表情は、くっきりと頭に残っている。
 カンニング作戦の一ヶ月前くらいだっただろうか。放課後の校庭で僕たちはサッカーをした。安斎もまざっていた。
 転校してきてからの安斎は、無愛想ではないものの愛想が良いとも言えず、僕たちが、「一緒に遊ぶ?」と訊ねれば、三回に一度くらいは参加してきたが、自分から、「まぜて」と仲間に入ってくるほど積極的でもなかった。楽しそうでも、つまらなそうでもなく、授業中の発言やテストの結果を見る限り、頭が良いのは間違いない。とはいえ、目立つわけでもなかった。
 今となればそれが、「年に一度か二度の転校を余儀なくされてきた」安斎が、体験から身に付けた処世術のようなものだとは分かる。彼は、転校先の同級生たちとの距離を取るのがうまかった。
 その日は、クラスの男子ばかりが六人で、校庭のまわりに張られたネットをゴールがわりにし、サッカーを楽しんだ。それなりに白熱し、いつになく僕はシュートを決めた。安斎が僕に、いいパスをたくさん出してくれたからだ、と気づくのは翌日になってからで、その時はただ、急にうまくなっちゃったな、と上機嫌だった。
「加賀ごときに入れられちゃうとはな」大きな声で、機嫌悪そうに言うのは土田だった。父親が新聞社のお偉いさんらしく、それが関係していたのか、いや、関係しているのだと僕は信じているが、彼はいつだってほかの同級生を見下ろしていた。土田の口にすることの七割は自慢話で、残りの三割は、誰かを見下し、茶化す言葉であったから、ようするに彼の発言はすべて、自分の地位を他者よりも上位に持ち上げる主張だった。土田と喋ることにはそれなりに気を遣ったし、楽しい気持ちになることは少なく、おまけに、というよりも、だからこそと言うべきだろう、クラスの中で影響力を持っていた。
 サッカーが一段落つき、「どうする、もう一回やる?」「帰ろうか」などと、ごにょごにょ喋っている時、校門を出て行こうとする草壁の姿が目に入った。在京のプロ野球チームのキャップを被っている。後に分かるが、その頃の彼の唯一の楽しみは、家で見るプロ野球中継で、本塁打やファインプレーを見ると、その恰好を真似していたらしかった。野球選手の活躍を無理やり自分と重ね合わせ、つまらない現実を忘れたかったのかもしれない。
「おい、臭い草壁、オカマのクサ子」土田が声を上げた。聞こえたらしく、草壁は慌てて、立ち去った。
「草壁ってオカマなのかい?」安斎が真面目な顔で、僕を見た。
 改めて聞き返されると僕も戸惑うが、「昔から言われてるんだよ」と説明する。「小三の時かな。草壁がピンクの服を着てきてさ、女みたいだったから」
「ピンクだと女なんだ?」
 土田が隣の同級生と顔を見合わせ、目を強張らせた。安斎が口答えしてきていると思ったからかもしれない。「だって、だいたいそうじゃないか」
「俺はそうは思わないけど」
「何だよそれ」土田が怒る。文句あるのかよ。おまえもオカマじゃねえの、と。
 僕はどうしたものかとおろおろしてしまう。まさか、安斎がそれほど強く、自分の意見を押し出してくるとは思わなかった。
「だいたい、最初に先生が言ったんだよ。三年の時に久留米先生が」土田が口を尖らせる。
 その時のことは僕も覚えていた。久留米は上級生の担任だったのだけれど、たまたま、全校の集まりがあった時に、薄いピンクのセーターを着ていた草壁に向かって、「おまえは女子みたいな服を着ているな」と言ったのだ。からかうのではなく、教科書を読むような言い方で、周りの同級生たちはいっせいに笑った。
「ああ」安斎はそこで事情を察したかのような声を出した。「久留米先生は、そういうところがあるよね」
「そういうところって何だよ」土田は興奮した。
「いろんなことを決めつける」安斎が言い、僕は、「え」と聞き返した。決めつける? どういう意味だろうか。僕はその先が聞きたかったが、土田がすぐに、「おまえ、何、久留米先生のこと、馬鹿にしているんだよ」とわあわあと言いはじめたことで、話は途切れた。
「いや、俺は別に、久留米先生の悪口を言いたいわけじゃないよ。たださ」と続けた。
「ただ?」これは僕が質問した。
「ピンクの服を着たからって、女だとは思わないよ」
「ピンクは女だよ」
「それに女みたいだって、別にいいじゃないか」
「男なのに女なんて変に決まってるだろ」
「土田はそう思うんだろ。ただ、俺は、そうは思わない」と言葉を一つずつ、相手に噛んで含めるようにして、しっかりと言った。

     ◇

 場面は変わる。自宅近くの児童公園だ。そこで安斎が話してくれた内容は、忘れられない。細かいやり取りは例によってうろ覚えだが、おおよそ次のような会話だったはずだ。
「加賀、あのさ」安斎はブランコに尻をつけ、こぎながら、言った。僕は隣のブランコの上に立ち、膝を曲げ、少しずつ揺れを強くしはじめた。「たとえば、加賀が、ドクロマークの服を着ていたとするだろ」
「え、何のこと?」僕はブランコを動かすのに力を入れはじめていたため、大事な単語を聞き間違えたのかと思った。
「ドクロの服だよ。どう思う?」
「どうって」
「それで、学校に行ったら、たとえば久留米先生とか土田が、こう言うんだ。『加賀は、ドクロの服を着て、ダサいな』って」
「そりゃあ」僕は想像する。「やだよ。恥ずかしいかも」
「だろ。そして、たぶん、クラスのみんながこう思うんだ。『あの、加賀が羽織っている、ドクロのジャンパーはダサい』って。それから、『加賀はダサい奴だ』って思う」
「まあ、そうだろうね」
「でもさ、考えてみろよ。ドクロがダサいなんて、そんなの客観的な評価じゃないんだよ」
「客観的って、どういうこと」
「絶対正しいこと、って意味だよ。ドクロマークを恰好いいと感じる人もいれば、ダサいと思う人もいるし。決められることじゃないんだ。正解なんてないんだから。一足す一が二っていうのとは全然違う」
「まあ、そうだけど」安斎が何を言いたいのか、よく分からなかった。
「俺たちは、誰かの影響を受けずにはいられないんだから、自分がどう思うかよりも、みんながどう思うかを気にしちゃう。君は、ドクロマークがダサいと言われたら、そう感じずにはいられないし、もう着てはこられない」
「僕は、ドクロのジャンパーを持っていないけど」
「今まであちこちの学校に通ったけどさ、どこにでもいるんだよ。『それってダサい』とか、『これは恰好悪い』とか、決めつけて偉そうにする奴が」
「そういうものなのかな」
「で、そういう奴らに負けない方法があるんだよ」
 僕はその時はすでにブランコから降り、安斎の前に立っていたのだと思う。ゲームの裏技を教えてもらうような、校長先生の物まねを伝授されるような、そういった思いがあったのかもしれない。
「『僕はそうは思わない』」
「え?」
「この台詞」
「それが裏技?」
「たとえばさ、加賀のお父さんが会社を首になったとするだろ」
「なってないけど」
「たとえばだよ。で、誰かに、情けない親父だな、と言われたとする。周りの同級生は少し笑うだろう。そこで加賀は、これだけは言い返すべきなんだよ」
「何て」
「『僕は、情けないとは、思わない』ってさ」安斎は自信に満ちた言い方をする。「落ち着いて、ゆっくりと、しっかり相手の頭に刻み込むように」
「そんなことに効果があるかなあ」
「あるよ。だって、加賀のお父さんが情けないかどうかは、人それぞれが感じることで、誰かが決められることじゃないんだ。『加賀の親父は無職だ』とは言えるけど、『情けないかどうか』は分からない。だいたい、そいつらは、加賀のお父さんのことを何も知らないんだ。だから、ちゃんと表明するんだ。僕は、そうは思わない、って。君の思うことは、他の人に決めることはできないんだから」
 その時の僕は、はあ、と弱々しく相槌を打ったはずだ。安斎の言っていることを半分も理解できていなかった。
 さらに安斎は、あの、大事な話をはじめた。
「それでね、久留米先生はその典型だよ」
「典型?」
「自分が正しいと信じている。ものごとを決めつけて、それをみんなにも押し付けようとしているんだ。わざとなのか、無意識なのか分からないけれど。それで、クラスの生徒たちはみんな、久留米先生の考えに影響を受けるし、ほら、草壁のことだって、久留米先生が、『ダサい』とラベルを貼ったことがきっかけで」
「ダサいと言ったんじゃなくて、女みたいだと言ったんだ」
「転校してきてから観察してたのだけれど、久留米先生は、草壁を見下した態度を取ることが多いよ」と安斎は続けた。たとえば、同じような問題を解いたとしても、草壁が正解した時には、「簡単すぎる問題だったかもしれないな」とコメントする。もし、優秀な佐久間が答えれば、「よく分かったな」とプラスの言葉を添える。それだけでも、本人はもとよりクラスメイトたちに、印象付けを行うことができる。草壁はいつも褒められず、佐久間や土田は褒められる。結果的に、草壁は萎縮し、周りの人間はこう思う。草壁は自分たちより下の人間で、少々、蔑ろにしても問題はない、と。
「それでさ、ちょうどこの間、テレビで見たんだけど」安斎が言う。
「何を?」
「何だっけな。教師、教師効果、教師期待効果だったかな」
「何だろう、それ。知らないよ」僕はすぐに、頭を左右にぶるんぶるんと振った。
「教師期待効果っていう法則っていうか、ルールっていうか、そういうのがあるんだって」
「こうか?」僕は咄嗟に、記念硬貨の一種ではないか、と思いそうになる。
「先生が、『この生徒は将来、優秀になりそうだぞ』と思って、接していると、実際に、優秀になるんだって」
「え、そうなの?」
「まあ絶対そうなる、ってわけじゃないけど。でも、普通の生徒が問題が解けなくても気にしないのに、優秀になるぞ、と期待している生徒が間違えたら励ますかもしれないだろ。もしかするとすごく熱心に問題を一緒に解いてくれるかもしれない。何かやり遂げるたびに、たくさん褒めるかもしれない。そうすることで、生徒は実際に、優秀になっていく」
「なるほど、ありそうだね」
「逆もあるよ。『この生徒は駄目な子だ』って思い込んで接していたら、その生徒が良いことをしても、『たまたまだな』って思うだろうし、悪いことをしたら、『やっぱりな』って感じるかもしれない。予言が当たる理屈も、これに近いんだって。それくらい先生の接し方には、影響力があるってことかも」
「病は気から、っていうのと同じかな」
 安斎はブランコに座りながら腕を組み、ううん、と唸り、「ちょっと違うかも」と首を捻る。
 話の腰を折ってごめん、と僕は、その時はどういう表現を使ったのか分からぬが言って、安斎の話を促した。
「でもさ、それを考えれば、一番の敵は」
「敵?」
「敵は、先入観だよ」
「先入観?」それ自体が分からなかった。
「決めつけ、のことだよ」
「どういうこと」
「久留米先生の先入観を崩してやろうよ」

     ◇

「やめたほうがいいんじゃないかな」と僕は、佐久間に言った。「僕たちの作戦には加わらないほうがいいよ」と。
 佐久間は、分類としては明らかに、「優等生の女子」であったし、親や教師に気に入られているのだから、ここで余計なことをして、悪印象を持たれるのは得策ではない、と拙いながらも、力説したように思う。
「メリットがない。まったくないよ」と。
 草壁も納得するように、うなずいた。
 でもさ、と佐久間はそこで少し引き締まった声を出した。「わたしも、ちょっと久留米先生ってどうかと思うところがあるんだよね。生徒のことを差別するのが分かるし」
「さすが、佐久間、鋭い」安斎が手を叩いた。
 あれは、確か、僕の自宅だった。
 安斎の計画について、打ち合わせをするために、それは打ち合わせや作戦会議というよりは、「やるぞ」という意思を確認する、団結式に近かったのだが、草壁はもとより、佐久間も来ていた。自宅の二階、南向きのフローリングの部屋は、高校を卒業するまで僕の部屋であったが、思えば、女の子があそこに来たのは、あの小六の佐久間が唯一だったのかもしれない。母親がいつになく張り切り、そわそわとし、部屋にお菓子を持ってきたことなどが、照れ臭さとともに記憶に残っている。
 どうして佐久間が協力してくれることになったのかは、はっきりと覚えていない。草壁を呼び、放課後の教室で喋っているところを見かけた彼女が、「何の話?」と首を突っ込んできたような記憶もあれば、僕たちが話をしている背後に、たまたま佐久間が立っていたことに気づいた安斎が、「君も参加しないか」と巻き込んだところを思い出すこともできる。思い出とはあやふやなものだ。ただとにかく佐久間が、「少しなら手伝いたい」と申し出てきたことは確かだった。
 優等生で、教師や保護者にも信頼されている佐久間が、僕たちの作戦に手を貸しても、メリットは一つもないよ、と僕は訴えた。が、彼女は、「久留米先生って、うちのお母さんと同じで、何でも自分が正しいと思い込んでいる感じがあるから、『それは違うでしょ』っていつか言ってやりたかったの」と平気な顔で主張したのだ。
 そして、僕たちは作戦会議をはじめたのだが、まずまっさきに安斎が宣言したのは、次のようなことだった。
 これは草壁のためにはならない。
 これは草壁のための作戦ではない。
「え」と僕は驚いた。
 佐久間も同様で、「あれ、ちょっと待って、安斎君。これって、草壁君にカンニングで、いい点数を取らせようっていう作戦じゃないの」と戸惑った。
 カンニングという単語が大きく響き、階下の母に聞こえるのではないか、と僕は一瞬、どきりとした。
「そういう作戦じゃないんだ」安斎は言った。
「じゃあ何?」
「草壁にいい点数を取らせて、久留米先生をびっくりさせるんだっけ」と僕が訊ねる。
「そう。だけど、ちょっと違うかも。びっくりさせたいわけじゃない」
「じゃあ、何?」草壁も言う。背はそれほど高くないものの貧弱な体型ではなかった。ただ、目が小さく、いつもおどおどとしているからか、何をするにも弱々しく見え、野球帽を取るとさらに、ぺちゃんこの髪が、その弱さを際立たせた。
「この間も言ったけど、久留米先生の問題は自分の判断が正しいと思っていること」
「自分の判断が正しいと思わなかったら、まずいんじゃないの?」
「そうだけど、決めつけてるだけの場合もあるだろ。草壁のことを大事に扱わないのは、草壁が大した生徒じゃない、と考えているからだ」
 そんなことを草壁の前で言っていいものか、とその時の僕はかなり、気を揉み、草壁の顔を見ずにはいられなかったのだが、当の草壁は納得した表情で、うんうん、とうなずいていた。
 安斎はそこでまた、教師期待理論について話をし、「そもそも、草壁が萎縮しているのは、久留米先生の接し方のせいとも言える」と言った。「教師が、この生徒は駄目だ、と思ったら、本当に駄目になることは多いんだから」
「それで?」
「このままだと、久留米先生は自分の判断が正しいかどうか、間違っていないかどうか、疑うこともなく、先生の仕事を続けていくと思うんだ」
「だろうね。うちのお母さんを見ていても思うけど、大人って、考えが変わらないもん」
「完璧な人間はいるはずないのに、自分は完璧だ、間違うわけがない、何でも知ってるぞ、と思ったら、それこそ最悪だよ。昔のソクラテスさんも言ってる」
「ソクラテス?」
「『自分は何も知らない、ってことを知ってるだけ、自分はマシだ』って、そう言ってたらしいんだ」
「自分は? 知らないことを知ってる?」安斎の言葉は、早口言葉にしか聞こえず、慌てる。
「ようするに、何でも知ってるって奴は駄目だ、ってことだよ」
「ソクラテスって、プラトンの先生だったんだっけ」佐久間が言う。
「うん、そうだよ」
「じゃあ、先生という意味では、久留米先生がソクラテスだ」
「草壁、それは違う、さっきも言ったように、ソクラテスさんは、自分が完全じゃないと知ってたんだから。久留米先生は、その反対だよ。逆」
「そうか、逆か」草壁は真面目に答えていた。
「だからさ」安斎がはっきりとした声で言う。「ここで俺たちが、久留米先生の先入観をひっくり返すんだ」
「先入観ってどういう意味?」草壁が訊ねると、安斎は、君が答えてあげなさい、と言わんばかりの目で、僕を見た。「決めつけのことだよ」と僕は、さも常識であるかのように説明した。
「いいか、ほら、もし、草壁が何か活躍をしてみたらどうなると思う?」
「僕が?」
「久留米先生は、あれ? と感じるはずだ。みんなの前で認めたりはしないかもしれないけど、心の中では、『あれ、俺の決めつけは間違っていたのか?』って不安になる。そう思わないか」
「思う」と僕と佐久間は即答し、草壁もうなずいた。
「だとしたら、たとえば来年、久留米が別のクラスの担任になって、誰かのことを駄目な生徒だって決めつけそうになった時、ブレーキがかかるはずじゃないかな」
「ブレーキ?」
「もしかして、自分の判断は間違っているかもしれないぞ。って」
「草壁は予想に反して、活躍したしな、って?」佐久間は察しが良かった。
「そう。だから、これは、草壁のためになるわけじゃない。だいたいカンニングをして、いい点数を取ったところで、実際の学力が上がるわけではないし、草壁にとって良いとは言えないだろ。ただ、これから久留米先生に教わる子供たちのためにはなる。生徒に対して先入観を持つのに慎重になるかもしれないんだから」
「なるほどね」佐久間が納得したように言い、それから僕の母が先ほど持ってきた煎餅を齧った。自分の家で女の子が、食べ物を食べていることが妙に新鮮で、小さく興奮した。ぽろぽろと口から、食べかすが落ちたのを目で追ってしまう。
「そうか、僕のためじゃなくて」草壁の声がそこで、少し強くなった。「これからの生徒のために、なんだね」
「そうだよ。草壁には申し訳ないけど」
「いや、僕もそのほうがいい」
 それは、はじめて草壁が僕たちに心を開いてくれた瞬間だった。
 仮にあれが、沈んだ学校生活を送っている草壁のために、いい思い出を残してあげたい、という憐れみにも似た動機から発生した計画であったら、たぶん草壁は参加してこなかっただろう。仮に参加したとしても、それは僕たちのやる気に反対できないがために、渋々、協力するようなものだったはずだ。が、安斎の目的は、草壁を救うことではなかった。未来の後輩たちのためだ。草壁は、自分も救う側の人間になれるからこそ、乗り気になったのではないか。
 佐久間は、コーラの入ったグラスを手に取ると、「こういう時じゃないと、飲めないから、嬉しいな」とぼそりと言う。
「家では飲まないんだ?」
「お母さん、健康主義だから」と言った後で、佐久間はコーラに口をつけた。
 そして横では、草壁が大きく開いた袋に手を入れ、一摘みスナック菓子を食べた。見ていると、「うまい」と囁き、すぐにまた手を入れていた。
「草壁の家も健康主義?」と何とはなしに訊ねると、彼は唇を歪め、「倹約主義」と言葉を選びながら、言った。それから、息を吐くと開き直るかのように、「借金主義」と笑った。

「それで、安斎君はどこまで計画を考えているの」小六の僕の自宅で、佐久間は確か言った。「カンニングで百点を取らせて、先生を驚かせるだけなの?」
「いや、それだけじゃあ、久留米先生もそんなに気にしないし、逆に、単に草壁がまぐれを起こしただけだって思われておしまいかもしれない。もう一つ、続けないと」
「もう一つ? 何かアイディアがあるの」
「今、考えてるのは」
「何?」
「ほら、先入観っていうのはさ、答えがはっきり出ないものに、大きな影響を与えると思うんだ。数字で結果が出ないもの。逆に言えば、俺たちが仕掛けやすいのも、そういう曖昧なところなんだ」
「曖昧な?」
「たとえば」安斎がそこで麦茶を飲む。「絵だよ。絵の評価は、数字じゃ分からないだろ」

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