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浮世奉行と三悪人
田中啓文

   雀丸登場の巻

     一

 晴天だ。風もない。大坂の空には無数のイカのぼりが揚がっていた。おなじみの鍾馗さま、金太郎、鎮西八郎に交じって、人気役者、人気力士などの絵柄もある。江戸では正月に揚げるというが、大坂では二月の初午頃がイカ揚げの盛りである。
 美人の顔や料理屋の屋号を大書したイカもある。美人画は新町の夕凪太夫という花魁がみずから大金を投じて浮世絵師春梅斎北寿に顔を描かせたものだし、料理屋のほうは昨年末に阿倍野に開店した「滝の茶屋」が拵えたもので、つまりは「披露目」のためなのだが、派手好きの大坂人のあいだでは早くも評判になっていた。
「たかがイカ作るのに三百両もかけるとは、豪儀やないか」
「腹の太いやっちゃ。気に入った。贔屓にしたろ」
「贔屓もなにも、おまえなんぞに夕凪太夫呼ぶ甲斐性も、『滝の茶屋』で飲み食いする甲斐性もないやないか」
「ほっといてくれ。向こうに知られんように贔屓にするんや。わしの勝手やろ」
 大坂市中には明るい声がはずんでいる。
 日本中を吹き荒れていた飢饉の嵐もようやく収まり、米の穫れ高も落ち着いた。一時は浪花の地でも餓死者が一日に二百五十から三百を数え、それに対してなんの手だても講じない町奉行やここぞとばかりに米を買い占めて値を吊り上げる商人たちに憤った元与力の大塩平八郎が乱を起こしてから、まだ十年と経たぬ。あのとき大塩は船場の商家を焼き討ちにし、それに端を発したいわゆる「大塩焼け」によっておよそ一万戸が灰燼に帰したのだが、大坂の皆はそんなこともすっかり忘れているようだ。
 せっかく趣向を凝らしたイカの数々だが、それを呑気に眺めているものはいない。往来の衆は皆、なにをそんなに急ぐことがあるのか、まっすぐまえを見つめて足早に行き交っている。よほど目先の金儲けに必死なのだろう。
 そんななかでひとり、難波橋のなかほどで、欄干に寄りかかり、空に舞うイカの群れをぼんやりと見ている若者がいる。二十代半ばぐらいだろうか。印半纏を二枚重ね着し、紺木綿の腹掛けに同じ色のゆるい股引をはき、足には草履をつっかけている。どこから見ても職人の拵えである。彼は眼下の大川に目を移し、
「ようのぼってるなあ……きれいやなあ……」
 空を埋めるイカたちの絢爛な絵は、空だけでなく大川の水面にも映っている。ちらちら動く川のなかのイカたちを見ながら、
「空と川で倍楽しめるやなんて、えらい得やなあ」
 口調はあまり上方言葉っぽくはないが、損得を優先するところは大坂人らしい。
「そろそろ行くか。いつまでも油を売ってると、お祖母さまに叱られるからな」
 かたわらに立てかけてあった竹の束を肩に担うと、すたすたと歩き出した。枝葉もついたままの十数本の太竹を荒縄で束ねたものだから、かなり重いはずだが、その重さを感じさせないぐらい軽々と担いでいる。といって、竿竹売りでもないようだ。
 衣服もこざっぱりしており、髷は上品な銀杏髷で、育ちの良さが感じられる。色白で、顔立ちもあっさりしており、眉も目も鼻梁も唇も細く、絵にしたらひと筆で描けそうだ。アクがまったくない、悪く言えばだれの心にも残らない顔立ちともいえた。
「おう、雀さん、商売の仕込みか。えろう精が出るやないか」
 難波橋を渡り終えたときに知り合いから声がかかった。手拭いを鉢巻き代わりに締めた、植木屋の職人だ。半被に「ひね松」という屋号が入っている。若者よりは年嵩のようで、眉毛が太く、たわしのようにごわごわしている。若者がそちらを向こうとすると、
「痛っ! 気ぃつけんかい!」
 身体を回したとき、肩に担いだ長い竹も一緒に回り、それが武家の中間らしき男の鼻を打ったらしい。無精髭を生やし、尻端折りをした中間は目を三角にして怒っている。
「すいません!」
 若者があわてて頭を下げると、竹がしなって、その中間の頭のてっぺんにぶつかった。
「痛っ! おまえ、どつくぞ!」
 見かねて、若者と中間のあいだに、植木屋が割って入った。
「堪忍したっとくなはれ。こいつ、アホですねん」
「おまえはなんや」
「友だちです。こいつ、ほんまにアホで、こないだも鼻かんだ手拭いで頬かむりして、髪がねとねとになったり……」
「あれは叱られた」
「にかわを醤油とまちごうて刺身つけて、口がひっついてしもたり……」
「あれも叱られた」
「友だち仲間の寄り合いに鯛のカブト蒸し持ってきてくれて言われてカブト虫持っていったり……」
「あれも叱られた」
 中間は真顔で、
「アホではしゃあないな。──おまえ、こいつがこないしてあいだに入りよったさかい、勘弁したるわ。気ぃつけえよ!」
「すいませんっ」
 若者が頭を下げて謝ろうとすると、
「あ、あ、もうええわ。おまえが謝るたびにわし、痛い目に遭うさかい……」
 そう言いながら中間は肩をいからせて立ち去った。
「ひどいやないですか、マッさん」
 若者は植木屋に言った。マッさんと呼ばれた植木屋は、
「なにがや」
「私はアホじゃありません。ちょっとその……ぼーっとしてるだけです」
「それをアホというのや。それに、手拭いの件もにかわの件もカブトムシの件も、どれもほんまやないか」
「それはそうですけど……」
「気ぃつけや。ああいう手合いは、ひとつまちごうたらなにかと因縁つけてきて、酒手やら博打の元手をふんだくろうとしよるさかいな」
「ええ、わかってます。気をつけます」
「とにかくぼんやり歩いとったらあかんで。歩きながら前見て、右見て、左見て、後ろ見とかんと、今日びどこからなにが飛んでくるかわからん世の中や」
「はははは……そんなにきょろきょろしながら歩いてたら首が疲れますね。それに、首はひとまわりしませんから、後ろを見るのは無理ですよ」
「今のはもののたとえや。しゃきっとしとけ、ちゅうことやがな。──それはそうと雀さん、今夜あたり久し振りに一杯どや」
「いいですね。お祖母さまにきいてみます」
「ああ、そうせえ。ほな、夕方、仕事終わったら、いつもの『ごまめ屋』におるさかいな」
「おさそいありがとうございます」
 雀さんと呼ばれた若者がぺこりと頭を下げると、またしても竹がしなり、拝み撃ちにされかかった植木屋はあわてて飛びのき、走るように去っていった。若者はその後ろ姿をぼんやりと眺めながら、
「マッさん、いいひとだな。いつも私のことを気にかけてくれる」
 しばらくそのままの姿勢でいたが、
「あ、これがいかんのや。ぼーっとしない。しゃきっと……」
 おのれに言い聞かせるように呟くと、ふたたび歩き出した。右に折れると銅座や懐徳堂があるが、彼は左に曲がった。しばらく行ったとき、
「なにをしますのや。無体なことを……放しとくなはれ」
 しゃがれた声が耳に入ったのでなにげなくそちらに目をやると、土手のうえで、老人がひとり、前のめりになっている。町人で、歳は七十歳ぐらいであろうか。その襟髪を、侍が掴んでいる。額が広い顔立ちで、垂れ目のうえに頬の肉も垂れ気味である。浪人ではない。身なりからするとそれなりに身分のある武家だと思われた。その前後にもふたりの侍がおり、老人は三人に取り囲まれた格好である。

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