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教団X
中村文則

「つまり、彼女は生きてるんだ」
 小林はそう言い、目の前の楢崎を見る。
 バーの青いライトが、楢崎の顔を微かに照らしている。現在の楢崎の姿を、悪意のある光で曝すように。こいつはこんな顔だったろうか、と小林は思っている。生きるための重要な何かが、抜け落ちた表情。なのに視線だけが無造作に強く、奇妙に光っている。
「……本当に?」
 楢崎の声がかすれて聞こえる。
「うん、嘘は言わないよ、前にも言ったけどやっぱり間違いない。……立花涼子は生きてる。死んでない」
 小林は自分のウイスキーが随分減っているのに気づく。自分の意志だったかわからないほど、小林の手は独りでに動いていた。先月の初め、小林は立花涼子を見た。あまりにもはっきりと。楢崎の元から失踪した女性。自殺までほのめかして失踪した女性。
「でもさ、何というか、関わらない方がいいと思うんだ」
 小林は小さな声でそう言う。
「どうして?」
「ん、まあ……」
 そもそも小林から見ても、楢崎と立花涼子の関係は奇妙だった。付き合っている、とは聞いていたが、親密にも見えなかった。彼女が楢崎の元から突然失踪した後、小林は偶然にその姿を見かける。小林は声をかける勇気がなく、職業の習慣のせいか、後をつけた。彼女は古びたアパートに入っていった。間違いなく彼女だった。
「……で、調べてくれたんだろう? 早く見せてくれ」
「まあ、そうなんだけど……」
 彼らのやり取りとは無関係に、遠くのテーブルから何かをはやし立てる声が聞こえる。その声は次第に力をなくし、やがて暗がりに溶けるように消えた。教週間前、立花涼子を偶然見た事実を小林が告げると、楢崎はかなり驚きながらも、どこかわかっていたような、辻褄があったような、不思議な表情をした。小林は楢崎からの頼みで、彼女について調べることになった。彼女が入っていったアパートも教えたのだから、自分で行けばいいと小林は告げたが、楢崎は奇妙にも小林に調べてくれと言ってきかなかった。確かに小林は探偵事務所に勤めているが、まだ半年も経っていない。仕事の内容も主に他の探偵の補助で、単独に案件も任されていない。自分には無理だと感じたし、気もすすまなかったが、小林は彼女について様々に調べることができた。短期間に、効率よく調べることができた。でも、と小林は思っている。何かがおかしかった。なぜ自分のような見習いが、ここまで調べることができたのだろう?
「何か重大な秘密が? 俺が傷つくような」
「そういうわけじゃ」
 さっきとは別の遠くのテーブルで、笑い声が起こる。店内は薄暗く、騒ぐテーブルの人間達の姿は輪郭しか見えない。小林は再びウイスキーを飲んでいる自分に気づく。酔おうとしている。なぜだろう。
 楢崎に自分の懸念を言うべきだろうか? 小林は考える。バッグの中には、立花涼子に関しての調査資料が入っていた。彼女の出身は長崎県。彼女は長崎で小学校から高校まで過ごし、立教大学入学のため東京に出る。でも退学し、消息が途絶える。次に彼女の姿が現れるのは、とある宗教施設での会合だった。東京にある、いい噂を聞かない小さな宗教団体。でもそこからもやがて姿を消す。彼女が次に姿を現すのは去年。楢崎と出会った時だ。
 つまり彼女は、宗教施設から消えて楢崎と出会うまで、どこにも生活した痕跡がないのだった。彼女はどこからともなく楢崎の前に現れ、また姿を消したことになる。宗教施設というのも気になる。関わらない方がいいのは当然だった。彼女が入っていったアパートはもう引き払われていた。今回の調査で同じアパートの住民達に何度も話を聞くことにもなったが、やはり彼女は立花涼子だった。間違いなかった。
 小林はぼんやりカウンターを見る。中で動く三人のバーテンダーが三つ子のように見える。彼らは無表情に気だるく動いている。小林は頭を軽く振る。
「謎に思うのはわかるよ。でもさ、とにかく死んでなかったんだ。今回のではっきり確認できた。それだけでも、何というかさ。……彼女なりの考えがあったんだろうし、納得いかないのもわかるけど、お前の元から出て行ったのは、もう確かなんだから」
 彼女について調べながら、奇妙な感覚を覚えた。まるで、彼女の跡を辿る、一本の線があらかじめ用意されていたかのように。まるで自分が、遠くから、彼女に招かれていたかのように。小林はさらにウイスキーを飲む。彼女は初め、実はわざと自分の前に姿を見せたんじゃないか? 自分が探偵事務所にいたことは彼女も知っていたはず。でもそれはなぜだろう。どういうことだろう。
「いいか」
 小林は楢崎に向き直る。
「はっきり言うよ。嫌な予感がする。会わない方がいい。彼女には何かあるんだよ。巻き込まれる必要はない」
「……なぜ?」
「だからお前の人生がさ」
「人生?」
「その、変な風に、駄目になるかもしれないじゃないか。つまり……」
「別にいいじゃないか」
「え?」
 それから楢崎が言った言葉を、小林は生涯覚えていることになる。
「俺のこれまでの人生? そんなものに何の価値がある?」
 小林はしばらく楢崎の顔を見ていたが、やがて調査結果の入った封筒を彼に渡す。彼らのやり取りとは無関係に、隣のテーブルから小さなどよめきが起こる。小林はまたウイスキーを飲む。飲みながら、自分はこれを彼に渡すために、わざと酔ったのだと気づく。
 封筒を開けようとする楢崎を見ながら、自分の役割は何だったのだろうと思う。たとえばこれが何かの物語だったとしても、自分は当然のことながら、脇役に過ぎないのだろうと。これから何が起ころうと、誰がどうなろうと、それは自分とは関係がなく、自分はただ、この物語のきっかけの気だるい歯車に過ぎないのだろうと。他の客達が徐々に帰っていく。薄暗い店内には、楢崎と小林だけが残っていく。青いライトは楢崎だけを照らしている。
 もう飲む必要もないのに、小林は新たにウイスキーを注文する。自分のこれまでの人生に価値はない。楢崎はそう言った。それはそうだろう、と小林は思う。楢崎の人生は、小林の目から見ても、充実したものではなかった。彼の人生は、決して誰からも嫉妬されるものではなかった。これまでの小林の人生と同じように。

 

   第 一 部 

     1

 楢崎の前に門がある。
 古びた、巨大な、木製の門。何か字が書かれているけど、薄くてよく読めない。すぐに入ろうか? 楢崎は迷った。でも何だか奇妙だ。宗教施設というより、これじゃただの屋敷じゃないか。
 門は冷えた空気の中でそびえ立ち、楢崎を試すように、何かの判決を下すように見下ろしている。門を見上げ、楢崎は自分の身体の小ささを意識していた。すぐ入る覚悟がなく、門を通り過ぎる。瓦のついた高い土壁で覆われ、中の様子を見ることはできない。
 小林からの調査報告書を思い出す。立花涼子は、確かにここの宗教団体に所属していた。松尾正太郎、という人物が教祖となっているけど、本人はアマチュア思索家、と名乗っていたらしい。周囲からは宗教団体と見られていたけど、実は正式な団体名はなく、宗教法人の届出もなく、特定の信者という概念もなかった。祀る神もなく、そもそも《神はいるのか?》という問いを考える会ということだった。なんだろうこれは。わけがわからない。
 門を通り過ぎながら、いつもこうだ、と思う。行動の躊躇。重く沈んでいく日々の中に、留まっていたい感覚。そんな日々は不快であるのに、その不快さを味わっていたくなる。日々の倦怠は自分の血肉のようで、離れることがない。それをやめると決めたはずだった。目の前の現象に身を任せる。内面に感じ始めたこの引力だけに従う。その先に何があろうともう関係なかった。
 一周し、またさっきの門が見え始める。今自分は歩いてる、と楢崎は思った。ほとんど意識することなく歩いている。なぜこんな風に歩けているのだろう? 当然のことながら、心臓も他の内臓も勝手に動いている。他人のように。体内にうごめく無数の他人のように。楢崎は大きく息を吸った。何を考えてるのだろう。あの門を見たからだ。意識が混乱している。
 とにかくこの施設を訪ねれば、立花涼子のことが少しはわかるはずだ。
 再び門の前に立つ。門は相変わらず巨大過ぎた。開けようかと思った時、インターフォンが目に入る。自分の指がインターフォンヘ伸びていく。覚悟もないのに。カルト教団だったらどうするのだろう? 監禁されるかもしれない。鼓動が速くなる。自分は洗脳されておかしくなるかもしれない。もうすでに洗脳されてるのに気づかず、ぴょんぴょん飛び跳ねながら、洗脳とか超怖いっすねとか言うようになるかもしれない。楢崎はボタンを押していた。鈍いチャイムの音が辺りに響く。押してしまった、もう遅い。
──はい。
 予想と違う、中年の女性の声がした。
「あの、松尾正太郎という方はいらっしゃいますか」
──……どなたですか。
 身体が緊張していく。自分はもう、この状況に入ってしまっている。
「私は、楢崎透という者です。その……何者でもありません」
 いきなり立花涼子の居場所を聞いても、教えてはくれないだろう。信者になるつもりはないが、興味がある振りをし、少しずつ聞き出そう。小林が見つけた立花涼子のアパートには、もう彼女は住んでいない。彼女は小林に見られ、また姿を消したのだ。楢崎は自分が笑みを浮かべているのに気づく。
──……何者でもない?
「……ええ」
──マスコミの方ではないですよね?
「違います。なんなら、持ち物を調べてもらっても」
──おじい……いや、松尾さんに用が?
「……そうです」
 しばらく間があり、やがて内側から門が開く。出迎えたのは、三人の男女だった。中年の男女に、若い女性。白装束の格好でもしてると思ったけど、彼らはみな普段着だった。中年の女性の方は、なぜかリラックマのエプロンをしている。楢崎は少し驚く。
「……どうぞ」
 楢崎は中に入る。門の内部は、広大な広場だった。微かに青色を帯びた砂利が敷き詰められ、所々飛び石がある。神社みたいだ、と楢崎は思う。でも鳥居はない。大きな池もあるけど、鯉などがいる様子もない。
「あの、……本当にマスコミの人ではなくて?」
 リラックマの中年の女性が言う。
「はい。……ここの宗教に興味があって……」
「宗教?」
 中年の男性が言う。髪型は白髪の混ざる坊主だったが、表情は若かった。
「うーん、ここは宗教じゃないよ」
「え?」
「ああ、まあ宗教か。何て言えばいいかな……」
「難しいよね。どうしよう」
 若い女性がそう言い、言葉を続ける。
「あの……、ヒーリングパワーを?」
「……は?」
 楢崎は聞き返す。ヒーリングパワー?
「違うのですか。では、やっぱり話を?」
「ええ、そうです」
 楢崎の様子に、中年の坊主の男が少し笑う。
「……屋敷に入れても大丈夫なんじゃないかな。彼はなんか、害なさそうだし」
 屋敷の縁側が見え、数人の男女が座っている。彼らの視線を感じながら、楢崎は玄関から屋敷の中に通された。大丈夫なんだろうか? 楢崎は思う。こんなにスムーズに通されるなんて。でも歩くしかない。屋敷は広かったが古く、外の庭に比べ威厳のようなものもない。畳の広間に通され、楢崎は座布団の上に座った。二十畳ほどの部屋。静けさは場所の広さに比例するように思えた。
「で、楢崎透さんだよね。私は吉田」
 中年の男性が言う。
「私は峰野です。さっき会ったエプロンの女性は田中さん」
 若い女性が口を開く。峰野と名乗った彼女は目が細く、美しかった。
「ここのことは誰から?」
「友人からです」
「友人? あー、なるほど……」
 何がなるほどなんだろう? 適当に言ったのに。追及されても答えを用意していたのに。彼女がまた口を開く。
「えっと、せっかくいらっしゃってもらって申し訳ないんですけど、松尾さん、今いないんです」
「いない?」
「はい。病気になっちゃって」
 その言葉に、吉田が笑う。
「面白いだろう? ヒーリングパワーで人を治してた人が、病気になっちゃったんだから。しかも自分のヒーリングパワーが効かなくて大学病院。西洋医学だよ」
「ちょっと黙ってて」
 峰野が吉田に言ったが、彼女自身も笑いをこらえている。どういうことだろう。教祖が病気なのに笑うなんて。
「話を整理しますとね」
 峰野がもう一度口を開く。
「ヒーリングパワーっていうのはほとんど冗談で、軽い肩こりとか、そんなのが治る気がする、という感じで。松尾さん自身も最近はふざけてやってたというか……。本人もそんなつもりはないんです」
 彼女が微笑む。
「で、今は入院してまして、だから本当はあなたをここに入れるのはおかしいんですけど、ここでは、誰かが訪ねてきたら追い返さない、という決まりがあって」
「ここのこと、どれくらい知ってる?」
 吉田がそう言った時、リラックマのエプロンの女性がお茶を持って入ってきた。楢崎は礼を言ったが、まだ口をつける勇気はなかった。
「実は、よく知らないんです」
「知らないのに来るってなかなか凄いね」
 吉田が少し笑う。
「じゃあ、どうしようかな。ここはね、さっきも言ったけど、誰が来ても追い返さないルールがある。松尾さんがいない時も、誰かが話し相手になるって決まりもある。……うーん、だから、えっと、取りあえずここのことを簡単に教えようか? あんまり期待させるわけにもいかないし。松尾さんに会った時も、できるだけ冷静でいて欲しいし。……ここは宗教じゃないんだ。だから君の期待に添えるかわからない。最近は、人が来るたびそうしてるんだよ。過度に期待して来る人も多くて、後でがっかりしてトラブルになるのも防がないといけないし」

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