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寮生
─一九七一年、函館。─
今野 敏

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 北の国にようやく遅い春がやってきた。
 僕が住んでいる日本海に面した町は、北海道の中でも比較的雪が少なく温暖だ。
 それでも、やはり北海道なのだから、冬の寒さはそれなりに厳しく、春の訪れは遅い。そして、その年の春は特別だった。
 先日、受験の合格発表があり、僕はなんとか志望していた高校に合格することができた。志望していたというのは、ひどくひかえめな言い方だ。
 僕は、この高校に強く憧れていた。カトリック系の男子校というところが、なんとも魅力的だった。
 北海道中から生徒が集まるので、大部分は寮に住むことになる。それもまた魅力的だった。
 僕は、家にいることを息苦しく感じていた。別に家族が嫌いなわけではない。かといって、一家団欒に何かの価値を見いだしているわけでもなかった。
 そして、僕は今住んでいる町が好きではなかった。
 昔はニシン漁で賑わった町だという。だが、今ではすっかりすたれてしまった。同じ田舎町でも、これから発展していく町と、寂れていく町では、雰囲気がまるで違う。
 僕は、中学三年になる春休みに、道央の町から引っ越して来た。父親の転勤のせいだ。
 その前は、小学校三年生のときに引っ越した。転校というのは、なかなかたいへんなものだ。
 中学生ともなれば、学校が替わることが勉強にも影響する。特に中三は受験生だから、どういう環境で過ごすかは、とても重要だ。
 はっきり言って、転校先の中学は、前の町の学校よりもレベルがかなり低かった。だが、もしかしたら、それが幸いしたのかもしれない。
 前の学校では、テストの成績は中の上くらいだった。それが、転校してから、一気に上がったのだ。学校のレベルが低いのだから当然だ。
 僕は気をよくして、いっそう受験勉強に励むことになった。
 先生という連中は、合格率を落としたくないので、安全策を取らせる。つまり、冒険してハイレベルな高校を選ぶよりも、余力を残して確実に合格できるラインを受けろと言う。
 もし、前の中学にいたら、憧れの私立高校は受験させてもらえなかったかもしれない。転校して成績トップクラスの仲間入りをしたからこそ、その高校を受験できたとも言えるのだ。
 ともあれ、僕は合格してこの町を離れ、家を出られることになった。
 もちろんこれまで親元を離れたことなどない。だから、不安はある。でも、不安よりも親と暮らすことに、息苦しさを感じている家を出て、あまり好きではないこの町を出ることができるのは、とても楽しみだった。
 今住んでいる町が好きではないというのは、おそらく自分のセンチメンタリズムのせいだろうと思う。それは自覚している。
 別に今の町に特別に不満があるわけではない。前に住んでいた道央の町を離れるのが嫌だった。だから、どうしても前の町と比較してしまうのだ。
 遠く離れた町は、心の中で美化されてしまう。だから、どんなにいいところがあったとしても、今の町はとうてい前の町にはかなわないのだ。

 そうして、僕は、春の一日、入学の準備のために函館にやってきた。
 一九七一年三月のことだ。
 僕が住んでいた町は、函館と同じ道南にある。北海道は、やたらと広いので、支庁というものがある。大まかに言って、支庁が普通の県と同じくらいの行政区分だ。
 そして、函館は渡島支庁管内で、僕が住んでいた町は檜山支庁管内だ。渡島と檜山は隣り合っている。つまり、隣の県くらいの感覚だ。
 だからそれほど遠いわけではないのだが、中学を卒業したばかりの僕には、ずいぶんと離れた場所に思えた。
 親元を離れるという心理的な距離もあっただろう。
 入学の手続きや、転居の準備のために、三月中に何度か函館を訪れなければならなかった。
 北海道の三月はまだまだ寒いが、函館にやってくる途中に汽車の中から見た春の海は、生涯忘れないだろうと思う。穏やかな波に陽光がきらめき、それまで見たことがないくらいに美しかった。
 ちなみに「汽車」というのは、蒸気機関車のことではない。北海道では、ディーゼル車も電車も、みんな「汽車」なのだ。
 檜山の町は、日本海に面していたので、中学校からも海が見えた。一年間、ほぼ毎日海を見て暮らしていたのだが、こんなに穏やかできれいな海を見たのは初めてだと感じた。
 おそらく、僕は幸福のマジックにかかっていたに違いない。
 見るもの聞くものが、なんでも美しく感じられる。長い受験勉強も終わり、憧れの高校に合格が決まったこの春休みは、これまで生きてきた中で最も幸福な時期だった。
 流行していた尾崎紀世彦の『また逢う日まで』に感激し、親に買ってもらったラジオで聴いたFM放送の音のクリアさに驚いたりしていた。
 そんな状態だから、函館の町も特別に見えた。
 駅を出ると、右手に函館山が見えるのだが、なんだか、幻を見ているような気分になった。そこから市内電車に乗る。路面電車に乗るのも、初めてのことだ。
 市電は、一系統から五系統まであり、四系統を除けば、すべてが函館駅から高校の最寄りの駅である湯の川まで走っている。いずれも五十分ほどかかる。
 父親と二人で来たときは、学校周辺の下宿屋を何軒か見て回った。だが、結局、僕は学校の寮に入ることになった。

 入寮日は四月四日だった。
 母親が付き添ってきたが、どうにも面映ゆい。もう子供ではないのだという思いがある。入寮のガイダンスが済むと、母は帰った。
 その瞬間だけ、かなり淋しいと感じた。いや、正確に言うと、淋しがっているだろう親の気持ちを考えて、ちょっとやるせなくなったのだ。
 寮は、これまで生活していた自宅とは、まるで別世界だった。
 一寮、二寮、三寮に分かれている。それぞれ棟が違う。大雑把に言うと、一寮は一年生の、二寮は二年生の、そして三寮が三年生の住処だ。二寮と三寮は、鉄筋コンクリート二階建てだが、一寮は一部二階の木造平屋だ。
 二寮は四人部屋、三寮は二人部屋だが、一寮は、大部屋だ。およそ二百人分の二段ベッドがずらりと並んだ寝室があり、学校のように机が並んだ自習室がある。
 食堂が一寮にあり、夕食後は、寮生たちが自由に使えるように開放されることになっている。
 風呂も一寮にある。風呂の隣には洗濯室というものがあり、汚れ物を放り込んでおくと、ボランティアのおばさんたちが、ちゃんと洗濯を済ませて畳んでおいてくれる。
 そのために、衣類すべてに、各人に割りふられた寮生番号を刺繍するか、マジックなどで書き込んでおかなければならない。
 寮と学校は廊下でつながっており、一分で登校できる。
 起床時間は自由だが、もちろん学校の始業に間に合わなければならない。昼食は寮に戻って食堂でとる。
 夕食は午後六時から八時。風呂の時間も自由。寝室の消灯は十時だが、自習室やレコード室などには、何時までいてもいい。
 大部屋生活の一年生は、プライバシーなどほとんどない。いきなりの集団生活で、誰もが戸惑うことになるのだが、それでも入寮したばかりのときは、修学旅行にでも来たような気分で、みんなハイな状態だ。
 誰もが初対面なので、僕はずいぶん緊張していた。
 もともとが人見知りで引っ込み思案の僕は、隣のベッドの主や自習室の周囲の連中に挨拶するだけでも一苦労だった。
 寝室の、ベッドの脇にならんだロッカーの前で荷物の整理をしていると、突然声をかけられた。
 驚いて振り向くと、知っている顔があった。
「あ、八田か……」
 中学二年生の頃に塾でいっしょだったやつだ。
 彼がこの高校に来ているとは思わなかった。それほど親しくしていたわけではないが、知り合いに会ったというだけで、ずいぶんと気が楽になった。
「引っ越したって聞いてたけど、ここで会うとはな……」
 八田が言った。彼は、僕とは違い、実に社交的というか、物怖じしない男だ。中学時代、八田は剣道部で活躍した。たしか、空知大会のタイトルを持っていたはずだ。
 その日、一日、彼といるだけで、いろいろなやつらと知り合いになった。
 まずは、八田とベッドが隣り合っている岡元だ。彼は、三人兄弟の末っ子で、上の兄二人もこの高校の卒業生だということだ。
 それから、牧下というやつと知り合った。牧下は、なんと横浜から来ているという。なんでも、お母さんが函館の出身なのだそうだ。
 その日から、だいたいその四人でつるむようになった。
 入寮日の翌日が入学式だった。
 寮の食堂で朝食を食べるのも、何やら緊張する。二年生や三年生もいっしょなのだ。
 朝の時間はあわただしい。そそくさと朝食を済ませると、制服を着て廊下伝いに登校だ。
 この学校は、いちおう制服はあるものの、着用自由だった。だが、入学式にはやはり制服を着なければならない。
 校長先生は、カナダ人の修道士だ。もともと、この学校はカトリック系の修道会が始めたもので、学校には何人かの修道士がいる。
 寮長も、修道士だ。
 校長の挨拶が、すべて英語なのでちょっと驚いた。もちろん、簡単な単語でゆっくりと話をしてくれているのだが、半分も理解できない。
 何か冗談を言ったときは、まず、三年生が笑う。そして、二年生の半分くらいが笑う。
 へえ、さすがは上級生だと、僕は思った。
 英語だけの挨拶を聞いていると、わからないなりに、なんだかずいぶんと誇らしい気持ちになった。
 中学の朝礼などとはまるで違う。寮生活も含めて、まったく新しい世界に放り込まれたと感じた。

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