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かたづの!
中島京子

 光がとつぜん差し込んできた。
 まぶしくてどうにかなりそうだった。
 急にいろんなものが見えだし、ひんやりしたあたりの空気が体に入り込む。
 そうして私は目を覚ましたが、前に同じように覚醒したのがいつだったかを、すぐには思い出さなかった。
 やがて白い手袋をした手が伸びてきて、私をゆっくりと持ち上げた。その手は私を柔らかい布に載せて、瑠璃でできた四角い入れ物の中に置いた。瑠璃の箱の上から覆いがかけられ、また周囲は真っ暗になった。
 暗闇は眠りを連れてくる。
 けれども、ここでまた眠り込んでしまおうとは思わなかった。眠りはじめたら、またいつ目が覚めるかなんてわからない。少しずつ、起きていたころの記憶が蘇りはじめた。私はどうも暗くなると眠ってしまう性質らしい。そしてどれくらい長い間眠っていたかも、眠っていたものにはわからないのだ。
 私は瑠璃の箱から抜け出て、地面に降りてみた。しばらくそうしていると闇に慣れて、あたりが見えはじめた。布で覆われた箱がいくつもあった。布の奥には仏さまがあったり、経文があったり、精巧に描かれた聖人のお姿があったりした。私はそのだだっ広い、硬くすべりやすい地面を持つ蔵のような部屋に置かれた宝物を一点一点見てまわった。
 なんだか少し、なつかしい気がした。
 遠い記憶の中から、かつてもそんなことがあったと思い出した。
 このまえ眠りから目覚めたときも、同じように大きな部屋にいた。けれどもあのときはその部屋も寺の中にあり、大きさもほどほど、畳敷きの立派なものだった。ひどくすべりそうな硬い三和土の、見たこともないような大きさの蔵などではなかった。
 大きな場所にも飽きてしまって、私は階段を上った。これも硬い石でできていて、広くて手すりがついていた。
 吸い込まれるようにして、別の部屋に入った。厳重に鍵のかかったその部屋は、私がいた瑠璃の箱の部屋と似ていたが、箱はあまりなくて壁に六本の軸がかかっていた。それらにも覆いがしてあったが、一つだけ、なぜか覆いのはずれたものがあり、南蛮渡来の織物らしいとすぐにわかった。
 織り込まれているのは、不思議な絵だった。
 私は南蛮人を見たことがないけれど、その絵はとても親しいものを描いている気がした。
 絵の中央には青い天蓋があって、南蛮の美しい婦人が立ち、隣に控える女官に何かを下げ渡しているように見える。貴婦人のすぐ横には狆が座っており、その脇には獅子らしき獣があり、よく見ると野兎、山羊、猿、鳶といったような鳥獣もあった。花や実をつけた樹木が天蓋を囲むように並び、左右に幟が立っていたが、これらに染めつけられた三つの月は家紋だと思われた。辺り一面に小花の散る文様の上に描かれているのが戦場の総大将のようであるのが少しちぐはぐだけれども、私はこの絵を見たとたんにその意味を理解した。
 中央の貴婦人は女領主に違いない。
 そして何よりも私を惹きつけたのは、女官の脇に控える一角の獣だった。
 一角の獣。
 それは私。
 私はそのとき、残る五枚の覆いがいっせいにはずれて、部屋中のすべての軸が姿を現すのを見た。すべての絵に私がいた。一角の獣がいた。
 私にはわかっていた。なぜこれを南蛮人が、南蛮人の姿で、あるいは馬に一本角をつけたような姿で描いたのかはわからなかったが、これがまぎれもなく私たちであることはわかった。
 まだ角が軟らかく、額から突き出たばかりのころに出会い、雪深い山を共に越えた生涯の友のことを思い出した。
 私がただの一本角ではなく、額から角を生やした一角獣だったころを思い出した。

 

   一  巻

   一

 私たちはブナの木の生い茂る山の中で出会った。
 誰かが私を見つけてアオシシだ、アオシシだ、と言ったのが聞こえた。馬にまたがった男が弓に矢をつがえるのが見えたが、私はそこを動かなかった。隣の馬上には長い髪を後ろで束ねた少女がいて、身じろぎもせずに私を見つめていた。少女は男の腕に手をかけて、弓矢を降ろすように懇願した。
「矢を放ってはだめ。ほら、あんなふうにこちらを見ている。誰にも射たれると思っていない。まだ子どもで何も知らない。きっと母親が近くにいる。矢を放ってはだめ」
「狩場に来て、弓矢を放つなと」
 隣にいた男はおもしろそうに口をすぼめ、つがえた矢を降ろした。
「狩りに来たのではありません。龍のいる馬場と聞いたから、龍を見に来ただけ。わざわざ弓矢など持ってくるほうがおかしい。どちらにしても殺生は好きではない。生き物が死ぬのは見たくない」
 十三、四に見える少女が熱心に懇願するので、男はあきらめて轡をとらえて馬の向きを変えた。少女は私の目を見て、「帰れ!」と音もなく口を動かした。
「龍ではない。夜にブナの森に蛍が一面青い光を放ち、いっせいに動くのが龍のようだと昔の人が言っただけのこと」
「それならそれでもいいのです。私がしたいのは、鹿狩りではなく蛍狩り。早く夜になればいいのに」
「夜になると蝮が出るぞ」
 男はからかうように言った。
「仰々しい毛沓で出かけてきたのは、蝮除け。蝮は煙草を嫌うというから、誰か煙管でもふかしてくれればいい。蛍が辺りを明るくするから、蝮は昼と思って寝ているかもしれないし」
 少女は振り向いて、もう一度「帰れ!」と言った。
 私はトコトコ歩き出したが、頭の中はあの娘にまた会うことでいっぱいになってしまった。日暮れはもうすぐだったし、夜になれば少女が向かう先はわかっていた。無数の光を放つ蛍の群れが集う沢沿いに、私はその晩、少女を見に行くことにした。私にはそれが運命の出会いだとわかっていた。そのときすでに私に母はなかったから、止め立てするものも注意を促すものもいなかった。
 なぜそんなふうにとくべつに惹かれたのかはわからない。ひょっとしてほんとうに、日蓮聖人やら天女やらのお導きだったとしても、そんなこともあるかもしれないと思うだけのことだ。けれどそういうあれこれは後からくっつけたことだし、私には信仰心というようなものもないので、あまりしっくりこないけれど、それはどうでもいいことだろう。
 私の気持ちからすれば、まっすぐに私を見つめたあの目に、心臓を射抜かれたとしかいいようがない。狩場で矢を射たのは、男のほうではなくて少女のほうだ。
 夜の帳が降りて、蛍が光を放つ時刻に、提灯を後ろ手にした一行が沢の近くにやってきた。私は少女を見ようと叢から首を伸ばした。けれどもそこに見たのは、百万ともいう蛍の群れの青くゆらめく美しい光が、列を成して沢を蛇行し、まるでひとつながりの長い生き物のように動いているさまだった。
 その蛍の群れを龍と、いにしえの人々は呼びならわしたと言う。
 私は龍を見たことがないけれど、あれに似ているのなら、龍はずいぶん美しい生き物なんだろうと思う。娘に会いに来たのも忘れて、しばらく呆然と見入ったくらいだ。でも、一行の真ん中に、軽衫に革張りの沓といった少年のような出で立ちで、髪を後ろにゆるく束ねた少女がいるのを見つけると、思わずぴゅうぴゅうと声を上げた。
 私が叢を分けて進み出ると、蛍はいっせいにその青い焔を消した。
 一行は何事かとざわざわ音を立て、悲鳴を上げるお女中もあり、男がまた弓に矢をつがえようとするのを制して駆け寄ってきた少女は、手を伸ばし、私の額の角に触れた。
「イッポンヅノか」
 そんな声が一行から漏れた。
「これは珍しい。一本角の羚羊とは。まだ生えたばかりの小さな角だが、一本きりとは見たこともない」
 ため息が漏れた。少女はその柔らかい手で、あいかわらず私の角に触れ続けていたが、何か思いついたようにふと目を逸らし、目の片端に笑みを浮かべると、こんどは芝居がかった真面目な表情で、一行を振り返って話し始めた。
「弓矢や刀に手をおかけにならないように。恐れ多いことです。殺生などとんでもない。この羚羊はきっと法華経の守護神、龍の姿を持つ七面天女の仮の姿に違いない」
 何を言い出すものやら、私はぴゅうと啼く気も起こらずそのままそこに立ち尽くした。知られたことではあるが、羚羊はよく人前で立ち尽くすのである。こうしたとき我々の頭の中はからっぽになり、身動きするための指令が一切脳から出なくなる。
「角が一本なのが何よりの証拠。いまひとつの角はありがたい日蓮聖人様の法華経とともにあるのです」
 そう言ってうなずくと少女は目をつむって手を合わせ、南無妙法蓮華経と呟き始めた。どうしたことか、一行の中の何人かも、少女にならってぶつぶつやり始めた。
 あとあとになって聞いたところによると、日蓮宗総本山身延山一帯を寄進したのは熱心な日蓮信者の波木井実長という武将で、身延山の七面堂で日蓮の傍に仕えていた女人を詮議したところ、その女人は人ではなく、はるばる天竺から法華経を守護してきた七面天女であると語り、天竜の姿に変わって虚空に消えたという伝説があるのだそうだ。長くお傍に仕えた日蓮聖人に、天竜はその角を一本折って形見に差し出したのだとか。
 波木井実長というのが、私の出会った少女のじいさんの、そのまたじいさんの、そのまたひいじいさんかもっと上というような感じの祖先で、天竜とひいひいひい(ひいをいくつ続けたらいいのかわからない)じいさんには大変な縁があるとのことだった。ともかく少女はその伝説を借用して、私を一行の弓矢から救おうとしたのだ。
「お言葉ですが、おかた様」
 一人のお女中が恥ずかしそうな小さな声を出した。
「この羚羊は、雄ではございませんか」
 お女中の立っている場所から、私が小用を足したのが見えたのだろうか。あの暗さで、しかもまだ幼かった私の雌雄が人間にわかるとは考え難い。お女中は勝手に私の後ろ脚の間に何かを想像したのかもしれない。何が可笑しいのか女たちが忍び笑いを漏らし、少女は少し怒ったような声を出した。
「日蓮聖人のお傍近くお仕えしたのはたしかに女人、七面天女の化身でしたが、七面大明神ほどの方が、雌の羚羊にしか化けられないほど不自由なはずはありません。雄に化けたからといって、どうしていけないことがありましょう」
 そう眉間に皺を寄せると、こんどは私の耳元で、おまえの居場所にお戻りなさい、と囁いた。私はもちろんその言葉を理解したが、偶蹄目特有の頑固さを発揮して、ここは梃でも動くまいと決意した。
 私は動かないし、蛍はどこへやら消えてしまったし、もうこの闇夜に用はないとばかりに、一行は提灯をいっそう明るくして帰路を行きはじめた。私は後ろからトコトコついて行った。私がいつまでも後を離れないので、一行はどうしたものかと思案し始めたが、最初に私に矢を向けた人物が厳かな声でこのように言ったため、私はそのまま道中を続けることになった。
「祢々がその角に触れたのは、これよりさき、ありがたき天竜の、いま一本の角が我が妻を護るがゆえ。こうしてここで出会ったのは、まさに縁のなせること。城へ連れてまいることにしよう」
 こうして私は八戸の根城に招かれ、あの方といっしょにしばらく暮らした。私が少女と思ったあの方は、人々には「おかた様」と呼ばれる御内儀で、病死した父の跡を継いで領主となった叔父と成婚して幾年も経たない、十五歳だと知った。そしてそのご夫君というのが、まぎれもなく私に初めに矢を向けた男だとわかった。狩りの装束を脱ぐと、このご夫君もたいそう若く、私には少年のようにも見えたものである。
 羚羊の身に城暮らしは窮屈で、野山を駆け回る日々がすぐに恋しくなった。だから、しばらくして山に帰してもらった。けれども私たちの友情は続き、何かあればあの方は私を呼び、私は何事もなくても訪ねて行くようになった。一本角の羚羊が何者だか知らぬ者はなく、私はむやみに矢を放たれることもなく、山林と町の中心の城を行き来した。人々はときおり私に甘くて赤い根菜を投げてくれたりした。山の下草とはまた違った味わいに、私は舌鼓を打ち、毎日あれを食べている中馬屋の馬たちを羨ましく思わないでもなかったが、山野育ちの私に町の暮らしは向かず、時々里におりて行く生活のほうが気が楽だった。私は人々に「片角」あるいは「一本角」と呼ばれた。

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