書籍試し読み
詳しくはBOOK NAVIへ
富士山噴火
高嶋哲夫

   プロローグ

 ヘリの高度が下がる。
 パイロットを入れて五名のクルー全員が言葉もなく眼下の惨状に目を奪われていた。
 見慣れた静岡の町はなかった。それよりそこが、人々が日々の営みを行なっていた町だったとは信じられなかった。横倒しになり炎と黒煙を上げる巨大な石油タンク、打ち上げられた巨船、様々な方向を向いて散乱する無数の車。
 海岸沿いに立ち並んでいた建物はほとんど姿を消し、わずかに残ったビルも傾き、窓ガラスはすべて消失している。垂れている紐状のものはブラインドか。
 海岸線にゆったりしたラインを描いていた防波堤は寸断され、海と陸の区別を曖昧にしていた。そして家、家具、電柱、車、ベビーカー、様々なものの残骸が、まだ引き切らない海水に浸かっている。
「この光景が九州まで続いているのか」
 クルーの呟きのような声が聞こえる。
 水没した町の中になんとか残った数棟のビルの屋上と津波避難タワーの上には、鈴なりの人が助けを求めているのが見えた。ヘリに向かって手を振っているのだが、任務は偵察だ。それに、あれだけの数の避難者を救出するのはヘリ一機では無理だ。
 富士山麓の駐屯地を出た陸上自衛隊のヘリ、UH-1Jは、災害偵察のため駿河湾から遠州灘に向かっていた。
 静岡県の太平洋岸の地域には、地震発生後五分余りで津波の第一波が到達した。駿河湾に流れ込んでくる大量の海水は十メートル以上の津波となって沿岸の町を襲い、川をさかのぼって内陸に溢れた。
 海岸地域の三階以上のビルやマンションは、津波避難ビルとして近隣の避難者を受け入れることになっており、各所に津波避難タワーが造られている。近くに高台や高い建物がない場所に造られた鉄骨製の堅牢な建造物で、津波発生の情報で近くの人たちが屋上スペースに避難することになっている。大きなものだと数百人が避難できる。
 ヘリは高度を上げ、南に向かった。
 大地からはぎ取られた家、おもちゃのように波に漂う車や船が、引き波とともに海へと流れていく。
「ご家族は大丈夫ですか」
 副操縦士が聞いた。家族が静岡市に住んでいることを知っているのだ。
「家の近くに津波避難タワーがある。家族はそこに避難することになっている」
 時計を見た。地震発生からすでに三十分以上がすぎている。連絡のないところをみると、無事避難しているのか。それとも──。
「第二波が迫っています」
 沖合二キロばかりのところに白波が立っている。横一直線の白いラインが海岸目がけて滑るように進んで来る。大海に引かれた白線のように見えるが、実態は高さ十メートル以上ある巨大な海水の塊だ。津波は第二波、第三波と複数の波が繰り返し続き、後の波が第一波より大きくなることもある。
 数分後には、押し寄せた第二波が再び海岸線を洗い流すように覆い尽くした。
「津波避難タワーが見えます」
 タワーは押し寄せる波の中に仁王像のように立ち、屋上スペースには百人以上の人が避難している。
「屋上スペースは大丈夫のようです。あそこまでは来ないでしょう」
 この辺りのタワーは地上十五メートルの高さがあると聞いていたが、津波は屋上スペースのほんの数メートル下まで迫っていた。
 そのとき、沖合から長さ二十メートルほどの漁船が押し流されてくるのが見えた。
 漁船が船腹からタワーにぶつかっていく。
 衝撃でタワーが揺れ、傾いた。数人の避難者がタワーから落ちて、渦巻く濁流の中に吸い込まれていった。ヘリのローター音に消されているが、避難者の悲鳴が聞こえた気がする。
「何とかできませんか。このまま見ているのでは──」
 副操縦士の言葉が続かない。無理なことは分かっているのだ。
 ヘリに向かって何かを叫びながら手を差し出す者もいた。恐怖で引きつった顔が助けを求めている。
「これ以上近づくのは危険です」
 タワーにヘリを寄せようとすると副操縦士が言った。漁船は船尾をタワーに引っかけたまま、津波に押し流されようとしている。その船腹に次々と漂流物がぶつかっていく。
 タワーが大きく傾いた。津波避難タワーはゆっくりと押し寄せる波に呑まれていった。ヘリは内陸に入っていく。
 胸ポケットで携帯電話が震えた。通常の出動時には決して持って出ないものなのだが、今日に限ってブルートゥースのテスト用に飛行服の胸ポケットに入れておいたのだ。
 ブルートゥースは近距離での無線通信を行なうための技術で、対応した通信機器とヘルメットを使えば騒音をカットして対話できる。この技術を組み込んだ新型ヘルメットを着用していた。
 娘からだ。一瞬の躊躇の後、ヘルメットのスイッチを入れた。
 ローター音を押し退けるように、娘の緊迫した声が聞こえる。
〈父さん、助けて〉
「今、どこにいる」
〈津波避難タワーよ。母さんや輝夫と一緒〉
「状況を教えてくれ」
〈海岸から三十メートルくらいのところにある近所の避難タワー。父さんも来たことがある。私たちのほかに百人くらいが避難している〉
「一波はもうすぎただろ」
〈でも、タワーが傾いてる。流れてきた家がぶつかって、引っかかってるの。それに、他の家や車がぶつかって揺れてる。次の津波が来たら耐えられない〉
 数分前の光景が頭に浮かんだ。一瞬のうちに百人以上の避難住民が、海中に投げ出され波に呑まれていった。
 ヘリが大きく揺れた。火災の熱風が吹き上げてくるのだ。地上では十基近い大型石油タンクが炎を上げている。爆発が起こり、炎と黒煙を噴き上げる。
「つかまれ」
 声と同時に爆風を受けたヘリが揺れる。無意識のうちに携帯電話を切って胸ポケットに戻していた。
 操縦桿を目いっぱいに引いた。ヘリは高度を上げ、噴き上げる炎が見る間に遠ざかっていく。
「右前方二時の方向」
 副操縦士の声で視線を向けると、かろうじて残ったビルの屋上で手を振る三つの人影が見える。そのビル目がけて炎の海が近づいていく。
「火の手が迫っています。あと少しで火に呑まれます」
 胸ポケットの携帯電話が震えている。必死で携帯電話のボタンを押す娘の姿が浮かぶ。
「子ども二人と女性です。親子でしょう。待って下さい、女性は妊婦のようです」
 目を凝らすと、たしかにそうと分かる体形だ。
「引き返しましょう。揺れがひどすぎます。それに燃料にも限りがあります」
「ビルに近づける。救助の用意を急げ」
 ヘリの方向を変えた。
 高度を下げていく。炎による上昇気流でヘリは激しく揺れた。時折りタンクのぶつかり合う腹に響く音が、ローター音を突き抜けて聞こえてくる。
「屋上に降りることは難しそうだ。かなり傾いているし、貯水タンクが邪魔になる。一人ずつ吊り上げるしかない」
「救助準備、できています」
 降下しますという声と同時に、ロープで吊るされた隊員がゆっくりと降りていく。
 十五分後には、ヘリは東富士にある富士駐屯地に向かっていた。
 胸ポケットに手をやった。さっきまで感じていた携帯電話の振動は、すでにない。
 背後に目をやると毛布に包まれた親子三人が抱き合っているのが見えた。

〈平成南海トラフ大震災〉
 東海、東南海、南海地震が連動して起き、東京から九州まで太平洋岸に甚大な被害をもたらした。
 死者・行方不明者二十八万四千七百二十五人、負傷者七十八万六千三百八十九人、倒壊家屋二千三百八十七万棟、焼失家屋二万六千棟。経済損失、建物やライフラインなどの直接損失三百兆円、生産中止、交通寸断などの間接被害二百兆円。日本の生産機能の五十パーセント以上が被害を受け、そのうち二十パーセントは壊滅状態となった。
 日本を襲ったこの未曾有の災害は、日本のみならず世界経済にも大きな打撃を与えた。

トップページへ戻る