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短編学校
集英社文庫編集部編

   913     米澤 穂信

     1

 夏まではずっと賑やかだったのに、秋の声を聞くと図書室は寂しくなった。
 三年生の図書委員たちは互いに仲が良く、放課後になると図書室はいつも、図書委員会の遊び場になった。他愛ない雑談やちょっとしたゲームでいつも盛り上がり、校門が閉まるまで笑い声が途絶えることはなかった。それだけに、先輩たちが大学受験の準備で委員会を退くと、図書室は灯が消えたようになってしまった。
 なまじそれまで賑わっていたので、残された一、二年生は気が抜けたのか、当番でもなければ図書室に寄りつかない委員が増えた。その当番ですら、誰かに肩代わりさせることが流行っている。
「ああ、つまらなくなったなあ」
 と嘆く声も聞いた。
 僕はそう思わない。いまのように静かな図書室も居心地がいい。というか、いくら利用者がいないからって図書委員が図書室でわいわい騒いでいたのは、やっぱりどこかおかしかったのだ。
 その日、図書当番は僕と松倉詩門の二人組だった。図書室に他の生徒の姿はない。利用者皆無なのに二人も詰めるのは無駄だろうけれど、松倉が相手なら時間はつぶせる。静まりかえっている図書室を貸出カウンターの内側から眺めながら、僕は言った。
「図書委員会が好き放題したから誰も来なくなったのか、誰も来ないから図書委員会が好き放題したのか。どっちだと思う」
 松倉はあくびをしていた。遠慮のない大あくびを途中で噛もうともせず、最後まで遂げてから涙の浮かんだ目を僕に向ける。
「どっちでもいい。おれたちは別に、利用者数に責任を負ってない」
 それもそうだと思ったので、僕は何も言わなかった。
 松倉とは今年の四月に知り合った。図書委員会の、第一回会議でのことだ。もちろん、それまでも見かけたことはあった。背が高く顔もいい松倉は目立つ存在で、廊下ですれ違っても何となく印象に残る。見るからに運動が得意で本には縁がなさそうなので、図書委員会で会った時には内心驚いた。
 話してみるといいやつだった。快活でよく笑う一方、ほどよく皮肉屋だ。運動部には入っていなかったが、子供の頃からずっとスイミングスクールに通っていて、そこそこ成績もいいらしい。これが同じ高校二年生かと思うほど分別くさいことを言うかと思うと、意外に間が抜けたところもある。図書委員会が遊び場だった頃は、お付き合い程度に愛想笑いはしても自分から騒ぐことはなかった。その立ち位置に共感して、何となくよく話すようになった。
 松倉が図書返却箱に手を伸ばす。返却された本はいちおう下校時刻までに棚に戻しておくことになっているが、まだ急がない。手の動きは緩慢だった。返却箱は空のことも多いが、今日は三冊ほど入っていた。一番上の一冊を手に取ると、松倉は不意に苦笑いした。横から覗くと、ダン・シモンズの『エンディミオン』だ。僕は読んだことがないし、松倉は翻訳物が苦手だったはずだから、やっぱり読んでいないだろう。それでも僕には苦笑いの理由がよくわかる。案の定、松倉は言った。
「やっぱりシモンはないよな」
 僕も、いつものように答える。
「そうかな。なくもないと思うけど」
 松倉詩門は自分の名前が嫌いだ。「詩門」は恥ずかしいと思っている。けれど僕はもっとすごい名前のやつを知っていたので、そのぐらいならたいしておかしいとも思っていない。もっとも松倉はこの問題に関しては、僕に同意を求めているのではない。
「シモンってどう見てもキリスト教だろ。おれキリスト教徒じゃないし、失礼だ」
「そうか?」
「大人になったら改名する」
「前にも聞いたよ」
「何度でも言うぞ」
 松倉の決意は固い。でも別の言い方をすれば、松倉は大人になるまでは改名しないと決めている。その理由も前に聞いた。親の付けた名前に付き合うのも、浮き世の義理だと思っているのだ。
 会話の端々から、松倉の父親はもう亡くなっているのではと思うことがある。彼が詩門という名前に我慢するのは、死んだ親への義理立てじゃないのか。本人に確かめたことはない。これからも訊くことはないだろう。
 松倉ほどではないけれど、僕も自分の名前はあまり気に入っていない。堀川二郎。次男だから二郎。へんに捻られるよりはありがたいけれど、もう一工夫欲しいところだった。
『エンディミオン』をカウンターに置いて、松倉は図書返却箱から二冊目の本を出してくる。『新明解国語辞典』だ。どちらからともなく、無言の苦笑いが出る。辞書は禁帯出だ。貸出禁止の本を持ち出して返却箱に戻しておくとは、ずいぶん図々しい。自分で勝手に持ち出したのに、棚に戻すのは図書委員にやらせようとは。
 そして、残った三冊目がひどかった。
 文庫本だ。岩波文庫から出ている志賀直哉で、『小僧の神様 他十篇』。手に取った松倉がたちまち顔をしかめる。
「ひどいな」
 見ると、その文庫本はひどく汚れていた。表紙は真ん中あたりで折れ曲がり、全体的に土埃にまみれている。
「どうしたらこうなるんだ」
 松倉がそう言うので、適当に思いついたことを言ってみる。
「読みながら泥沼に突っ込んだんじゃないか」
「ダイナミックな読書だな。いい趣味だ」
「いい趣味か? 図書室の本を汚して返してくるなんて」
「そうだな。けしからん」
 僕たちは言葉ほどには怒っていなかった。どちらも多少は本を読むけれど、モノとしての本を神格化するには愛が足りていないのだ。持ち歩いていれば汚れることもあるし、破れることもあるだろう。入手が難しい本でなかったのは幸いだ。
 松倉がぱらぱらとページをめくりはじめる。中の状態を確認しているのだ。少し待って、
「どうだ?」
 と訊く。
「まだ読めるな」
「もうちょっと拭いた方がいいか」
「それもそうだが、もう一つ」
 松倉は僕に、本の背表紙を見せてくる。著者名の下が無惨な擦り傷になっている。図書分類ラベルまで剥がれてしまっていた。
「結構重傷だな。もう捨てた方がいいんじゃないか」
 そう言うと、松倉は面倒そうに眉を寄せた。
「おれたちが決める事じゃない。あとで、どうして勝手に捨てたのかなんて言われるのは嫌だぞ」
「そうか」
「とりあえず直そうぜ」
 松倉はスポーツも勉強もできるが、手先はちょっと驚くほど不器用だ。「おれがやると破りそうだ」と尻込みするので、補修は僕がやることにする。
 土埃の汚れは水拭きしたいところだけれど、ものが紙だけにごしごし拭くわけにもいかない。ウェットティッシュが欲しかったが、図書室の貸出カウンターにそんなものは用意していない。コップに水を汲んできて、少し濡らしたティッシュを固く絞って、汚れが落ちるかやってみた。
 一通り拭いて、乾いたティッシュで乾拭きする。出来映えを眺める。
「あんまり変わらないな」
 僕の率直な感想に、松倉も頷いた。
「駄目か」
「でもこれ以上は紙が傷む」
「そういえば、本の汚れ落としには消しゴムがいいって聞いたことがある」
 あまりにぬけぬけというので、さすがに少し腹が立つ。
「先に言えよ」
 松倉はさほど悪いとも思っていなさそうに、「すまん」と言った。言われた通り消しゴムを使うと、確かに汚れの状態は少しマシになった。
「あとは擦れたところか。放っておくと、ここから破れていきそうだ」
「ビニールテープで補強すればいいんじゃないか」
「そんなやり方も聞いたことがあるのか」
 松倉は笑った。
「いま思いついた」
 一度ビニールテープを貼ってしまえば、剥がしてやり直すことは難しい。たぶん表紙が破れてしまう。少しためらったけれど、他にいい方法があるわけじゃないと思い切る。ビニールテープは、貸出カウンターに備えつけの引き出しに入っていた。擦り傷の部分に、斜めにならないよう慎重に貼りつける。
 もう一度、出来映えを見る。
「……おお。いいんじゃないか?」
 思わず出た自画自賛に、松倉も「やってみるもんだな」と同意してくれた。
 思いつきの割には意外と目立たないように直せた。これなら、分類ラベルを貼れば損傷はほとんどわからないだろう。分類ラベルなら在庫がある。これはさすがに手先の器用さは関係ないだろうし、字は松倉の方が上手い。
「ラベルは任せた」
 そう言うと、松倉は頷いて引き出しから在庫のラベルを探し出した。ボールペンを構え、三桁の分類コードを書く。日本の小説は「913」。著者は志賀直哉なので、「シ」と書き添える。
 あとは三冊とも棚に戻すだけ。三分とかからず用事は済んでしまった。となると他にやることもない。夏までの名残でトランプぐらいならどこかに隠してあるはずだけれど、僕も松倉もいまさら図書室を遊び場にしようとは思っていない。あれやこれやで一時間はこうしているけれど、たった一人の利用者すら入ってこない。いくらうちの図書室が不人気だからといって、これほど静かな日も珍しい。
 先に退屈に音を上げたのは、松倉の方だった。
「堀川。何かやることはないか」
 もちろん、いろいろとある。
「『図書室だより』の原稿、早ければ早いほどいいだろうな。返却期限切れの本の督促状を書いてもいい。たいした量じゃないはずだし」
「なあ。そういうこと言いたいんじゃないってわかってるだろ」
「ああ。宿題のことか?」
 松倉は付き合いきれないというようにそっぽを向いたけれど、「そうだな。じゃあ、督促状からやるか」と呟いた。
 それで、あとは黙々とした作業のうちに放課後の時間は過ぎていくはずだった。
 けれどこの日はそれで終わらなかった。松倉が督促状の用紙を取り出したところで、ずっと閉じたままだった図書室のドアが開いたのだ。
 入ってきた生徒を一目見て、本を借りに来たのではないとわかる。よく知っている人だ。僕は、
「あ、ども」
 と小さく頭を下げる。松倉も申し訳程度に僕に倣う。
 客は、夏に図書委員会を引退した三年生の一人、浦上麻里先輩だった。手に小さなペットボトルを二本持っている。先輩は僕たちを見て、いまにも片目をつむってみせるのではないかと思うほど、悪戯っぽく笑った。
「や。暇そうね」

 引退後、何くれとなく理由をつけて図書委員会を覗きに来る先輩は何人かいた。けれど浦上先輩を見たのは今日が初めてだ。
 夏休みを経て、浦上先輩は少し日焼けをしていた。肩までの髪は軽く内側にカールして、いつものように少し眠そうな目をしている。何か塗っているのか、ぼってりとしたくちびるに光沢があるのについ目がいった。
「見ての通り、暇です」
 僕がそう言うと、松倉がすぐに補足した。
「督促状を書こうと思ってたところです」
「そ。じゃあ、暇ね」
 貸出カウンターにもたれかかり、浦上先輩は手にしていたペットボトルを僕たちの前に置く。爽健美茶だった。
「はい、差し入れ」
 嬉しいけれど、
「どうしたんですか、いきなり」
 そう訊いても、先輩は笑顔を向けるだけ。松倉がポケットからハンカチを出して、少し結露しているペットボトルの下に敷いた。そして、くちびるの端を持ち上げる。
「差し入れじゃないですよね。買収か……手付け金?」
 浦上先輩はあっさりと、「ばれたか」と認めた。
「詩門くん、やっぱりなかなか鋭いね」
「おごってもらう理由がないですから」
「おお、可愛くない可愛くない。後輩と上手くやれてる?」
 その返事は待たず、先輩は秘密めかして声を落とす。
「実はそうなんだ。ちょっといい話があるんだけど」
「僕たちに?」
「うん」
 ということは、先輩は僕たちが今日の図書当番だと知っていて来たようだ。
「いきなりなんだけど、アルバイトしない? 堀川くんたちに向いてる話だと思うんだ」
 僕たちに向いていると言いながら、先輩はなぜか、僕の方ばかりを見て話す。松倉が口を挟む。
「なんか怪しいですね」
「まあね。でも、話だけでも聞いてよ。それともぜんぜん興味ない? 忙しいかな」
「そういうわけじゃないですが」
「じゃ、いいよね」
 そう受け流し、まだ聞くとも言っていないのに「うちのことなんだけどさ」と話を切り出した。
「じいちゃんが死んだんだよね」
「そうだったんですか」
「あ、結構前のことだから、そんな気の毒そうな顔しないで。でね、いいじいちゃんだったんだけど変なところで凝り性で、いまちょっと困ってるの。恥ずかしい話なんだけど……」
 恥ずかしいと言いながら、先輩は少し嬉しそうだ。
「金庫に鍵かけたまま死んだのよ」
「金庫?」
「そう。こんなやつ」
 手を大きく広げて、先輩は金庫の大きさをアピールする。もし本当にその大きさなら、人間だって入れそうだ。先輩は続けて、ツマミを捻るような仕草をした。
「こうやってダイアルまわして番号合わせる金庫なんだけど……。もう、何を頼みたいかわかったよね?」
 まさかとは思うけれど。
「僕たちにその金庫の番号を探り当ててくれ、なんてことじゃ」
「正解!」
 先輩はにこりと笑って、親指を立てた。
 あっけにとられた。僕の言いたいことは、松倉が言ってくれた。
「冗談でしょう」
「何が?」
「『おじいさんの遺した開かずの金庫』ってのが、まず一つ。その解錠をおれたちに頼むのがもう一つ」
 すると先輩は、少しのあいだ黙り込んだ。言葉を整理するように。やがて、作ったような笑顔になって、こう言った。
「どんなことでも起こるのよ。おじいちゃんだって、開かずの金庫にするつもりなんかなかったと思う。ただ、自分が思ってるより早く死んじゃっただけ。誰にも教えられずに」
 ひどく寂しそうに。
 けれどそれは一瞬のことだ。すぐに目を輝かせ、身を乗り出してくる。
「堀川くんたちに頼むのは、ほら、いつだったか暗号を解いたじゃない。あれすごいなって思ってて、鍵が開かないってわかったとき、あの子たちなら! って思っちゃったのよね」
「ああ……」
 溜め息をつくように、松倉が頷いた。
 浦上先輩が言う通り、僕と松倉は前に暗号を解いたことがある。図書委員会では普段、誰も本のことなんて話題にしなかった。けれどある日、どういう流れだったか忘れてしまったけれど、先輩の一人が江戸川乱歩の短篇「黒手組」を持ち出してきた。「これ暗号なんだけど、誰か解ける?」と言われて、僕と松倉がその気になった。さすがにその場で解くことはできなかったけれど、下校時間直前になって松倉が突破口を見つけ出し、外がほとんど真っ暗になった図書室で僕たちは大いに面目を施したのだ。
「あれは、まあ、たまたま」
「たまたまでもいいよ。駄目で元々、当たれば大きい」
 僕は割と興味を惹かれていた。けれど松倉は、苦い顔で、どうも気が進まない様子だ。
「でも、ダイアル式の金庫ですよね。要するにおれたち、正解の数字を探してひたすらダイアルまわすだけじゃないですか。総当たりしたって面白くも何ともないし、いつまでかかるか」
「察しが悪いなあ。総当たりしてなんて言ってないでしょ。手がかりがあるに決まってるじゃない」
 確かに、暗号小説を解いたという理由で僕たちに目をつけたのなら、何か手がかりはあるのだろう。暗号っぽいものが。
「とにかく、挑戦するなら夕飯ご馳走してあげる。で、もし金庫が開いたら中身次第でバイト代を出すわ」
 そこまで言って、浦上先輩はちょっと人が悪そうな笑みを作った。
「言っておくけどね。あたしのおじいちゃん、けっこう、お金持ちなのよ」

     2

 浦上先輩の口車に乗せられて、僕と松倉は本当に「開かずの金庫」に立ち向かうことになった。
 次の日曜日の午後二時、僕と松倉は浦上家の客間にいた。出された座布団はあまりに分厚く柔らかく、かえって座りづらい。何やら黒光りするテーブルはいかにも値が張りそう。そのテーブルを挟んで、浦上先輩も座っていた。太い縞模様のシャツに芥子色のカーディガンを羽織っている。下はデニムだ。
 床の間には、老人が岩山を登っていく水墨画が掛けられている。花瓶も大振りで高いものかもしれないけれど、花はなかった。欄間に彫られた精緻な龍を見ながら、僕は言った。
「先輩、結構すごい家に住んでるんですね」
「そうかな」
 浦上先輩は首を傾げた。
「古いだけだよ。それとも、値打ちものがあった?」
「いえ、わからないですけど」
 僕と先輩が他愛ない話をしているあいだ、松倉はむっつりと黙り込んでいる。やはり今回の件にはまるで気乗りがしていないようだ。嫌なら僕一人で行くから無理はするなとさんざん言ったのだけれど「いや、まあ」と言葉を濁して結局やって来た。そしてずっと仏頂面をしているのだから、何を考えているのかわからない。
 市松模様の襖がすうっと開く。片手にお盆を持って立っているのは、見知らぬ、けれど浦上先輩にどこかよく似た女の人だ。膝丈のスカートに桜色のブラウスを着ていて、母親というほど年上には見えない。先輩が言った。
「ありがと、お姉ちゃん」
 姉と呼ばれたその人は、僕たち二人にさっと視線を走らせる。一瞬だけだったけれど、値踏みをするような油断のない目だ。先輩本人に呼ばれたとはいえ、日曜日に男子二人連れで押しかけたのだから当然かもしれないけれど。
 お盆には急須と湯呑みが載っていた。湯呑みを配りながら、目元には笑みを作っている。
「麻里が変なことを頼んだそうね。休みの日に、わざわざ悪いわね」
 少し甘い声だ。事情は聞いているらしい。
「いえ。お役には立たないと思いますけど」
 すると、冷たい視線と厳しい言葉が返ってきた。
「あら。それじゃ、何のために来たの?」
「えっ」
 僕が戸惑うと、先輩が大袈裟に眉を寄せて握り拳を振り上げた。
「やめてよ。うちの後輩に変なプレッシャーかけるの」
「あはっ、ごめんごめん」
 どうやら冗談だったらしい。悪載っぽい笑顔は、やはり先輩に似ている。
「まあ、頑張ってね。楽しみにはしてるんだから。じゃ、ごゆっくり」
 そう言うと腰も下ろさず、客間を出て行く。先輩は噛みつきそうな目でそれを見送って、僕たちにはあきれ顔を見せた。
「ごめんね。あたしの話し方が悪かったかもしれないけど、お姉ちゃん本当に期待してるみたいなの。あんまり気にしないで、気楽にね」
 それまで黙っていた松倉が、ぼそりと言った。
「中身が気になって仕方ないようですね」
 少し皮肉っぽい口ぶりだったので、それは「お金を欲しがってるようですね」と聞こえなくもない。ひやりとするけれど、先輩は、
「おじいちゃんの遺品だからね。早く見たいのはあたしも同じ」
 と受け流した。安堵すると同時に、やはり今日の松倉は様子がおかしいと思う。
 先輩がお茶を注いでくれた。日中とはいえ秋風の中を歩いてきて、意外と体が冷えていたらしい。熱いお茶が嬉しかった。家が立派だったのでどんなお茶が出てくるのかと思ったけれど、案外普通というか、憶えのある親しみやすい味だった。先輩自身も口を付けるけれど、ほんの一口だけで、
「で、本題」
 と切り出した。
「わざわざ来てもらってごめんね。手がかりが『これだ!』ってはっきりしてれば、それを見せるだけでもよかったんだけど。ええと、どこから話そうかな」
 ちょっと視線を宙にさまよわせる。
「……うん、じゃあ、ここから。あたし、おじいちゃんには子供の頃から結構なついてて、おじいちゃんもあたしのこと気に入ってくれてたの。高校に入ったとき制服姿を見せに行ったら、すごく喜んじゃってさ。で、いつだったかな。こんなこと言ったの。
 麻里には何かいいものをあげよう。麻里が大人になってから、もう一度この部屋においで。そうしたら、きっとおじいちゃんの贈り物がわかるはずだよ。
 そのときはいい加減に聞いてたのよ。あたしが大人になっても、おじいちゃんはこの家にいるものだって思ってたから。そしたら、いきなりでしょう。ぽかんとしちゃって、気づいたら開かずの金庫だけが遺ってたの」
 先輩は気づいているのだろうか。祖父のことを話すとき、浦上先輩はどれほど明るく振る舞おうとしても、少しだけ声が静かになる。
 遺されたメッセージのことを考える。いいものをあげよう。大人になってから、もう一度この部屋に。
 僕は、床の間を設えた和室を見まわしながら訊いた。
「この部屋って、この部屋のことですか」
 先輩は首を横に振る。
「これから案内するけど、書斎のこと」
「金庫もそこに?」
「うん」
 それなら早速見に行こうと思ったけれど、ほとんど話を聞いてさえいないようだった松倉が、いきなり「質問です」と言った。顔も上げず、湯呑みを見つめたままで。
「いつだったかと言いましたが、思い出せませんか」
「え? 何?」
「おじいさんがその言葉を遺した時期です。それと、失礼なんであんまり訊きたくなかったんですが、おじいさんがいつ亡くなったかも教えてください」
「ああ、それね」
 そう頷くと、先輩はしばらく記憶を辿るようだった。
「ええと。話を聞いたのは、一年生の夏。二年ちょっと前ね。おじいちゃんが亡くなったのは今年よ」
「わかりました。では、おばあさんは?」
「あたしの? 話してなかったっけ。あたしが生まれる前に、ね」
「……それと、もう一つ」
 やはり目は湯呑みに落としたまま、
「『大人になったらわかる』と言われたんですよね」
「うん」
 先輩は、無理に笑うような顔をした。
「変な言い方でしょ?」
 けれど松倉は、先輩を見ようとはしない。
「じゃあ、大人になるのを待てばいいんじゃないですか」
 それは多分に挑発的だった。
 けれど浦上先輩は激することなく、むしろひどく冷静になって答える。
「大人って言われてもね。それが二十歳になってお酒が飲めるようになることなのか、それとも何か抽象的な、精神的なものなのかわかんないし。あたし、こういう性格でしょう?」
 一瞬だけ、自嘲気味な笑いがよぎる。
「精神的なことだったら、大人になるなんていつのことになるか。……それに、もしおじいちゃんが期待するような大人になれなかったら、金庫は永遠に開かないかもしれないってことじゃない。そんなの嫌よ」
「おじいさんのご遺志が、先輩が大人になるまで金庫の中身を渡さないということだったとしても?」
「おじいちゃんはもう、あたしが大人になったかどうか判定できないのよ。あたしはいま見たいの。それがもし、まだあたしには早いものだったら、また鍵を掛けておけばいい」
 どちらの言うことも、もっともだと思った。「大人になったらわかる」ことがわからないのなら、まだ先輩は金庫の中身にふさわしくないのだろう。けれど、もう亡くなってしまった人に縛られて、いつ来るか、本当に来るかわからない時期を待ち続けるのはまっぴらだという気持ちも、わかる気がする。
 僕は松倉をなだめる方にまわった。
「松倉、僕たちもまだ大人じゃないだろう。先輩には悪いけど、たぶん開かないよ。とにかく見てみるだけでもいいじゃないか」
 反論されると思っていた。松倉は、顔も知らない浦上先輩の祖父に義理を立てているのだと思ったから。
 しかし松倉は僕を見ると、あっさりと「それもそうだな」と言ったのだ。
 ほっとして、湯呑みに口を付ける。それにしても、やっぱりこの茶の味には馴染みがある。

     3

 客間から書斎までは、建物をまわり込むように縁側を通っていく。雨戸が開いているので、庭がよく見えた。池があるけれど、水は深い色に淀んでいる。庭いじりは亡くなったおじいさんの役目だったのかもしれない。
 全体的に和風に作られた浦上家の中で、書斎へのドアは開き戸だった。色の剥げかけた真鍮のノブが時代を感じさせる。そのドアの重厚さには、いかにもプライベートな場所への入り口という風格がある。開けることが後ろめたい、そんな感じがした。
 浦上先輩はもちろん、そんなためらいは見せなかった。あっさりとドアを開けると、
「さ、入って」
 と僕たちを招く。
 中には、濃い赤紫の絨毯が敷かれていた。ドアだけでなく窓も洋風で、出窓に生地の厚そうなカーテンが付いている。安楽椅子が、なぜか部屋の真ん中に引き出されているのに目がいく。安楽椅子と壁際に寄せられた書き物机、そして壁の一面を占める書棚が同じダークブラウンで統一されている。壁紙はエメラルドグリーン。総じて落ち着いた、部屋の主の好みが行き届いた部屋だ。いまでも掃除がされているのか、埃くささはない。
 金庫は書き物机の横にあった。真っ黒で、取っ手は部屋のノブと同じく剥げた真鍮。ダイアル盤は僕の掌ほども大きい。絶対の安心感を覚えるどっしりとした金庫だけれど、鍵が開かないとなれば確かに何とも歯がゆいだろう。
「大人になった浦上先輩がこの部屋に入れば、金庫が開くはずなんですね」
 そう念を押す。先輩は頷いたけれど、松倉が横から言った。
「違う。『金庫が開くはず』じゃなく、『おじいさんからの贈り物がわかるはず』だ」
「……そうだったか?」
「そうだ。さっき、先輩はそう言った」
 僕は思わず、先輩をまじまじと見てしまう。松倉に言われると、僕もそう聞いたような気がしてくる。とすると、先輩のおじいさんが遺した言葉は金庫の番号を示しているとは限らなくなってくる。
 痛いところを衝かれたようだ。先輩は苦い顔になる。
「ん。確かに」
 天井から絨毯まで隅々まで視線を走らせながら、松倉が続ける。
「たとえばですが、贈り物というのは安楽椅子のことかもしれません。この安楽椅子は北欧から輸入したヴィンテージ家具で、ものすごい座り心地だけれど真価は大人にしかわからない、とか」
 改めて見れば、安楽椅子の背もたれはいかにも優美だ。椅子はものの喩えで言っているとわかっていても、妙な説得力があった。
 先輩はもどかしそうで、地団駄さえ踏み出しかねないほどだ。
「でも、そんな、そんなわけないでしょ! じゃあ『贈り物』とはぜんぜん別の理由で、たまたま運悪く金庫の番号もわからなくなったってこと? そんな偶然あるわけない!」
「『どんなことでも起こる』って、先輩が言ったんですよ」
 飄々と松倉は言う。が、金庫を軽く撫でると、
「まあ、おれも金庫のことだとは思いますけど」
 と付け加えた。先輩をからかっただけらしい。先輩がどんな顔をしているか見るのが怖くて、僕は金庫に向かってしゃがみ込んだ。
 ダイアルには、ゼロから十刻みで九十までの数字が刻まれていた。松倉も僕の隣にしゃがむ。僕は見た通りのことを言った。
「数字は百通り、と」
 一方、松倉はじっと金庫を見つめていたかと思うと、難しいことを言った。
「四枚座だな」
「なんだそれ」
「ふつうの金庫」
 どうやら松倉も見た通りのことを言ったらしい。僕がちょっとあきれたのに気づいたのか、にやっと笑って付け加える。
「四枚座の場合、知るべき数字は四つだ」
「なるほど」
 しゃがんだまま小声で話すので、声はたぶん先輩には聞こえていない。松倉はどうにもこの仕事が気に入らないらしいけれど、僕はあえて普段のように訊いた。
「で、どう思う」
 ここまで来ると、松倉も愚痴は言わなかった。
「『大人になったらわかるもの』を探すべきだな」
「それ、僕たちにわかるのか」
 松倉が人の悪い笑みを浮かべる。
「さあ。もしかしたらこの世には、大人にしか見えない塗料があるのかもな。そうならお手上げだ」
「すげえな」
「大人になったら、それが日本中に塗りたくられてるのがわかるんだよ」
「すげえな」
「教科書を読み返すと、その塗料で書かれた別の文字が浮かび上がってくる。『……と言われているがそうでもないと気づいても、口にはしない方が無難』」
「すげえな。真面目にやろうぜ」
「情報があるところを探すべきだ」
 いきなり話を変えられて、不覚にもついていけなかった。
「え? 何だって?」
「情報だよ」
 金庫のダイアルをじっと見ながら、松倉は言う。
「情報ってのは『差』だ。真っ白な紙には何の情報もない。完全に規則正しく黒い点を打っても、やっぱり情報にならない。ある場所には多く、ある場所には少なく点を打てば、それは情報になる」
 なるほど。つまりどういうことかというと、
「……点の他に線も書くと、トン、ツーになる。モールス信号だ」
「その通り」
 頷いた松倉からは、朝からの仏頂面が消えていた。まわりくどい喩えが一度で理解されたのが嬉しいのだ。僕にはそれがわかった。
 調子に乗って、さらに応用してみる。
「すると、この金庫は真っ黒だから情報はない」
「大人にしか見えない塗料が……」
「それはもういい。床にも、天井にも、壁にもない」
「あるかもしれない」
「もういいって言ったろ」
 ところが松倉はかぶりを振った。
「いや、よく調べれば何かあるかもしれない。壁に画鋲跡が並んでるとか、絨毯を剥がすと実は、とか」
 けれどそれは、論理的に言えばの話である。松倉自身も、実際にそうかもしれないとは思ってもいないだろう。なぜなら、
「贈り物は『部屋に入ったらわかる』ってことになってた」
 松倉は再び、満足そうに頷いた。
「そうだ。だから、ものすごく小さく書かれてるとか、念入りに隠されてるとかじゃない」
「ただ……」
 僕はしゃがんだまま、浦上先輩を振り返る。
「先輩。おじいさんが亡くなってから、この部屋のものを何か動かしたりとか、運び出したりとかしましたか?」
 手持ち無沙汰なのか、先輩は髪をいじっていた。その手を止めず、
「ううん、何も。この部屋はおじいちゃん専用なの」
 なら、得るべき情報はまだ残っているはずだ。
 金庫はのっぺりと黒い。家具はダークブラウン。安楽椅子の背もたれに蔓植物が彫り込まれているのに気づいた。精緻な細工だ。けれど、そこに何か意味のあるパターンを見出すことはできなかった。
 となるともう、見るべき場所は一ヶ所しか残っていない。
 言うまでもなく書棚のことだ。
 壁一面を占め、高さも一・八メー・トルほどはある。六段に分かれていて、そこにはぎっしりと、一冊分の隙間もなく本が詰められている。
 情報がある場所を探せと松倉は言った。それはもちろん、書棚を見るべきという意味だったに違いない。はっきりそう言わなかった理由もわかる。……本が多すぎて、できれば後まわしにしたかったのだ。
 しゃがんだ状態から、ゆっくりと立ち上がる。書棚に向き合う。松倉も、ひどくのろのろとはしていたけれど、僕に倣った。
 さっきまでのお喋りも、完全に無駄話というわけではない。ものすごく小さく書かれてるとか、念入りに隠されてるという可能性を排除する役には立った。つまり、この何百冊かの本のどれかランダムな一冊にメモが挟み込んである……なんてことはない。片っ端から一ページ一ページ探すようなことはしなくてもいいはずだ。たぶん。
 一つ思いつく。
「松倉。本を探そう」
「どんな?」
「題名は、『大人になったら読む本』」
 力の抜けた笑いが返ってきた。
「馬鹿なこと考えつくなあ」
 そうして僕たちは、書棚の本を端から見ていった。
 最上段には和歌の本が並んでいた。万葉集や古今和歌集、それらの解説書などがずらりと並んでいる。
 二段目には、地元の歴史の本がまとめられている。箱に入っていて、墨字で「○○通史」と書かれている。全三巻。隣町のものも、その隣町のものもあった。とても大事に扱われたのか、それとも一度も読まれたことがないのか。どの箱もとてもきれいで、傷も歪みもぜんぜんない。
 三段目と四段目には小説が並んでいる。全集ばかりで、これも箱に入っている。子母澤寛全集、司馬遼太郎全集、山本周五郎全集、海音寺潮五郎全集と来れば、浦上先輩の亡くなったおじいさんがどういう趣味の人であったかよくわかる。むしろ、わかりすぎて後ろめたささえ感じるほどだ。ただ、棚の全部がそれで埋まっているわけではなく、一部には雑多な本をまとめた一角もある。
 五段目には辞書や事典類が入っていた。国語辞典はもちろん、英和辞典、和英辞典、植物事典。歴史用語事典というのもあった。
 一通り見て、僕はおどけた。
「『大人になったら読む本』は、ないみたいだ。おかしいな」
「内心、あると思ってただろ」
「思ってた」
「実はおれも」
 共犯者めいた笑いを交わす。浦上先輩があきれたように何か呟いたけれど、何を言ったのかはわからなかった。
 そして松倉は、ふと真顔に戻って言った。
「なあ。これ、どう思う」
 指さしているのは本棚の三段目。小説ばかりが並ぶ中で、その他の本がまとめて挿してある場所だ。確かに、僕も少し気になっていた。
「棚に棚を入れてあるんだよな」
「だと思う」
 ダークブラウンの書棚に、ベージュの棚が入れ込んである。棚というより、箱と呼ぶべきかもしれない。単にブックエンドの代わりだとも思えるけれど。
「この中だけ変じゃないか?」
 変というよりも、
「雰囲気が違うな」
 箱の中には実用書が入っていた。小説の全集に挟まれて『はやわかり商法』や『日本の観光・世界の観光「旅行代理店」を超えて』、『放牧の今日』が並んでいるのは、確かに少し浮いて見える。派手な色遣いの背表紙ばかりで、茶色やベージュが多い書棚の中で一ヶ所だけカラフルだ。買ってから一度も開かれていないかのように、背表紙にはヨレもなく、色も鮮やかだ。
「雰囲気もそうだけど……」
 松倉はしきりに首を捻る。
「本棚を見れば持ち主のことがわかる、って言うよな」
「ありそうな話だ」
 じっと書棚を見ながら、松倉はひとりごとのように言う。
「先輩のおじいさんは、和歌と地域史と時代小説に興味があった。それはわかる。……そういう人の本棚に、いきなり『確率論概説』が並ぶかな」
 そして、ふと先輩を振り返って訊いた。
「先輩。もう一度訊きますけど、この部屋のものは、何も触っていないんですよね」
「うん」
「じゃあ、この本棚も、ずっとこのままだったんですね」
 先輩は少しためらい、自信がなさそうに頷く。
「だと思う。出し入れする理由もないし」
「そうですか……」
 あごに手を当て、松倉は唸った。この箱にこだわる理由はわかる。よく片づいたこの部屋の中で、この箱とその中身は異質であり、目を惹く。松倉が黙り込んでいるのを横目に見ながら、先輩は僕に言った。
「あのさ。関係ないかもしれないけど、あれ、おじいちゃんの本じゃないと思うよ」
「そうなんですか」
「うん。なんか箱に『要返却』って書いた付箋が貼ってあったし」
 松倉が顔を上げる。
「付箋? どこにありますか」
「ええと……。どこかいっちゃった」
 さっきまで、この部屋のものは何も触っていないと言っていたのに。僕はあきれたし、松倉もあからさまに嫌そうな顔をする。僕たちの反応が癇に障ったのか、先輩は眉を吊り上げた。
「仕方ないでしょ、あたしたちだって手がかりがないか、いろいろ探したんだから。付箋の一枚ぐらいなくなるわよ。内容憶えてたんだから問題ないでしょ」
 松倉は、冷めた声で言った。
「そうですね。問題はないです。他になくなったものがなければね」
 今日の松倉は、やはりどうもおかしい。もっと他に言い方もあるだろうに、わざと浦上先輩を怒らせようとしているようだ。横で聞いていただけの僕にわかったのだから、先輩にもわかったはずだ。先輩の口が開きかける。
 浦上先輩に我慢強い人というイメージはなかった。むしろ、図書委員としての最低限の仕事がある時でも、遊びたければ遊ぶし帰りたければ帰る奔放な人だと思っていた。けれどいま、先輩は言いかけた言葉を呑み込んだ。気持ちを落ち着けようとするように、小さく溜め息をつく。
「……わかった。いまは思い出せないけど、思い出したら言うから」
 松倉は拍子抜けしたように、
「お願いします」
 とだけ言った。
 出窓から秋の風が吹き込んでくる気がする。僕は身をふるわせ、ある欲求に気づく。
「あの、先輩」
「なに?」
「いえ、そうじゃなくて」
 仕方がないことだけれど、少し照れる。
「あの、手洗い貸してもらえますか」
 先輩は、顔をしかめた。
「いま?」
 やはり、松倉の態度に苛立っていないわけではなかったのだ。その言葉には棘が生えていた。自分の気持ちがさっと冷えるのを感じる。
 けれど先輩はすぐ、自分の言い方を羞じるようにはにかんでみせた。
「ああ、ごめん。案内するね」
 先輩はちらりと松倉を見た。松倉はあごに手を当て考え込んだまま、こちらを見もしない。
「こっちよ」
 先輩が先に立ち、僕は書斎を出た。

 トイレに行く途中、さっきお茶を頂いた客間の前を通る。障子越しに先輩が、
「お願い」
 と声を掛けた。
 いくら大きな家と言っても、城のように大きいわけではない。トイレぐらい行き方を教えてくれれば行けたと思うのだけど、先輩はちらちら振り返って僕がついてきているか確かめながら、ずっと案内してくれた。
 家の中は静かだった。
 廊下は砂壁だ。天井の際に蜘蛛の巣が張っている。板張りの床は、ところどころで軋みを上げる。真っ昼間なのに薄暗く、寒いような気さえする。さっき書斎にいた時はそんなことを思わなかったのに。
 トイレまでは、確かに少し入り組んでいた。そこだけ真新しいスライドドアの前で立ち止まり、先輩は素っ気なく、
「ここ」
 と指さした。
 ドアの新しさで察しがついたけれど、トイレは改築されていた。煌々としたLED電球の下、洋式便器で用を足しながら、僕はさっきの書棚のことを考えていた。
 あの書斎で気になるのは、どっしりとした金庫と、壁一面の書棚。これは誰でもそうだろう。子供が入ろうが大人が入ろうが。金庫には何も怪しいところはなかった。とするとやはり、鍵は書棚の方にあるのではないか。中でも、あの書棚の中の書棚とでも呼ぶべき「箱」に。なにしろ「要返却」というのが不思議だ。並んでいた本は、借りたものには見えなかった……。
 ところで落ち着いて考えてみると、僕たちは何を探していたのだろう。「大人になったらわかる」だとか情報を探すべきだとか、いろんな話を聞いたけれど、つまるところ求めているのは金庫の番号だ。四枚座と言った松倉の言葉が正しければ、数字は四つ。
「……ひょっとして、だなあ」
 独り言を呟く。
 用を足し終えて手を洗い、迷わず書斎に戻れるかなと思いながらトイレを出る。
 浦上先輩が立っていた。
 思わず声が出た。トイレに案内してくれるのはともかく、まさか終わるまで待ってくれているとは思わなかった。何か冗談でも言われるかと思ったけれど、先輩は「じゃ、戻るわよ」とだけ言って、すぐに背を向けて歩き出す。力が抜けた。
 先導されて書斎まで戻ってくる。松倉が一人でいると思っていたけれど、部屋にはもう一人増えていた。
 クリーム色のシャツを着た、年配の女性。顔立ちはとても似ているというほどではなかったけれど、すぐに先輩の母親だとわかった。松倉と打ち解けて話をしていたというわけではないらしく、書斎には気まずい雰囲気が満ちていた。部屋に戻ってきた僕たちを見て、松倉ははっきり、ほっとした表情になる。
「あれ、お母さん? お姉ちゃんはどうしたの」
 先輩が訊く。
「電話中だったの」
 それだけ言うと、僕たちにあからさまな愛想笑いをして、
「お邪魔したわね」
 と書斎を出て行く。松倉は小さく会釈してそれを見送り、僕に向かって小首を傾げて見せた。何をしに来たんだろうな、とでも言いたいのだろう。
 それも気になるところではあるけれど、僕には早く言いたいことがあった。
「なあ松倉。ちょっと思いついたんだけど」
「おう」
「その箱の本は、『要返却』なんだろ。どこに返すんだろうな」
「そりゃあ……。借りた相手にだろう」
 言いながら、松倉の声は尻すぼみに小さくなっていく。この書棚の持ち主が『確率論概説』を読むというのはピンと来ない。同じように、それを借りるのも妙だと気づいたのだろう。
 棚から『確率論概説』を取り出し、僕は言う。
「もしかしたら。もしかしたらなんだが……。417に、ってことはないかな」
「417?」
 松倉は、何を言っているんだとばかりにきょとんとした。
 しかしそれは僅かな間のことだった。目を見開いたかと思うと、
「ああ!」
 と声を出す。
「それか」
「どう思う」
「ありえる……。いや、いけるんじゃないか? すごいな堀川、どうして思いついた」
 興奮気味のやりとりに、浦上先輩もすぐに入ってくる。
「なになに、どうしたの? なにかわかった?」
 僕は振り返った。たぶん、顔はにやけていたと思う。
「はい。もしかしたらなんですけど、これは……」
 けれど、言えたのはそこまでだった。
「まだわかりません」
 と、松倉が僕を遮ったからだ。
「堀川がいいことに気づきましたが、まだちょっと。なあ堀川、さすがに、調べ物が必要なんじゃないか?」
「まあ、それはそうだけど」
「ここからなら駅前の図書館まで十分ぐらいだろう。答えを出してから戻って来よう」
 先輩は至って不満げだ。
「え、どうしていま教えてくれないの?」
 僕は、松倉から皮肉な態度がすっかり消えているのに気づいた。彼はいかにも愉快そうな笑顔で、こう言ってのけた。
「そりゃあ……。楽しみは、後にとっておいた方がいいからに決まってるじゃないですか」

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