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ばけもの好む中将 六
美しき獣たち
瀬川貴次

   美しき獣たち 〜市井編〜

    一

 新春の空はひときわ青く、朝の大気は澄み渡るほどに冷たい。
 寒気が張り詰める平安の御所を、束帯姿の高官が部下を従えて悠然と歩んでいく。重臣たちの中でも切れ者と言われる右大臣であった。
 彼の妹は、東宮の母でもある弘徽殿の女御。代が替われば、伯父である彼が新帝の補佐役として権力を握るのは明らかだ。
 納言や参議といった閣僚たちも、右大臣に気づくと足を止めて恭しく頭を下げる。齢七十を過ぎ、白髭を蓄えた権大納言もそのひとりだった。
 右大臣も目礼をして、権大納言の前を通り過ぎようとしたちょうどそのとき、きゃあと女の悲鳴が響き渡った。それも複数の。さらに、若い男の快活な笑い声が続く。
 何事かと、右大臣と権大納言はにぎわうほうをそろって振り向いた。
 彼らの視線の先では、きゃあきゃあと声をあげて逃げる宮廷女房たちを、若い公達が短い杖を手に追いまわしていた。
 公達は、宰相の中将雅平。宮中の花形、近衛中将のひとりで、女房たちからの人気も高い、名うての遊び人である。
「さあさあ、次に打たれるのはどなたかな?」
 目鼻立ちのはっきりした豪華な容貌に、いたずらっぽい笑みを刷けば、女房たちはまだ打たれてもいないのに悲鳴をあげる。それも嬉しそうな悲鳴を。
 この様子を遠目に眺めていた右大臣は、吐息だけで短く笑った。
「そうか。今日は十五日か」
 新しい年を迎えてから、宮中では四方拝、朝賀などのさまざまな行事が執り行われた。そんな公的な行事の数々が一段落する正月十五日。この日、粥を炊く際に用いた薪の燃えさしを削って作った杖──粥杖で尻を打たれると、その者には子ができるという俗信があった。
 これを踏まえて、いたずら好きな若い公達が女房の尻を打ってやろうと、粥杖をそっと隠し持って隙をうかがう。女房のほうもそうと察して、しきりに背後を警戒する。──といった光景が、かの『枕草子』にも描かれている。
 遊び人と名高き魅惑の貴公子、雅平にちょっかいをかけられ、嬉しいやら恥ずかしいやらで、女房の悲鳴もひときわ高くなる。雅平はこのにぎわいに気をよくして、
「恥ずかしがりなさるな。粥杖で打たれて子宝に恵まれるとはめでたいことなのですよ。さてさて、わたしの子を孕んでくださるのはどなたかな?」
 この台詞に女房たちはまたまた黄色い声をあげる。
 老齢の権大納言は微笑ましげにつぶやいた。
「やれやれ。お若いかたは元気でうらやましいですな」
 右大臣はゆるく首を左右に振り、
「何を言われる。あなたこそ、跡取り息子のほかに姫が十二人もいるそうではないか」
「これはよくご存じで。いやはや、お恥ずかしい限りでございます」
「よいことではないか。わたしなどは息子ひとり、娘ひとりでいささか心許ない」
「それこそ何を仰せですか。立派なご子息に、未来の東宮妃が約束された姫君と、これ以上の子宝はありますまい」
「姫はともかく……」
 右大臣は微苦笑を浮かべ、その場から立ち去ろうとしかけた。そこへ突然、女人の厳しい声が響き渡る。
「いい加減になさいませ、中将さま。打たれて喜ぶ女ばかりではございませんのよ」
 雅平の悪ふざけに対し、勇ましく立ちあがった者がいたのだ。その女房は同僚が雅平に打たれそうになる寸前、彼の背後に忍び寄り、粥杖を強引に奪い取った。
 女房たちの間から驚きのどよめきがあがった。そこに少なからず、賞賛の声も混じる。
「好機よ」
「痛めつけてさしあげて」
「ああ、でも、優しくね」
 何も女だけが一方的に粥杖に打たれるわけではない。男でも粥杖で打たれれば、子に恵まれると言われていた。お返しとばかりに女房が反撃するのも、ありはありなのだ。
 とはいえ、雅平にとっては想定外だったらしく、
「いやはや、お待ちくだされ女房どの……」
 魅力的な笑顔で相手を煙に巻こうとする。しかし、女房は真顔で粥杖を大きく振りかぶった。微塵の容赦もない一撃が、雅平めがけて打ちおろされる。
「うわっ」
 危険を察し、雅平はひらりと身をかわした。惜しいかな、女房が握った粥杖は空振りとなる。
「お逃げなさいますな」
 逃げるなと言われて留まる者はなかなかいない。雅平は脱兎のごとく走った。見事な逃げっぷりだったが、前方への注意は完全に逸していた。
 雅平がハッと気づいたのは右大臣にぶつかる寸前だった。あわや正面衝突のまさにそのとき、
「危のうございます、右大臣さま!」
 権大納言が右大臣の前に飛び出した。そこへ雅平が激突する。
 あなや、との悲鳴が権大納言、雅平の双方から放たれ、ふたりともに地に倒れた。が、雅平はいち早く立ち直り、権大納言を助け起こそうとする。
「しっかりなさってください、権大納言さま!」
 必死に呼びかけるが、権大納言は苦しげにうめくばかりだ。
「権大納言さま!」
「──動かしては駄目だ、宰相の中将」
 命令することに慣れた低い声で右大臣に制され、雅平はうっと言葉を詰まらせる。
 彼を粥杖で追った女房が走り寄り、この状況に驚きの声をあげた。
「父上!」
 権大納言の十二人いる娘のひとり、梨壺で女房として仕えている十一の君だったのだ。
 権大納言が薄目をあけ、十一番目の娘に向けて笑いかけた。大事ない、大事ない、とその唇が動いてはいたが、誰の目にもカラ元気としか映らなかった。

 

 右大臣の幼い娘、初草は暮れにひいた風病が長引き、年が明けてからも、たびたび床に臥せっている。
 そうと聞いた右兵衛佐宗孝は、急いで右大臣邸へ姫の見舞いに赴いた。
 もっと早くに来ればよかったと悔やむ彼を迎えてくれたのは初草の兄、左近衛中将宣能だった。
「やあ、よく来てくれたね、右兵衛佐」
「中将さま」
 年明け以来、宮中で幾度か顔を合わせる機会はあってもお互いいそがしく、ゆっくり言葉を交わす間もなかった。やっと宣能の声を聞けて、宗孝はここまで来る道すがら、胸をふさいでいた不安が和らぐのを実感した。
 右大臣の子息にして、宮中の花形である近衛中将のひとり。家柄はよく、眉目秀麗で浮いた噂のひとつもない。そんな宣能と宗孝は昨年から時折、夜歩きに出る仲となっていた。
 理想の公達とも言うべき宣能には、ただひとつだけ奇妙な癖があった。化け物が好きで好きでたまらないのである。
 都の東に三本角の鬼女が出たと聞けば笑顔で出かけ、西に夜泣きする石があると聞けば、やはり笑顔で出かけていく。おかげで、いつしかついた呼び名が〈ばけもの好む中将〉。
 この時代の貴族は鬼や物の怪などの災難に出遭わないよう、出かける日取りや方角を陰陽師に占わせて決める。そこまでやるのが普通なのだ。自分から進んで怪異と遭遇したがる宣能は、間違いなく変人だった。容姿端麗、名門出身の貴公子だというのに、実にもったいない話である。
 宗孝は宣能と違って、普通に物の怪が怖い。陰陽師から「今日は障りがありますので外出を控えますように」と言われたなら、当然、従う。そんな彼が、なんの因果か宣能の怪異探しに付き合わされ、夜の洛中洛外を引っぱりまわされている。唯一の救いは、いまだ本物との遭遇を果たせていないことだ。
 噂に聞いた怪異も、いざ現場に足を運んでみれば、ただの見間違い、勘違いであったり、ひどいときは生きた人間の作為であったりする。そのたびに宣能は落胆し、宗孝はよかった、命拾いしたと安堵していた。
 そんなことを幾度も重ねていくうちに、宗孝は宣能の幼い妹、初草の君の遊び相手を務めるまでになっていた。
「初草の君の具合はいかがなのですか?」
「よくなったり、悪くなったりかな」
 対屋へ続く簀子縁を歩きながら、宣能がそう説明した。
「今日は朝から臥せっていたが、きみが来るとの知らせを聞いて起きあがったようだよ」
「もしかして無理をさせたのでは……」
「いや、無理ではないとも。むしろ、無理をしてでも起きたほうがいい。初草の具合が悪いのは、多分に心持ちから来ているようだから」
「心持ち、ですか」
「去年の暮れあたりから、ふさぎ勝ちでね。食も進まず、少し痩せてしまった。今日も、病みやつれて見苦しくなっているのではと気にして、御簾越しの対面を望んでいるよ」
 初草には『伊勢物語』の読み聞かせなどもしてあげたのに、いまさら御簾越しとは他人行儀に過ぎると、宗孝は寂しく思った。だが、それが初草の望みなら仕方がない。本来なら、彼女は直接話せるはずもない深窓の姫君なのだ。
「起きて食べて笑っていれば、きっと病魔も退くはずだから、よろしく頼むよ。右兵衛佐」
「わたしごときが少しでもお役に立てますならば」
 入室してみると、御簾越しでと言っていたはずなのに、初草は御簾を半分上げて、その下から意外に元気そうな顔を覗かせていた。
 御簾の前に設けられていた席につくや、宗孝は挨拶もそこそこに、
「起きていらして大丈夫なのですか?」
「ええ。だいぶ良くなってまいりましたわ。どうぞ、ご心配なさらずに」
「そうなのですか? お食事も、きちんと召しあがっておられますか?」
「お兄さまと同じことを尋ねられるのですね」
 うふふと初草は無邪気に笑った。
 初草は十歳か十一歳くらいと宗孝が前から思っていたとおり、年が明けて数えの十一歳になったのだという。
 無垢な笑みの愛らしさは変わりない。肩に羽織った紅梅色の衣のおかげか、顔色も悪くない。ただ、少し前にはなかった、どこかはかなげな風情が感じられた。原因はきっと、ひとつ年を重ねたからではないだろう。
(中将さまがおっしゃったとおり、やはり、あのことがお心の傷に……)
 先月のこと、初草は古い屏風の中から、彼女の父が母に宛てた恋文を発見した。
 初草の母親は彼女を生んですぐに亡くなったため、彼女は父の正妻に育てられた。やがて育ての母も病没し、そのときになって初めて、初草はおのれの出生を知った。実の母親は、以前は祖父の愛人だった女人で、祖父が死んでからその息子である右大臣との間に初草を儲けたのだと。
 そんな複雑な事情の両親がひそかに交わしていた昔の文を屏風の中から発見し、初草は驚くと同時に感動していた。何度も何度も文を読みふけり、両親の恋物語を想像しては胸ときめかせた。そして──父の右大臣にみつかって文を取りあげられ、燃やされてしまったのだ。
 初草の体調がなかなかよくならないのは、この出来事が深い心の傷となり、身体をも蝕んでいるからとしか、宗孝には思えなかった。
(心弱りから、もっと重い病を引きこんだりしなければよいが)
 この時代、ひとは病を得れば簡単に命を落とす。抵抗力の弱い子供の場合はなおさらだ。そう考えると、宗孝は初草の身が案じられて仕方なかった。
「とにかく、年が明けたばかりで寒さはまだまだ続きましょうから、御身を大切になさってください。元気になられましたら、また雪まろばしなどいたしましょう」
「雪まろばし……」
 初草の目に輝きが灯った。以前、雪が積もった早朝の庭で、兄と宗孝の三人で雪玉を作ってその大きさを競う、雪まろばしに興じたことを思い出したのだ。
「そうですわね。雪がまた積もったときのために、早くよくならなくては」
「ぜひ、そうしてください」

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