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岳飛伝 八 龍蟠の章
北方謙三

   徐寒の火

     一

 淮水の北部地域の治安は、南宋との講和が成立してから、格段によくなった。軍が、賊徒の討滅に力を入れたのも、大きいだろう。淮北一帯を統轄する軍が置かれ、指揮官は訥吾である。
 戦を経て、金軍はしっかり整備し直された、と蕭けん材の眼には見えた。有力な将軍も、戦によって育った。
 開封府に新たに設けた、轟交賈の一室で、蕭けん材は斡屠とむかい合っていた。卓の上には、金国の地図が拡げられている。
 地図には、網の目のように線が描かれ、ところどころに丸印がある。それは三百近くあった。
 轟交賈は、金国内の輸送を管轄するところからはじまった。西域などから運ばれた荷を、輸送路に乗せる。金国内の物資も集める。
 街道を通る荷から、税を徴収するなどということを、街道の管理権を与えられても、蕭けん材は一切考えなかった。街道と街道を繋ぐ輸送路を、整えただけだった。それが地図上の網の目である。
 そして、輸送を生業とする組織を作った。難しいのは荷主の信用を得ることだったので、はじめは斡屠が二千の部下を遣ってやった。事故は一件も起きなかった。
 二千を六千の組織にした時、事故が起きれば補償をする、という仕組みを作った。わずかな銭を払っておけば、荷が失われた時、同額の銀が返されるのである。
 六千の組織は、二千がもとになっていて、ほぼ軍のようなものだった。指揮官の下に、数名の上級将校、二十数名の将校がいる。命令は、絶対的に兵にまで通る。場合によっては、戦も辞さない。
 ただ、それ以外のところでは、それぞれが生活を持っている。家族を抱えている者もいれば、ひとりで商売をしている者もいた。
 ここまで作りあげるのに、相当の時を要した。はじめは、蕭けん材ひとりの仕事だったが、やがて撻懶が、国の事業に準ずるものにした。
「梁山泊の力が、これほどのものとはな」
 蕭けん材は、三百近くの丸印から眼を離せずにいた。自由市場が立った場所であり、その中のかなりの部分には、これからも立つ。
 斡屠が、輸送路を整備したり、実際に輸送したりする過程で、これを調べあげていた。梁山泊は、金国の輸送隊も平然と遣う。現在は講和中であり、それを咎める理由はなかった。
 自由市場は、会寧府の近辺でも立っている。
「南宋の自由市場は、こんなものではありませんよ」
「だろうな。中華一帯が、梁山泊の物資で覆い尽されている、というわけではあるまいが」
 穀物などの生産そのものは、金国や南宋の領土内で行われている。梁山泊には鉱山もなく、塩もない。生産物は、国内で遣われてしまい、外へ売るものはさほどない。牧の馬などを売っているというが、それはたかが知れているだろう。
 外から外へ、大量の物資を動かす。梁山泊のやり方はそうで、だから弱点があるはずだと、蕭けん材は長い間、考え続けてきた。
 それは見えず、見えないまま、梁山泊は南で甘蔗糖の生産をはじめた。甘蔗糖と昆布の交易だけで、金国全体の交易量の二倍はある。おまけに、西域からの厖大な物資だった。
 西域には、蕭けん材も隊商を出してはいたが、梁山泊の交易とは較べようもない。
「梁山泊の荷らしいものを、うちの輸送隊で運びます。それが、半分に達しようとしているのです、蕭けん材殿。いま荷を引き揚げられたら、こっちがあがったりです。これまで荷を運んでいた梁山泊輸送隊の一部は、どうもひそかに穀物などを運んでいるのではないか、という気がします」
「つまり、兵糧を運んでいる、ということだな。戦でもないのに」
「南宋でも、同じことが起きています、多分」
「あっちには、輸送隊はない」
「ですから、こちらで余った輸送隊が、あっちで動いているのではないでしょうか」
「梁山泊は、戦仕度か」
 そういう動きについては、はっきりしたものだけは、撻懶にも伝えてある。
 轟交賈では、ようやく各地の荷を差配できるようになっていた。いま金国内では、物資が活発に動いている。戦になれば、その動きが兵糧というひとつの方向に行くことになる。
 戦が、いいとも悪いとも、蕭けん材は考えていなかった。その場でできる商いをする、ということをずっと続けてきたのだ。
 独立不覊の思いは、強かった。それでも、金国のために働こう、とはしてきた。自分を育ててくれたのは、この大地なのだ。
 撻懶と手を組むことになったのは、商いの規模を大きくしなければならなくなったからだ。ひとりの力には限界があり、国の持つ規模が、商いにも必要になった。
 本来なら、国の交易策の中で動く、ひとりの商人でよかった。それでじっとしていられないなにかが、蕭けん材の中に溜り、溢れかかっていたことも事実だ。
「斡屠、梁山泊は四囲が敵になる、という危機をいつも孕んでいる。そしてよほど攻めこまれないかぎり、梁山泊の領土で戦をしようとも考えていない。ならば、兵糧が必要になるのはわかる。しかし、輸送隊でひそかに運んで、どれほどのものが運べる。戦が、そこで起きるとは、決まっていないのだ」
「兵糧が蓄えられている場所は、特定できていません、蕭けん材殿」
「われらが、それを特定することはない。われらがなすべきことは、ほかにあるのだ、斡屠」
「輸送隊があげる利は、かなりのものになっています。道さえあれば、どんなところにも届けられるのですから」
 斡屠は、軍にいれば、すぐにでも上級将校になれる男だろう。父が、六歳の斡屠を、山中で拾ってきた。名さえわからず、斡屠と刻まれた短剣を持っていたので、それが名になった。
 それからずっと、兄弟のように育った。父が分け隔てをすることはなかったので、ほんとうの兄弟のようだったが、斡屠はいつも、兄である蕭けん材を立てた。
 輸送隊の人員はもっと増え、一万に達することになっているが、斡屠の指揮については、なんの懸念もなかった。
 轟交賈では、いまどこかで買った物を、別のところで売る、ということを盛んにやっていた。なんであろうと、不足しているところでは値が高い。余っているところから不足しているところへ運べば利が出るのは、商売そのものだった。
 それを大規模に、南宋の商人にまで及ぶような規模でやっている。市場を経ない取引なので、利は大きかった。
 轟交賈は、中華全土でのその物資の動きを、統轄していた。梁山泊聚義庁が、長くやってきたことを、ようやくはじめられたのだ。
「そろそろ、風玄を遣ってみようと思うのだ、斡屠」
「馬行街の、薬種屋」
「金国には、魯逸殿が作りあげた、闇の組織があるが、ほとんど政事と他国の情勢を探るのが主たる任務だ」
「わかりました。商人を調べるのですね」
「特に調べたい者が、数名いる。その中でも、南宋漢陽の商人である、梁興については必ず知りたい」
「わかりました」
「依頼は、私がする。しかし風玄の手の者を数名、輸送隊に入れなければならない。私がいま知りたいのは、大量に流れこんできている甘蔗糖を扱っているのが誰か、ということだ」
 梁興という商人は、なんでも扱う。昆布も扱っていたが、いまは配下の商人に任せているという感じだ。長江(揚子江)の上流地帯に運ぶだけの仕事なので、そうしているのだろう。
 甘蔗糖は、相当の量が入ってきている気配だが、自由市場に出回るのはわずかで、ほとんどが途中で消えていた。
 しかし、輸送路には乗っているはずだった。
「いまだ、全体の量が掴めないが、西域への道を通る途中で、蒙古に流れているだろう。日本にも、流れているだろう」
 梁山泊には、昆布、西域の物品、甘蔗糖と、他に類を見ない交易品があり、それが商い全体の規模の差になっている。
「細かいことは、これに書いておいた。書かれていないことについての判断は、おまえがしろ。明日、風玄を訪ねてくれ」
「わかりました」
 斡屠が、卓上の地図を巻き、立ちあがった。蕭けん材の口調で、用件の終りを察するのは、昔からのことだ。
 轟交賈には、百名ほどの人員が、いつも詰めている。物資の註文を受け、輸送の手配をするのだ。
 蕭けん材は、いくつかに分かれたその部屋を回ると、轟交賈を出て馬行街にむかった。馬で、従者を二名連れている。
 薬種屋は、古い建物だった。
「傷の薬を、まとめて買いたい。相国寺橋のたもとにできた、轟交賈の者だ」
 言うと、すぐに奥へ請じ入れられた。
 入口の戸だけがある部屋だが、それが閉まると、壁の一カ所が開き、廊下が現われた。両側には、部屋がいくつかあるようだ。
 突き当たりの奥の部屋。
「ようやく、私も遣っていただけますか」
「丞相の仕事は、少なくないだろう。私も、あなた方を遣わなければならなくなった」
「お話を」
 明日、斡屠が来ることから、金国に入る甘蔗糖の大もとの入口はどこなのか、という知りたいことについて語った。
「かしこまりました、蕭けん材様。逐次、轟交賈へ、傷の薬をお届けいたします」
 風玄は、笑っているようで、しかしまったく表情は動いていなかった。笑みの仮面をつけている、というふうに見えた。汚れ仕事もやると言っていた、撻懶の言葉を思い出した。この顔のまま、人を死なせたりもするのだろうか。
「大もとがどこかは、たやすく見つかるものではない」
「それがどこか、蕭けん材様は、ほぼ見当をつけておられますね」
 蕭けん材は、黙って風玄を見つめた。表情は変らない。
「そして、見つけたらその者を消したい、と考えておられますね」
「どうも」
 蕭けん材は、動かない風玄の顔から眼をそらした。
「仕事の依頼先を、間違えたようだ」
「間違ってはおられません。甘蔗糖は、いずれこの国の命とりになるかもしれませんから。これから、甘蔗糖はさらに増えていくのだろう、と思います。そうなると、甘蔗糖を扱っている者に、この国は到底勝てないほど、財力の差をつけられてしまうのですから」
「来たところを引き返せば、帰れるのかな」
「御案内はいたします。ひとつだけ、聞いていただきたいのですが、構いませんか?」
「言ってみよ」
「われら闇の者は、闇なるがゆえに、裸なのです。着飾り、鎧まで着こんだ依頼は、われらを堕落させます。銀のため。そう思っても、命はかけているのですよ」
「私の依頼が、鎧をまとったようなもの、と言っているのか。そういう依頼は、受けたくないと」
「闇の者は、本音で遣っていただきたいのです。闇にいるというだけで、命を奪われるのもわれらなのですから」
「遣われる者が、本音と言うのか。私は、銀とだけ言うのだと思った」
「生きるために、銀とは申します」
「私は、あなたが言っている意味が、よく理解できない。丞相は、銀と言っておられるのだろう?」
「銀だけで、仕事は果します」
 なにかを、伝えようとしている。それはわかった。
「私は、蕭珪材将軍のもとで、兵士であったことがあります。それも百騎いた、一番の麾下のひとりでありました」
「そうなのか」
「軍に入って二年。新兵の補充が蕭珪材軍にはありませんでしたが、麻哩せいという副官の従者から、軍に入りこみました。半年で、麾下に加えられました」
「父の、麾下か」
「蕭珪材将軍の暗殺のために、近づいたのです。しかし、その機会がないまま、将軍は岳飛と闘って、死なれました。いや、機会はあった、という気がします。どうしても、手が出せなかったのです」
「誰が?」
「雇った人のことは、申しあげられません。どうしてもと言われるなら、ここで自死するしかありません」
「父は、暗殺を企てられるほど、恨まれていた、ということなのだろうか?」
「恨みではなく、嫉みだったのだろう、と思います。わずかな銀を貰い、事を果したら、大きなものを支払われることになっていました。いつまでも、事は果せなかった、と思います。将軍が死なれた時、部下の誰もが感じたことを、私は感じました。なぜ、代りに自分が死ななかったのだろう、と」
 蕭けん材は、眼を閉じた。そうしていても、父の顔は、すぐには浮かんでこなかった。
「なぜ、私にそんなことを言う?」
「果せなかったにしろ、蕭珪材将軍の暗殺を引き受けた自分が、いまも許せないからです。私にとっては、消すことのできない恥です。どうやれば消せるのか、いまだにわかっていません」
「闇から、出ることだな」
「闇で生きる者の、誇りも持っております。将軍のことで、その誇りは潰えかかっていますが」
「それを取り戻すのは、自らの問題であろう」
「まさしく。そして私は、蕭けん材様の背後の闇にいることで、それを取り戻したいのです」
「わからぬ」
「私を、本音で遣っていただきたい。思うのは、それだけであります。蕭珪材将軍の高潔さは、この世を生きにくいものにしていた、と思います。どこかに、諦念のようなものもお持ちでした」
 蕭けん材は、閉じていた眼を開いた。
 表情のない風玄の顔が、濡れていた。
「どんなことでも、私にお命じください。商いをしておられるとはいえ、私にはいつも、蕭珪材様と蕭けん材様が重なって見えるのです。だからと言って、お父上のために働こうと考えているわけではありません。蕭けん材様を、私は見つめてきました。そして、闇が必要だと思ったのです」
「必要ない。穢れたことは、必要ないのだ」
「穢れとは、なんなのです。穢れは、きれいなものとともにあります。穢れが、ほんとうは清澄なのかもしれない、とわかるべきです。わかった上で、私をお遺いください。そこにあるすべての穢れは、私が引き受けます。蕭けん材様には、いまのままでいていただかなければなりませんから」
「私の穢れを引き受けてくれるにしろ、勝手な言いようだという気がする」
「だから、いつ破れた沓のように棄てられても、不服は抱きません」
「なにか、不思議な気分はある。こんなところで、父の名を聞くとは思わなかったし、闇の者の涙を見るとも思わなかった」
「自分にも、涙があったのだと、いま思っております」
「仕事は、してくれ」
 蕭けん材は、いま自分が思っている言葉を出した。
「誰が大もとか突きとめたとしても、殺す必要はない。いまはな」
 風玄が、大きく頷いた。
 それから、壁の一カ所を押した。人が通れるほどに壁が開き、そこから十歩ほど歩くと、従者がいる場所だった。
 馬に乗った。
 郊外の家で、梁山泊の侯真に会うことになっていた。これからどれだけ利用していけるのか、お互いに測り合っている、というところはある。
 南宋臨安府で処断された岳飛は、ほんとうは生きていて南にいる、という噂は、確からしいとの情報があった。
 ならば、梁山泊致死軍が動いただろう。侯真は、致死車を統べている者である。
 穢れることを、懼れてはならない。父の人生をふり返ると、どうしてもそう思えてくる。
 父は、穢れることを懼れ、それと闘っていた、という気がする。
 城郭を出、家並みの間を抜けると、ようやく原野が見えてくる。
 蕭けん材は、馬の腹を蹴った。

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