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カンナさーん! 小説版
青塚美穂
深谷かほる 原作

     第 1 章

「こんないい女と別れたいだぁあ!?」
 カンナは激怒した。
 テーブルには、判を押された離婚届が申し訳なさそうに置かれている。
 まさか、本気で出て行くなんて。
 神経質そうな細い字で夫の欄に書かれた「鈴木礼」の署名。見慣れた夫の字にこんなに打ちのめされるとは……。寝起きでまだふわふわしていたところを、いきなり横っ面をはたかれた気分だった。
「眠気覚ましには効くわ……!」
 用紙を区役所から持ってきたのはカンナだった。「さっさと離婚届書いて出て行ってよね!」と言ったのもカンナ。「顔も見たくない!」「あんな奴もうどうでもいい!」と言ったのもカンナ。「ただの浮気よ、頼むから許してやって」と言ってきた姑の言葉を高速で跳ね返したのもカンナ。自分はなにひとつ間違っていない。だが、いまカンナを支配しているのは怒りと、ほんの少しの後悔だった。ひとり分の存在が消えたリビングで、カンナはしばし立ち尽くした。そうか、出て行ったのか。本当にこれでよかったのか、やはり許すべきだったのかもしれない。いや、やっぱり許せない。どうすればよかったのか……。カンナは洗面所へ走った。バシャバシャと勢いよく顔を洗う。顔を上げると、洗面台の鏡に映ったカンナの目は少し赤くなっていた。パジャマの上からでもわかる、ふくよかなお腹に豊満なバスト。一重まぶたが何だか今朝はより一層重たく見えるのは気のせいだろうか。いや、メイク前のすっぴんはいつもこんな感じ。まだ魔法がかかる前だからね、いつもどおりあたしはいい女だ、とカンナは鏡のなかの自分に向かって笑った。
「礼のバーカ」
 つぶやいてから、思わず泣きそうになって、パジャマの袖でゴシゴシと目をこする。その時、カンナのパジャマの裾を小さな力が引っ張った。
「レオ……」
 振り向くと、寝起きの目をこすりながら、ぎゅっとカンナのパジャマの裾を握りしめる麗音がいた。
「ママ、ないているの?」
 カンナはパンパン! と自分の頬、そして胸を叩いて気合いを入れた。昔、こんな力士がいたな、とふいにカンナは思い出した。そうだ、高見盛だ。制限時間いっぱいになった時、高見盛が土俵際で見せた強烈な自分への活。そんなに叩いたら痛いだろうに……と誰もが思ったに違いないが、そこが彼の魅力だった。場内から温かい声援と拍手が送られる瞬間、テレビの前で拍手を送ったものだ。カンナもあの頃の高見盛を見習って、痛いくらいの活を自分に入れたが、誰からも声援はなかった。
「ママ、ゴリラのまねっこ?」
「レディに向かってゴリラはだめよ!」
 とにかく、と気合いを入れ直した。幼い息子に泣き顔を見せるわけにはいかない。カンナは寝癖のついた麗音の頭をわしゃわしゃと撫でた。
「さ、朝ごはんにしよ!」
 泣いてる暇なんてない、カンナは鏡の中の自分に向かって、ニッと笑った。

 発端は先週の火曜日……ではない。もっと前から裏切りは始まっていた。
 溯ること半年前からカンナの夫、礼はずっと恋に落ちていたらしい。カンナがそれを知ったのが火曜だった。そして、その日は麗音の四回目の誕生日だった。
 誕生日の直前、麗音は水疱瘡にかかってしまい、保育園をずっと休んでいた。誕生日まで指折り数える楽しい毎日のはずだったのに、お友達にも会えず、おもちゃ屋さんにプレゼントの下見にも行けず、ひたすらベッドで我慢するだけの毎日は麗音にはつらかっただろうと思う。
 普段から麗音はわがままを言うこともほとんどなく、母であるカンナ自身がおどろくほど素直ないい子に育った。保育園に行けば、元気に叫んだり暴れたりするような同い歳の男の子のなかにあって、麗音はどちらかといえばおとなしい男の子だった。そんなすこぶるいい子の麗音が、水疱瘡に苦しみながら、珍しくプレゼントを礼にねだった。
「パパ……おたんじょうびにペンギンちゃんの氷かきがほしい」
「わかった」
 熱に浮かされながら、麗音は嬉しそうに笑った。タオルケットをはいで、手を伸ばした麗音の小さくぷにぷにした手を礼はぎゅっと握った。
「約束する」
 そう言って、礼は麗音と指切りをした。そんな父と子の約束のシーンを、カンナは嬉しそうに見ていた。麗音の看病をしているうちに、連日の寝不足や無理が祟って、カンナもダウンしてしまった。ベッドで寝ながら麗音と自分自身の看病をしているカンナに、「休めなくてごめんな」と申し訳なさそうに礼は謝った。
「いいって、いいって! 仕事がんばって」
 礼はそのまま慌ただしく出勤していった。
 元々、礼の仕事は忙しさに波がある。小さなCG制作会社を興し、自らもCGデザイナーとして働いている礼は、常に時間に追われていた。経営とデザイナーのどちらか一方であればもう少し余裕はあったのかもしれない。付き合い始めの頃、「社長兼デザイナーってかっこよくない?」と自慢げに話している礼が可愛いなとカンナは思っていた。結婚後も、生活は不規則で納期が迫ると会社に泊まり込むことも珍しくない。疲れて深夜に帰宅することもざらだった。大手の企業なら定時に帰ることも難しくないのかもしれないが、礼のような小規模な会社では、安定して仕事がまわってくるということがない。暇だと体力的には楽だが精神的には苦しい。受注できる仕事があるのはいいことだし、ヒマしてるよりは休日返上のほうが精神的には安定する。礼は常々そんな風にカンナに言っていた。
 カンナの仕事は服飾デザイナーだった。とはいっても、プラダやエルメス、アルマーニのようなハイブランドではもちろんなく、日本でしか展関していない、創業三十年を過ぎた歴史的にも一般の認知度としても中の中、といったアパレル会社に勤めている。売れ筋商品もあり、カンナ自身はやりがいを感じている。カンナの最終的な夢は、自分がデザインした洋服で日本中の女たちをキレイにすること。夢はまだ道半ばのさらに半ばといった感じだが、デザイナーとして修業を積んでいるところだった。
 ジャンルは違えど、同じデザイナーであり、カンナは礼の仕事を応援していた。ただ、家族の時間がもう少し持てれば完璧なのになぁという思いもあったが、カンナは幸せだった。優しい夫、可愛い息子、服飾デザイナーという仕事にも就けた。足りないものは何ひとつない、と思っていた。火曜日までは。

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