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愚者よ、お前がいなくなって淋しくてたまらない
伊集院 静

   奈  良

「それにしてもひでえことをしよんなあ……」
 エイジはバス停のベンチに座り新聞をひろげ、憎々しげに足元に唾を吐いた。
「なんでこないなことせなあかんねん。まだ若い記者やないか。この子かて親御はんもありゃ、祖父さん、祖母さんかていてはるやろう。どこのガキや……許せへんな」
 エイジが読んでいたのは、先月、西宮の新聞社の支局を襲った銃撃事件の記事だった。犯行の声明文が送られてきたことが事件を奇妙な方向に進展させていた。
 一般紙とスポーツ新聞の違いはあれ、同じ記者という立場がエイジの憤怒の原因だった。
 エイジは読んでいた新聞をベンチの横のごみ箱に放り投げた。
 そうしてじっと遠くを見るような目で、
「ユウさん……」
 と私の名前を呼んだ。
「何だい?」
「あんた、左翼か……」
「別にそんなことはないが、どうして」
「俺は左翼とか、社会主義とか口にする連中が大嫌いや。学生運動はしてへんかったんか?」
「ああ、やってなかったな」
「そうか。そうやろな。あんなもん、結局ボンボンの甘えでしかなかったやないか。会社でもおんねん。学生時代、デモやったとか占拠したとか、アジっとったとか口にする連中が。俺はそういう奴が許せへんのや。なら就職なんかせえへんで、最後までやれいうんや……。そうやろな、ユウさんは違う思うたわ」
 やがて競輪場行きの乗合いバスがやってきて、エイジも私も立ち上がった。
 屯ろしていた競輪の客たちが、ぞろぞろと乗り込んだ。
「おう、エイちゃんやないけ」
 ハンチング帽を被った小太りの男が、扇子をせわしなく動かしながらエイジに近づいてきた。
「よう十三のオッサン」
 エイジが笑うと扇子の男が笑い返した。
「昨日の特選レースはええ目を引いてたやないか。ちょっとさわらせてもろうたで」
 扇子の男の声に数人の男たちがエイジを見た。
「マグレや、マグレでんがな」
 エイジが鼻先で手を振った。
「今日の準優戦の10レース、どないや?」
 扇子の男が小声で訊いた。
「あかんて、オッサン。俺のは外れるて」
 バスに乗り込むと、うしろからの客に押されて私たちは扇子の男とは逆方向に詰めさせられた。
「十三でストリップ小屋と飲み屋をやっとる男や」
 エイジは言って、吊り革に身体をあずけるようにして外を見た。
 不機嫌そうな横顔だった。あの記事にまだ腹を立てているようだった。
 エイジは関西を中心に販売しているスポーツ新聞のレース部に所属する記者だった。
 扇子の男がエイジの昨日の競輪レースの予想の話題を口にしたのは、紙面に彼の名前が載った予想欄があるからだった。
 エイジは私と同い歳だった。
 関西のK大学を卒業し、新聞社に入社し、配属されたのがギャンブル面を担当するレース部で、そのまま十数年、競輪を担当していた。
 先刻、彼が、学生運動をしていたのか、と訊いたのは、私たちが同年齢で、大学時代に全国の大方の大学で学生運動があり、大学をロックアウトしたり、デモに参加する学生が多かったからである。
 私たちは同じ時代を生き、その時起こったことにほぼ同じ感慨を抱いていた。学生運動についても、どこか嘘っぽさがつきまとうというか、青臭い匂いがして、のっけから無視をして過ごしていた。
 私たちは出逢って半年になろうとしていた。
 一年近く前、私は“旅打ち”と呼ばれる、ギャンブルだけを目的にした旅に出て、関西方面で春先に開催される記念競輪で、どういうわけか連勝の日が続き、土地の運気がいいのだろうと、京都に安アパートを借り、住むことにした。
 しかしギャンブルの連勝など続くはずはなく、あちこちで旧知の連中から借財して暮らしていた。そんな折、エイジが勤めるスポーツ紙と同じ系列の新聞の将棋担当の記者が、競輪のコラムでも書かせたらと私をエイジに紹介した。私よりひと回り歳上のその記者は私と同郷で、以前から私が少し文章を書くのを知っていた。
 私はそんなことをするつもりはなかったが、エイジはなぜか私のことを気に入って、何度か記事を書かされた。
 私もエイジの、人をいったん信頼すると何もかも気を許してしまう気質が好きだった。
 気が合ったのだろう。
 私は生まれついて、他人と折合うことができない性格だった。
 しかしエイジだけにはなぜか気を許せた。
 乗合いバスが近鉄線の奈良、西大寺のちいさな商店街を抜けると、すぐに田園風景がひろがった。
「ええなあ、この感じが何とも言えんな」
 エイジは田植えを終え青々とした稲田を見て言った。
 私も身をかがめるようにして田園風景に目をやった。
 私とエイジは十センチ以上の身長差があった。
 それでも小柄な身体のエイジに対して、私はいつも、自分より格上のものがたくさんあるとわかっていた。
 そして何よりエイジといると奇妙な安堵があった。

 昼時になって、私とエイジは競輪場内にある屋台の食堂に行った。
 場内の建物に入った他の店は客がまばらなのに、そこだけはいつも繁昌していた。大釜から湯気が立ちのぼり、簾の隙間から流れている。
 エイジは素うどんに握り飯を私の分も注文し、丸椅子に腰を下ろした。客たちも無言で、ぐつぐつと沸騰する釜の音と客たちのうどんをすする音だけがしている。
 うどんと握り飯が目の前に来ると、私たちはそれを食べた。
 美味い。どこがどう美味いかと訊かれても説明のしようがない。ただの素うどんなのだが、奈良に遊びに来ると必ずこれを食べたくなる。
 エイジはこの手の廉価で美味い店をよく知っていた。それでいて喰い物に関してとやかく言うのを聞いたことがない。
 見ると客たちも黙々とうどんを喰っている。この客たちの、おそらく九割方が、ここに来た時より懐具合がぬくもることはないだろう。それを考えると、こうして食欲というきわめて基本の欲望を満たせる時が、今日の遊びの最上の時と言えなくもない気がした。
 エイジは喰い終ると千円札を一枚、店の者に聞こえるようにパーンと音を立てて置き、立ち上がった。
 私は猫舌なのでエイジのように早飯はできない。そんなことはかまわずエイジはプラスチックの椀に残った汁まですっかり飲みつくし、店を出て行った。この千円札は二人分で釣りが来るが、エイジは受け取らない。
 最初に逢った頃、あとから店を出た私が、
「釣りだ」
 と小銭を渡すと、
「しょうもないことしなや」
 と怒ったように言った。
 その言葉の意味が、釣り銭をエイジに渡すなということではなく、あの手の店で小銭の釣りを受け取るなとわかったのは、後のことだった。
 エイジは私と連れ立って遊びに行くと、私に金を払わせなかった。新聞社の、それもスポーツ紙の記者の給料はたかがしれている。それでも数軒ミナミの飲み屋を梯子してもそうだった。
「払うよ、俺が」
 私が言うと、眼光が変る。
 だから払う時は、その日の博奕が勝ったことをエイジに前以て告げる。
 それでようやく払いを認めるが、私が払いの時は女がいるような店には行かず、もっぱら福島辺りの安い喰い物屋だった。
 私は立ち上がり、場内の隅にある公園に行った。
 そこは競輪場のバンク(走路)をぐるりと囲んだ建物がそこだけ切れて、奈良の山野と田園が見渡せた。
 エイジは子供用の砂場の脇の金網の前に立ち、煙草を吸っていた。
 背中を見ていてもエイジの表情がわかった。やや顔を空にむけ、遠くをじっと眺めている。どこを見ているふうでもないが、そういう時は決って目前にひらけた風景があっ
た。夜半なら大阪の街が一望できる高処や陸橋の上から線路が遠くに続く風景であったりした。
 何も言わず、どこを見るふうでもなく、ただ突っ立って煙草をくゆらせていた。
 ──何を考えているんだろうか……。
 私はそう思ったことがあった。
 それを訊くことはしなかったが、エイジの隣りに並んで煙草を吸っていると、何とはなしに気持ちが落着いた。
 今は目の前にぽっかりと浮かんだ初夏の雲があった。
「ユウさん、今夜、時間はあるか」
「ああ」
「なら少しつき合うてくれるか」
「わかった」

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