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岳飛伝 九 曉角の章
北方謙三

   地巧の夢

      一

 雨季に入るころ、小梁山に住む人間は、四千を超えた。ほとんどが家族持ちだが、小梁山での仕事を見つけた者も、少なくないと、劉剛は思っていた。
 家の建築は盛んになり、儀応の組だけでは手が回らず、自分たちの手で、住む家を建てようという者もいるようだ。そういう家も、儀応は必ず検分している。水を得ること、使った水を流すことなど、しっかり決めなければならないからだ。
 集落らしい雰囲気は出てきたが、それでも家は点々と散在しているとしか見えない。
 先回りをするように、劉剛は、食堂や店、養生所や学問所などを建設した。そこの人員は手配中だが、食堂などはすでに開いていた。
 梁山泊からやってくる人間が、増え続けているのは、南の豊かさが噂になりはじめているからなのか。敵など、どこにもいないと考えられているからなのか。
 梁山泊は、四囲が敵だった。講和などで、実戦の状態にはないが、いつ戦がはじまるかもしれない緊張感は、民の心を苛んでもいるはずだ。
 それに梁山泊では、新しくなにかはじめようという余地を、あまり多く見出せなくなっている。若い者には、なにかを試せる場所ではなくなっているのかもしれない。南に来る人間の多くは、若者だった。
 小梁山全体をどう作りあげるか、ということが劉剛の主要な仕事であることに変りはないが、そこで暮らす人の心もまた、作りあげなければならないこととしてあった。
 ふた月後には、学問所も開かれる。そこにいる教師も、ほぼ決まってきた。
 役所では、石英が忙しく働き、部下の数も二十名近くに増えていた。
 雨が降りはじめると、劉剛は大抵は石英と会っていた。いま、最も話し合わなければならない人間だからだ。それに、儀応が加わることもある。雨季には、雨が降っている間が休息の時間、ということになっているが、劉剛にとっては恰好の会議の時間だった。石英も、うんざりした表情をしながら、劉剛の話に応じてくる。
「雨季が終るころには、一万を超えている。わかるか、石英、一万だ。なにもかもが、不足してくる。小梁山の住人には、食いものさえあればいい、というわけにはいかないからな」
 食糧は、充分にある。日々の暮らしに必要なものも、大抵は買える。しかし、学問所は手狭になり、教師の数も不足してくるだろう。養生所では、決定的に医師が足りなくなる。
 梁山泊から来た者は、それまでなにをやっていたか、劉剛はできるかぎり細かく知るようにしていた。役人として遣えそうな者が、二十人以上いた。教師ができそうな者も、三人ほどいた。ほかにも、さまざまな職種にいた者を、冊子に書きつけてある。
 中央の広場に柱が立ててあり、『小梁山』の大きな旗が掲げられている。それは、巡邏隊になった者が五名、毎朝揚げて、日暮れ前に降ろす。別に、『替天行道』の旗が、役所の前で翻っているが、それは大きくはない。
「役所の仕事という点では、心配ないよ。小梁山だけでなく、甘蔗園も含めて」
 石英の担当は財務で、人がいないので民政全般を見ているというところがある。民政は、徐々にほかの者に移しているようだ。
「梁山泊から、今後、どれほどの流入があるのだろう、劉剛?」
「戦の気運というのが、もっぱらの噂だからな」
「梁山泊の領土が、戦場になるのだろうか?」
「それはわからないが」
 梁山泊が戦場になったとしても、これまで民には逃げる場所がなかった。いまは、南に小梁山がある。ただ、小梁山もどこかに戦雲を孕んでいて、それは梁山泊にも伝わっているはずだ。
 南に来る人間のほとんどは、戦を嫌ってというより、新しいものを求めて旅をしてくる。梁山泊は、中華のどこよりも満たされているはずだが、それでも新しいものは、人を惹きつけてやまないのだろう。
「土地の人間は、まだ半信半疑なのだろうな」
「おい、石英。土地の人間なんて言い方はやめろ」
「なにを言っている。おまえは、少し入れこみすぎているな、劉剛。小梁山で暮らしていないのは、土地の人間だろう。甘蔗園にいる者は別としてな」
「まあ、そうなんだが」
 夢中になると、それしか見えないというところが、自分にはある。だから、行先を見失うなという李俊の言葉を、劉剛はしばしば思い浮かべる。
 石英との話は、大抵は細かいことで、煩雑なものを押しつけている、という思いに襲われることがあった。儀応や馬礼に対しては、それはできないのだ。
「なあ、石英。ここに酒を飲ませる店ができたら、ひと晩、奢ってやるよ」
「酔ったおまえの面倒を、俺が看るのか。俺は、たいして酒が飲めないのだからな」
「じゃ、油で揚げた房芋(バナナ)に、蜂蜜をまぶしたものを、奢ってやるよ。甘蔗糖とは、また違う甘さだぞ」
「そんなことより、調練から戻ってきた者たちは、どうなのだ。荒っぽくなっていたりするのではないのか?」
 三カ月の調練に行った者が、戻ってくる。その時の状態を、劉剛はしっかり見ることを怠ってはいなかった。なにしろ、最後は、死すれすれのところまで追いこまれるのだ。
 それでも、戻ってきた者は、なぜかやさしくなっていることが多かった。自分以外の人間のことを、自分と同じように考えられる。そう思えることが、しばしばなのだ。
 それについて、劉剛は秦容に訊いたことがあるが、かすかな笑みと頷きが返ってきただけだった。当たり前だ、とその笑みは語っていたような気がする。
「心配ない、石英。調練は人間を作る、と俺は思っているよ」
「そうか」
「それより、おまえに頼みたいことがある」
 思い切って言って、それから劉剛は憂鬱な気分になった。しかし、やるしかないことだった。
「なんだよ、劉剛。俺は、なんでも頼まれるなんてことはしないぞ」
「二人、小梁山にいなかったことにしてくれないか」
「いなかったこと、だと?」
「そうなのだ。実は、調練を嫌って逃げ出したやつがいる。二人だ。それを捕えた」
「追放するのか?」
「いや、殺す」
「なんだと?」
「仕方がないんだ。みんなが見るかたちで、殺す。秦容殿に、森で密かに殺すと言ったら、全員が見ている前で殺せ、と命じられた。せめて、死ぐらい役に立てろとな」
「それにしても」
「ここで、ひとつにまとまっていくには、恐怖のようなものも必要だと、秦容殿は考えている。俺も、そう思う」
「しかし、いなかったことにするのか」
「ここでは、まだ死者は出ていない。静かなる村の、最初の住人が、調練に行くのが嫌で、逃げたやつとはな。それは、避けたいんだ」
「また、おまえの思い入れか。森の中で密かに殺して、放置しておくつもりだったな、おまえ。そうすりゃ、森が跡形もなく始末してくれる」
「同じだ。どうせ、森に棄てる」
「小梁山で、最初に死罪になった人間として、記録に残すよ、俺は」
「おい、石英」
「静かなる村を、おまえが大事にしているのはわかるよ。悪いことでもないだろう。だがな。静かなる村があるために、死に方を区別されるのか。いや、差別だな。それはな、静かなる村のありようとは、逆のことだと俺は思うぜ。いなかったことにすると、秦容殿にも言ったのか?」
「いや」
「秦容殿も、俺と同じことを言うと思う。おまえは、ひとつにとり憑かれたら、そればかりというところがあるからな」
「もし自分が死ぬとしてだ、やつらの後から静かなる村に行きたいと思うか?」
「俺は、どうでもいい。森に棄ててくれてもいい。死ぬっていうのは、そういうことじゃないのかな」
「そういうことって?」
「いなくなる。俺はいなくなる。そういうことさ。死んだところで、俺は終りなんだ。当たり前のこととして、俺はそう思っている」
 頭では、わかっている気がする。頭とは違うところで、静かなる村は穢してはならない、と感じている。
 自分が、危険なところに入りこもうとしているのかもしれない、と劉剛はふと思った。蒲甘(パガン)で、森が壊されて、一面が土埃の土地になっている情景を見た。その時からしばらくは、森を拓くことが罪で、煉瓦はただ憎いものだった。
 ふっとそれが消えると、今度は、静かなる村へのこだわりだった。
 調練を嫌った二人は、森の中で小さな小屋を建て、暮らしていた。二人では狩りなど心もとないらしく、果実や野草を食って、ようやく生き延びている、という感じだった。見つけ出すのに造作はなく、部下を三日間、森の中へやったら、夜中の火を見つけてきたのだ。
 捕えた時、好きなように生きたいだけだ、と最初に言った。たいしたことをした、とは思っていなかった。
 誰もが見ている前で、処断するのがやはり正しいやり方だろう。小梁山の住人は、全員が調練を受ける義務を負う。そして、外敵の攻撃があれば、召集に応じて軍に入り、戦場に出る。それは、はじめに誓わせたことだ。
 処断は当たり前だとしても、屍体が静かなる村に運ばれる。それも、最初の住人としてである。大き過ぎる、穢れではないのか。
 思考が、同じところを回っていた。
 雨がやみ、人が外に出てきている。陽が射し、小梁山は湯気に覆われていた。
 処断は、二日後ということになっている。
 自らの手で、首を打とう、と劉剛は思った。それは、おかしなところに入りこんでいる、自分を斬ることでもあった。
 劉剛は、役所の裏に回り、二人が繋がれている小屋へ行った。晒しものにするのは、人の心を荒ませかねない。だから、小屋に繋いであるのだ。姿を消した時からの詳しい報告書は、朱利に出した。秦容も眼を通し、処断が決まったのだ。
 入ってきた劉剛を見て、二人は顔をあげた。処断は伝えてあるが、どこか本気にしていないところがある。同時に、怯えも襲ってきているらしく、落ち着かない眼をしていた。
「なあ、あんた。劉剛って名だったっけ。まさか、俺たちを殺したりはしないよな」
 男の口もとには、強がりと恐怖が同時にあった。もうひとりは、なにも言わない。劉剛は、黙って二人を見降ろしていた。
「悪いことだったってのは、よくわかった。だから、罰は受ける。調練も受ける。俺らがやりたいことをやるのは、それからだな」
 罰が、処断なのだ。そう言葉を出しそうになったが、劉剛は口を開かなかった。いまさら二人に説明することに、なんの意味もない。
 この二人が、静かなる村の最初の住人になるのは、やはり許せなかった。それでも、もうどうしようもないことだろう。
「俺たちはよ、夢を持って南へ来たんだよ。梁山泊の役に立つことが、できるはずだ。あれもやりたい、これもやりたいと思い過ぎて、調練なんて無駄なものだと思っちまったんだよ」
 自分は、なぜここにいるのか。劉剛は、束の間、それを考えた。
 李俊に従って、南へ来た。そして、甘蔗園に行かされた。来たくて南へ来たわけではなく、最初から開墾に関っていたわけでもない。ただ、流されただけだ。そして、小梁山に出会った。作ったのは儀応や馬礼だが、はじめから関っていたと言ってもいい。
 この地に、根を張りたい。小梁山を考えると同時に、それを思った。ほとんど、宿命のようなものだ、とさえ感じていた。
 宿命だと思えば、納得できて、それ以上の理由などは求めなかった。
「あんた、処断って言ったけど、それ殺すことじゃないよな。棒打ち十回とか、十日間、ここへ繋いでおくとか、そんなことだろう。棒打ち十回も、ぞっとしないけどな」
 相変らず、ひとりが喋り、もうひとりはひと言も発しない。
 劉剛は二人に背をむけ、小屋を出た。名を呼ぶ声が、しばらく背中にまとわりついていた。
 処断の日が、忙しさの中で来た。秦容が、衛俊を連れて、馬で現われた。衛俊は、駈けてきたようだ。
「すべてが、整っています」
 劉剛が報告すると、秦容は軽く頷き、それから劉剛の顔に眼をむけてきた。
「おまえ、自分で首を打つつもりか?」
「いけませんか?」
「なぜそうするか、理由を言え」
「小梁山での、最初の処断者です。俺が罪状を読みあげ、首を打ちます」
 自分の剣で、静かなる村へ行く身を浄めてやるのだ、とは言えなかった。
「いいだろう」
 秦容はしばらく劉剛を見つめていたが、眼をそらしてそう言った。
 広場の、刑場とされているところに、人が集まりはじめていた。
 二人が、引き出されてきた。ひとりは喚き、もうひとりは無言だった。
 劉剛は二人の前に立ち、罪状を読みあげた。縛りあげられた二人は、両膝をつかされている。調練の忌避、逃亡により、死罪。劉剛は、淡々と読み続けた。途中からひとりが喚きはじめたが、無視した。
 劉剛は、腰の剣の鞘を払った。
 うつむき、無言だった男が、いきなり暴れはじめた。力のかぎり暴れているようで、三人でようやく押さえつけている。
「いい。そのまま、離れろ」
 劉剛が言うと、三人が手を放して退がった。後ろ手に縛られたまま、男は立ちあがり、天にむかって咆哮した。それが途切れる前に、劉剛は男の首を飛ばした。宙に舞いあがってもまだ、男は首だけで叫び続けているような気がした。
 派手に喚いていた方は、腰を抜かし、失禁していた。近づいたが、劉剛の方を見てはいない。首を打った。高くは飛ばず、ただ地に転がっただけだった。
「屍体は、静かなる村の隅に埋めろ」
 劉剛は、そう言った。地が血で赤く染まっているが、雨が来れば、それも流れてしまうだろう。
 秦容と並んで、役所の建物に入った。
 処断についても、それを劉剛が自らやったことについても、秦容はなにも言わなかった。処断に関係ない細かいことを、いくつか質問しただけである。
「ここと並ぶかたちで、前庭をいくらかとった建物を作ろう。つまり、そこが梁山泊での聚義庁のような建物になる」
「聚義庁ですか」
「ここはいずれ、梁山泊の文治省のような建物になる。聚義庁とは別にしておいた方がいいが、名前が要るな」
「庁がつく名ですか?」
「そうだ。聚義庁というわけにはいかない。なにがいいかな」
「名前は、後でいいでしょう。まだ建物もできてはいないし」
「いや、名前が先だ。いまここで、二人で決めてしまおう」
 秦容は、どこか憂鬱そうな表情をしていた。
 処断というのは、南へ来てはじめてのはずだ。それが、秦容の気を滅入らせているのだろうか。南が、秦容にとって理想の地だったとしたら、そういうこともあり得るかもしれない。
「処断そのものは、仕方がなかったと思います、秦容殿。これだけ人が増えてくれば、そういうことは起きてしまうでしょう。それが人間だと思います。あまり、悩まれたりしない方が」
「俺が、悩んでいるだと?」
 秦容の眼の光が変ったので、劉剛は身を竦めた。李俊と同じように、秦容もこわい。
「そうか、悩んでいるか。確かに、悩んでいるかもしれん。それも、処断について、悩んでいる。うん、間違いなく、悩んでいると思う」
 秦容が、そう言ってちょっと笑った。しかし、表情はすぐに元に戻った。
「処断と言っても、さっきの二人ではない。そんなことは、人が集まってきた時に、必ず起きることだと、思い定めていた。俺が悩んでいるのはな」
 秦容の手がのびてきて、劉剛の胸ぐらを掴んだ。
「秦容殿は、処断のことだと言われました」
 必死で、劉剛は声を出した。秦容は、手を放さなかった。
「そうだ。おまえの処断だ」
「俺の?」
「さっきの処断を見ていて、いつか俺が、あんなふうにしておまえの首を打つかもしれん、と思った。おまえの、どこか、なにかに、問題があるわけじゃない。しかし、問題があるところに、いきなり踏みこみそうな気がするんだよ。感じているだけだが。おまえは、それを悪いとも思わず、問題があるところに踏みこむ。そして、俺に首を打たれる」
「そんな」
「約束しろ、劉剛。自分がおかしなところに立っていると感じたら、俺のところへ来い。李俊殿のところでもいい。なにかやる前に、必ず来い」
「俺は、なにもやりません。やるわけがないでしょう」
「そう思っているから、厄介なのだ。おまえは、小梁山にとっては、必要な人間になっている。失いたくない。だから、つまりは悩んでるんだろう。おまえがどこに行くか、見えないところがある。自分でも、おまえは見えていない」
「言われている意味が、俺にはよく」
「わからないか。俺にも、よくわからんよ。しかし、約束しろ」
「俺が、自分でおかしなところに立っている、と感じたら」
「いや、違うな。もっとわかりやすいものにしておこう。大きく動こうと思った時は、必ず俺に言え」
「そんな。大きく動く時は、これまでも秦容殿に報告していますよ」
「心が、大きく動く時さ。わかりにくいか、やはり。おまえの危ういところが、俺にははっきり言えん。しかし、約束しろ」
「わかりました。約束します」
 行先を間違えない船頭だった、と李俊には言われた。行先ということを、常に頭に置いていれば、多分、秦容のところに行こうと思うこともあるのだろう。
「約束しますよ」
「そうか」
 ようやく、秦容が胸ぐらを掴んでいた手を放した。大空に放り出されたように、楽になった。
「そして、名前だ、劉剛」
「宣示というのは、どうでしょう」
 手を放された瞬間に、ふと浮かんだ言葉にすぎなかった。ただ、なにか言わなければならない、という気がした。
「いいな、宣示庁か。決めよう」
「簡単に、決めすぎでは」
「宣示庁で、どういう仕事がなされるか。それによって、いい名かどうか決まる」
 にやりと、秦容が笑った。もう、憂鬱そうではなかった。

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