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ミチルさん、今日も上機嫌
原田ひ香

     1

 今、何時だろう。
 顔の横あたりを探って、スマートフォンを引き寄せる。やっと見つけたそれは画面が真っ暗だ。電源が入っていないことに気がついて、あーあ、と投げ出した。
 昨夜、寝る前に電源を切ったのだった。自ら。
 電源が入っていれば電話やメールを期待してしまう。来るはずもないのに。眠っていてもどこかで意識して、神経はさえざえと目覚めて熟睡できない。それで電源を切ったのだ。
 一度投げ出したのを手に取って、息を詰めるようにして電源を入れた。
 そんな決心までして生き返らせたのに、画面は昨夜となんの変化もなかった。
 メールなし、着信なし。
 三か月前に鈴木徹と別れてから、びっくりするほど電話料金が下がった。以前、電話料金が安くならないかしら、とあれこれ策をたてたり、雑誌やネットで「携帯料金マル秘必勝法」などとあれば必ず読んだりしてもなんの成果もなかったのがウソのようだ。
 恋愛してないとすることがない、というのも発見だった。彼と会ったり、電話をしたり、という時間だけでなくて、美容院に行ったり、ネイルサロンに行ったり、服を買ったりする時間も必要なくなってしまう。何をすればいいのだろうか。
 鈴木との恋愛中、子持ちの大学時代の友人に、
「独身だったら時間がいっぱいあっていいわねぇ」
 と皮肉られたので、
「忙しいわよ。ネイルサロンや美容院が」
 と言い返したら、ため息しか返ってこなかった。
 本当に時間がかかるのだ。お風呂だけでも、一時間雑誌を読みながら半身浴して、パックして、トリートメントは二種類使って、むだ毛の処理して、足の裏の角質取って……とやっていると簡単に二時間以上経ってしまう。
 街で見かける母親たちは結構若いし、きれいにしているのは知っている。けれど、三十五過ぎてから子供を産んだ友人は、疲れ切っていて、家ではずっとジャージ姿、髪も少なく顔色が悪かった。
 外出はダウンジャケットにデニム。駅まで送ってくれた彼女と歩いていたら、前から後ろから同じような服装の子連れの女性がやってきて、びっくりしてしまった。さえない制服化したスタイル。絶対にあんなふうにはなりたくない。
 そりゃ、あんたなら独身だったとしても暇でしょうよ、と言ってやりたかったけど、訂正しなくてはいけない。
 確かに、暇だ。男がいなくなったら体の手入れの必要はないし、何をしたらいいのか。
 中学二年の冬から四十五になる今まで(じきに四十六の誕生日だが、考えないようにしている)、正確に言うと三か月前まで、ミチルは付き合う男が途切れたことがなかった。だから、その前に何をしていたのかがまったく思い出せない。
 ゴム跳びか。
 中学に入ってからはテニス。部活でラケットを振り回していた。恋人はいなかったけど、帰宅してからは、大好きな海藤先輩のために、制服にアイロン当てたり、スカートに襞をつけるために寝押ししたり、忙しかった。ショートヘアの朝はロング以上に寝癖直しが忙しかったし、何をすればいいのか、ということを考える暇もなかった。なのに、今はどうだ。まったくすることがない。
 四つん這いになって、ベッドから出る。這ったまま洗面所まで行った。久しぶりに朝から化粧しなければいけないのだ。髪は昨日、自分で染めた。カラーリングではなくて、白髪染めをしなければならない歳だ。
 それでも、まだ豊かな髪があるのを感謝しなければならないかもしれない、と歯を磨きながら思う。数年前に行った同窓会では、子持ちの友人のように髪が薄くなった女がたくさんいて、禿げているわけではないが、ずいぶん老けて見えた。女もそういうことがあるのだと、初めて知った。
「山崎さんみたいの、美魔女っていうんでしょうね」
 前の会社では二十代の女の子たちによくそう言われたものだ。当時、その言葉はまだ珍しくて「美魔女ってなに?」と質問する男性社員もいた。
「中年なのに、美容やファッションにお金をかけてて、魔女みたいに若く見える、若作りの女の人のことですよ」
 その説明には、はっきりした棘と嘲笑が混じっていた。
 けれど、ミチルは気がつかないふりをして、
「美はいいけど、魔女はやめてくださーい」
 と、答えていたっけ。
 あいつむかつく奴だった。ただ若くて、笑い声がでかいだけなのに、そこそこ男性社員に人気があった。ブスだったのに。あの年頃のあたしは何倍もモテたのに。
 ミチルは洗面所を出て、クローゼットを開いた。
 スーパーのレジの面接だって、やっぱりスーツかな。ワンピースかな、と考えながら服を選んだ。
 買ったのは半年ほど前だから、まだ流行おくれになっていない、グレーとピンクのミックスツイードのワンピースにそろいのジャケットが付いたスーツにした。あまり広がっていない膝丈のフレアスカート。
「こういうのって甘辛というのかしらね」
 まだ脚のラインは崩れてないつもりだ。気の重い面接をお気に入りの服でなんとか紛らわせる。
 家を出て、近所のファストフード店で朝食を食べることにした。
 カウンターでメニューを決めて、顔を上げたとたん、顔見知りの女子店員が顔を覗き込むように笑顔になって、
「おはようございます」
 と挨拶をした。
 最悪な気分でそこにいるはずなのに、思わずミチルも笑顔になってしまった。
 大学生だろうか。週に一回来るか来ないかぐらいだし、ホットコーヒーとハンバーガーの、たった二百円のセットしか頼まないのにいつも親切だ。
 あのレベルの女の子ならもっと楽で高い時給の仕事がありそうなものなのに。
 席に着いて、コーヒーを飲みながら考える。
 タレントのなんとか、って子に似てる。とんでもなくたくさんのメンバーを抱えたアイドルグループのセンターで歌っている子。いや、彼女の方が、感じが良くて、CDを買わなくても笑顔をくれるのだから、アイドルなんかよりずっと上かもしれない。
 四十五歳のミチルが「昔」と思い出すのは、学生時代、八〇年代のことだ。彼女のレベルだったら、いくらでもおいしいバイトがあった。もちろん、いやらしいことややばいことなんてなく、今、水商売で働くよりずっといいお金をもらえる仕事がいっぱいあったのだ。
 窓際の席から、カウンターの方を盗み見る。
 もったいない。あんなかわいいのだからタレントにだってなれそうだ。努力して割のいいバイトを探せばいいのに。
 コンビニやファミリーレストランなどでも、かわいくて仕事ができる女の子が多くて驚くことがよくある。
 欲というものがないのか。もちろん、不況が長く続く時代がそうさせているというのはわかる。けれど、それだけでは片づけられない、過去の女の子たちとは異なったメンタリティを持っているような気がしてならない。もっと上へ、華やかなライトの当たる方に出て行こうとは思わないのだろうか。ミチルにはそのメンタリティがかわいそうにも、おそろしくも感じる。得体のしれない考え方だ。それを持ち合わせない自分は、もはや生きるすべを持っていないのと同じなのかもしれない。
 しかし、客にとっては、ファストフード店やファミレスで、アイドルと見まごうばかりの女の子が感じよくしてくれるのだから得なのだ。これこそ、デフレの効果だとしたら、あまり何も考えずありがたく頂戴していればいいのかもしれない。
 これから行くスーパーの面接についても思い出した。
 あたしもこれからそう思われるのかしら。どうしてあんなにきれいな人が、スーパーでレジを打っているのか、とか。そう思われたら、嬉しいかもしれないけど。

「脚を見せてもらえますか」
 二十五年前、面接でそう言われたミチルはためらいなくスカートをめくった。
 先にそこでバイトをしていた同じ大学の友人から、要求があると聞いていたというのが抵抗がなかった大きな理由だが、支配人がいやらしい目的で言っているのではないのもよくわかっていた。
 のちにミチルはテレビドラマの中で主人公の女の子が水商売か風俗の仕事の面接で同じことを強要されて泣く、という場面を観て唖然とした。脚を見せるぐらい、どうということもないじゃない。水商売で働く覚悟で来たんでしょう。
 けれど、後になってそれは考え違いだと思い当たった。女の子は高く評価してくれる場所でなら、たいていのことはできるものだ。けれど、低く評価されていると簡単なことでも体が動かない。だから、彼女は泣いたのだ。
 ミチルの脚を見た支配人は無表情にうなずき、「いつから来られますか」と言った。
 ホテルの最上階のラウンジのアルバイト、時給二千円はその頃でも悪くなかった。塾講師も同じぐらいの値段だったから、破格なのは確かだろう。
 でも、いやらしいことはまるでない。白のブラウスに黒いタイトスカートをはいて、ひざまずいてサービスするだけだった。スカートの丈も膝が出るぐらいの長さで、常識の範囲内だった。
 ラウンジのテーブルはソファの高さに合わせて低かったので、自然にかしずくようになってしまう。ひざまずいてメニューを渡し、おしぼりをひとつひとつ開いて手渡す。頼まれた飲み物や食べ物も同じように出す。
 あとで聞いたことだが、あるグループ企業の社長がその光景を気に入って自社の応接室も同じテーブルの高さにしたそうだ。秘書の女性をひざまずかせるために。
 それ以外は壁に張り付いて立っていればいい。客はそう多くなかったし、愛嬌を振りまくこともなかった。むしろ、必要以上に笑うな、と言われていた。楽なバイトだった。
 容姿端麗の条件はなく、身長が百六十センチ以上あって、脚が細ければ誰でもできる。働いていたのは、ミチルのような女子大生の他は、パーティコンパニオンとかバンケットと呼ばれる、パーティの給仕と掛け持ちをしている女性が多かった。
「バンケットは、二回行けば二時間で二万はもらえるんだけど」
 と、その中で唯一口を利くようになった忍さんは教えてくれた。
「でも、髪をアップにしないといけないでしょ。いちいち美容院に行って五千円は取られる。帰りは疲れてついタクシーに乗っちゃうし、実入りは大してよくないのよ。一人暮らしをしてたらかつかつ。だからこっちにも来てるの」
「髪は、自分で結ったらいけないんですか」
 休憩室で忍さんは細い煙草を吸っていた。そこではミチルたち女子大生組以外、皆、煙草を吸っていた。
 忍さんは、身長が百六十センチぎりぎりだったが、顔はきれいだった。目鼻立ちがはっきりして、口が小さい。ただ、その整った顔立ちが逆に古臭い印象を与えているようなタイプだった。
 器量自慢のせいか体型にはあまり気を遣わないようでぽっちゃりしていた。とはいえ、普通の女性としてはまったく気にならない程度だったし、それによって妙な色気もあったのだが、時々、支配人に月末までに痩せないと来月の契約はしない、と言われてむくれていた。
「だめだめ。そんなのすぐばれちゃう。派遣元にわからなくても女同士ならわかるじゃない。で、元締めにちくられる。下手すると次からは呼ばれないのよ」
「なるほど」
「ミチルちゃんにも紹介してあげたいんだけど、そう楽な仕事でもないからなあ」
 それは嘘だとミチルは思った。文句は言うものの、きれいにしていればいいだけのその仕事を、忍さんは気に入っている。そう簡単に女子大生なんかに渡すわけがない。
 彼女のような女性や職業は今でも存在するんだろう。報酬だってあまり変わってないかもしれない。だけど、採用条件は厳しいはずだ。当時は、身長があって痩せてさえいれば、普通の容姿でもかまわなかった。
 髪をアップにして丁寧にお化粧をし、表情を崩さなければどんな女でも同じような顔になる。もしかしたら、現在は忍さんみたいにぽっちゃりした女性はアウトかもしれない。
 忍さんは二十五歳だと言っていたけど疑わしい。もう少し上に見えた。下手すると三十を超えていた可能性がある。年齢と器量自慢でバンケット仲間の中でも浮いていて、ミチルなんかにも親切に声をかけてくれたのではないか。
「ああ、結婚したいなあ。どこかにいい人いないかしら」
 会話の最後を必ずそう締めくくるのだけは、どの時代の女性も変わらなかった。
 風の便りに、忍さんは田舎に帰ったと聞いた。今頃は地元の御曹司の妻か、お金持ちの後妻さんにでもおさまっているかもしれない。
 ホテルのラウンジでは、髪型はロングのストレートのみだった。そして、口紅は赤に指定されていた。
 青みピンク全盛時代だったから、ミチルたちはそれが大きな不満で、ダサいダサいと、いつも支配人の悪口を言っていたっけ。今ならどうということもない。口紅の色なんて、時給二千円を出してくれるなら、誰も文句は言わないに違いない。

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