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競馬の終わり
杉山俊彦

 おいしいピロシキがつくれない。何度やっても駄目だ。生地をつくる。好みの具を入れる。サケやひき肉など何でもありだ。オーブンで焼く。時が過ぎるのを待つ。完成。のはずなのだ。たしかに物体はできあがる。しかし焼きたてパンというより食べ物的な汚物、といったものを果たしてピロシキと呼びえるのか。この汚物、実を言うとまずいわけではない。見た目だって実は悪くないし、それなりの味がする。ふんわりとした香りも立つ。生地の味と具材の味が邪魔しあうわけではないし、双方はやたらに主張しない。これに不満を述べる雪山遭難者がいるとは思えない。でも、おいしくはない。安さが売りのラーメン屋のしょうゆラーメンに似ている。酷評は受けないが、もどかしさがある。売り物ならともかく、自分でつくっている分、実際の味以上に失望感がある。レシピ通りの調理時間を変えても駄目、生地のこね方を変えても駄目。このためにわざわざスーパークッキングオーブンを買ったというのに意味なしだ。油で揚げてもやっぱり駄目。それぞれ味は異なるが、微妙な感じは同じだった。
 何なんだろう。
 この男の脳内にはピロシキの完成形がある。ピロシキのイデアだ。それは決して特異なものではない。札幌のパン屋で買ったピロシキ、あれはおいしかった。そのピロシキこそ彼のイデアだ。しかし新潟で食べたピロシキ、それもイデアであったし、東京のピロシキもそうだった。どれも高めの値段ではない。普通だ。つまり職人がそれなりの材料を用意すればつくれる代物なのだ。男はパン職人ではないから、プロより下回るのは当然だ。でも、彼らの味に近づけないのがどうしても解せない。腕前の違いはあれ、同じ人間ではないか。
 一ヶ月前にピロシキづくりを思い立った男は、この日も幻滅する羽目になった。アンナおばさんのピロシキづくりという新しいサイトを見つけて、情報端末上にあらわれたアンナおばさんのホログラムの指示通りに作業してみたが、結果はいつもと変わらなかった。何かとしか言えない何かが違う。どう? おいしいでしょ? イワンの馬鹿もびっくりの味よ、これが二十二世紀のピロシキなのよ、としたり顔のアンナおばさんを睨みつけたあと、端末の電源を落として彼女のつかの間の生命を断ち切った。
 男は椅子に腰掛けた。何ともいえない悲しい思いが彼を囚える。ため息すら出ない。壁には歴代名馬のポスタースクリーンが貼ってある。エクリプス、セントサイモン、マンノウォー、オグリキャップなどのスターホースたちが一分ごとに切り替わる。彼はピロシキをじっと見ている。食べ物と認めたくないが食べ物でしかないパンが、自分の存在をアピールするわけでもなく、消え入るようにしているわけでもなく、ぽつんと存在している。すると激情が襲った。とんでもない怒りが込み上げてきた。自分でも驚くほどの勢いで立ち上がった男は、テーブルに置かれた食べかけのジャムピロシキをつかむと、憤然と壁に向かって歩き、窓を開けた。暗い寒風がどっと入り込んだ。それに負けない勢いで男はピロシキを放り投げた。哀れなピロシキは回転しながら雪上に落下した。
 捨てられたピロシキの向こうに車のライトが見えた。静寂に反抗するエンジン音とともに近づいてくる。電灯の下で止まった。暗いのでわかりづらいが、黒塗りの高級車に見える。ドアが開き、この自宅兼事務所に向かって二つの人影が迫る。小雪のなかをゆっくり歩いてくるその姿は不吉なしるしのようだ。
 姿が浮かび上がってきた。どちらも男だ。先を歩く者は木のように背中を伸ばす長身の男だ。一メートル八十五はあるだろうか、緋色のマフラーに黒いコートを着込んでいる。ずいぶんと厚いコートだ。コートのかさばり方からするに、おそらくロジーナ繊維工業の防弾防レーザー二重繊維だろう。雪から頭を守っているシャプカにも同じ繊維が織り込まれていると思われる。高い鼻。青い目。頬はこけている。真冬だというのに、表情ひとつ変えずまっすぐ歩いている。一つの目標だけに専念する、とでもいうようにだ。この牧場が他人の私有地であることを理解していると思えない歩き方。顔つきは不遜そのもの。どう見てもロシアのテクノクラートだ。後ろからひょこひょこついてくるのは日本人。あったかいラーメン食べたいという顔をしている。この日本人もロシア帽子をかぶっているが、似合っていない。
 窓から見ている男に気づいた日本人が走り寄ってきた。
「北海道地区管理府だ。開けろ」
「窓開いてますよ」
「ドアだよドア」
「開いてますよ」
 日本人は舌打ちをしつつドアに向かい、従僕さながらにドアを開けた。ロシア人が礼を言わず、住人への挨拶も言わず、中に入った。
「お前が牧場主か」ロシア人は日本語で尋ねた。
「笹田といいます」
「他の者は」
「帰りました」
「家族は」
「妻と娘が一人。過去形ですが」
 ロシア人は何も言わずシャプカをテーブルに置いた。自分の家にいるようにだ。笹田は苛立ちを感じた。
「それでお役人さんが何の用ですか。牛乳買いに来たんですか。ここはサラブレッド牧場なんですけどね」
 笹田は出来る限り嫌みったらしく言ったつもりだったが、ロシア人は表情を崩さなかった。死後硬直のようにぴくりともしない。
 後ろにいた日本人が、まるで母親の背中から顔を覗かせるようにして言った。
「こちらは弁務官閣下だ」
 笹田は驚いた。北海道地区管理府弁務官、つまり北海道で一番偉いというわけだ。三十をとっくに過ぎた男が驚くことなんてそうそうない。こんなに驚いたのは妻と娘が消えていたあの朝以来だ。


「アレクセイ・イリッチだ」弁務官は日本語的発音ながら、しかしぞんざいに言った。
 笹田は権力者の突然の訪問に驚いているが、同時に二つの疑問が浮かんだ。そのうちの一つを口にした。それは重要度が低い疑問だった。
「お偉方なのに護衛は付かないんですか」
 背の高いロシア人の後ろにいる日本人は中年太りの男で、弁務官を名乗る男のほうがむしろ護衛に見える。
「SPはお前が感知できない所に配置している。余計なことを考えるな」その日本人が偉そうに言った。
 そういうものか、ピロシキを焼いているときすでに、訳のわからないセンサーで体中を測定されていたのかもなと思いつつ、笹田は今一度ロシア人の顔を見た。冷たさよりも冷たいもの、そういう言語的遊びでしか表現できないものが、実際にその表情にある。笹田の脳が記憶を呼び起こした。そういえば弁務官はこんな名前でこういう憎たらしい顔だった。何かのニュースで見たことがある。年齢は四十ほどであったか。自分より三歳程度年上か。そのわりに地位の差はずいぶんとあるものだ。
「閣下にお飲み物をお出ししようとは思わんのかね。それは余計な考えではないぞ」部下の日本人が、上司の顔をぽかんと見つめる日本人に言った。
「ジガ九〇ならありますけど。いや、九一だったかな」
「二五〇くらいないのか」
「しょっちゅう買出しに行くわけじゃないんで」
「すぐ帰るから飲み物なんて必要ない。立ち話で結構」弁務官が割って言った。そして、今のやりとりをまったく聞いてなかったというように話題を変えた。「牧場に来るのは初めてだが、ずいぶんと臭いがきついな」
「バイオ牧草の臭いですよ」笹田は答えた。「早く育つし、最近の重酸性雨にも耐える生命力があり、栄養は通常の牧草より段違いですが、臭いも段違いなんですよ。夏場はもっとひどくなる。野良犬の尻を鼻に縛り付けたようだと言った人がいましたよ。うまいたとえだと思いますね。馬は喜んで食べるので別に構わないんですが」
「一年中こんな所で暮らすのは私には耐えられんな」
「暮らさなくて結構ですよ。そもそも弁務官閣下が何用で。先ほど申し上げた通り、ここはサラブレッド牧場なんですが」と笹田は重要度が高い疑問を口にした。馬主資格を持っている政治家は現在いないはずだ。地域経済政策の一環として政治家が大牧場を視察するのなら話はわかるが、ここは中途半端な牧場だ。しかも目の前にいる男は、北海道選出の名前だけ代議士ではなく、本国から派遣された超エリートだ。権力者が不意に訪れた驚きと恐れが牧場主の体内を侵食していたが、それよりも苛立ちのほうが優ってきた。
「馬を買いに来た」弁務官は言った。「サラブレッドだ」
「弁務官閣下が馬に興味があるとはうれしいですね」笹田はロシア人を見上げつつ言う。
「しかし食用としてのサラブレッドは費用対効果の観点からお勧めできませんね。余所をあたってください」
「私は冗談を好まない」
「弁務官がこの牧場に来るほうが冗談でしょう」昔見たニュースの断片を再構成していた笹田の脳が口に語らせた。現在の北海道地区弁務官にして、日本首府新潟の次期弁務官候補、そしてロシア大統領候補とまで噂される若きエリート、アレクセイ・イリッチ。間近で見ると噂は妥当だと感じる。真っ暗な牧場のなかを歩いてくるのを見たときは管理府の上級官僚に思えたが、やはり違う。至近距離で立つこの男は政治家だ。自分の欲求さえ満たせばそれでいいという顔。一流政治家の顔だ。
「世界を決定するのはスピードだ」弁務官はぶしつけに言った。「スピードは法、スピードは歴史。速度に対応できない者は生きながら死刑宣告が与えられる。裁かれないのは世界の要求に適応する者のみだ。競馬もしかり。近代競馬の発祥はイギリスの王政復古時だ。八十キロの斤量を背負わせて一万メートルを一時間で走る、これが当時の競馬だ。ずいぶんと牧歌的なものだ。しかし産業革命と歩調をあわせるように、距離が短縮され、斤量が減った。スピード化だ。世界が速度を求めた結果だ。馬自身もそうだ。スタミナ血統は淘汰され、スピード化ならびに早熟性に対応できた血が生き残る。この繰り返し。二十世紀の時点で、ほぼすべてのサラブレッドはファラリスの血に集約された。ファラリスはスプリンターであった。スピードの勝利だ。この子孫は代を経て二つに分かれた。ファラリスのスピードを維持した者、そしてさらにスピードを進化させた者だ。むろん維持するだけで汲々とした者は淘汰され、父祖を超えた者が生き残った。その子孫はさらに二つに分かれた。維持した者と進化させた者。繰り返し。この繰り返しだ。生存競争をわかりやすく、もっとも短いサイクルで、われわれに見せつけるのが、サラブレッドだ。私がもっとも愛する存在だ」
「ロシア人がサラブレッド好きとは初耳です。私の記憶によると、ダーウィンはイギリス人だったと思いますがね」
「君は競馬が好きかね。馬産の職についているのだから、馬が嫌いということはないだろうが、レースとしての競馬はどうかね」イリッチは立ったまま話す。座ろうとする気配はない。部下の日本人は座りたそうに腰を小刻みに左右に動かした。
 笹田が競馬に触れたのは七歳のときだ。せっかくの日曜だというのに、父親に競馬場へ連れて行かれた。中山競馬場だ。ロシア軍東京占領後の米軍千葉反攻時に劣化ウラン弾にまみれ、すっかり廃墟と化し、再建されなかった中山だが、当時は改修されたばかりだった。桜上水から京王線で新宿、成田リニアで西船橋、武蔵野線で船橋法典、子供にとってなかなかの小旅行だった。
 駅を出て、子供の足には酷な長い長い地下道を歩いた末にたどりついた競馬場の地下フロアには、至るところにモニターがあり、訳のわからない数字が世の中のすべてのデータを観測しているかのように表示されていた。秘密基地みたい、少年はそう感じたのだが、地上に出るとそこはぽっかりと空いた空虚のようだった。スタンドに人はちらほらといるのだが、楕円形をなす芝と土がまったく無意味に存在していた。日常性が壊滅的になかった。学校にしろ、繁華街にしろ、あるいは児童公園にもある生産性、目的性という代物が完全に欠如しているように見えた。ふらっとやってきた宇宙人が残した謎のメッセージのようにも見えた。でも、このぽっかりとした空間で何かが行われる、という予感は妙なほどに感じられた。
 父と息子は自由席にいた。父親は一レースからずっと外し続けた。息子は遠くで走る馬と、父親の首筋に浮き上がる血管を交互に見やりながら時間をつぶした。予感した何かとは、馬がパカパカと走ることであったが、それは少年の興味を引かなかった。
 息子がつまらなそうにしていると感じた父親は、メインレース発走前にゴール前へ連れて行った。スタンドにはさほど客が入っていなかったが、ゴール前だけは混み合っていた。親子の右に立つのは、来い来い来いとあらぬ点を見ながらつぶやく若者で、左には中年男性が思いつめた顔でターフを見つめていた。近くの公園でハトに餌をやっているおじさんが見せる表情と同じだった。
 頼んでないのに、父親は息子を肩車に乗せた。視界が開けた。直線の右端にゲートがある。無意味な空虚を埋めるように馬が周回している。ファンファーレが鳴った。馬がゲートに入る。スタート。飛び出した馬たちがいつのまにか少年の前を通り過ぎた。芝がめくれ上がった。コーナーを回る。向こう正面。まだ一団のままだ。コーナーを回る。最後の直線に入る。角度のきつい上り坂が待ち構える。駆け上がる馬は小さい。それが
実寸大になっていく。騎手が懸命に鞭を振るう。馬はひたすらここへ向かう。観客の声がうねる。ブツブツつぶやいていた若者が叫びだし、中年男性が声にならない声を出したが、子供の耳に響いたのは徐々に大きくなる蹄の音だった。一頭がゴール。そのあと、残りの馬たちがなだれ込んだ。よく見えたかい、肩車のまま父親は尋ねた。走る馬たちは何かから逃げているように息子は感じた。
 父親はそれっきり息子を連れ出さなかった。
 学生のとき、友達どうしで競馬場に行った。中山だ。メインレース発走が近づくと、ゴール前に行こうと誘われた。人ごみに溢れている。同じ場所だ。子供のときより視線が低いことに彼は不思議さを感じた。レースが始まり、馬群がくるっとトラックを回り、最後の直線。力を振り絞り駆け上がってくるサラブレッド。不意に笹田は目の前の芝生が地獄に見えた。苦しみそのもの。限界の場。さらに端的に言えば、ひどい場所だ。そんな場所を走るサラブレッドは自発的だ。鞭で追われるからではない。彼らには一線が見えるのだ。世界に引かれた一本の線。ゴールライン。苦役からの解放。安楽の地点。至福。この世にあり、この世ではありえない空間。向こう側。あっち。あの場所。
 社会人になって、交際中の女性と競馬場に行った。競馬を見てみたいと言われたからだ。中山開催の時期だった。彼女は情報端末の出馬表を指差して、七八九が来るんじゃないと言った。だって馬名が、と言う。笹田が覗くと、アンチハムエッグ、タタラフミフミ、リンゴチャンという馬名だ。ほら頭文字がね、と彼女は笑った。君は天才だと笹田は述べて、二人そろって三連単を買った。そして三度目の場所に立った。彼には二つの思いがあった。子供のときの印象、それはこの世を駆け回る逃亡であった。学生のときの印象、これは天国への突入だ。二つの感覚が天秤のように釣り合っている。だが、どちらも何か違う気がする。スタート。馬群が駆ける。四コーナーを回り、坂を上って最後の攻防。各馬一団。生命が渾然一体となってゴールヘ向かう。このとき笹田は一団から割って出た一頭の馬の目を見た。馬の目は笹田を見ていなかった。彼は馬が見ている方向に振り向いた。空があった。青空がパカッと広がっていた。先頭の馬がゴールラインを駆け抜けた。ケッコンスレバという牝馬だった。
 父親が牧場をはじめると宣言したとき、彼は自分も手伝うと言った。


「競馬って可能性だと思いますよ。ありえるんですよ、いろんなことが」笹田は競馬が好きかという弁務官の問いにこう答えた。
 笹田の返答を聞く、独特な歴史を持つ雪国から来た人間の表情は能面のごとく硬いままだが、軽くうなずいた。
「私が競馬に興味を持ったのは日本地域に赴任してからだ。札幌記念に招待された。そして初めて競馬というものを見た。絶望、私は絶望を感じた。金稼ぎのために産み育てられたサラブレッドが走らされている。命を削って走らされている。強靭な心肺機能を内蔵する胴体と反比例する細い脚が芝生を蹴る。そして最後の直線。疲労の限界だ。それは死に至る病だ。死に向かう運動。疲労で上がる首。尻に鞭。脚を一歩踏み出すごとに苦しみが増す。本当に命を削る闘争だ。しかし死ではない。苦しみの極限にいるが、しかし死ではない。死に迫りながら死を味わえない。絶望。絶望の連続。一脚ごとに絶望は深まる。体力を削られ切った状態で動き続けなければならない。ゴールが近づくほど絶望は正体を見せる。前進するにつれゴールは遠のくようだ。低下する体力ゆえの絶望ではない。状況そのものが絶望だ。
 それでもゴールラインはある。彼らはゴール地点に到達する。目標達成。しかしそれはゴールなのか。騎手が手綱を緩める。速度が落ちていく。やがて停止する。向きを変えて引き返す。最低限に陥った体力が僅かずつ復活する。厩舎に帰る。そしてトレーニング。そしてレース。どこに彼らのゴールがあるのだろう。絶え間ない繰り返しではないか。いや、ある。引退はゴールだ。レース生命はそこで終わる。だが、無事に引退できるサラブレッドは限られている。他は殺される。いなかったことにされる。産んだこと、育てたこと、売買したこと、調教したこと、出走させたこと、これらがすべてなかったことにされる。少量のデータが遺灰として残る。こんな馬がいたという記録。無論、そんなもの誰も見ない。これが競馬だ。だから私は競馬が好きだ」
「キルケゴールがロシア生まれだとは知りませんでしたよ」笹田は言った。
「キルケゴールはロシア人だ。ヘーゲルがロシア人であるようにだ」イリッチは言った。
 取り替えたばかりの蛍光灯の下で、金髪のオールバックが光っている。ジェルでべたべたなのだ。心底嫌な人物だ、笹田の体内から嫌悪感は消えない。イリッチの後ろに立つ手持ちぶさたの部下が、ちらりと窓を見た。食べ物からゴミヘと転落したピロシキが、相変わらず雪に埋もれている。まるで凍え死んだ兵士のように。ピロシキなんか二度とつくらない、笹田はそう思ってから言った。
「競馬が好きだから、馬主になることにした?」
「そういうわけではない」
「ではなぜですか」
「競馬改革を知っているだろう」
「もちろん。サラブレッドのサイボーグ化……」
「施行は三年後、今の一歳馬が四歳になった時点でサイボーグ化が行われる。つまり現一歳馬が生身で行われる最後のダービー世代ということになる」
「だったら何です」
 イリッチの無表情に、幾分の険しさが宿った。その険しさは笹田にも当てはまる。部分的に。
「ひどい話だ」イリッチは吐き捨てた。「馬をサイボーグ化すれば格段に速くなるだろう。メンテナンスが楽になるだろう。故障した脚を取り替えればよいのだから。しかし、そんなものをサラブレッドと呼べるのか」
 イリッチは世の中のすべてを見下すように言った。義憤というより嘲笑であった。自分の立ち位置は世間より上だと自認している。そこからくだらない俗界を見下ろしている。そういう自信に満ち溢れた口ぶりだ。彼にないものは自信の欠如だろう。サイボーグ化に関しては同意見の持ち主であるイリッチであるが、笹田はやはり気に入らない。
「あんたなんてむしろ賛成しそうですがね。賢慮で知られる弁務官閣下はもちろん腹脳化済みでしょう」
「そんなくだらんものを入れる趣味はない」イリッチは再び吐き捨てた。部下は渋面になった。彼は腹脳化しているのだろう。
「生体改造をくだらないと思っているのなら、やめさせればいいじゃないですか。偉いんでしょう」
「そんな権限は北海道地区弁務官にない。腹脳化は国家政策であり、地方統治とは異なる」イリッチは冷たく言った。「しかしダービー馬のオーナーになる権利はある」
「当牧場の生産馬がダービー馬になるとでも?」
 そういうことだ、とイリッチはやはり冷たく言った。
 笹田は右手で自分の髪をべったりと撫でつけてから述べた。汗が髪に移る。「何を根拠にそうおっしゃられるのかはわかりませんが、駿風牧場を評価していただいてありがとうございます。しかしひいき目に見ましても、閣下に売却できる馬のなかに、未来のダービー馬がいるとは思えませんな」
「サッドソングの初仔だ」弁務官は端的に言った。


 サッドソングは笹田が一番期待している繁殖牝馬だ。新世界牧場の生産馬で、二歳時は四戦三勝。GIIIを一つ勝っている。三歳になり二戦を消化して桜花賞に臨んだ。四番人気だった。結果は三着。その後、調教中に軽度の骨折。半年後に復帰したが、成績は奮わなかった。この馬は新馬戦で駿風牧場生産の最高傑作、タイムビートと対戦している。二着だった。四コーナーを一緒に回ってきて最後の直線。そこでタイムビートに突き離されたものの、喰らいつこうとする姿勢が見えた。中継を見ていた笹田はいい馬だなと思った。成績不振のまま引退したあと、相場より高い金額を出して買い付けた。
 九頭いる現一歳世代でもっとも期待しているのがこの馬の初仔だ。難産であった。笹田が馬小屋に入ったとき、出産という初めての経験を迎えるサッドソングは、心を売らない娼婦のように横たわっていた。彼女は戦った。生命をつくりだす戦いだ。彼女は全身全霊で戦闘する。自分は見ているだけだ。出産のたびごとに笹田は無力を感じる。そして、母の胎内から粘液に包まれて、ごろりとしたものが出てきた。どの母からでも同じであるが、それは神聖な物体だ。ある程度体が出たあとで、人間が引っ張り上げる必要に迫られる場合があるが、この仔馬は自力でずるっと落ちた。エビのようにビクッビクッと動いた。液にまみれる仔を母馬が舐めた。ゆっくり舌を動かし、体液をぬぐう。豪放な走行を予期させる大きめの尻の下にある細い脚で、仔が起き上がった。胸囲が厚い。普通に見れば、たくましい心肺を内蔵する胸と感じるだろう。笹田は別の印象を持った。からっぽだと感じたのだ。肺も骨もない、内側からふくれあがるからっぽ。充実な無規定。仔馬の鼻息が白く吹き上がり、消えた。全身に疲労をにじませるサッドソングが仔を慈しむ。彼女は心を売ったのだ。
 イリッチが血統を説明する。
「父はフォーレッグズ。日本独立時最後のダービー馬。米国血統で、その父メラニオンはアメリカ二歳王者決定戦ブリーダーズカップジュヴナイルと、三冠緒戦ケンタッキーダービーならびに第二戦プリークネスステークスを勝っている。現代の最主流系統マイプラグマに属する。昨年のサイアーランキング五位。母はサッドソング。桜花賞三着の実績がある。血統は異系に彩られている。彼女の父はシングアゲイン。三大始祖ゴドルフィンアラビアンの血を引く最後の馬。アメリカのハリケーン災害時に死んで、父系として絶滅した。彼女の母の父はシュミハドクショ。三大始祖の主流ダーレーアラビアン系でありながら、中興の祖ファラリスの血を引かない異端血統。すでに絶滅した三大始祖バイアリータークの血まで色濃く持っている。一方、サッドソングの母系をたどると、明治時代に小岩井牧場が輸入した日本の基礎牝馬フロリースカップに行き着く。古色蒼然たる血統だ。つまりサッドソングは現代的要素が何も無い。にもかかわらず、クラシックで三着までこぎ着けた馬だ。その馬に君は最主流血統を配合した。マイナーな母とメジャーな父の組み合わせから誕生した名馬は多いから。というより、君はメジャー種牡馬に合うはずのマイナー牝馬を探していた。それがサッドソングだった。違うかね」
「日本の種牡馬のなかで競走馬として最高の能力を持っているのはフォーレッグズだと思います」笹田は言った。「逃げ切り濃厚のクレイジーディーラが故障したおかげでダービー馬になれたのはたしかです。でも超スローペースにもかかわらず後方から追い込んだあの脚は本物です。しかも血統からいって適性距離は二千以下です。ジョッキーがそれを理解していたがゆえに、スタミナ温存のために位置取りが後ろになりすぎた。本当は前で競馬ができる馬です。アメリカ的な加速スピードを持っている。二歳時のレースがそれを証明している。これは短距離化する現代競馬に必須の能力です。スタートしてまごまごする馬はその時点で終わりです」
「アメリカ自身がスピードを失ったのは皮肉だな。初動が遅れ、北海道戦線に二個中隊しか送れなかった愚鈍な国だ。速度の重要性を理解していたからこそ、世界一の大国になったというのに。もっとも、歴史は必然と皮肉で成り立つものだが」と弁務官が口を挟んだ。
「しかしスピードだけでは勝てません」笹田は説明を続ける。「道中でじっと溜めて直線でずばっと伸びる、つまりヨーロッパ的作業をこなせる、これができないとただ前に行くだけの短距離馬になってしまう。我慢強さと軽さ、日本競馬には、一見相反するこの二つの要素が必要です。フオーレッグズはどちらの才能も一流です。でも彼には欠点がある。血が主流すぎる。主流血脈のみで固めてしまっている。競走馬としてはよくても、種牡馬としては問題です。交配の相手も主流ばかりなのだから。彼の系統マイプラグマが最主流であるということは、当然繁殖牝馬だってマイプラグマ系ばかりということです。しかもフォーレッグズはほかの主流の血も持っている。どうしても繁殖相手と血がかぶる。つまりクロスが強くなる。クロスはご存知ですよね」
「血統表のなかに同一の種牡馬ないし繁殖牝馬が登場する。つまり祖先が重なりあうことだ」
「そうです。そして近親交配の結果、貧弱な体質になってしまったり、気性が荒すぎて本来の能力を発揮できない事態に陥る。フォーレッグズが能力のわりに、種牡馬として今ひとつ足りない成績に終わっているのはそのせいだと思います。でも主流から離れた牝馬なら、異系の肌なら、仔はアウトクロスになる。異種交配の強靭さが備わると思いました」
「そして順調に生まれ、育っている」と弁務官。「この一帯で評判になっているのだろう。すでに調査済みだ」
 笹田はうなずいた。「でも売り物じゃないんですよ」
「なぜかね」
「売約済みだからです」
「田沢氏には話をつけてある。彼はすすんで権利を放棄した」
 笹田は呆れた。政治家とは何て汚い人種なのだろう。どの職業がもっとも卑劣かを選挙で選べば、政治家が最多得票を集めるかもしれない。ただし、がめつい田沢が権力に怯える姿を想像すると少しおかしかった。馬が故障した直後に、もっと楽しませてくれないと元が取れないと言い放つ男だ。
「それで私にどうしろと」
「売ってほしい」
「お前に選択権は無い」これが俺の仕事だというように部下が口を開いた。
「でしょうね」笹田は投げやりに言った。だが、どうにか抵抗できないものかという意志が、諦めをあらわす言葉のなかにある。
「当たり前だ」自分の仕事振りを見せ付けるように部下が言った。
「でも、ご自身の目で確認されてからでも遅くないと思いますよ。馬房にお連れしますが」
 部下は一歩前に進み、イリッチの顔をうかがった。弁務官は無言で笹田を凝視した。それが返答だった。権力者の顔だった。笹田は引き下がった。見もしないで買うということは、おそらく屋外のSPに自分を監視させているようなやり方で、仔馬のデータをすでに収集済みなのだろう。生産者である自分でさえ知らないデータを知っているのだ。
 笹田はもともと田沢にだって売るつもりがなかった。笹田はオーナーブリーダーではない。生産馬の売却益で生計を立てている。この馬のよさをアピールすれば、田沢から多額の金を手に入れることができる。タイムビートはあれこれとセールストークをして田沢に買わせたのだった。だが、田沢には売りたくなかった。タイムビートの二の舞になる気がしたのだ。幸い、当歳時に田沢は興味を示さなかった。ほかの馬主にも持ちかけず、せりにも出さなかった。自家生産馬として走らせるつもりでいたのだ。田沢に売らないと決めたとき、この馬で馬主としてGIを取ってみようという気になったのだった。本業とは外れるが、資金繰りは順調だったので、この牝馬を売らなくても年越しそばを食べることができた。明けて一歳になったとき、親睦会の打ち合わせで来ていた牧場主が目にとめた。彼は口が軽く、仔馬はすぐ有名になった。評判を聞きつけた田沢が買いたいと言い出した。今まで世話になってきた有力馬主の頼みを断るわけにはいかなかった。
 しぶしぶ手放した馬がいま自分の手に戻り、呆れるほどの速度で離れようとしている。
「わかりました」笹田は部下の男には目もくれない。「ただし、円建ての支払いならば。ルーブルで払うほどあなた悪人じゃないでしょう」
 弁務官は不服そうではあるが、承諾した。「交渉成立だ。何か質問あるかね」
「もしかして狂人じみたことを考えているのではないですか」弁務官は話を切り上げる態勢にあったが、笹田は臆せず言った。一つの疑念が彼をよぎったのだ。「あなたはサラブレッドの機械化を快く思っていない。自分にはそれを止める権限はないが、せめて生身で行われるダービーを自分の馬で勝ちたいと思った。それは合ってますよね」
「そうだ」
「そして、所有するのは一頭だけ……」
「ほう」イリッチの表情に初めて明確な変化が起こった。表情筋の動作は感心を示していた。「よくわかったな」
 笹田は言う。「自分が選んだたった一頭の馬でダービーを勝つ。あなたはそういう性格の持ち主だ。急にそう思えました。ダービーオーナーとはつまり名誉であり虚栄です。究極の虚栄かもしれません。あなたはそうしたものを求める人だ。子供が泣きながらおもちゃをねだるように、あなたは名誉という虚栄を欲しがる。金と権力に物を言わせて有力馬を買い占めれば、勝つ確率は増えるが、それで負けたら評判は地に落ちる。そういう計算をしたはずですよ。たった一頭なら話は違う。チャーチル風に言えば、ダービーを勝つのはロシア大統領になることより難しい。それを一頭だけで成し遂げようとするんですからね。ありえないことが案の定失敗に終わっても、血眼になって罵倒する人なんかいません。そりゃそうだろでかたづいてしまう。でも、達成してしまったら……」
 弁務官は再び無表情に戻り、目の前にいる日本人の言葉を聞いている。笹田は話を続ける。
「ただ、そう考えても、弁務官という地位にある人が、いきなり馬主になりたいと言い出すのは腑に落ちないんですよ。何か裏があるのではと勘ぐってしまう。部下一人行かせればよいものを、わざわざ自身でこんな牧場に来るのも怪しい。私の生産馬に興味があっても、私に興味があるようには見えません。何かしら奇想天外な企みが隠されているんじゃないですかね。例えばアトランティス大陸の財宝のありかを示す鍵が、あるサラブレッドの血のなかに閉じ込めてあって、それが時を経て、子孫たるあの牝馬に発現するとか……」
 弁務官はこう返答した。「君は思いのほかくだらない人間のようだな」
「本当のことが知りたいだけですよ」
「残念ながら突飛な話など何もないんだ」弁務官は答えた。「先ほど述べた理由がすべてだ。競馬の終わりを自分で閉めたい、ただそれだけのことだ。私にとって大事な話だから、自分で来た。ただそれだけのことだ。面白おかしくて突飛な話なんてありはしない。世の中に存在する驚くような話はたいていくだらないものだ。驚かせるという要素しかない。栄光とベクトルを逆にするもの、それが驚くべき話だ。サラブレッドのサイボーグ化なんてまさにそれではないか。つまらない。ゴミ虫ほどの価値もない。しかし決定されてしまったのであれば、せめて自分の手で墓を掘りたい。これは普通の話だ。一頭のみでダービーを制覇する、これはありえる話だ。可能な話だ。私が為そうとするのは、ありふれたアンチクライマックスだ」

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