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思い出は満たされないまま
乾 緑郎
  しらず森

     1

 寝かしつける時に怖い話を聞かせ続けると、臆病な子供に育つ。
 以前、育児の本か何かでそう読んだことがある。
 だから、寝床で息子の尚之に幽霊や妖怪の話をリクエストされても、小林遥子は、やんわりと他の話に切り替えることにしている。
「例えばお母さんが、人食い鬼や、ティラノサウルスや、悪い宇宙人に襲われたらどうする?」
「絶対に助ける」
 遥子がそう聞くと、尚之は決心に満ちた声でそう答えた。
 頼もしいことだ。
「ナオくん、もう寝たのか」
「うん……」
 寝息を立て始めた尚之を起こさないよう、そっと奥の四畳半から襖を開いて遥子が顔を出すと、ダイニングで晩酌を始めていた父の武広が声を掛けてきた。
 テーブルの上に伏せてあったグラスを起こし、武広がビールを勧めてくるので、少しだけ遥子も飲むことにした。
「……昭彦くんとのことは、どうするんだ」
 遥子のグラスが空になるタイミングを見計らって、武広が切り出した。
「尚之の夏休みの間に決めようと思ってる」
 台所に立って洗い物をしている母の清美が、背を向けたまま聞き耳を立てているのが雰囲気でわかった。遥子が小さい頃から、この光景は変わらない。
 東京多摩地区の外れにあるマンモス団地。
 遥子が小さかった頃は、住んでいるのは若い夫婦と子供ばかりで、団地の公園はいつも賑わっていたが、今は全戸数の半分以上の世帯主が高齢者になっている。かく言う遥子の両親も、年を取ってその仲間入りを果たした。
「もう一度、きちんと話し合ったらどうなんだ」
 穏やかな口調で武広が言った。
「何度も言ったけど、もう無理。あの人、尚之がインフルエンザで四十度も熱を出した時も、仕事で帰って来なかったのよ」
 それは日曜日で、医療機関はどこも休診だった。救急車を呼ぶことも考えたが、方々に電話を掛け、やっと休日診療を行っている病院を見つけた。
 タクシーに家まで来てもらい、顔を真っ赤にしてぐったりしている尚之を毛布にくるんで病院に向かった。
 折悪しく、大手ゼネコンに勤める夫の昭彦は休日出勤で、途中、何度も携帯電話で連絡を取ろうと試みたが、電源を切っているようで繋がらなかった。
 やっと折り返し電話があったのは、病院で診察を受けて薬をもらい、家に戻ってきてからだった。座薬の解熱剤を入れ、尚之の熱が下がって、ようやく落ち着いたところで、外はもう暗く、午後十時を回っていた。
「仕事中に携帯に電話掛けてこないでくれって言わなかったっけ。勘弁してくれよ」
 いきなりそう言われた。背後から聞こえてくる音で、それが盛り場からだとわかった。
 一段落ついていたから、尚之がインフルエンザに罹って熱を出したことだけを遥子は伝えた。その声があまりに冷静だったから、大したことはないと思ったのかもしれない。二言三言、文句を言うと、昭彦は早々に通話を切った。
 その時の空虚な気持ちをどう表現したら良いのだろう。仕事でお酒を飲むのは仕方ないし、その間、連絡が取れなかったこともしようがないが、せめて尚之の状態を知ったら、酒席を辞して急いで帰ってくるくらいはして欲しかった。
 昭彦の帰宅は深夜だった。熱が下がって汗を掻き始めた尚之と添い寝していた遥子は、昭彦が様子を見に寝室に入ってきても、寝たふりを続けた。口を開いたら、喧嘩になってしまいそうな気がしたからだ。
 汗で濡れた尚之の前髪にそっと触れると、昭彦は無言で寝室を出て行った。
 やがてシャワーを使う音が階下から聞こえ、そのまま昭彦は自分の寝室に入って眠ってしまった。
 ずっと以前から、昭彦とはすれ違いが続いている。
 尚之が生まれてからはセックスレスの状態も続いており、仕事の時間が不規則な昭彦の提案で、寝室も別々にした。赤ちゃんの頃、尚之は夜泣きがひどかったから、一緒の部屋で寝ていると熟睡できず、仕事の疲れが抜けないのだと昭彦は言っていた。
「離婚したら、悪いけど暫くの間、ここに住まわせてもらうわ。それで、仕事を探しながら同じ学区域でアパートでも見つける」
「そうはいっても、女が一人で子供を育てるのは大変よ」
 清美が、手早く作った晩酌用のつまみをテーブルの上に置いた。
 父に対する、母のこういう甲斐甲斐しさが、遥子は昔から不思議だった。自分は飲むでもなく、座るでもなく、のんびり晩酌をしている父のために忙しく立ち働いている母。娘である遥子にまで気を遣っているように見える。何でこういうことを当たり前のように思えるのだろう。自分だったら絶対に我慢できない。
「お母さんにはわからないよ」
 思っていることを母に向かって言うわけにもいかず、遥子はただそう口にした。
「そういえば」
 リモコンでテレビをザッピングしていた武広が、急に思い出したように言い、テーブルの隅に置いてある葉書を手にした。
「前にこんなものが来ていたんだ。忘れていた」
「何?」
 それは往復葉書だった。
 見ると、小学校のクラス会の誘いのようだ。出欠を求める葉書がついたままで、返信の期限はとっくに過ぎている。
「嫌だ。何で転送してくれなかったの」
 文句を言いつつ、クラス会の日付を見ると今週末になっていた。午前中に学校で、卒業時に埋めたタイムカプセルを掘り出し、夕方から付近の中華料理店で食事会となっている。
 念のため葉書で出欠を取るが、急に都合がついた場合などは飛び入りも歓迎と書いてあった。
「気晴らしに参加してみれば」
 清美が言う。
「子供連れでも大丈夫かしら」
「一応、幹事の人に電話で確認してみたら」
 正直、迷うところではあった。高校時代のクラス会には何度か参加しているが、小学校となると、もう顔もよく覚えていない人もいる。
 だが、タイムカプセルを開くというイベントには、ちょっと興味を引かれるものがあった。

 週末は晴れていて、良い天気だった。
 待ち合わせ場所である小学校の裏庭には、細い竹で組まれた棚があり、ヘチマが蔓を巻き付け、黄色い花を咲かせている。
 隅の方には花壇があって、開花を待つ向日葵がつぼみを膨らませていた。フェンスの向こう側には、隣接している保育園の古い木造の倉庫が見える。
 遥子が結婚して団地を出て行くまで付き合いのあった幼馴染み数名を除くと、殆どのクラスメートの顔と名前に覚えがなかった。町ですれ違っても、お互いに気がつきもしないだろう。
 他人行儀な挨拶を交わすと、遥子はタイムカプセルを土の中から掘り出す作業を手伝うことにした。
 幹事役の男性が、卒業アルバムを持ってきていた。そこにはタイムカプセルを埋めた位置が、宝の地図のようなデザインで描かれており、尚之は集まった他の子供たちと一緒に、それを見て目を輝かせた。
 旧校舎の建物の角と、百葉箱を目印に、見当をつけて掘り始めたが、タイムカプセル探索は思いがけず難航した。
 最初はスコップを手に一緒に土を掘り返していた子供たちは、三十分もすると退屈し始め、裏庭から離れて校庭で遊び始めた。
 子供たちの中では一番小さかった尚之は、高学年のお兄さんたちの仲間には入れてもらえなかったようで、ふと見ると、必死に背を伸ばし、百葉箱の白い鎧板の隙間から、中を覗こうとしていた。
「ねえお母さん、これ何?」
 近づいていく遥子に向かって尚之が言った。
「さて、何でしょう」
「三択にして、三択」
 尚之とこういう会話になると、すぐにクイズになってしまう。
「そうねえ……。一、怖いお化けを祀った祠。二、鳩を飼うための鳥小屋。三、えーと」
 よくよく考えてみると、遥子も百葉箱が何に使われるものなのか、わかっていなかった。
「……たぶん、お天気を調べるためのもの」
 そんなに間違ってはいないだろう。
 尚之は腕組みをして、真剣に正解を検討している。
 幹事役が校務員さんに聞きに行き、結局、目印にしていた百葉箱自体が、二年ほど前に場所を移動していたことがわかった。
 元の場所を確認し、改めて見当をつけて掘り返すと、今度はあっさりと見つかった。
 今はもう見かけなくなった黒いビニールのゴミ袋で、何重にも包まれた物体が出てきた。
 ビニールを外すと、中からステンレス製の寸胴鍋のような形をしたタイムカプセルが現れた。蓋は厳重にボルトで締められた上に隙間をハンダ付けされ、卒業年次が彫金されたプレートが固定されている。
 開封は、夕方からの食事会で行われることになっており、幹事の車の荷台にタイムカプセルを積むと、ひと先ず、その場は解散となった。

 ベランダに出て洗濯物を干していると、すっかり様変わりして綺麗になった団地の庭が見えた。
 遥子の実家は建物の一階にあり、身を乗り出せばすぐ目の前が団地の庭になっている。昔はこの敷地を、勝手に耕して野菜や花を植えたり、物置を建てたり柵で仕切りを作ったりする住人がいて、無法な状態だった。
 ダリアの花が咲くレンガで囲われた花壇の隣に、他の住人が植えた下仁田葱が生え、妖精を模したガーデニング用の置物と、信楽焼の狸とが仲良く並んでいるような、そんな庭だった。
 今はそんな面影もなく、何もかも撤去され、綺麗に芝生が植えられている。行政から指導が入ったのか、団地の自治会で問題になったのか、理由はわからない。
 だが、遥子は以前の雑然とした庭の方が好きだった。青々とした芝生が植えられた庭は、確かに見映えは良いが、そこで遊ぶ子供もおらず、寂寞としている。
 そういえば、このベランダから飛び降りて、見知らぬ小さな男の子と『ひょうたん島』まで一緒に遊びに行ったことがあった。
 団地のすぐ近くに古い神社があり、その裏手の小高い丘のような場所だ。
 そこは神社の敷地で、正しい名称は他にあるらしいが、形状が、昔、NHKでやっていた人形劇に出てくる『ひょうたん島』にそっくりだったので、いつの間にか子供たちの間でそう呼ばれるようになったらしい。
 周囲をぐるりと古い石玉垣で囲われており、立入禁止の場所だったが、そんなことに構う子供はいなかった。高さ一メートルほどしかない玉垣をよじ登って越えるなど、小学生には朝飯前である。
「ひょうたん島って、今はどうなっているのかしら」
 リビングで尚之とレゴブロックで遊んでいる武広に向かって遥子は言った。
「どうだろうなあ……。まあ、前と同じだろう」
「尚之を連れて、ちょっと行ってみようかしら」
 夕方からのクラス会まで、中途半端に時間が空いていた。
 レゴでお城を作っていた尚之が顔を上げる。良い天気だから、外で遊びたくてうずうずしていたのだろう。
「ついでに買い物でもしてくるわ」
 そう言って、遥子は尚之を連れて団地の部屋を出た。
 団地の中にはスーパーも薬局も郵便局も銀行もあり、その気になれば一歩も敷地の外に出なくても生活することができる。
 数軒の個人商店が軒を連ねた一角もあったが、遥子が子供の頃に書店だったところは接骨院に替わっており、家族でよく食べに行ったラーメン屋にはシャッターが下りていた。残っているのは、昔に比べると、すっかり寂れてしまったスポーツ用品店だけだ。
 買い物は後回しにして、遥子はひょうたん島の方に足を向けた。
 溜池へと続く小川沿いの舗装された道を、車を避けて端に寄って歩いて行く。以前は川縁は土手になっていて葦が茂っていたが、今は三面護岸になっており、近くに大きな道路ができたせいで、一部が暗渠になっているようだった。鯉の群れが、うようよと一か所に集まってひれを動かしているのが見える。
 家を出て十分も歩かないうちに、ひょうたん島に辿り着いた。
 他とは違い、この場所は遥子の子供の頃の記憶と殆ど変わらない。
 人の背丈よりも、少し高い程度の石の鳥居が建っている。
 鳥居は神域への入口だから、普通、その先は参道などになっているものだが、ひょうたん島の場合は少し違っていた。
 数メートル行った先で参道は行き止まりになっており、ひょうたん島をぐるりと囲む、うっすらと緑色に苔むした石玉垣が、来る者を拒むように立ち塞がっている。
 玉垣の向こう側は鬱蒼とした雑木林になっており、その周囲だけ、温度も一、二度低いように感じられた。思わず遥子は、着ているノースリーブのシャツから出た腕を擦る。
 辺りに人気はない。頂上まで登っても、ちょっと拓けた場所に大きな銀杏の木が一本生えているだけだから、稀にぎんなん取りに入る人などを除けば、地元の大人がここに立ち入ることは殆どない。
 だが、子供たちにとっては、ここは格好の遊び場だった。クヌギやコナラが何本も生えているので、夏の夕方や朝方に来れば、カブトムシやクワガタが捕れるし、男の子たちの間で、BB弾の空気銃を持って、ここで撃ち合いをするのが流行ったこともあった。
 そんなことを思い出しているうちに、遥子の心に、ちょっとした悪戯心が浮かんできた。もう日も高くなっているが、この季節なら、よく探せばカブトムシかクワガタの一匹くらいは見つかるかもしれない。
 神社の関係者に見つかったら怒られるだろうが、そうなったらその時だ。
 一緒にカブトムシを探してみようかと言うと、尚之は俄然、目を輝かせた。古い石玉垣を、足を滑らせないように気をつけながら、先に遥子が乗り越えた。続けて玉垣の笠石の上に乗った尚之がジャンプして飛び降りると、二人は雑木林の間の細い道を歩き出した。
 緩やかな登り坂を上がって行くと、やがて二つある頂上のうちの低い方に出た。
 鼻唄を歌いながら、尚之は、拾った棒きれで道の両側に生い茂った背の低い熊笹を叩きながら進んで行く。
「その曲、何だっけ」
 確か、尚之が毎週金曜日の夕方に欠かさず見ているアニメの主題歌だった。
 少年漫画が原作のアニメで、遥子も尚之に付き合って一緒にごはんを食べながら何度か見たことがある。江戸川乱歩の少年探偵団シリーズを、現代風にアレンジした感じのアニメだった。
「ほら」
 振り返った尚之は、誇らしげに自分の胸に飾られたバッジを指し示した。『DC』と飾り文字の入った金属製のバッジだ。
「どうしたの、それ」
「おじいちゃんに買ってもらった」
 またか、と遥子は軽く溜息をついた。昨日も子供向け雑誌を買ってもらったばかりだというのに。
「駄目じゃないの。何でもかんでも買ってもらっちゃ」
「違うよ。これ、買ってもらった雑誌に付いていたの」
 すると、付録の類いだろうか。
 しゃがみ込んでバッジをよく見てみると、『DC』のロゴの下に、小さく『Detective Club』と書いてある。たぶん、少年探偵団に於ける『BDバッジ』のようなものだろう。
「あんまりわがまま言ってオモチャとか買ってもらったら駄目だからね」
 遥子がそう言うと、尚之は「はーい」と素直な返事をして、大銀杏の木が生えたもう一つの頂上を目指して、今度は斜面を駆け下り始めた。
 そういえば、子供たちの間では、ひょうたん島には、いろいろな噂があった。
 例えば、頂上に生えている大きな銀杏の木で、首を吊って自殺した人がいるとか、誘拐された子供の死体が置き去りにされているのが見つかったとかの、たわいもない怪談めいた話だ。
 きっと根も葉もない噂なのだろうが、ひょうたん島には、楽しげな名前とは裏腹に、そんなことを連想させるような、どことなく暗い雰囲気があった。
 駆け足でどんどん先に行ってしまう尚之の後を、必死になって遥子は追う。
 子供の体力は本当に底なしだ。やがて尚之の姿は見えなくなり、登りになると遥子の歩みも遅くなった。日頃の運動不足を呪いながら、息を切らせてひょうたん島のもう一つの頂上を目指す。
 やっとの思いで辿り着くと、遥子は辺りを見回した。銀杏の大木が、半径十メートルにも満たない頂上の平坦な場所を覆うように枝を伸ばしている。
 生い茂る扇形をした銀杏の葉は、目も冴えるような鮮やかな緑に色づいていた。葉の隙間からは、きらきらと昼下がりの強い陽光が漏れ入っている。
「尚之」
 遥子は声を上げた。頂上に尚之の姿はなく、しんと静まり返っている。
 どこか近くに隠れていて、遥子を驚かせようと待ち伏せしているのだろう。
「お母さん疲れちゃったから、隠れてないで出てきて」
 そう声を掛けても、どこからも返事はなかった。

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